吸血鬼に恋をした三人

「夢があるって、羨ましい」
私には夢なんてない、何が夢なのかも分からない。
私みたいな一人ぼっち、夢がなくて当たり前なのかもしれない。
夢よりも生活をするために私にとってはお金が一番大切で一番欲しい物。
誰も私の気持ちなんて分からないよ。
分かってくれたらもっと楽にできた。
もっと自由に生きられた。
十五歳の少女アム。
彼女は七歳の頃突然家族が消えた。
失ったのではなく、消えた。
朝起きたら家には誰もいなくて両親も妹二人もみんな消えていた。
理由は今でも分かっていない。
何が起きたのかも分からない。
それから八年アムはたった一人で生活をしている。
家と家具は残っているのでそのまま使って、あとはお金があればいい。
アムはお金をもらうために街の小さなパン屋で朝から夜中まで週六日働いている。
給料はあまり高いとは言えない。
一人暮らしの必要なほど足りてはいない。
特に食費は節約している。
食べるのが好きなアムにとっては一番苦しくて一番耐えている。
お腹が空いたら水を飲んでパンの耳を一つ食べる。
それの繰り返し。
誰にも頼れない、頼れる人が分からない。
学校にも行けずに知識もほとんど分からない。
何が正しくて、何が間違っているのかも知らない。
空っぽな人間だった。
「ふー、今日も頑張ろう」
毎日朝日が昇る前に起きて支度をして
「行ってきます」
と、誰もいない家の中にそっと小さく呟いて外に出る。
今は十二月の中旬。
雪のような真っ白な足まで伸びたボサボサの髪に氷のような冷たい青色の瞳。
ボロボロで穴がたくさん空いているが、いつも大切に使っている紫色のクールな長袖のコートを着てもとても寒い季節。
山のように雪が地面に積もって歩くのが少し怖いほど、滑ってしまう。
それでも、アムはこの感覚を楽しんでいる。
「ふふっ」
寒い方がいい。
この季節でしか見れない真っ白な世界。
春も夏も秋も、みーんなとは比べ物にならないほどに綺麗で落ち着く。
きっと私、この世界を見るために外に出ているんだろうなー。
両手を上げて一つの雪が手のひらに乗ってアムは笑った。
「ふふふっ」
今日も仕事頑張ろう。
きつくても嫌になっても無理でも、お金をもらうためには働くしかない。
働いて、それで・・・いつか、結婚したい、なー。
私には無理だけど。
家があっても貧乏なのは事実。
働いても働いても、お金はすぐになくなる。
一人でも生活をしていけばお金はすぐに消えていく。
アムはまだ十五歳だが、自由にお金を自分のために使ったことは一度もない。
したらダメだと思い込んでしまっている。
それも事実だ。
「あっ、もう着いた」
街の中心にある小さなパン屋。
仕事は何も問題はないが、人間関係が少し問題になっている。
なぜ?
「おはようございます」
お店の裏口から中に入り、いつもどおりしっかり挨拶をしていくアム。
すると。
「ちょっと遅いんじゃないの?」
庶民なのに貴族のような髪をクルクルと変な巻き方をしている四十歳おばさんの店主がいつもどおり腕を組んでアムに注意をする。
「あなた、まだ子供だからって甘えないで」
「いえ、ちゃんと時間通りに来ましたよ」
壁時計を指差したアムの視線を辿ると午前五時だった。
出勤時間は何も間違っていない、遅れてもいない。
この店主は勘違いを毎日繰り返して何も悪くないアムを責めている。
対して、アムはできるだけ暗い表情を浮かべないように苦笑いを浮かべて誤魔化す。
「ふ、ふふっ。私はもう五年以上ここで働いているんですよ。遅刻も一回もしていませんし、ミスもしたことは一度もありません。それはあなたも分かっているはずですよ」
サラッとケンカを売るようなギリギリのラインに踏み込んだアム。
それを店主は悔しがって拳を握りしめて目を逸らした。
「ふん、そうだったわね。でも、今日は残業をしてもらうわ」
「えっ、いや、昨日も一昨日も私だけ残業をしましたよ。そろそろ定時に帰りたいんですけど・・・」
「ダメよ。人手が足りていないんだから、毎日あなたにしてもらっているのよ。少しは有り難く思ったらどうなの? どうせ帰っても暇なんだから」
その言葉を毎日聞かされているアムは毎回同じことを思う.。
ああ、また私だけ苦しい時間を過ごすんだ。
他の人たちに任せればいいのに、みんな大人なのに、子供の私だけに全て押し付けて楽をする。
なんて、ひどいことなんだろう。
確かに私は家に帰っても何もすることはない。
趣味も特技もないから、家に帰ってもただ寝るだけ。
だけど、私だって!
