芽吹と息吹~生き別れ三十路兄と私のつぎはぎな数か月間~

(2)
「そっかあ。それならまあ、部活に復帰してよかったのかもねー」
 移動授業のあと、今回の部活復帰にいきさつについて詰問を受ける。
 野球部に半強制で戻された話に最初は憤った奈津美も、最後には首を縦に振った。
「てっきり、また体よくあの先輩に言いくるめられたのかと思ったけれど」
「いや、それはその通りだけどね」
「でもさー、芽吹ってなんか妙にその先輩に弱いよね」
 自覚していたことを突き付けられ、居心地が悪くなる。
 あの先輩の独特な雰囲気はどうも不思議と人を惹くのだ。本当、始末に置けない。
「そうそう。そういや安達と倉重、別れたらしいって噂で聞いた」
「あ、やっぱりそうだったんだ」
 ぽんと手を打った奈津美の言葉に、思わず納得した。
 前に部活に所属していた時は、安達の身の回りの世話はすべて百合がしていた。
 それは部内でも公然の事実で、他のマネージャーも受け入れていた。うちのエースピッチャーはと美人マネージャーの仲は、誰も邪魔しないようにと。
 百合には、それを良しとするような美貌がある。付き合い始めたと聞いたときも、それほど驚かなかった。
 だけど、部活に戻って以降、安達と百合は絶妙な間合いをもって互いとの接触を避けていたように思えた。
「やっぱり。それで気まずくなって、私をマネージャーに引き戻したんだ。なるほどね」
「違うと思う」
「違うと思う。けど」
 話を黙って聞いていた華が、口元をふわりと柔らかく緩ませる。
「芽吹、楽しそう。だから、安心した」
「そうだね。部活のことでは、心配ばかりかけたもんね。でも、もう大丈夫そう」
 笑って返した芽吹は、心からそう思っていた。
 部活を一度辞めたとき、芽吹はマネージャー内で孤立していた。
 当時のマネージャーは芽吹を含めて4人。その孤立は絶妙な間合いを図られたもので、注意していないと気づかない――言ってみれば女子特有の陰湿なものだ。きっかけは今でも謎のままだが、きっとあってないようなものなのだろう。
 その程度ならまだ良かったが、その嫌な空気が選手たちにも徐々に伝わりつつあった。部内の空気が淀む前にと、結局芽吹は部活を辞めたのだ。
 理不尽さを感じていなかったといえば嘘になる。しかし芽吹自身野球部にそこまで執着がなかったのもあり、後腐れなく離れられたと思っていた。……退部後も、安達に廊下で声をかけられるまでは。
 奈津美たちと別れ廊下から階段の踊り場を通ると、見覚えのある人がいた。息吹だ。
 また保健室に入り浸っていたのか。保健室の引き戸を後ろ手に閉めた息吹は、どこかに電話をかけ始めた。写真サイズのメモを手にして。
 誰にかけているんだろう。息吹の視線が、不意に芽吹のそれと重なる。思わず肩を揺らした芽吹に、息吹はいつもの笑みを浮かべて手を振った。
 さっさと職場に戻りなよ、とジェスチャーして歩みを戻そうとすると、広げた手を付き出され引き留められた。
 芽吹と息吹が兄妹ということは、苗字が違うこともあってごく少数しか知らない。
 噂立つことは避けたい芽吹は、辺りを気にしながらそっと息吹に近づいた。
「ありがと。いつも助かる。じゃね」
 電話途中だった息吹は、短く言って早々に電話を切った。息吹にも、電話をかける相手がいるのか。
「ごめんね、引き留めちゃって」
「本当にね。どうしたの、何かあった?」
「ううん。ただ、芽吹元気かなーってね」
 相変わらずのゆるい口調に、一気に力が抜ける。それなら家でも聞けるでしょ。
「また小笠原先生に迷惑かけて。保健室はあんたの休憩所じゃないんだからね」
「はは、芽吹もそんな冗談言うんだ」
「……その休憩所じゃない!」
 思わず声を上げる。最近はこんな調子でしょっちゅう気を乱される。でも、そこまで嫌じゃない自分もいた。「そういえば」
「今日の芽吹、いつもと違うことがあるかも」
「なにそれ、占い?」
「うん。お兄ちゃん占い師からの予言」
「占いか予言かどっちかにして」
「でも、心強いお兄ちゃんがいるから、ちゃんと大丈夫」
 謎の日本語の予言を残し、息吹は手を振った。
 手にしていたはずの写真サイズのメモは、いつの間にか姿を消していた。


「来宮さん、ちょっといいかな。話したいことがあるの」
 そして、いつもと違うことはすぐに訪れた。
 放課後前のホームルーム直前、隣のクラスの百合が唐突に芽吹を呼び出した。隣のクラスの美女の登場に、クラスの視線が一気に集まる。
「部活の連絡事項?」
 席を立った芽吹は、小走りで百合のもとに向かう。
「ここで話すのはアレなんだけど、でももうホームルーム始まるよね」
 だったらこのタイミングで来る必要なかったんじゃね、と近くの席に座る奈津美の鋭い視線が飛ぶ。
 内心同調しながら、ひとまず扉から数歩離れた廊下まで出た。
「実はね、私、部活を辞めようと思うんだ」
「え、そうなの」
 素っ頓狂な声が出た。
 マネージャー1人で仕事を回すことになるのか。ちょっと辛い。監督に仕事内容の相談にいこう。
 そこまで考えていると、辺りの空気がどよめいたのがわかった。百合は唇をわなつかせ、瞳は潤みが集まっている。
 え、なんで泣いてるんだろう。
(3)
「えっと、倉重さん?」
「本当は私も、辞めたくなんかなかったんだけど……でも私、やっぱり今でも、克哉さんのこと……」
 ん? 辞めるけど、辞めたくないけど、辞める?
 よくわからない発言を残したまま、百合は潤んだ瞳をしっかりこちらに見せつけた後、廊下の向こうに走り去って行った。え、何だったんだ今の。というか、克哉さんって誰のこと。
 ぽかんと立ち尽くしていた芽吹に、廊下奥からやってきた担任が声をかける。ああそうだ、ホームルームだ。
 教室へときびすをかえした芽吹を待ち受けていたのは、好奇と不信の目線だった。
「やってくれたね。あの性悪女」
 扉近くの席の奈津美が、隠す気のない声量で吐き捨てる。
 いまだ混乱する頭を抱え、ひとまず自分の席についた。そこでようやく合点がいく。
 さっきのやりとりを見た人のほとんどは、芽吹とのやりとりが原因で百合が泣き出したと思うだろう。平民の芽吹が、隣クラスの美少女を傷つけたと。
 わざわざ注目を浴びるタイミングで呼び出したのも、人目につく場所で話を始めたのも、もしかして仕組まれた?
