「はあ、出会いがないって、最悪」
出会いを求めて十年、とうとう三十歳になってしまったナイ。
しかし、ナイが求めているのはただの恋ではない。
「はあ、どこかにいないかな、吸血鬼」
そう、ナイは人間でありながらも敵である吸血鬼に幼い頃から憧れていて好きになるなら吸血鬼と決めていた。
生活は安定していて特に貧乏ではない。
庶民ではあるものの、お金もたくさんあって家事もできて性格もいいと周りから良く思われている。
今働いているお菓子屋も大人気で毎日お客が来てたくさん買ってやりがいを感じる。
ナイの場合、最初からここで働いていたわけではない。
一度目はレストラン、二度目はパン屋、そして三度目がこのお菓子屋。
このお店は世界で一番注目されている大人気店。
開店と同時にお客が何十人も入って一人十個以上は軽く買って約五分で完売する。
ショートケーキにチョコレート、季節巡りのフルーツタルト、焼き菓子。
お客が求める全ての物がここに集まっている。
他のお店にはない、ここだけの味が世界一になれる。
ナイは三度目で見つけたこのお店で働くことを毎日誇りに感じている。
今日も完売。
「ふっ」
食の勉強をして正解だわ。
やっぱり私は完璧。
今の職場の人間関係はとてもいい。
みんないい人ばかりだし、意地悪されることもない。
本当に、今までの職場は最悪だったわ。
一度目は私がお客に対する態度が悪いと嘘を言ってそれを周りは笑って、二度目は毎日残業をさせられて帰る時間が遅くなって文句を言ったら怒られて給料を減らされて・・・。
だから、三度目のところもきっと同じことをされると怖く思っていたけど、みんないい人で優しくて温かい。
「無理しないでね」
「ゆっくりでいいよ」
「お疲れ様」
一つ一つの言葉と丁寧な行動にいつも励まされる。
ここを選んで正解だわ。
職選びはとても大切。
何年働くのか、覚えられるのか。
自分に一番合う職は簡単には見つからない。
どれも大変で何度も失敗して辞めることだってある。
職場の雰囲気や周りの態度、それに合わせることも大切だけど、自分の気持ちを素直に言える自分を作ることでいい働き方が身につく。
ナイも最初は戸惑っていた。
想像以上に周りが優しすぎて緊張して失敗しても
「大丈夫」
と、優しく声をかけられて次は失敗しないようにと頑張れる。
そう続けて今年で五年が経った。
「お疲れ様でした」
笑顔で挨拶をして出て行くナイ。
「お疲れ様」
「今日もありがとう」
「明日もお願いね」
優しい人たちに励まされるこの時間を大切にしてナイは買い物を済ませて貴族のような豪華で色様々な花が咲いている金ではなく銀が屋敷の柱に飾られている広くて綺麗な家に堂々と入る。
「ただいま」
「あっ、おかえりなさい」
ナイの帰りをずっと玄関で待っていた少年がナイに抱きつく。
「姉様、僕ね、今日賞を取ったんだよ」
満面の笑みで自慢して褒めてくれるのを待つ少年に、ナイも明るく微笑んで頭を撫でてあげる。
「へえ、すごいわ。どんな賞を取ったの?」
「ふふっ、当然テストの結果が学校一になった賞」
「えっ、すごい。さすがね、ムイ。私にはできない才能だわ」
ナイは真っ赤な肩まで短く切った細い髪に黄緑色の優しい瞳。
弟のムイは黄緑色の背中まで綺麗に長い髪に黄緑色の瞳。
二人はとても仲が良く、ケンカも全くしない。
まさに理想の関係。
特に二人は頭が良くて成績も一位でいくつも賞を取ってきた。
「姉様、早く着替えて一緒に本を読もう」
「ええ、分かったわ。ちょっと待ってて」
そっと抱きつかれたムイの手を離してナイは部屋に入ってお気に入りのピンクの花がたくさん描かれた赤色のワンピースに着替える。
