唐突に始まった裕と萩の睨み合いを見物しながら、麗奈はポツリと呟く。
「お腹空いた……」
 もちろん二人は聞いていない。
 裕が右手を、ひしゃげて水が噴出している蛇口に向けた。
「またそれ? ワンパターンだな」
 同時に萩が手を出し、裕の手の上に集まった水塊が弾け飛ぶ。妨害したらしい。
「邪魔すんな」
「邪魔しなかったらやられるから邪魔するんだろ」
「うるさい! 手ぇ出すな」
「会話が成り立たないね。アナタ日本語分カッテマスカ?」
「ざっけんな!!」
 主に低レベルな言い合いばかりしている二人。時折裕が水をぶっかけようと試みているようだが、萩はその邪魔ばかりしているようだ。麗奈の目にはよくわからない攻防が起こっているらしい。ぼんやり眺めていると、頭上から窓を開ける音がした。見上げて一番右の窓だ。
「あ。宏さーん」
「え? 麗奈さ……うわぁあああ!? ななな何やってるんですかぁ!」
 庭を見下ろした宏が悲鳴を上げる。麗奈が答える前にすぐさま室内へ引っ込んで、直後に玄関の方からスリッパのまま走ってきた。
「裕!!」
「何」
「何って……何やってるんですか!」
「喧嘩」
「あー、その辺の不良なんかと一緒にするなよ」
 心外だと言うように、萩が反論する。
「いけません裕、やめてください!」
「ヤなこった。大体、先に喧嘩売ってきたのはあちらさんだっての」
「はぁ? 売った覚えはないけどな。いきなり仕掛けてきたのはそっちだよ」
「何だと! 散々言っておきながら」
 子供の喧嘩みたいだ。麗奈はそう思いながら、ふと空を見上げた。
 カラスが一羽、こちらに向かって飛んで来ていた。
「事実を述べただけじゃないか」
「昨日のザマだとか護衛は務まらないだとか? あれが事実か? 個人的な意見だろうが!」
「ふーん? じゃあ君に、麗奈を守りきれるってこと?」
「余裕」
「昨日のみたいに強くても?」
「昨日のは別に強くなんかなかった。第一、初めて会った奴が『危ないから』とか言って後を付いて来たら、それこそ怪しいに決まってんだろ。無意味に不審者扱いされるのはごめんだ」
「体裁のためってわけか」
「ビビらせないための気遣いと言え!」
 向かって来ていたカラスが、民宿の屋根に止まった。麗奈は何気なくそれを眺めていた。
 二人の会話は耳に入ってくるが、最初から何度も同じことを言い合っているので飽きてしまい、大した興味は湧かない。
 麗奈は庭の小石を拾って手の上で弄んだ。
「だから、たかが人間一人護衛するのなんか余裕だって言ってんだ。頼まれればいくらでもやるさ。それに、『人間を襲うような妖はすぐに追い払うのが務め』って言ったよな? 彼奴等ならとっくに追い出した。お前の言う務めはちゃんと果たしてるぜ? とやかく言われる覚えはないな」
「……ふぅーん? 君そんなに麗奈の事気に入ったの」
「はぁ!?」
「そんなに手元に置いておきたいわけ?」
「違うけど!」
「でもまぁ、それなら……」
――バサバサバサッ!
麗奈が軽く投げた小石が足下に当たったのに驚いて、ギャアというしゃがれ声と共にカラスが羽音を立てて飛び立った。
 その場にいた全員の視線が、気を取られて上を向く。
「うわあぁっ!?」
 そんな中で何故か萩だけは、大袈裟に悲鳴を上げて尻餅を付いた。
「萩? どしたの」
 麗奈が目を丸くして尋ねると萩はハッとして、慌てて首を振った。
「あ、いや何でもない、ちょっとビックリ……ぶはッ」
 突如、萩の頭上から大量の水が降ってくる。裕の仕業だった。
「鳥、怖いんだろ」
「何だよ、人が話してるときに!」
「話を中断したのはカラスだろ? でも分かったぞ、鳥怖いんだろ」
「う、うるさ……ぶあ」
 再び巨大な水塊が顔面に激突する。
「さっきの威厳は何処へやら、だな。鳥怖いんだろ」
「だっ……げほげほ」
 気管に水が入ったのか、萩は背中を丸めて激しく咳き込んだ。
「もう一発いっちゃう? いっちゃいましょうか」
 非常に楽しくて仕方ないという様子の裕に、後ろで見ている宏の顔が青ざめた。再び水塊が落下して水が弾ける。
 だが、そこにずぶ濡れになっている筈の萩の姿は無い。
「……あれ?」
 麗奈が辺りを見回した時、不意に麗奈の背中の後ろから小さな咳が聞こえた。
 振り返ると、壁と背中の僅かな隙間に真っ白で小さな獣――恐らく、イタチ科の動物が蹲っている。
 麗奈を盾にして身を隠しているらしかった。
「萩……は、あ、これ?」
「うん、……これ」
 微かな声で返事をして、また咳き込む。
 そう言えば萩は、神と言われても実際はただの妖怪だと言っていた。だからこれが、萩の本当の姿ということになるのだろうか。
(……鼬って化けるんだっけ?)