 そして、ようやく思い出した。
「それと、来宮芽吹は、ホームルーム後速やかに職員室まで来るように」
 克哉――ああそれ、安達先輩の名前だ。


 職員室に来たはずの芽吹は、いつの間にか校長室に立っていた。
 目の前には、教頭と学年主任、そして野球部監督と顧問と、そうそうたるメンツが揃っている。
 促されて椅子に腰を掛けたが、座り心地を堪能する余裕はもちろんなかった。今から何が起こるのかまるでわからず、思考がほとんど停止している。
「突然お呼びだてしてごめんなさいね、来宮さん」
「いえ、大丈夫です」
「今日来てもらったのはね、その、あなたに確認したいことがあったからなの」
 まるで羊に似た印象を覚える女性教頭が、言いにくそうに話を切り出す。
 テーブルにそっと差し出されたものに、芽吹は息をのんだ。
「今朝早く、匿名でこの写真が送られてきたの。それでその、ここに写っているのは、あなたじゃないかしら」
 見覚えのある光景だった。
 グラウンド隅の野球部倉庫の陰。雑巾類を洗濯するためのレールが引いてある、あの場所だ。
 扉が半開きになっている倉庫の中に、男女2人が肌をむき出しにして絡む姿が写っていた。
 1人は芽吹、もう1人は――安達だ。
「それでね。こちらもこんなものが送られてきた以上、何か対処しなければということになって。あ、もちろん男女交際に口を出すつもりはないわ。個人の自由よ。ただ、その」
「教頭先生、後は私が」
 言葉を探りあぐねている教頭に代わって、学年主任が引き継いだ。
「あー、つまりだ。こういった行為が学内であったと世間に知れたら、どの程度影響が出るかわからない時代だ。野球部はここ数年活躍も目覚ましいし、安達は2年ながらすでに期待のエースだ。ここでチームから抜けることは、お前としても本意ではないだろう」
「……」
 ああ、そういうことか。
 藍の色がじわりと布に染みるように、云わんとすることを読み取れた。
「……はい。入部間もないマネージャーがいなくなったほうが、ずっとましでしょうね」
「来宮。俺はこの写真を信じられない。本当のことを言ってくれないか。この写真は本当にお前と安達なのか」
 ずっと押し黙っていた監督が、堪えきれなくなったように声を上げた。でも、そんな確認はすでに無意味だ。
 出所のまるでわからないこの写真が誰かから送られてきた以上、次はどこに流出するのかわからない。
 今とれる最良の策は、問題の2人の関わり合いを完全に断つことだ。
「ありがとうございます。でも、部に迷惑をかけてまでマネージャーを続けるつもりはありません」
「来宮……!」
 写真をそっと一瞥した後、芽吹は深く頭を下げた。
 きっと、この野球部には縁がなかったのだろう。1か月前にも抱いた諦めの感情が、胸の中を支配する。
「何度もお手数をお掛けしてすみません。退部届を頂けますか」
「待てよ」
 無理やり扉が開けられる音とともに、憮然とした声が校長室に響く。
 頭を上げると、息を大きく弾ませてこちらを睨む安達の姿があった。瞬間、つん、と芽吹の鼻の奥が痺れる。
「先輩……、なんでここに」
「当事者の1人しか呼ばないなんて、フェアプレイじゃないですよ。そうでしょ、監督」
「……ああ。まったくだ」
 同調する監督に促されるようにして、安達がテーブルの前に進む。
 その上に置かれた写真を手に取り、ぐっとその手に力がこもった。
 それ、私の裸じゃありません。とっさにそう言いたくなった自分に、芽吹は驚いた。
「これは、100%有り得ません」
「でも、じゃあ、この写真はいったい」
「知りません。合成とかそういうことでしょ。少なくともこんなこと、俺もこいつも一切身に覚えがありません」
「しかしなあ、どう見てもこれは」
「俺は、こいつに絶賛片想い中なんですよ」
(4)
 ――はい?
 呆気にとられた周囲をしり目に、安達は淀みない口調で続けた。
「だから、こういうことされると、まじで迷惑なんです。地道に距離を縮めてる最中なのに、こいつ、また俺を避けるようになるじゃないですか」
「あの、安達先輩?」
 何を言ってるんだろう、この人は。
「それと、これ」
 テーブルの上に無遠慮に出されたのは、ランニングシューズだった。見覚えがある。恐らく安達が使ってるものだろう。
 ただおかしな点がひとつ。シューズのつま先部分の靴底が、ぱっくり横にはがれてしまっていた。
「安達、これは」
「黙っててすみません監督。実は最近、こんな具合で嫌がらせを受けてました。と言っても、この靴が1番大きな被害ですけどね」
 突然の告白に、監督も顧問も目を見合わせた。その中で芽吹は、もしかして、と記憶を巡らせる。
 ――なあ、誰か、この辺りにいたか。
 もしかして、この靴の状態を発見して、あの質問を?
