(5)
「せん、ぱ」
「そんな時に、抱きしめたくなるようなこと言うなって言ってんの。……馬鹿」
 ほんの一瞬、視線が絡んだ。それが何かのスイッチのように、2人の頬を朱色に染める。
 重い鉛を飲み込んだような顔の小笠原は、何事もなかったように自分の席に戻っていった。


家に帰ると、息吹はすでにリビングでくつろいでいた。
「おかえりー。夕飯作ったけど、お腹空いてる?」
 いつもよりほんの少しだけ口数が多い兄に、自然と笑みが漏れる。
「うん。空いてる」
「それじゃ、準備するかな」
「ねえ息吹。今日はありがとう。すごくすごく、助かったよ」
 あえて触れないようにという気遣いだと、すぐにわかった。だから、芽吹は素直に感謝を告げることができた。
 あの時息吹の声が聞こえなければどうなっていたのか、想像もできない。
 普段はなかなか振り払うことが難しい兄への反発のようなものが、今はみるまに解けていく。
「言ったでしょ。困ったときは、お兄ちゃんが助けてあげるって」
「ん。本当だね」
 言葉通りの頼もしさを、不覚にも感じてしまう。
 あの時素肌を晒そうとしていた芽吹を腕の中に閉じ込めた温もり。その場所は、酷く居心地のいいものだった。
「でしょ。それじゃ、ご褒美ちょうだい」
 聞き返す前に、息吹が芽吹の顔を覗き込んだ。
 てっきりいつものふざけた緩い笑顔かと思いきや、目の前にあるのは感情の読めない澄んだ眼差しで、芽吹は一瞬たじろぐ。
「ご褒美、って」
「約束して。もう二度と、あんなふうに自分の体を安易に扱わない」
 吸い込まれそうに綺麗な瞳に、胸がぎゅっと苦しくなった。
「うん、でも、あれは」
「わかってる。きっとここの痣を見せようとしたんでしょ。肩にあるやつ」
 たしなめられているのに、その手のひらは驚くほど優しく芽吹の肩を撫でた。
「でも、それでもだめ。俺が嫌だ。だから、今度からはやめて」
「俺が嫌だ、って」
「芽吹」
 わざと冗談に舵きりをしようとした芽吹を、息吹は意に介さず断ち切った。
 本気だ、と芽吹は思った。
「返事は?」
「……わかりました」
「ん。ありがと」
「それじゃ、夕食にしようかー」満足げに頷いた息吹が、キッチンへいそいそ姿を消す。いつもの息吹だ。秘かに安堵すると、芽吹も手伝いに加わる。
「そういや芽吹、安達くんに告白されてたねえ」
 ……やっぱり、聞かれてたのか。可能性は0じゃないと思っていたので、表情を下手に動かさずに済んだ。
「あれは、そういうんじゃないから。息吹もあまり冷やかさないでよね」
 まるで自分に言い聞かせている気分になり、内心かぶりを振った。
 話題を無理やり終わらせようと、記憶をさかのぼり「そういえば」と務めて明るく告げる。
「息吹って、写真関係の知り合いなんていたんだね。初めて聞いたよ」
「んー、まあ、この歳になれば色々ね」
「ふうん。……まあ、私は正直、写真撮られるのは苦手なんだけど」
「そう」
 ふと自身の苦い思い出がよぎる。だからか、息吹の口調が固くなることに、気づくのが遅れた。「俺は、苦手じゃない」
「カメラは、嫌いだ。これからもずっとね」
 重い本心の言葉だと、直観で悟る。
 思わず見上げた表情からは、すでにその名残は消えていた。でも、気のせいじゃない。
 今のは、何?
 軽率に問いかけれないまま、聞き流す以外に術を見出せないまま、滑稽なほど普段通りに来宮家の夕食は終えた。