「んー、この服、ちょっと小さくなってきたわはっ、もしかして、太ったかしら? 嫌だわ、太るなんて。ちゃんと食事には気をつけているんだけど、いや、そろそろ体を動かすことも考えないとムイに恥ずかしい思いをさせてしまうわ。ふっ、頑張らないと」
鏡の自分にそう決意し笑顔を見せて部屋を出て書室に行くと、もうムイが何かを読み始めている。
「ムイ、何を読んでいるの?」
美しい笑顔で隣に座ってきたナイに、ムイは嬉しくて顔が真っ赤に染まる。
「あ、えっと、吸血鬼について調べているんだ」
「吸血鬼・・・百年前に全員人間に殺された」
「そうだよ。人間は吸血鬼を恐れて怯えた生活を送っていた。でも、僕は何か違った気がするんだ」
「違う? どういうこと?」
「人間は吸血鬼を恐れていたんじゃなくて、嫌っていて、吸血鬼の存在を否定していたんだと僕は思うんだ」
「そう、ね。その可能性も十分あるわね」
「うん、人間は弱い生き物。強い生き物を嫌ったり恐れるのは仕方ないとみんな思ってしまう。これって、色々な意味で悪いとも思うんだ」
まだ十八歳なのに、大人のように賢い考えを持つムイ。
だが。
「私は吸血鬼、興味があるわ」
「えっ」
「吸血鬼は人間の血を吸わないと死んでしまう生き物。吸血鬼には人間の血が必要だから、つい人間を襲ってしまうのは仕方ないことだと思うわ。私、人間よりも吸血鬼の方が好きになれそうだわ」
驚きの言葉を口にしたナイ。
その言葉を聞いたムイは大粒の涙を流す。
「嫌! 姉様には僕がいるんだから、そんな怖いこと言わないで。もし姉様が吸血鬼に襲われたら、僕は、僕は、うわあああああっ!」
ムイは少し変わっていた。
見た目も年齢も十八歳の少年ではあるが、心は九歳くらいで幼い。
甘えん坊ですぐに嫌なことは泣いてしまう。
その度にナイは少し困る。
ああっ、私の言い方が良くなかったのね。
ムイには私しかいないから、私を一番大切にしてくれるから、私を守りたいという気持ちが強すぎるのよね。
でも、私は吸血鬼を好きになりたいと心の底から思っているわ。
人間ではない生き物、血を求める生き物。
普通じゃないことを平気でする強くて美しい。
私はそこに惹かれたの。
ムイが嫌がることはしたくはないけど、私にもちゃんとやりたいこともあるの。
「ムイ、私は」
「吸血鬼なんてみんな消えれば姉様は人間を好きになってくれるんだ」
「え?」
「吸血鬼はもういない。百年前に殺されたんだから、今の時代にいるはずがないことを姉様も分かってるよね?」
ゆっくり顔を上げて涙が瞳の中で溜まったムイの姿に、ナイはこれ以上あまり深く言わないために笑顔を見せる。
「そうね。百年前に起きたことはもう今は起こるはずがない。ごめんなさい、私のせいでムイを泣かせてしまって・・・」
「大丈夫。もう僕は十八歳なんだよ、泣くのは一瞬って決めてるから」
「うふふっ、そう。ならいいわ」
ムイが泣かないでくれるなら、私は姉として、この子のために、我慢するのよ。
自分の本当の気持ちを隠して、ナイは立ち上がってまた笑顔でムイの頭を撫でた。
「そろそろ夕食の時間ね。何が食べたいかしら?」
「姉様が作ってくれる物なら何でもいい」
「ええ、それはずるいわ。ちゃんと食べたい物を言ってもらわないと困るわ」
「えへへっ、ずるくていいんだ」
「えっ」
「ずるい方が、姉様が僕を一番に見てくれるから」
少しからかうように満面の笑みでそう言ったムイに、ナイは頬を膨らませてめちゃくちゃ悔しがる。
「もう、ムイは可愛いんだから」
ムイは心が幼くても、見た目はしっかりした体型でイケメンで、たまにドキッとしてしまうナイ。
年の離れた姉弟が両親がいないこんなに広い家で二人暮らしをしている。
お金は全てナイが仕事で稼いでいる。
ムイには勉強を優先して欲しいと思っているため、ナイはムイのために毎日頑張って楽しく働いている。