「ですから、きっと今回の写真も俺狙いの嫌がらせの一環です。こいつは関係ありません。こいつが辞めるなら、俺も一緒に部活を辞めます」
「先輩!」
 何を言い出すのか。慌てて大声を上げた芽吹に、安達は力なく笑った。1人で何者かの悪意に耐え続けた、疲れの色が見てとれた。
 次の瞬間、芽吹は自らのネクタイを首から引き抜いた。
「芽吹?」
 驚愕する安達を無視してベストのボタンをはずし、腕を抜きとる。
 周囲から制止の声が飛ぶ中、芽吹はためらいなくシャツのボタンに手をかけた。
 素肌が空気に触れる、冷たい感触。
 それと同時に包まれたのは、熱く大きな手のひらだった。
「ストーップ。校長室で生徒に一体何やらせてるんですか。先生方」
「……っ、いぶ」
 芽吹のはだけたシャツを覆うように、息吹の腕の中に収められる。
 馬鹿みたいに安心させられ、涙腺がどうしようもなく緩んでいった。
「い、いいえ。その、今のは来宮さんが自分から……」
「それほど、追い詰められてたから――なんて、俺みたいな学のない馬鹿でもわかりますよ」
 現に肩を小さく震わせる芽吹の姿に、先生たちは押し黙るしかない。
「ああ、そういえば。例の写真の真偽がつきましたよ」
 そう言うと、息吹は大きな茶封筒を弾いて渡した。怪訝な顔の先生方が中身を確認し、揃って顔を見合わせる。
「こんな鑑定書、いったいどうやって」
「俺の知人に専門職がいるんです。写真データを送ったところ、100%合成だとの鑑定結果が出ました。詳細はそちらの書類にある通り。何かご不明点は封筒の連絡先に欲しいとのことです」
 いつもに息吹からは考えられない、理路整然とした物言いが、今はひどく心強い。
 胸に閉じ込められている芽吹には、息吹の表情を窺うことはできなかった。
「さてと。安達くん、芽吹。そろそろ部活の時間なんじゃない?」


 結局、部活に直行するまで気持ちが回復せず、芽吹と安達は揃って保健室に留まらせてもらうことにした。
 話は息吹からすでに通っていたらしく、小笠原は何も言わず部屋の一角を開けてくれた。
「お前、どうしてあそこまでしたんだ」
 長い沈黙を切り裂いた安達からの質問に、芽吹は視線を落としたまま答えた。
「あの写真の私、左肩が見えてたじゃないですか。私の左肩、生まれたときからちょっとした痣があるんですよ」
 説明する口調はみるみる小さくなり、恥ずかしさに頬に熱が帯びる。
 咄嗟の勢いが消えた今となっては、先ほどの自分の行動は確かに信じられなかった。
「だから、その痣を見せれば、写真が嘘だってことの証明になるかと」
「馬鹿……」
 溜め息交じりに零す安達に、思わずむっとする。
「誰のせいですか。もとはと言えば、先輩が自分も辞めるとか無茶苦茶言うからでしょ」
「無茶苦茶はお前だ。そんなのわざわざ、あの場の全員に見せる必要あるか。中年の親父もいたんだぞ。せめて女教頭だけに見せれば済む話だろ」
「そりゃ、そうですけど」
 正論を真正面からぶつけられ、言い返す言葉もない。でも、あの時は。
「だって、仕方ないじゃないですか。ああでもしなくちゃ、先輩から野球を奪うことになってたんですもん」
 スカートがしわになるのも忘れ、ぎゅっと両手で握りしめる。
「先輩、野球大好きじゃないですか。私、ほんの少ししか見てなかったけれど、わかりますよ。だから、嫌がらせだって、1人でじっと耐えてたんじゃないですか。だから、私、もう夢中で」
「あー、もう、いい。わかった!」
 がごん、と大きな音が響く。
 作業机に向かっていた小笠原も、さすがに何事かとこちらに視線を向けた。
 ベッド脇の机に額を思い切り打ち付けた安達が、そのままの体勢で動かなくなっていた。
「え、安達先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃねーよ。お前のせいだ」
 いや、今額を打ち付けたのは、先輩自身だ。すぐさま浮かんだ反論は、垣間見えた安達の横顔に喉元で溶けていった。
「有りもしねー合成写真でっち上げられた直後だ。下手にお前に手出しするわけにはいかねーだろ」
(5)
「せん、ぱ」
「そんな時に、抱きしめたくなるようなこと言うなって言ってんの。……馬鹿」
 ほんの一瞬、視線が絡んだ。それが何かのスイッチのように、2人の頬を朱色に染める。
 重い鉛を飲み込んだような顔の小笠原は、何事もなかったように自分の席に戻っていった。


家に帰ると、息吹はすでにリビングでくつろいでいた。
「おかえりー。夕飯作ったけど、お腹空いてる?」
 いつもよりほんの少しだけ口数が多い兄に、自然と笑みが漏れる。
「うん。空いてる」
「それじゃ、準備するかな」
「ねえ息吹。今日はありがとう。すごくすごく、助かったよ」
 あえて触れないようにという気遣いだと、すぐにわかった。だから、芽吹は素直に感謝を告げることができた。
 あの時息吹の声が聞こえなければどうなっていたのか、想像もできない。
 普段はなかなか振り払うことが難しい兄への反発のようなものが、今はみるまに解けていく。
「言ったでしょ。困ったときは、お兄ちゃんが助けてあげるって」
「ん。本当だね」
 言葉通りの頼もしさを、不覚にも感じてしまう。
 あの時素肌を晒そうとしていた芽吹を腕の中に閉じ込めた温もり。その場所は、酷く居心地のいいものだった。
「でしょ。それじゃ、ご褒美ちょうだい」
 聞き返す前に、息吹が芽吹の顔を覗き込んだ。
 てっきりいつものふざけた緩い笑顔かと思いきや、目の前にあるのは感情の読めない澄んだ眼差しで、芽吹は一瞬たじろぐ。
「ご褒美、って」
「約束して。もう二度と、あんなふうに自分の体を安易に扱わない」
 吸い込まれそうに綺麗な瞳に、胸がぎゅっと苦しくなった。
「うん、でも、あれは」
「わかってる。きっとここの痣を見せようとしたんでしょ。肩にあるやつ」
 たしなめられているのに、その手のひらは驚くほど優しく芽吹の肩を撫でた。
「でも、それでもだめ。俺が嫌だ。だから、今度からはやめて」
「俺が嫌だ、って」
「芽吹」
 わざと冗談に舵きりをしようとした芽吹を、息吹は意に介さず断ち切った。
 本気だ、と芽吹は思った。
「返事は?」
「……わかりました」
「ん。ありがと」
「それじゃ、夕食にしようかー」満足げに頷いた息吹が、キッチンへいそいそ姿を消す。いつもの息吹だ。秘かに安堵すると、芽吹も手伝いに加わる。
「そういや芽吹、安達くんに告白されてたねえ」
 ……やっぱり、聞かれてたのか。可能性は0じゃないと思っていたので、表情を下手に動かさずに済んだ。
「あれは、そういうんじゃないから。息吹もあまり冷やかさないでよね」
 まるで自分に言い聞かせている気分になり、内心かぶりを振った。
 話題を無理やり終わらせようと、記憶をさかのぼり「そういえば」と務めて明るく告げる。
「息吹って、写真関係の知り合いなんていたんだね。初めて聞いたよ」
「んー、まあ、この歳になれば色々ね」
「ふうん。……まあ、私は正直、写真撮られるのは苦手なんだけど」
「そう」
 ふと自身の苦い思い出がよぎる。だからか、息吹の口調が固くなることに、気づくのが遅れた。「俺は、苦手じゃない」
「カメラは、嫌いだ。これからもずっとね」
 重い本心の言葉だと、直観で悟る。
 思わず見上げた表情からは、すでにその名残は消えていた。でも、気のせいじゃない。
 今のは、何?