「もう嫌です。少しでもいいから楽にさせてください」
「は? 今なんて言ったの?」
「だから、私にも楽な働き方をさせてください。私は毎日毎日一日中働いているんです。それなのに給料は私が一番低い。これって、すごくひどいことですよね?」
苦笑いから怪しげに夜に輝く星みたいな笑みを見せつけるアムに、店主は。
「はっ、そんなに言うならやめてもいいわよ。あなた一人が居なくたって、他の子たちはみんな優秀で仕事も早いから、嫌ならさっさとやめなさい。でも、現実はこういうものなのよ。あなたはまだ子供だからそんな甘い言葉を言えるのよ。少しは大人の言うことを信じなさい。心を開きなさい」
大人らしい全く正しい言葉をめちゃくちゃ「嫌」がつくほどにドヤ顔をする店主に、アムはなるべく恨んだり憎まないようにちょっと目を逸らして仕方なく
「・・・すみませんでした」
と、自分のために綺麗に頭を下げて謝った。
ここでやめてしまったら私は終わる。
仕事もしないでお金をもらうなんてそんなことできない。
したくない。
全て自分のためを思ってアムはいつもどおり開店に合わせてパンを作り始め、お店が開いてお客がパンを買って、閉店した。
「ふー、今日も良かった」
小さなパン屋でも昔から長く続く物ならみーんな喜んで買っていく。
それが人間、なんだろうなー。
けど。
「アム、じゃあ私たちは帰るからあとは任せたわよ」
閉店と同時にさっさと帰り支度をして店主や他の人たちはアムを一人残して満面の笑みでそれぞれ家に帰って行った。
その姿を毎日毎日飽きるほどに見てきたアムは毎回毎回こう思った。
「ムカつく」
私はまだ子供だし家族がいないから家に待っている人なんて一人もいないから家族がいる人の気持ちなんて全く分からない。
分かっていたらきっと何か違う感情があったはず・・・。
店主や他の人たちには恋人や家族がいるため、全てをアムに押し付けてしまっている。
そして、それを悪いことだと思っている人は少ない。
大切な人と過ごす時間が減るのは嫌だから。
早く帰ってリラックスしたいから。
これ以上仕事をしたくないから。
色々な気持ちが存在していることでまだ十五歳のアムを気遣うことすらもしない大人もこの世界には存在してしまっているのも事実。
現実は厳しく辛い。
それでも。
「私は私で頑張るしかない。何も大切な物がなくても、仕事ができれば誰も文句は言わない、言わせない。明日の私のために早く仕事を終わらせよう」
全て自分のため。
未来のために少しでもお金を貯めて楽にしたいアム。
その考えは当然正しいと言えるだろう。
それこそが理想に近い。
理想を叶えられるのは全て自分次第。
人の力を借りて叶えるのは正直カッコ悪いだろう。
夢も願いも希望も何だって、自分の力で叶えられる人こそが、この世界で一番カッコいいと言える。
アムもそうなりたいと毎日毎日残業しながら少しずつ頑張っている途中。
自分のペースで無理なく少しでも早い道を探して頑張る。
毎日毎日同じパンを何個も作って笑顔で買って食べてくれる人を想像して作ることも大切だが、もっと自分のために、今の仕事が楽しくて明日が待ちきれないという気持ちを持つことも一番の理想と言えるのもまた事実。
「よし、終わったー」
本当なら午後十八時の定時に帰ればこれもまた理想ではあるが、現実は深夜一時。
子供が一人外に出ていい時間ではないけれど、アムの場合はもうとっくに許されているだろう。
店主だけが。
残業が終わってとても嬉しそうに満面の笑みになるアムはさっさと着替えて鍵を閉めてお店を出て行った。
「ふ、ふふふっ」
毎日残業でムカつくけど、終わったらもう別に文句はない。
何でも終わればいい。
終わったら家に帰れる。
帰って寝て明日になる・・・か。
明日の自分は大丈夫なのかと、アムはちょっと不安そうに自然と表情が曇ってしゃがみ込んだ。
「うー」
私、いつまでこの生活続けるの?
死ぬまで?
え、でも、それって、一番悲しい終わり方。
私、何も夢も持たずにただ働いて働いてそのうち力尽きて誰にも愛されないまま死ぬ?