今の職場はきっとこの先も働くことを信じて前を向いて進んでいる。
「じゃあ、できたら呼ぶからここで待ってて」
「うん、分かった」
お互い笑顔で頷いて、ナイが書室から出た後、ムイは不気味な笑みを浮かべる。
「えへへへっ、もし吸血鬼が今の時代にも存在していたら・・・僕が全員殺して姉様は吸血鬼に絶望して、僕を好きになってくれる。ふっ、中々いい案だ。でも、こんなこと言ったら姉様は絶対に僕を嫌う。嫌われて、僕は僕は、あああああああっ」
自分で言ったことを自分で悔しがって涙を流してしまう悲しいムイ。
彼の言葉どおりに全てが動いてしまったらナイはどうするのか、好きになってくれるのか。
血の繋がりがある以上、姉弟である以上、お互い好きになってもその恋は報われることはないだろう。
結婚して家族が増える幸せなど、二人には叶えられない。
重い現実の中で生きていくためにはそれなりの覚悟がきっと必要になる。
覚悟なんて誰にでもできることだが、それがいつまで続くのかは全く別だ。
ムイの案が本当に現実でも起きてしまうなら、吸血鬼は黙って過ごすことはないだろう。
ちゃんと見て、触れて、血を吸って、百年前と同じようにたくさんの人間を襲うことだって考えられる。
それをムイは期待し、ナイにいいところを見せるために全ての吸血鬼を殺す・・・。
「姉様は僕のだ。絶対に誰にも渡さない、渡してたまるものか!」
涙を両手で拭い、深呼吸をして、笑顔で書室を出て行ったムイ。
一方、ナイは。
「んー、何がいいかしら? 昨日はオムライス、一昨日はハヤシライス。どれもライスがつく食べ物だわ。さすがに三日続けて同じような物を作るのは姉としてできないわ。んー、たまには私の好きな物でも作ってみようかしら」
ムイのことばかり考えすぎて自分の好きな物を遠慮して中々作らずにいたナイ。
今は十二月で寒い季節だから、シチューにしてもいいわね。
でも、クリームかトマトか黒か。
悩むわね。
私が好きなのはクリーム。
クリームにするわ。
それに加えて昨日余ったパンも用意してあとはサラダね。
野菜はたくさんあるし、色々と作りましょう。
久しぶりの好きな物を作っていくナイ。
その笑顔はとても夏のような暑く眩しいほどに輝いてシチューと同じくらいに燃えている。
「うふふふっ、楽しみだわ」
出来上がりを待って空気を入れ替えようとしたら突然何かが窓を突き破って中に入ってきた!
「ふう、何ここ? いい匂いがしていたから来てみたけど、意外と何もなくてつまらないな」
勝手に他人の家の窓を突き破って文句を言ったのはフルーツで言えばパイナップルのような薄くも濃くもある微妙な足まで長い金髪に、血みたいな真っ赤な瞳を持つ見た目はムイと同い年くらいの少年。
その姿を見たナイはとっさに力強く頬を叩いてしまった。
「あ、あなた、誰よ? 勝手に入って来るなんて、何が望よ?」
突然のことでどうすればいいか考えるのを心の底から恐怖を感じて声も身体も震えているナイに少年は。
「痛いな。そっちこそ、いきなり他人を殴るのはどうかと思うけど?」
ナイに叩かれた少年の頬からは少し血が出てきてはいるが、そんなに大怪我にはなっていない。
いや、こうなってしまうのは仕方のないこと。
だって、この少年は。
「あ、ああ、なた、人間じゃないでしょ?」
瞳を激しく震わせてゆっくり後ろに下がって距離を置いていくナイに、少年は怪しげに微笑み頷いた。
「そうだよ。僕は人間じゃない、お前たち人間が恐れる吸血鬼。何か文句でもある?」
そう、少年はしっかり心を持った吸血鬼。
それも気品が高い。
服はあまり綺麗ではないけれど、ムイと同じ、それ以上にイケメンでカッコよくて、ナイはつい心惹かれて自然と震えが止まった。
「あっ」
この子、本当に吸血鬼なの?