 軽率に問いかけれないまま、聞き流す以外に術を見出せないまま、滑稽なほど普段通りに来宮家の夕食は終えた。
(1)
 昨日の何気ない質問は、きっと自分の失言だったのだろう。
 あの一瞬を除いて、息吹はどこまでもいつも通りだった。その事実が、余計に芽吹の後悔を膨らませる。
 あんな石のような芽吹の瞳を見るなんて、思ってもみなかった。
「そんなん、家族間ならよくあることでしょうよ」
 あっけらかんと告げた奈津美は、ノートで芽吹の頭を軽く小突いた。角でやらないあたり、奈津美はさり気に優しい。
「家族なんて世界で1番身近な人間なんだから、そういう小さな傷のつけあいってお互い様じゃない? やばいやつは謝らなくちゃかもだけどさ」
 奈津美の言うことはわかる。でも、それはきっと長年培ってきた家族のなせる業なのだろう。
 芽吹と息吹の間にはまだ、そんな魔法を引き出すほどの時間は流れていない。
「それはそうと。まず解決すべきはあの性悪女よ。あの女、あんな見え透いた演技披露しておいて、いまだに野球部マネージャーに居座ってるって?」
「倉重さんね」
 結局あの後、1年選手の引きとめにあい、退部を撤回したらしい。
「信じられん。あの安い涙はなんだったの。面の皮の千枚張りってやつだわね」
 百合嫌いに拍車がかかっている。憤る奈津美に苦笑するも、隣に座る華もそれに同調するように深く頷いた。
「私も、あの人嫌い。芽吹を貶めようとしてる。芽吹、何もしてないのに」
「華、よく言った。共に杯を交わそうぞ」
「こらこら、2人とも落ち着いて」
 正直、こちらに八つ当たりしたくなる気持ちもわからなくはなかった。
 1人で必死に切り盛りしていたマネージャー業に、気まぐれで復帰されては気に食わない気持ちもあるだろう。加えて、あんなに熱を上げていた安達とも別れた。ストレスが溜まっていて当然だ。
「奈津ちゃん思うんですけど。安達先輩が受けてる嫌がらせ? それももしかして、あの性悪女がやってたりってこと、ない?」
 推測にすぎないとわかってか、奈津美の口調はひどく慎重だった。
 芽吹もそれは考えた。安達に悪意を向ける人物を考えたら、真っ先に上がるのが百合だろう。
「たぶん、それはないと思う」
 安達に聞いたところ、受けた嫌がらせの中には、明らかに百合には無理なシチュエーションで起こったものもあったらしい。2年の教室内や、百合が監督に呼ばれたタイミングにも。
「とにかく、嫌がらせなんてバカなことは早急にやめてほしいもんだわね」
 校長室に乗り込んで自ら被害を受けたランニングシューズをさらした、あの時の安達は毅然としていた。その表情が脳裏に浮かんでは、やるせなさに芽吹を苦しめる。
「本当に」
 早く先輩に、無心で野球に専念してほしい。


「どうしたのー来宮さん。なんか怖い顔して」
 先日の涙の演出は存在しなかった、という設定になったらしい。
 花のような笑顔で首をかしげる百合に、芽吹は乾いた笑みで応えた。花のようだと思うのに、裏にあるトゲの鋭い光が、ちらちらとこちらに向いている。
 珍しく2人は共に、野球部小屋の掃除を進めていた。
 中は簡易カーペットが敷いているが、選手や監督が入れ代わり立ち代わりするため、グラウンドの砂が否応でも入り込む。イタチごっこのような掃除機をかける芽吹に、窓ふきをする百合は思い出したように口を開いた。
「そういえば、来宮さんに聞きたいことがあったんだよね」
「聞きたいこと?」
「来宮さんってさ、克哉さんのこと、どう思ってるの?」
 今度は、「克哉さん」が誰のことか、すぐに思い出すことができた。
「どうしたの、急に」
「急じゃないよー。本当はずっと聞いてみたかったんだ。だって来宮さん、彼とすごく仲がいいみたいだし」
「太陽みたいな人」
 真意を探るのも、すぐに諦めた。
 お互い本気で深入りしたいと思わない間柄だ。芽吹は浮かんだ言葉をそのまま告げる。
「ふふ、ポエムみたいだね。可愛い」百合の瞳が、嬉しそうに細められた。
「そんな可愛い来宮さんだから、克哉さんもつい構っちゃうのかなあ。あ、もしかして来宮さん、甘え上手な末っ子?」
 甘え上手かはさておき、「うん。一応、兄がいるよ」と端的な返答をする。ドア付近の砂が、なかなか吸い取れない。壁をこすらないように、何度も掃除機を往復させる。
「実は私もなんだ。年が少し離れてる兄なんだけど。妹がいる兄ってさ、何か単純~って感じしない?」
「そうかな」
「そうだよ。妹好きな、単純馬鹿」
 最近日常を占領する兄の姿を思い起こす。
 息吹は、単純に見えて意外に手綱が引きにくい。
 こちら側には無遠慮に入り込むのに……なんだろう。向こう側に入ることは、慎重に監視されているような気がするのだ。
「来宮さん、ぼーっとしてるもんねえ。いいなあ、そういうことに鈍感だと楽だもん、羨ましい」
「そうかな」
「だから、克哉さんの口車に乗せられて、また野球部に戻っちゃったんだ?」
 そうかな、と言いかけて、はたと我に返る。そして気づかないでもいいことに気づいた。
 あれ、もしかして今、喧嘩売られてる?