何か、めちゃくちゃ嫌になってきた。
まだ十五歳なのに、死を想像してしまっているアムだったが、その一瞬で全てが変わる。
なぜなら。
「やっと見つけた」
真っ黒なローブを身に纏って全く顔を見せない謎の青年。
しかし、アムは何かに気づいてしまった。
「あっ」
瞳が赤い、それも血みたいに。
まさか、吸血鬼?
全くあり得ない事実に気づいたアムはスッと立ち上がってすぐに全力で限界まで走って走って逃げる。
「は、はあっ、は」
吸血鬼なんてもう百年前に全員死んだはずなのに、どうして今ここにいるの?
まさか、まだ何人も生き残っていたとか?
それはあり得る。
一人でも三人でも生き残っていたらまた数が増えて人間を襲う。
そんなの嫌!
だって、私は。
「なぜ逃げる?」
「えっ」
「俺から逃げるとは中々勇気があるようだな」
何も音一つ立てずにスッと呼吸が荒いアムの目の前に現れた青年の顔は何か悔しそうに寂しそうに瞳が激しく揺れている。
その顔を見たアムはいつ襲われてしまうのかが怖くて後ろに一歩ずつ下がって距離を置く。
「こ、来ないで。私は、まだ、生きたい。お願い、殺さないで」
大粒の涙を流しながらそう願うアムに、青年は。
「俺は誰も殺すことはない。ただ俺は、君の血が欲しいだけだ」
そう言って、青年がゆっくり前に歩いて顔を近づけて首を噛もうとした一瞬を狙って、アムはまた逃げて行く。
「やっぱり吸血鬼は血が欲しいだけ。血があれば全てが満たされる怖い生き物。もう会いたくない、私に近づか」
「ダメだ」
「あっ」
また、追いつかれた。
十五歳の少女アムの体力では当然青年の体力に圧倒的に確実に負ける。
今青年に追いつかれたのもアムの体力不足という理由にもなる。
「は、はあ、はー」
どうしよう。
また逃げてしまったらまた追いつかれてしまう・・・というか、どうして私?
人間の血が欲しいなら他の人間にすればいいのに、どうして?
全く理由が分からない不思議で心が雲のようにモヤモヤするアム。
普段の感情がほとんど抜けている無表情がまともにできずにただ怖がって怯えてしゃがみ込んで顔を隠す。
「もう、嫌」
こういう時、家族に助けを求めるべきだけど、私にはそれが使えない。
使っても無意味。
だって、そうでしょ。
家族がいない私が誰に助けを求めればいいの?
他人、大人、それから。
「うー、分からない」
小さく独り言を呟いて一人悩んで髪をクシャクシャにかいて困るアムを、青年は優しく頭を撫でた。
「君、一人なんだろう? 子供がこんな夜に歩いていたら危ないぞ」
さっきとは全く別人のように大人らしく心配するような言葉に、アムはめちゃくちゃ腹が立ってすぐに立ち上がって青年のローブを力強く掴む。
「分かったように言わないで! 私は子供だけど、毎日残業しながら必死に働いているの。吸血鬼のあなたに構っている暇はない。早くどこかに行って!」
息が苦しく呼吸が荒くなっても構わず本音を全て吐いて睨んで唇を噛んでまた涙を流すアム。
「ふ、うー、は」
私のことなんて誰にも分かってもらえない。
分かってくれなくていい。
これが私の現実なんだから!
アムの本音は本当に辛いことばかり。
十五歳でたった一人で働いてお金をもらって生活をする。
普通なら考えられないことをアムは普通にしている。
するしかない。
それをすることでまだ少しは頑張って生きている。
何でも頑張ってダメなことなら見ないふりをする。
大人になるために、自分の未来のために。
少しでも夢を持てる幸せを手に入れるためには何でもする。
しかし。
「ふっ、そんなどうでもいいことをしているんだな」
青年はなぜか面白そうにニヤッと怪しく笑っている。
「子供の君が必死に働こうが俺には関係ない話だ。さっ、血をもらおうか」
そう言って、青年はもう一度顔を近づけて、今度は逃げられないようにそっとアムを抱きしめて首を噛んだ。
「あああっ!」
い、痛い。
痛いけど、気持ちいい。
どうして?