私には見る限り十代だと思うけど、歳は聞いてみないと分からな、違うわ。
今はそんなことよりも、私はずっと待っていたのよ。
ようやく私の希望が叶う瞬間を。
「ねえ、あなた、名前は何て言うのかしら?」
「は?」
「名前よ。あなたにもあるはずよ」
「それ、お前には関係な」
「あるわよ。勝手に入ってきて名前を言わないなんてそんな態度を悪くしたあなたが一番悪いのよ。ほら、早く言いなさい」
少年が気になって気になってどんどん前に出て目の前に立ってちょっと偉そうに腕を組むナイ。
その姿に少年はどんどん機嫌が悪くなって。
そばに置いてあった木の棒を手に持ってそれをナイの顔に向ける。
「僕に近づいたらお前を殺す。その覚悟があるなら言ってもい」
「もちろんあるわ! あって当然よ!」
なぜか瞳をキラキラと輝かせてとても嬉しそうに笑うナイに、少年は驚いて口が開いてばかり。
「は?」
こいつ、何を喜んでいる?
突然吸血鬼が現れて全く逃げようとしないナイ。
むしろ、この状況を楽しんでいると思われてもいい。
なぜなら。
「私、吸血鬼の恋人になるのが希望だったの。嬉しいわ、うふふっ」
年齢なんて関係ないわ。
吸血鬼が自ら私の元に来たのは私の希望が叶ったということと同じよ。
はあっ、十年待って正解だわ。
「うふっ」
一人楽しそうに喜んで笑顔が溢れて興奮も高まって。
もう、何を言っても無理な気がした少年。
「じゃあ、僕帰るから」
諦めて帰ろうとまた窓から出ようとする少年の手をナイが握って全く離そうとしない。
「待ちなさい。まだ話は終わっていないわ」
せっかく出会えたのに逃げられるなんて絶対嫌よ!
十年も吸血鬼との出会いに希望を持っていたナイ。
これは夢ではない。
現実にも近い。
微妙な感覚で一つでも間違えたらその瞬間で終わり。
だから、ナイは本気で少年を逃すわけにいかない。
「あなた吸血鬼なんでしょ? 血が欲しいんでしょ?」
少しは私を見て。
真剣な眼差しを見せているナイに、少年は睨んであっさり手を離した。
「おばさんの血なんてまずいからいらない。じゃ」
「今、おばさんって言ったの?」
「そうだよ。見た目は若く見えても、匂いはおばさん。僕はおばさんの血を吸うなんて絶対に嫌だか」
「私はまだ三十歳よ! おばさんじゃないわ!」
一番言われたくなかった
「おばさん」
という言葉を聞いてしまったナイは腹が立って髪を雑にかき乱して少年の手をもう一度握って床に座らせた。
「あなた、子供だからって何でも言っていいわけじゃないのよ。大人におばさんやおじさんって言うのはその人を傷つけることを少しは考えなさい」
自分の思っていることを全てではないが、ある程度は分からせて怒る必要がある。
家族じゃなくても、他人でも同じ。
ダメなことはダメだとはっきり言って覚えさせる。
歳の離れた弟ムイと一緒にいるように、少年にも家族がいて、大切な誰かと幸せなはず。
だが。
「な、何で、そんなこと他人のお前に言われなきゃいけないんだよ!」
突然大粒の涙を流して叫んだ少年。
まるでムイのような態度を取ることに驚いたナイは一瞬言葉を失ったが、気を取り直してしゃがんで頭を撫でてあげる。
「私はあなたのために言っただけよ。責めるつもりで言ったわけじゃないわ」
ムイみたいな子ね。
やっぱりこの子、十代の若い男の子なんだわ。
体型は少し細くて身長もそんなに高くはない。
言葉遣いも微妙にズレていて学校に行っているとは思えないほど幼くてつい手を伸ばしてしまうほどに、愛おしいと感じてしまうナイ。
しかし。
「偉そうに言うな! 僕は泣いているんだよ、おばさんなら何か食べ物でも持ってきてよ。僕はお腹が空きすぎて気持ち悪いんだよ!」
そう言って、周りに置いてある皿やガラスをナイに向けて投げる少年だが、ナイはスッと簡単に避けて立ち上がって汚れたワンピースの裾を撫でる。
「物を投げるのはやめなさい。危な」
「うるさいな。お前に言われると腹立つんだよ」
「くっ、この子はもう」
十代とは言え大人の言うことくらい聞きなさいよ。
家族はこの子の態度に何も注意もしていないのかしら?