「いつもみたいにぼーっとしていればよかったのにねえ。そうすれば変な期待もせずに済むことだってあるよ?」
 屈んでいた上体を起こすと、思いのほか近距離に百合は立っていた。
 笑顔にかかる薄い影に、芽吹の胸のどこかが冷えていく。
「克哉さんも罪作りだよねえ。来宮さんみたいな慣れない子をからかうんだもん」
「……」
「正直ね、あっちのことでも、克哉さんのお願いに付き合わされて、体が辛いこともあったし……『待て』ができない男なんだよね、あの人って」
「安達先輩のこと、まだ、好きなの?」
(2)
 瞬間、目の前の微笑みが、貼りついて見えた。
「もしも好きなら、その人を悪く言うのはやめた方がいいと思うよ。だって、好きなんだから」
 よせばいいのに口に出た。いつもの自分なら、真正面からやり合うなんて馬鹿なことは絶対しないのに。
 つい、頭に血が上った。
 その時だった。ノックもなく、唐突に小屋の扉が開けられる。
 扉に軽く手をかけていた芽吹が、ぐらりと体勢を崩した。
「きゃ」
「あ、っぶね……!」
 誰かの温もりにぶつかり、体の傾きが収まった。確認した「誰か」の姿に、素早くたたずまいを整える。
「すみません、安達先輩」
「おー、こっちも急に開けてごめんな」
 一瞬、安達の視線が、すぐそばにいる百合を素早くなぞった。
「へえ、マネージャー2人でいるなんて珍しいよな。いつも仕事に追われてお互い走り回ってんのに」
「まあ、そうですね」
 その通りだと思ったので肯定すると、安達の唇がすっと芽吹の耳元に寄せられた。
「なあ、倉重、ずっとここにいたか」
 小声の質問。百合には聞かれたくないらしい。咄嗟に判断し、「そうですね」とだけ返す。「そうか」
「なあ、倉重」
「え」
「ごめんな」
 急に話し相手が移り変わり、芽吹も百合も一瞬反応が遅れてしまう。正しくやり取りを理解できた時には、安達はすでに小屋を後にしていた。
「……克哉さん、どうしたんだろ。あんなふうに人に謝るなんて、珍しいなあ」
「……そうだね」
 中途半端な戸惑いを残したまま、2人のマネージャーは仕事を再開した。


 謝罪の意味は、部活後には明らかになった。
「やっぱり、倉重じゃねーな、って。俺への嫌がらせ相手がさ」
 頭の後ろに手を組み、夜空をぼんやり眺める。
 部活後の家路をともに歩きながら、安達は静かに話し始めた。
「ペンケースの中にカッターの刃を入れられた。補講までの間以外考えられない。百合がずっとお前と小屋にいたなら、やっぱりあいつは犯人じゃない」
「カッターの刃って」
「あ、平気平気。あれってただ放り込まれただけで、すぐ気づいたからさ」
 そういう問題じゃない。
 万が一そのまま指先を怪我していたら、考えるだけでぞっとする。ピッチャーにとって、指は命じゃないか。
「少し、ほっとした」
 しかし、安達の口から出たのは意外な言葉だった。
「野球部内に犯人がいる可能性が、かなり減った。正直、それが1番精神的にきてたからさ」
 あくまで軽い調子を崩さないように言う安達に、胸がつきんと痛む。
 嘘だ、と芽吹は思った。
「無理、しないでください」
「ああ。ありがと」
 どれほど伝わっているんだろう。気休めしか言えない自分がもどかしい。
 ふがいなさを感じていたからだろうか、そっと包まれた手の温もりに、気づくのが遅れた。
「……何ですか、この手は」
「いやー、2人きりで下校する男女ときたら、手を繋ぐくらいが自然かなーと思ってさ」
「必要ないです」
 ぺっとつながれた手をはがし、安達を一瞥する。心底心配した自分が馬鹿みたいだ。
「あの写真の件で、しばらく下手に手出ししないって言ってましたよね?」
「でもさ、こうして一緒に帰ってる時点でアウトじゃね?」
 確かにそうだ。
 はたと思い至り、素早く距離をとろうとする芽吹に、安達は再び手を取った。
「大丈夫だって。周りにはまだちらほら人目がある」
 だからダメなんだろ、と突っ込む前に安達は言葉を続ける。
「要は、一緒に帰ってるところをちゃんと誰かに目撃されてりゃいいわけだろ。そうすりゃ、あんなでっちあげ写真も作れない」
「だからって別に、手をつなぐ必要はないでしょ」
「あれ、芽吹ちゃん、もしかして緊張しちゃう?」
「放っといてください」
 覗き込まれた顔は、指摘されるまでもなく熱く火照っている。
 驚きに見開かれた安達の瞳を、芽吹は恨めしく睨み返した。
「仕方ないでしょ。男の人とこんなことするなんて、今までないですし」
「……そうなんだ」
「まあ、百戦錬磨の安達先輩なら、経験値0の私なんて不思議な存在なんでしょうね」
 何故か皮肉が混ざった言葉になる。野球部小屋で、百合に投げかけられた台詞のせいだ。
 ――克哉さんも罪作りだよねえ。来宮さんみたいな慣れない子をからかうんだもん。
 ――正直ね、あっちのことでも、克哉さんのお願いに付き合わされて、体が辛いこともあったし……。
「……すみません。少し、頭冷やした方がいいのかも」
「芽吹」
「本当にすみません。気をつけて帰ってくださいね」
 芽吹は早口で言い残すと、安達を残して家路を急ぐ。
 胸の中がぐちゃぐちゃだった。自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない。
 うん。今はとにかく、頭を冷やそう。
 ゆっくり自分に言い聞かせ、芽吹は深く息を吐いた。


 下駄箱に安達からのメモが入っていたのは、その翌日だった。
 内密に話がしたい。放課後にグラウンド裏の緑地に来てほしい――と。
 今日はもともと部活休みだった。そのことに少し安堵していたのに、と芽吹は思う。昨日の今日で顔を合わせるのはさすがに気まずかった。
「おーい芽吹。今から移動?」
 購買の窓から、ひらひらと手を振る息吹と目が合う。連れだっていた奈津美と華に断りを入れ、そちらへ立ち寄った。
「私たちたちは、今から体育。あんたも今日は、真面目にここにいるんだね」
「葵先生ってば、最近特に俺の締め出しが激しいんだよねえ」
「いや、それが普通だから。旧友だからってあんまり甘えるな」
「日当たり良好で好きなんだけどなー、保健室」
 安達への気まずさが膨らんだ反作用か、息吹へ抱いていた気まずさは、いつの間にか溶けて無くなっていた。
 嫌い――そう淀みなく告げた横顔は、今もたまに脳裏にちらつくけれど。
「そういえば芽吹、2年男子の知り合いって、野球部以外にいる?」
「え、なに急に。いないけど」
「だよねえ」
 意味不明な質問を投げっぱなしにするつもりの兄に、胡乱な視線を送る。こういうところが、食えないのだ。自分だけ振り回されている気がして、何だか悔しかった。
「なになに。息吹さんもやっぱり可愛い妹の交友関係は気になるとか、そういうことですかー?」
 追求しようと口を開いた芽吹の首もとに、奈津美が後ろから抱き着くようにして割り込んできた。
「まあ、そんなところかな」
「それなら、気を付けたほうがいいですよ。芽吹ってば今、プレイボーイ安達にちょっかい出されまくってますからねえ」
「へえ、プレイボーイなの?」
「そりゃーもう」
「ちょっと、奈津美!」
 奈津美の発言に、慌てて封をする。
 息吹は特段気にする様子もなく、「プレイボーイかー」といつもの調子で復唱した。
「まあ、どんな男でも選ぶのは芽吹だもんね。俺が口出しすることじゃあないよ」
「あら、意外なご意見」
 肩透かしを食らった顔の奈津美に、息吹は至極朗らかに付け加えた。
「お兄ちゃんが活躍するのは、男が芽吹に手を出した時だけだから」
「ねえ?」その無邪気な笑顔に、息をのんだのは芽吹だけじゃなかった。
 手を出した時って、どういう意味だろう。以前ストーカー男を一瞬で地面に伸した姿が頭をよぎり、すうっと背筋が冷える。
 もしかしたら安達は、すでにアウトかもしれない。
(3)
 指定の時間には少し早いけれど、問題ないだろう。
 例のメモ以外に予定がなかった芽吹は、早めにグラウンドに向かうとひとまず野球部の小屋に入り込んだ。ここで待っていれば、人が来たらすぐに窓から確認できる。
 今日、廊下で一瞬安達を見かけた。しかし珍しく目を逸らされた。それだけ人目を気にする話、ということかもしれない。
「あれ」
 メモを何気なく眺めていると、あることに気づいた。
 一度浮かんだ違和感に引っ張られるように、芽吹は小屋内の棚にあるスコアブックを手に取る。パラパラページをめくっていくと、目当てのページでぴたりと手を止めた。
「……『安達』の書き方、微妙に違う……?」
 時折目にする安達の筆跡とよく似ていたため疑わなかった。
 でもこうして改めて以前安達が書いた文字と比べると、その違いが浮かび上がってくる。安達の書く「達」は、最後の払い部分が決まって上に数ミリ跳ねているのだ。
 じゃあ、このメモ、安達先輩が書いたものじゃない?