 麗奈が首をひねっていると、やっと咳が収まった鼬――萩が、麗奈の後ろから甲高い声で叫んだ。
「だから話最後まで聞けよ! そんなに言うなら麗奈を預けても構わないって言おうとしてるんじゃないか! しつこい奴だな!」
「あ? そうなのか」
 裕が目を丸くする。
 麗奈も驚いていた。だがそれは話の内容ではなく、彼の声を聞いたせいだ。まるで子供みたいに高くなっていたのである。変化すると声まで変わってしまう者もいるということだろうか。体が縮むのだから当然といえば当然だが。
「ったく、だいたい鳥が怖くて何だってんだよ! 鳥嫌いの人いっくらでもいるだろ。それに第一鳥が怖いんじゃないし、ちょっと羽音にびっくりしただけだしぃ」
 萩は麗奈の後ろに隠れたまま憤慨している。また裕に水を掛けられるのを恐れているらしく、出てこようとはしない。
「何がちょっとだ。びびって腰抜かしたくせに」
「だからいちいち五月蝿いよ君は。偉そうな口叩く割に子供だな!」
「誰が子供だ!」
「ほらすぐキレる。そういうところが子供だっていうんだ。もっと牛乳飲んだほうがいいんじゃない? そんな感情的な奴が、いざって時に敵の挑発に乗ってヘマこくんだよ」
「……っく……」
 裕が怒りにわなわなと震えている。萩がフッと息を吐いて真顔(おそらく)に戻った。
「じゃ、もう一回聞くよ。君に麗奈を守りきれる?」
「さっきも言った。余裕」
「本当に?」
「嘘吐くかよ」
「嘘じゃないね?」
「だから何で俺が嘘吐くんだよ」
「うん、良し」
「何がだよ」
 萩が麗奈の後ろから出てくる。一瞬後、同じ場所で元の人間の姿の萩が立ち上がった。訝しげな顔をしている裕には目をくれず、湿った上着の裾を絞りながら、「これ、お下がりなのに」と呟いている。
「良しって、何がだよ」
「だから、さっきも言ったろ。麗奈を任せるって」
 裕が繰り返し尋ねると、萩はけろりとして当然のように答えた。
「まあ、それなりに霊力は強いみたいだし、麗奈がここに居たいって言うなら、君にお願いしようかなと。麗奈はどうしたい?」
「だってあたし、もうバイトするって言っちゃったし……残るよ」
「じゃ、そういうことで」
 萩はさっさと話を進め、まとめてしまった。呆然として事の成り行きを見ていた宏が、はっとして振り返る。
「あっ、蛇口! どちらが壊したのか知りませんが、早く直してくださいよ! 水道代が掛かってるんですから!」
「井戸水じゃなかったのか、これ」
 裕は呟きながら地面に転がった蛇口の先を拾い、ふと萩の方を見た。振り返って目が合って、萩が首を傾げる。先程の挑戦的な態度は何処へやら、何か用かと尋ねるような素朴な表情だ。
「……結局あんたは、試してたのか? わざわざ挑発して」
 裕が眉を寄せつつ問いかけると、萩は軽く微笑んだ。
「まさかあんなすぐに反応が返って来るとは思わなかったけど」
「キレ易くて悪かったな」
「悪いことじゃないよ。お陰で君の力量がすぐ分かったしね」
「……あ、そ」
 裕が話を続けないのを見て、萩は振り返って麗奈を促し、玄関の方へ歩き始めた。壊した蛇口を取り付けようと裕が背中を向けた時、少し離れた所で誰に向けるでもなく萩が呟く。
「確かに挑発はしたけど、あれは全部本音だから」
 ピタリと裕の動きが止まる。
 そして静かに振り返り、思い切り振りかぶって。
――ゴワン!