いや、もしかしたら親の育て方が悪かったって考える方が正しいとも思えてしまうわ。
一体、どうなって・・・。
少年の態度はおそらくただの反抗期だろう。
誰の言うことも聞かず自分の言うことが全て正しいと考えてしまう最悪な時期。
家族が反抗期の子供を注意しないところも少なくはない、諦めている。
何を言っても逆に怒って出て行って帰ってこなくなる。
だが、ムイには一度も反抗などなかった。
いや、大好きなナイの言うことだけを聞いているのかもしれない。
テストで一位を取ったら必ずナイが褒めてくれる。
両親がいなくてもナイがいれば他は何もないと思っている。
それも結構問題ではあるが・・・。
「もういいから、早く帰らせてよ」
「ダメよ。あなたが言ったんじゃない、食べ物を持ってきなさいって」
「あっ」
そうだ、忘れてた。
自分が言ったことを全く覚えていなかった少年。
なぜか恥ずかしがって顔を真っ赤に染めて壁に移動してしゃがみ込む。
「ふう、ちっ」
こいつといると調子狂う。
何で? ていうか、吸血鬼を好きになりたいって思ってることがおかしい。
僕たちは人間に興味なんてない。
あるのは血だ、そうだよ。
こいつの血の匂いは甘くておいしそうで、何より、僕が求めていた物。
こいつを逃したら僕は死ぬ。
それは嫌だよ!
僕はまだ生きないと兄さんたちと同じ場所には立てない。
だから。
「お前の血、吸いたい」
自分の欲と目的を叶えるために、少年は勇気を出してまだ真っ赤な顔を隠さずに堂々と言った。
それを聞いたナイはとても嬉しそうに笑う。
「ええ、いいわよ!」
これよ、これ。
やっと吸血鬼らしくなったんじゃないかしら。
ちょっと怖いけど、私を求めてくれるなら何も怖がる必要なんてないわ。
さっ、椅子に座って首を出すために髪を後ろに退かして、それから。
ドキドキワクワクしながら満面の笑みで待つナイに、少年は無視して遠慮なくガブっと血を吸っていく。
「んっ」
この味、やっばり僕が求めていた物だよ。
「ああっ」
痛いけど、全てから解放された気分で気持ちいいわ。
お互いがお互いの気持ちいい物を手に入れた希望が叶った瞬間に思えた。
血を吸い満足した少年は口元についたナイの血を手で拭ってなぜかナイの頭を撫でた。
「お前、僕と契約を結んで欲しい」
その言葉を聞いて、ナイは一瞬何を言われているのか分からず首を傾げた。
「えっ、契約ってどういう意味かしら?」
何も分からず変な顔をしているように見えた少年は少しだけ柔らかく美しく微笑む。
「だから、僕と契約して結婚するんだよ」
突然
「結婚」
という重い言葉を口にした少年に、ナイは顔が真っ赤になるほどに驚いた。
「え、え、ええええええっ」
結婚って、こんなに早くする物なの?