 妙な事実に行き着くのと、誰かの気配がしたのはほとんど同時だった。
 安達先輩だ。
 芽吹は慌ててスコアブックを本棚にしまう。文字のことはただの偶然らしい。だって安達先輩はここに来たもの。
 大きな安堵と大きな緊張が胸に過る。グラウンド裏に通じる緑地へ降りていく安達を確認し、芽吹も後を追おうと扉に手をかけた。
 その時だ。
「え」
 誰かが、苦しげな声とともに倒される音が、プレハブ内からでもかすかに届いた。
 え、なに、今の。
 扉を開けかけた手が硬直し、心臓がバクバクと大きく打ち鳴らす。すると誰かの怒号とともに、同じような音が何度か繰り返された。
 立ちすくみそうになる足を無理やり動かし、芽吹は緑地の方へ走りでた。
 グラウンド裏は、数段の階段を通じて学校外の緑地を繋がっている。
 見下ろした先の光景に、芽吹は無意識に声を上げた。
「安達先輩!」
「芽吹……?」
 数人の男に囲まれた安達が、顔をしかめて腰を落としている。その顔には、血のにじんだ傷があった。
「おいおい、あんたがここに来るには、まだ早すぎるよ」
 男のうちの1人が愉快そうに言う。芽吹は安達のもとに走り、庇うように首もとを抱き込んだ。
 はやし立てるような男たちからの口笛も、今は気にならなかった。
「あなたたちは、誰ですか」
 制服も着ていない。外見を見ても、歳は二十歳もとうに超えているだろう。もしかしたら、すでに社会人かもしれない。
「名乗るほどのもんじゃねえよ」
「人を呼び出しておいて、それはないんじゃないですか」
「はは、ばれちまったかあ」
 悪びれない様子で頭をかく男に、静かな怒りがこみ上げる。
 でも、一体どうやって部外者が校内に侵入したんだろう。下駄箱にせよ、安達のペンケースにせよ、部外者が手を出すことは、決して簡単ではないはずだ。
「俺たちはここの卒業生でなあ。昔は少しやんちゃしてた連中なんだよ」
「そんでやんちゃ者同士は、歴代の繋がりは持ったままってわけ」
「なるほど」
 うちの校内の「やんちゃ君」が、手足となって動いてたということか。でも、どうやらこいつらが主犯のようだ。
 正確には、先ほどから一歩引いてこちらの様子を眺めている、最も体躯の良い――あの大男が。
「逃げろ、芽吹」
 囁いた安達が、芽吹の体を押しのけるように後ろへやり、その場に立ち上がった。
「あんたたちの目的は俺なんだろ」
「まあ、そうだな」
「それなら」
 立ちふさがっていた安達の上体が、次には深く下げられた。
 驚きに目を見開いたのは、芽吹だけではなかった。
「お願いします。こいつには手を出さないで下さい。俺の事情ならこいつは何も関係ない。それにこいつは、女だ」
「先輩、私は」
「お願いします!」
 芽吹の反論をかき消すように、大きな声が響く。
 私にはって、それって先輩はどうなるの。躊躇なく人に怪我をさせるような大人3人相手に、安達先輩は、今から。
「いや。残念ながら、その女にも用はある」
 体躯の良い大男が、ようやく口を開いた。
「でも確かに、一番大事な用事はお前あてだ、安達、克哉」
「……名前をご存知ですか。俺の記憶では、あなたには面識はないようですけど」
「それでも、色々思い当たることはあるだろう。そんな色男ならな」
 大男があごをしゃくると、1人が芽吹に近づく。
 それに素早く反応した安達が、再び芽吹を自分の背中へ庇った。押し付けられた広い背中に、芽吹の胸がぎゅっと締まる。
「心配すんなよ」
 次の瞬間、鈍い衝突音が響き、安達が倒れた。
「っ、安達先輩!」
「この女はひとまず観客だ。お前が素直にボコボコにされてさえいればな」
「……それ聞いて、安心しました」
「やめて!」
 背後から羽交い絞めにされ、身動きが取れない。芽吹はただ喉を擦りつけるように叫ぶしかできなかった。
 鈍い音が辺りに響き、目の前で安達が次々に痛めつけられていく。鋭い膝蹴りが安達の腹に突き上げられ、安達はその場にひざをついた。私、何もできないの。私は、私は――。
「っ、い、ぶき。息吹……!」
「はーい」
 その返事は、あまりに呑気なものだった。
 声をした方へ視線を向けると、2人の長身がこちらを見下ろしていた。夕日が逆光になっている。
 息吹、と、小笠原先生?
