『二〇二一年八月一日。今日からしばらく自宅療養をさせてもらえることになった。家に引きこもっていると病気が余計進行しそうって感じて、早速部屋から飛び出した。家族からは止められたけど、近くの川を散歩するだけだって言ったら許してくれた』

 もう何度読んだか分からない彼女の日記を、ゆっくりと咀嚼するように目で追いかける。

『川辺を歩いているとびっくり。一人の少年が座っていた。普段、この川には人気(ひとけ)がないから、幽霊でも見たんじゃないかって驚いちゃった。東京から来た桐島透くん。私と同じ中学三年生だって聞いて、テンションが上がりまくっちゃった!』

 サラサラという川の流れのような響きを持った彼女と出会ったあの日のことが、鮮明に記憶に蘇る。その日から僕たちは、ここで二日に一回ほど話をするようになったんだっけ。連続で会う日もあれば、彼女と会えない日が二日空く日もあった。彼女は病気だから仕方がない。僕は夏休みの間この川の流れるのを眺めて、彼女が来たら話し相手になった。

『二〇二一年八月五日。今日は川で二人してトンボ取りに挑戦した。男の子には負けるかなと思ったけれど、透くんは虫取りが苦手だったので私が勝っちゃった! 嬉しい。捕まえたトンボはその場で逃しました。
 透くんは最近、不登校だったらしい。この間、私を引きこもり呼ばわりしたのにひどい。お前もかよー! って思わず突っ込んじゃった。でも、話を聞いたらちょっと同情した。他人から音が聞こえるんだって。それが不快で外に出たくなくなったのは、辛かったと思う』

 僕と話している時は明るく天真爛漫だった彼女が、こうして日記に書き残したものが、僕への同情だった。音が聞こえる悩みに寄り添ってくれたのは、家族を除いて彼女が初めてだった。この日記を一回目に読んだ時、僕は震えるほど嬉しかったのを覚えている。

 日記は、僕が東京に帰る八月二十一日まで続いていた。どの日記にも、僕と話した会話の内容やその時感じた気持ちが綴られている。自分の病気のことには一切触れていなくて、逆に不自然にも感じられた。
 でも、それほど彼女が僕に対して熱心に向き合ってくれたことが嬉しい。東京に帰る日、彼女から「はい、これ」と日記を渡された時はさすがに驚いたけれど。

「また会う日まで、持っておいてほしい」

 と言われた時には素直に日記を握りしめていた。

「透くんは来年も、来るのかな?」

「たぶん、分からないけど。母親の仕事の都合で決まるからさ」

「そっかー。でも待ってるね! もしまたこっち帰って来たら、この川で待ち合わせしよ」

 差し出された彼女の右手の小指に、自分の小指を絡める。中三にもなって「ゆびきりげんまん」と潔く歌い出す彼女の笑顔がまぶしかった。