私とこの子、まだ出会って一時間も経っていないのに、こんな展開人生で初めてでどうしたらいいか分からないわ。
確かに私は吸血鬼の恋人になるのが希望だったけど、結婚までは考えたことなんて一度もなかったわ。
一体、どうすればいいのよ・・・。
三十歳人間のナイと十代に見える吸血鬼の少年、歳の離れた二人が急に結婚することになってしまった。
まだお互い好きになれていないのに結婚するのはまだまだ先に思えてしまうが、少年はやっと見つけた自分に似合う血を持つナイを離すことを心の底から怖がるだろう。
自分に似合う血という物は一生に一度しか手に入らない一番特別な物。
それを逃してしまった吸血鬼は必ず殺されて後悔の道を歩み続ける。
だから、吸血鬼はその人間とずっと一緒にいるために契約し結婚する必要がある。
吸血鬼にとって結婚はとても簡単な物。
ただ家族になって自分の好きなように血を吸って満足する。
こんな夢のような生活を手に入れることも欲している吸血鬼が多い。
人間で言えば、仕事をしなくてもお金をもらって自由に暮らす。
そんな感じで吸血鬼はどんな時でも自由に好きなように血を吸う生活を望んでいる。
悪いことに思えてしまうが、これも現実。
人間と吸血鬼で言えば、当然吸血鬼の方が強い。
何も力のない人間は別の生き物の強い力を持つ吸血鬼に勝つことなんて絶対に不可能。
歯も爪も硬く、一瞬で人間を襲って傷つける恐怖な存在。
しかし。
「分かったわ。契約を結びましょう」
もう二度とないチャンスを使うことを決めたナイ。
それを少年は怪しげに笑って頷いた。
「そうだよ。お前は僕だけの物だよ。絶対に誰にも渡さないから」
「でも、今すぐ結婚ってわけじゃないんでしょ? ちゃんと恋人から始めるのよね?」
「違う。もう今から結婚する」
「えっ! それは、ちょっと困るわ」
「何で?」
「だって、私にはあなたと同い年くらいの弟がいるから。一人にさせたくないの」
「そんなの放っておけばい。これは僕たちの問題なんだよ。他の奴なんてどうでもい」
「良くないわ! ムイは私の宝物よ、離れるなんて嫌よ!」
何年もずっと一緒にいた大切な弟のムイから離れることを心の底から嫌がって、不安で瞳が揺らぐナイ。
その姿に、少年は怪しく笑って首を横に振った。
「分からないな。何でそこまで他の奴を、家族を優先する? お前には僕がいるんだよ、早く捨てて楽になれば」
「あなたにだって家族はいるでしょ! 私の家族はムイだけ、あなたにも家族がいるはずよ。私と同じ立場になったことを想像しなさい。そしたら、あなたも私と同じで嫌がるわ」
誰だって家族を、大切な物から離れるなんて嫌よ。
両親はムイが五歳の頃に突然消えてどこに行ったのか分からない。
代わりに私がムイの親のようにしっかり育てて学校にも行かせて幸せになって欲しいと思っている。
寂しい思いも不安な思いも、全て私が守ってきた。
その日々を簡単に失うのは嫌よ。
結婚はしたいけど、その代わりにムイから離れるなんておかしいわ。
普通なら、結婚した夫婦の家族はみんな仲良しになって会う機会も増えていく物だと思っていたのは私だけかしら?