「へえ、学校裏って、こんな広場になってたんだ。いいね。遠くの山が薄っすら見える」
「おい息吹。こりゃ一体どういうことだ」
「ああ、葵は手出ししなくていいよ。ただの目撃者Aになってほしいだけだから」
 無理やり目撃者役として付き合わされたらしい小笠原は、心底迷惑そうに溜め息をついた。
「んなもんこの暴行現場を、適当に写真でも撮っておけばいいだろーが。俺も暇じゃねえ」
「……あー、まあ確かに、芽吹を構図に入れなきゃそれでもよかったかな」
 少し考えた後、息吹は男たちを見据えて笑った。
「あんた達なら、別に死んでもいいしね」
(4)
「……!」
 身内の芽吹ですら、ぞくりと胸が粟立った。
 あっけらかんと残酷な宣告の後、息吹がグラウンドから軽快に緑地へと降り立つ。
「目撃者Aになるのはいいが、目に余る行動は控えろよ。俺は見たまんまを説明するぞ」
「うん。ありがとね、葵」
「っ、きゃ……!」
 次の瞬間には体の拘束が解かれたかと思うと、すぐそばで男が地面に振り落とされた。
 聞きなれない変な音が鳴ったようだ。心配する筋合いはないが、大丈夫だろうか。
「い、息吹」
「芽吹。怪我してない?」
「うん私は。でも、安達先輩が」
 腕の後ろに庇われた芽吹が、咄嗟に安達を指さす。指先に倣った息吹は「あー」と目を細めた。
「なるほど。プレイボーイは、傷をつけられても絵になるねえ」
「っ、てめえ、一体何もんだ!」
「うん。脇役Bも、少し黙ってて」
 言うや否や、安達を痛めつけていた男の体が素早く宙に浮く。息吹が蹴り倒したのだと、芽吹は一瞬後に気づいた。
 短い悲鳴の後、脇役Bもそのまま気を遠くしてしまった。
「で。あんたは俺の妹に何の御用?」
「妹、か」
 話を振られた大男が、一歩こちらに歩み出た。
「よくわかったな。妹さんが呼び出された場所と時間が」
「あんたたちの校内の手下、登校する生徒ばっかに気をとられててね。購買のお兄さんが見てることに、気付かなかったみたいだよ」
「人選を誤ったか。靴箱にメモを入れるくらい、スマートにやってほしいもんだな」
 苦笑する大男が、膝をついていた安達の前髪を乱雑に持ち上げる。
「ちょ、やめてってば!」
「芽吹、いいからそこにいな」
「でもっ」
「今芽吹が飛び出して万一怪我でもしたら、お兄ちゃんが殺人犯になるかもだけど、それでもいい?」
「……」
 いいわけがない。
 本気か冗談かわからない発言に、芽吹の勢いが削げる。それを笑顔で確認した息吹が、大男と安達を交互に見た。
「あんたはそこのプレイボーイに恨みがあるんでしょ。そこにどうして芽吹が巻き込まれてるのかな」
「こっちにはこっちの事情があるんだよ」
「へえ、お互い『妹』に振り回されてる、ってわけ?」
「……」
 芽吹の問いに、大男は答えない。無言の肯定だった。
「妹さん……?」
 小声で洩らす安達に、再び大男はぐいっと前髪を引き上げる。
 苦し気な声とともに、安達の瞳が大きく見開かれた。
「ああ、そういうわけか」
「安達先輩?」
「身に覚えのない恨みなら、これ以上はご免だけどな」
 まるで悟ったような安達の表情に、大男の顔にはじわりと不快感が浮かんた。
 それはつまり、安達にも身に覚えがある、ということだろうか。
「無駄口は叩くな。いずれにしろ、お前に選択肢はねえんだよ、色男」
「でしょうね。痛いのは嫌いですが、仕方ありません」
「力加減は保証できねえ。歯あ食いしばれよ」
 みしっと地鳴りのような関節音を鳴らし、男が拳を振り上げる。
 思わず息吹を押しのけて踏み出た芽吹だったが、結局それは叶わなかった。
「……おい。何のつもりだ?」
「言ったでしょ。俺も、可愛い妹に振り回されてるお兄ちゃんなんだってば」
 大男の強靭な拳を、息吹の右手が受け止める。
 安達を後ろに追いやると、息吹はそのまま大男と対峙した。
 前にも後ろにも動かない拳におののきを覚えながら、芽吹は急いで安達に駆け寄る。
「先輩!」
「あー……、マジで、悪かった。芽吹」
「と、とにかく傷を」
 慌ててポケットからハンカチを取り出すと、すぐ横に救急箱が置かれるのが見えた。
「小笠原先生……」
「行き掛けの駄賃だ。一応、養護教諭なもんでな」
「ありがとうございます」
 手際よく怪我の様子を見る小笠原に安達を任せ、息吹に視線を移した。
 2人はいまだに組み合ったまま、力を拮抗させている。
「あんたの妹さんを傷つけるつもりはハナからなかった。あんたがでしゃばるところじゃねえだろう?」
「そうなんだけど、仕方ないでしょ。芽吹は、あのプレイボーイを守りたいみたいだからね」
 言葉通り「仕方なさ」を全面に出した息吹は、そのまま男の拳を勢いつけて振り払った。それなりの衝撃があったのか、受け止めていた手をひらひらと仰いでいる。
「うわー、あんたの腕っぷし、結構やばそう」
「あんただって、わかるんじゃねえのか。心底惚れた男に泣かされる妹を見た時の、兄貴の気持ちが」
 絞り出すように告げた大男に、息吹は迷う間もなく頷いた。
「ん。そうだね」
「あんたもそう堪え性があるようには思えねえ。男に拳をお見舞いするくらい、躊躇なくするだろう」
「ん。だと思うよ。でも」
 再度肯定する兄に内心突っ込みを禁じ得ない芽吹だったが、続く言葉がそれを制した。
「妹が『それ』を望んでないなら――自分の腕を落としてでも、その拳を収めるけどね」
「息吹……」
 息吹から向けられる思いに、芽吹はひどく戸惑った。
 自分には想像したことのないほどの、激しい愛情。兄だというだけで、誰でもそこまで盲目的な愛を持てるものなの。
 そして――それを垣間見るたびにせりあがってくるこの感情は、いったい何なんだろう。
「それは、あんただって一緒でしょ。妹が望んでいないなら、こんな馬鹿げたことはしない」
「……」
「つまり、『それ』を望んだわけだ。あんたの妹さんは」
 大男は、苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた。
「自分の手を汚さず、兄を頼ったわけだ。随分賢い妹さんだね」
「……あいつが、俺に何かするよう指示をしてきたわけじゃねえ」
「でも妹さんは知ってるんだよ。あんたに泣いて相談しさえすれば、自分の望む行動を取ってくれるってさ」
 残酷な笑顔で言葉を続ける息吹が、ポケットの中から小型器機を取り出す。いくつかあるうちのボタンを押すと、薄い雑音に覆われた音声が流れてきた。
 誰かが、電話している女の声が聞こえる。
 涙に沈んだ口調で話を終えたその声は、電話を切った瞬間に口調が変わった。
 ――本当、扱いやすいんだよね。単純馬鹿なお兄ちゃん。
(5)
「息吹っ」
 瞬間、大男の拳が息吹の頬を吹き飛ばした。
 それでも1,2歩後退した息吹の足元は、その場でゆっくり体勢を整える。まるで、攻撃を予期していたように。
「ね、わかったでしょ。これがあんたの妹の本音。合成写真も、器物損壊も、遠回しに指示されたんじゃないの。そのほとんどが、妹に疑いがかからない、絶妙なタイミングでさ」
「ああ、知っていたさ。でもそれがどうした?」
 ……え?