生まれて初めての感覚に心地良さをを覚えたアム。
すると。
「ごちそうさま。やはり俺の目は正しかった」
優しく落ち着いた大人の笑顔。
血みたいに真っ赤な瞳が私だけを見ている。
きっと私、この吸血鬼と出会うために今まで必死に頑張ったんだ。
そう考えたら、何か、すごく嬉しくなってきた。
「ふふっ」
いつ襲われてもおかしくない危険な状況の中でも、アムは満面の笑みで青年の手を握ってこう言った。
「好きです! 私とずっと一緒にいてください!」
これは恋。
今を逃してしまったら私は捨てられる。
だったら好きじゃなくても告白をしてしまえばあとは大丈夫。
大人のあなたなら、子供の私の考えていることなんて全て分かっているはず。
さあ、どうするの?
自分が子供であるという事実を利用して、青年の行動に喜びの期待を高まらせるアム。
だが、そう甘くいくことはなく。
「ふん、君は結構バカな子供だな。そんな感情がこもっていない告白を誰が受け入れるというんだ?」
「えっ」
「俺は子供の君に興味はない、あるはずもない。一ミリも」
氷と同じような冷たく強くお気に入りの宝物を足で踏み潰した感じで突き放された言い方をされたアム。
それはショックで薔薇の棘が胸に突き刺さったように痛くて取れなくて綺麗な青色の瞳が激しく揺れて動揺が隠せない。
「そ、そんな…でも、さっき言ったでしょ。『やっと見つけた』って」
「それは俺に一番似合う血が見つかったということだ。愛ではない」
はっきり
「愛ではない」
と、無表情で感情など込めずに突き放したように言われたアムは自分の勘違いが恥ずかしくて顔が真っ赤に染まる。
「…そう、なんだ」
ふふっ、私、なんて勘違いしたの?
めちゃくちゃ恥ずかしい。
やっぱり子供の私には大人の壁は越えられない。
全てそうなってしまうんだ…。
自分の考えの甘さに絶望し真っ赤になった顔を見られないように地面に俯くアム。
その姿を見た青年はローブを外して手を差し伸べた。
「喜ぶんだ」
「えっ、何を?」
「王子のスラ・メリマが庶民の君を妻にしてあげよう」
そう言って、スラがそっと優しく丁寧に傷つけることなくアムの手を握ってもう一度抱きしめる。
「俺は王子だ。もう君を一人にしない、働く必要なんてどこにもあるはずもない。安心しろ」
姿形は人間とほぼ同じ。
水がついたら色が落ちてしまいそうな背中まで長く綺麗に整えられた薄い金髪。
服も金が目立つ高級な物。
まだ王様ではないため王冠はないけれど、それ以上に真っ赤な瞳が静かな暗闇の夜に光輝いてとても美しい。
これもきっと何かの出会い。
アムはそう信じて頷いた。
「うん! これからよろしくお願いします!」
突然王子でも吸血鬼でもある謎の男スラの妻になったアム。
この出会いがこれからどんなふうに壊れていくのか、どんな最後を迎えるのか・・・それとも。


「もー! 嫌!」
お城に暮らし始めて四日が経った。
なぜアムが大声を上げている理由はただ一つ。
「スラ、いい加減にして! 私の血を吸うのをやめて!」
スラはアムの血を吸ってばかりで一ミリも離れようとしない。
ただ自分の食事のためにアムを妻にしたスラ。
食事もお風呂も何もかも常に一緒にいて、アムの体調など完全に無視して自分のために血を吸い続ける夫。
正式に婚約はまだ結んでいない。
いないのに、もうスラはアムを妻というより食事の餌として感情など必要ない動物を飼っているような感じになってしまっている。
当然アムが怒るのも納得できる。
アムの告白は断っておいて、自分のプロポーズは勝手にして頷かせる。
何とも最低すぎる男・・・。
いくら吸血鬼とは言え、こんなにもだらしない夫がいたら誰だって怒るし呆れる。
「はあっ」
どうして私は頷いたの?
断っていたらこんなことにならなかったのに、もー、私って本当に運が悪い。
けど。
「私はどこにいても同じ」
庶民でも一番下の存在なんだから、こんな雑な扱いをされることは別にもう受け入れている。
それがこのお城での普通。
その普通に合わせるのも大人になるための一つの道。
私はそれを守って自分のために何かを変える必要がある。
そう考えたら、意外と上手くいきそう。
何か良い案が思いついたアムはスラを雑に床に押し倒してこう言った。
「私、しばらくあなたと距離を置く」
人間の血を求めて人間を襲う生き物。
吸血鬼。
自分に一番似合う血が見つかったら、もう二度と、他の人間の血を吸うことが難しくなる面倒な生き物。
今のスラもその時。
一度手放してしまったら死ぬかもしれない。
死んで、後悔して、それから・・・。
生き物はみーんな自分のために生きている。
私もその一人。
家族がいない寂しさ、孤独、不安、焦り。
暗い感情ばかりが私の心に強く重く襲いかかって全く今のスラと同じように離れようとしない。
本当に、嫌で嫌で仕方ない!