私って、結構「普通」という物に縛られていたのかもしれないわね。
恋愛経験が一度もなかったナイは自分の小さな希望が現実では当然叶えられないと気づいた時、悲しくて足に力が抜けて横に倒れてしまった。
「あっ、私・・・」
ナイが突然倒れたことで少年は必死に焦ったように冷や汗をかいて抱きしめる。
「分からないな、本当に。名前、セス・メリマ。特別にお前だけに教えたから、次からそう呼んで。だから、その・・・死なないで。お前が死んだら僕も死ぬ。僕たちは二人じゃないと死んじゃうんだよ。僕は全然素直になれないし、恥ずかしいし。でも!」
「分かったわ、セス。もういいの」
「え、何が?」
「ムイを捨ててあなたと結婚するわ」
大粒の涙を流しながらとても悔しそうにほんのちょっとだけ笑ったナイの声に気づいた瞬間、ムイがバッと勢いよく扉を開けて走ってめちゃくちゃ雑にセスを壁に押してナイを抱きしめた。
「姉様、大丈夫だよ。今、僕が、吸血鬼を殺してあげるからね」
そう言って、ムイはテーブルにあったナイフを手に取って身体中が震えるようなとても不気味な笑みでセスの目の前に立つ。
「まさか今の時代に吸血鬼がまだ生きていたなんて、えへっ、君、姉様の血を吸ったんだ?」
ムイの人間らしい弱い笑みに、セスはとても面白そうに大声で笑った。
「あっははははははは! そうだよ、だから?」
こいつ、めちゃくちゃ弱すぎて笑えるよ。
すごくバカにしたように笑われてしまったムイは憎しみ恨み悲しみの重い感情が混ざり合って両手を上げて後ろを振り向いて明るく笑って
「ありがとう、姉様」
と言って、ムイはなぜか自分の頭を力強く縦に首をバラバラまで切って大量の血を流して倒れた。
それを見たナイは。
「えっ、ムイ? どうなっているの?」
ムイが自分の頭を切るなんて、そんな悲しいこと、あっていいはずがないでしょ!
突然のことでショックで頭が混乱して口がカクカクと震えてゆっくり歩いてムイのそばに立ったナイ。
しかし。
「あっはは、よくできたよ」
怪しげに真っ赤な瞳が眩しいほどに輝かせて自分の計画が全て上手くいったかのように喜ぶセス。
その姿を見てしまったナイはセスの服の襟を限界まで力を込めて掴んだ。
「ムイに何をしたのよ! セス、あなた、人間を何だと思っているのよ!」
無意味な言葉を口にするナイに、セスはまだまだ物足りないのか、笑って笑って。
「はあっ、こんなに簡単に終わるなんて、ちょっとつまらなかったな」
低く感情のない声で自分の出来をとても悪そうに語ったセスを、ナイはもう放っておいてムイを抱きしめる。
「ムイ、ムイ。ごめんなさい、私が吸血鬼を好きになりたいって言ったからあなたは私のためにセスを殺そうとしたのよね。全て私が悪いわ、本当にごめんなさい」
もう頭もない顔もない声も出せないムイ。
大好きな姉のために一緒にいつまでも暮らすために守ってくれた大切な宝物。
それを目の前で奪われた悲しみは自分が思っている上にひどく汚れて元に戻るなど一生無理になってしまった。
ナイは自分の半分を失ってこれから何をすればいいのか分からず、ただ倒れたムイを見るしかなかった。
けれど。
「セス、あなたたち吸血鬼は私たち人間の大切な物を簡単に奪うのね?」
両手で顔を隠して表情を見せずに落ち着いた声でそう聞いたナイ。
当然セスの答えは。
「そうだよ。僕たち吸血鬼はお前たち人間の大切? な物なんてどうでもいい。自分に似合う血を持つ人間以外なんてゴミと一緒だからな」
人間を
「ゴミ」
と言ったセス。
その言葉を聞いたナイは抱きしめているムイをそっと優しく離して、できるだけ明るく笑って頷いた。
「そうね。あなたがそう言うなら、私はそれに従うだけよ。ほら、早く契約を結びましょう」
「いいの? ゴミを拾わなくて?」
「いいのよ。もういらないから」
「じゃあ、行こうか」
「ええ、私たち二人の幸せのためにね」
そう言って、ナイはたった一人だった大切な宝物を捨てて吸血鬼のセスと共に恋人らしく手を繋いでお城に向かって行った。
「ね、姉様、許さない。僕を捨てたこと、絶対に許さないよ」