 大男の意外な返しに、芽吹は目を見開いた。
「こんなん、別に初めてじゃねえ。妹に粗雑に扱われるのだって、都合よく利用されるのだって慣れっこさ。でもな、妹が俺を頼ってくるなんて、こんな時ぐらいしかねーんだよ。こんな出来の悪い兄貴を持ったせいで、あいつにはもう随分苦労を掛けてきたからな」
 地に視線を落としていた大男は、再びゆっくりと息吹を見据える。その目に迷いはない。ただ、凶暴な光が浮かんでいた。
「もう腹は決まってんだ。こんな時くらいはあいつの言うことをなんでも聞くってな」
「なるほど、それがあんたのお兄ちゃん心ってやつ?」
 息吹が会得したように微笑む。そしてさも当然のように、大男の頬に拳をめり込ませた。
「……っ、あ」
 凄まじい音が後を引く。芽吹は思わず震える声を洩らした。
「それじゃあ、引くわけにはいかないね。あんたも、俺も」
「おう、前田。俺が伸びたときの後処理、悪いが頼んだぜ」
「え、あの、シゲさん……!」
 いつの間にか意識を取り戻していた脇役Bの男に告げたのを皮切りに、2人は交互にその拳を振るっていく。
 やめて、と何度も口にしようとしたが、もはや言葉にならなかった。芽吹には立ち入れない場所で、息吹は拳を振るっていた。
 結局夕日が地平線に吸い込まれるまで、緑地には2人の影が伸びていた。


「全部、話を聞いたんだ?」
 翌日の昼休み。
 芽吹を屋上に呼び出してきた相手が、不遜な表情で吐き捨てた。
「あなたの、お兄さんのことだよね」
「失敗すんなってあれだけ釘刺したのに。やっぱり、歳を食っても馬鹿は馬鹿か」
 盛大な溜め息をつき、相手は笑った。笑いながら、芽吹の出方を窺っているのが見てとれた。
「お兄さん。あなたの本心、ちゃんと知ってたよ」
 相手の笑い声が、ぴたりと止んだ。
「それでも、自分ができることはこれしかないって。あなたにも苦労かけたからって。だからずっと、あなたに騙されたふりをしていたんだよ」
「はは、なにそれ。それで贖罪のつもり? そんなの当然よ!」
 女の声が、辺りに霧散した。
 震える細い拳が、スカートの横で固く作られる。
「あの男が兄だったせいで、私が今までどんな目に遭ってきたのか、あんた、わかる? 騒ぎを起こすたびに家族は謝罪参り、一生懸命作った友だちは見る間に去っていく、急に世界が変わるのよ、私のことを好きって言ってた男の子だってね!」
 はあ、と女が涙の籠った息を吐く。
 前に廊下で目にした涙よりも、よほど色濃く感じられた。
「でも、苦しそうだね、あなたも」
「……っ」
「本当は、お兄さんの気持ち、気づいていたんじゃないの? だから、そんなに苦しいんじゃないの?」
 ざあ、と屋上一体に暑い夏の風が吹きつけた。
「……本当、あんたってムカつくくらい、人の図星をついてくるよね」
 緩くウェーブがかかった髪をそっとどかすと、どこか清々しい表情がそこにはあった。
「正直、安達先輩のことは自分でもよくわからないの。ぶっちゃけ最初は顔目当てだったしね。あっさり振られてプライドが傷つけられて、ムカついただけかもしれない」
 でも、もういいや――そう、倉重百合は言った。
「安達先輩も随分苦しんでくれたみたいだし。何だか空しいって、最近気づいたから。自分を愛してくれない人を追いかけ回してもね」
 克哉さん、から安達先輩、に変わっていることに、この時ようやく気付いた。
「欲しいならくれてやるわよ、来宮さん。あんな意気地なしのへっぴり腰でよければね!」
 降り注ぐ日の中で見た百合は、今までで一番美しく見えた。


「ひとまず俺の怪我は、階段を踏み外して怪我をしたってことにするから。みんなもそのつもりでね」
 昨日の緑地での乱闘は、結局誰に知られることもなく終焉した。
 百合の兄は手下2人に連れられて帰ったきり、下手に学校側に通報することもしなかったらしい。向こうにもいろいろと思うところがあったのだろう。
「そんで君の怪我は、個人的な痴話喧嘩が過ぎた故の怪我ってことにしといたよ。それ以上追及されにくい最善の言い訳でしょ」
「本当にご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
「いいよお礼なんて。……で?」
 保健室に響いた重い一言に、何故か床で正座をしている安達がびくりと肩を震わせた。
「俺の可愛い妹を巻き込んでおいて、ただで済むなんて思ってないよね」
「おっしゃる通りです」
「……えと。小笠原先生、これは一体どういう……?」
「どうやらこのシスコンにとっちゃ、今回の主犯云々より、事態の元凶の方に怒りの矛先が向いてるみたいだな」
 小笠原の席に我が物顔で腰を据えた息吹が、床に坐する安達を冷たく見下ろす。
 安達も自分の責を認めているからか、今の状況を打破しようという気は見られなかった。
「確かにあの百合? っていう子はプライドがめちゃくちゃ高そうだよね。でもさ、振られた腹いせだけでここまでのことする?」
「それは……」
「それとも、あの女が全て悪いんだ、で終結させてもいいわけ?」