こんな感情なんて知りたくなかった、覚えたくもなかった。
でも、結局私がどこにいようと、スラは私を探しに来る。
そして、スラはきっと私と同じ感情を持つことになる。
常に血を吸われる私よりも、自分のために生きるために血を吸って満足する。
そういうふうに作られてしまったんだ。
アムのように自分と同じ感情を持つ生き物に喜びを感じることがあるかもしれない。
同情して、理解して、抱きしめる。
一つ一つの全く同じ感情が出会った時から運命は決まっている。
一緒にいるか、一緒に壊れるか。
それとも・・・。
押し倒されたスラの表情は何かに怯えていて瞳が激しく揺れていて苦しそう。
「は、なぜだ? 俺のどこが悪かったんだ?」
何も分かっていないような知らないような他人事のようなどうでもいいような。
「ふっ」
「スラ、私はあなたといるのがもう嫌になったの。あなたの顔を見るのが飽きたの。じゃあ、そういうことだからしばらくはさよなら」
そう言って、アムは風のようにスッと立ち去って十二月の寒い外に一人出て行ってしまった。
だが。
「はああああっ、気持ちいい!」
今までは一人がめちゃくちゃ辛かったけど、今は全く違う。
もう全てから解放された気分で寒さなんて吹っ飛んでしまう。
「ふふふっ、四日ぶりの街、お腹が空いたから何か食べよう・・・あっ、あそこのお店おいしそう」
早速目に入ったのはオシャレなお菓子が並ぶお店。
お金がなくて一度も食べたことがないアムだったが。
「スラが血のごほうびにくれたお金があるから何個も食べられる!」
そう、アムはスラから自分に一番似合う血を吸う代わりにお金をくれていた。
だから、今日は何も遠慮せずに好きなだけ食べていい日ということ。
服も新しい物で水色のワンピースに茶色のブーツ、青色のコート。
王子の妻にふさわしい人間として、スラが全て買ってくれていた。
「ふふふっ」
王子様の妻になるのも結構良かったかもしれない。
もし今も毎日毎日残業しながら必死に働いていたらと考えると・・・気分が落ち込むけど、今は違う。
今はもうそんなことはどうでもいい。
早くお菓子をたくさん食べたい。
お店に入ろう。
お金があるなら学校に通うという選択肢もあったはずなのに、アムはその考えが全くなかった。
大人になるならある程度の知識を身につけていた方が未来の自分のためにも大きく変化するのに、アムはそれよりも食を真っ先に選んだ。
それが一番自分に必要だと思った。
それだけになってしまった。
「ケーキを三つください」
とりあえず三つのケーキを注文したアム。
「ふふふっ、楽しみ」
そして、約十五分経って三つ届いた。
「わあああっ、おいしそう!」
人生で初、大きくて丸いケーキを一口食べて瞳がキラキラと水の中で輝いた。
「お、い、し、い!」
おいしすぎてカタコトになったアムを、周りのお客は不思議な顔でじっと見ている。
「なあ、あの子、一人で三つ食べてる」
「あんなに小さい体なのによく食べられるね」
「ちょっと羨ましい」
まだ十五歳でそれも毎日毎日我慢していた食欲が一瞬で爆発して目の前にあるケーキを五分もしないうちに全て食べ終わった。
「は、おいしかったー」
次はどこにしよう。
お金を払ってお店を出てグルッと一周回っていた時、あるお店がアムの心をドキッとさせて自然と足が動いて中に入った。
「綺麗な絵」
そう、ここは絵のお店。
花や人間、物などを描いた素敵な絵が壁にバーっと綺麗に隅々までに飾られているちょっと色々な意味で怖い。
だが、アムは一つの絵が気になって心惹かれて目が離せない。
「あっ・・・」
この絵、誰かに似ている。
誰だろう?
黒髪に血のような真っ赤な瞳。
これって、もしかして。
「おや、お嬢さん、その絵が気になりますか?」
アムがじっと絵を見つめていることに気づいた小さな丸メガネをかけた青色の髪と紫色の瞳が美しいおじさんの店主が歩いてきた。
「その絵は吸血鬼、なんですよ」
「吸血鬼!」
吸血鬼という言葉に敏感になってしまったアムは突然大声を出してしまったことを両手で口を塞いで恥ずかしがる。
しかし。
「はははっ、今の時代では珍しいですよね。吸血鬼なんて、百年前の話ですからね」
優しい店主の言葉に、アムは勇気を出して少しずつ吸血鬼について聞いてみることにする。
「あ、あの、もし、今も吸血鬼がいたら、どうなりますか?」
吸血鬼のスラがいることを隠して真剣な眼差しで聞いたアムを、店主も真剣な瞳で答える。
「そうですね。もう一度、殺すしかありませんね」
「えっ・・・」
「吸血鬼は人間の敵です。血を吸われた人間は心を失い、死んでも心が戻ることはないんですよね。それだけ吸血鬼は危険な生き物なんですよね」
「で、でも、みんながみんな悪い吸血鬼というわけじゃな」
「そうですかね? 吸血鬼は全員危険です。良いも悪いもありませんね。人間の敵は消さなければいけません。一番優しい心を持っているのは人間だけですからね」
その言葉とその絵を見てアムはゾッとした。
もし、今も吸血鬼がいると知ったら、スラはきっと人間に殺されてしまう。
それもひどく形も残さないまま。
想像しただけで気持ち悪くなってきた。
とりあえず、一回ここから出よう。
店主の言葉で心の底から恐怖を感じたアムは胸に手を当てながらすぐにお店から出ようとしたら
「待ってください」
と、店主から呼び止められた。
「な、何ですか?」
心臓の音が激しくて耳の中までうるさいほどに響いて顔が青ざめていくアム。
その姿に店主は。
「その首、何かに噛まれた跡がありますね」
そう言われて、窓ガラスで自分の首を見た時、アムはまたゾッとした。
今日の朝スラに血を吸われた跡が残っていることを。
「はっ!」
まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい、まずい!
これ、なんて言えばいいのー?
何か言い訳を考えようと店主から目を逸らしたアム。
けれど、店主は何も余裕も与えずにどんどん質問していく。
「その跡ができるのは虫、それとも、吸血鬼、ですかね?」
「・・・・・・」
「あっでも、吸血鬼の方が一番近いですね。人間の歯ではこんな跡できませんからね」
「・・・・・・」
「どうですかね、吸血鬼ですよね?」
「・・・えっと」
ダメだ。
何も思いつかない。
扉は背中にピタッと引っ付いているからすぐにでも出られる。
けど、このまま黙って出たらこの跡が吸血鬼だと頷いているのと同じになる。
はあああっ、スラのバカ!
何も考えず血を吸っていたスラを、アムは今は心の底から腹を立てて拳を握りしめてゆっくり息を吸って。
「すみません、もう時間なので」
お店の中には時計など一つもないが、アムは空の色が夕焼けになっていることに気づいて苦笑いを浮かべながら、何事もなかったかのように逃げるようにお店を出て行った。
「はあ、はっ、は」
本当はあの時何か誤魔化したりした方が良かったかもしれないけど、十五歳の私にそんなこと考えるのが難しい。
私は頭が良くないし、行動も早くもない。
でも、もしスラと来ていたら・・・きっとスラは一瞬で殺されていた。
あのおじさんは吸血鬼のことをよく知っている、よく分かっている。
私の首の跡なんてすぐに気づかれた。
きっとあのおじさんは百年前の事件の秘密を何か知っている気がする。
誰も予想なんて、想像すらもできなかった悲しい事件。
今も何一つ分からないまま事件はどこかで続いている。
「はあっ」
そう、百年前、吸血鬼がたくさんの人間を襲い殺されたとても悲しい事件。
その事実を知らないアムは「スラ」という吸血鬼の夫と共に生きていくしか未来はない。
何があっても、絶対に離れてはいけない。
「ふー、帰ろう」
空も真っ黒になり、夜になった、その時。
「何をしている?」
後ろから突然声をかけられたアムはその正体を見てため息を吐く。
「はあっ、脅かさないで。スラ」
姿はほとんどスラではあるが、違うのは髪が金髪ではなく銀髪。
そして、声は・・・。
「おい、早く帰るぞ。食の時間だ」
全く落ち着いていない、荒く氷以上に冷たく低い声。
「俺は腹が減った。俺を待たせるな」
「えっ、誰、なの?」
スラじゃない?
これは誰、なの?
それはスラではない、何か別の生き物だった。