「ぎゃあ!」
 歩き出した萩の後頭部に、蛇口の先が勢いよく激突した。
「きゃぁあ! 萩!?」
 つんのめって倒れた萩を見た麗奈が悲鳴を上げ、宏が再び呆然とする。裕はフンと鼻で嘲笑った。

*****

 その夜、麗奈が寝る準備をしている時。
 ドアの方からコンコンと小さな音がして、麗奈はドアを開けた。
「……あれ?」
 誰もいない。
 空耳だろうと思ってドアを閉めようとした時、不意に足下から声が聞こえた。
「……麗奈、ちょっと入れて」
「わ、萩」
 ドアの影に身を潜めるようにして、白い鼬が座っていた。
「何してんの」
「こっそり来た。だってあの狐、上がってくるなって五月蝿いんだもん。階段上るのに一苦労しちゃったよ。じゃあお邪魔しまーす」
 カチカチとフローリングに爪の当たる音をさせて、返事も待たずに部屋に入ってくるにょろんと長い小動物。改めてよく見ると可愛らしいが、これが萩だなんてなんだか不思議な感じだ。
「用は何?」
「あのね、いきなりだけど麗奈、高校決めた?」
「あ、まだ」
「隣町に鈴代高校ってとこがあるんだ。そこなら麗奈の学力で行けるだろうし、近いし、いいんじゃないかと思ってちょっと紹介に。これ、資料」
 萩が、足下に引きずってきていた冊子の端を銜えて差し出した。
「スズシロ……それって佐藤先輩が行ったとこ?」
「さあ……」
「ほら、女テニの! あたしが凄く可愛がってもらってた、二つ上の……」
「……ほらとか言われても、佐藤先輩が何者かなんて僕は全く知らないんだけど」
「あ、そっか。でも確かそこって、テニス部が強いんだよね。そこまで有名じゃなかったけど」
「体育部全般、そこそこ強いみたいだね。地区予選勝ち抜いて県大会行ってるとこ、いくつかあるし」
 麗奈はベッドに座って右手で冊子を捲りながら、左手で床の萩を抱き上げてベッドに上げ、ぐりぐりと頭を撫でた。
「いてて、痛い」
「でかした萩ー! あたしここがいい。佐藤先輩と同じとこ!」
「え、そんな簡単に決めちゃっていいの?」
「まだ時間あるし、もっとちゃんと調べるって。中学の先生にも訊いてみる。そうだ、先輩にメールしよっと!」
 麗奈が机の上の携帯を出して弄り始めた時、ドアをノックする音がして、麗奈が返事をする前にゆっくりと部屋のドアが開いた。
「おい。そこで何してる、胴長短足馬鹿鼬野郎」
「うわ、出た。ていうか今何か凄い言語出てきたね。僕は高校の資料渡してただけだよ?」
「ふーん?」
 裕が部屋に入ってきて、ベッドに広げられた冊子を覗き込んだ。
「鈴代? 麗奈行くのか?」
「行きたくなった」
「そっか。まあ精々頑張れ。ところで鼬、ちょっと聞きたい事があるんだが」
「名前で呼んでよ。で、何?」
「お前、いつ帰るんだ?」
「……実はぁ、僕ぅ、お金持ってないんだよねぇ」
「……」
「タダで泊めてくれるなら明日には出てくつもりだけど?」
「それは駄目」
「じゃ、麗奈みたいに働けばいい?」
「居座るつもりかよ!?」
「払わなくていいならすぐ帰るってば」
「絶対払え!」
「じゃあ居座る。生憎、援助してくれそうな保護者いないんだよね。だから体で払います。いい労働力になるよ」
「……っのやろ、勝手にしろ」
「勝手にしますよーだ」
 萩はベッドから飛び降りると、裕に向かってべえと舌を出し、ドアの方へ歩いていった。それを麗奈は慌てて呼び止める。
「待った! この学校私立だよね、お金掛かるよ。そんなにお母さん達にお願い出来ないかも」
「ああ、それなら大丈夫。ツテがあるから」
 萩が不敵な笑みを浮かべた。
「つ、つて……?」
「鈴代に行くなら学費の心配は要らないよ。じゃ、僕寝るから。おやすみ」
 あっさりとそう告げて、萩が部屋を出て行った。
 麗奈は、部屋の真ん中に突っ立っている裕に視線を向けた。
「何か用?」
「いや、別に。おやすみ」
「? うん、おやすみ」
 ただ単に、萩の声が聞こえたので様子を見に来ただけだったようだ。
 裕は部屋を出て行きかけたが、ふと立ち止まって振り返った。
「明日から、家事と掃除と客の対応、あと金のやりくりと我が家ルールについて、徹底的に叩き込むからな」
「えっ!?」
「覚悟しとくように」
 それだけ告げると、裕はさっさと出て行ってしまった。
「まぁ、仕方ない……のかな? 働く訳だし……あー、裕って厳しそうだなぁ、やだな」
 ブツブツ文句を垂れながら、麗奈は高校の資料冊子を閉じて机の上に置き、携帯を取って先輩からの返信メールを読む。
「あ、やっぱ佐藤先輩、鈴代高校だ……今度会いに行こうかな」
 携帯を閉じ、これも机の上に置く。カーテンを閉めようと窓側へ行ったその時、廊下から裕の怒鳴り声が聞こえてきた。
「この野郎、勝手に人の部屋覗いてんじゃねえ!」
「開けっぱなしにするのが悪いんだよ」
 部屋に帰ったと思っていた萩は、まだ廊下にいたらしい。空いていた裕の部屋を覗き込んで怒られているのが聞こえる。
「さっさと下りろ、客の分際で! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
「客に向かって、客の分際でとか言っていいの? 僕、この宿はとんでもなく無礼だって近所の人に言いふらしちゃうよ?」
「何だと、無礼はそっちだろ!」
「商売する人は何があってもお客様を大切にしなきゃ」
「自分でっ……」
 更に向こうで、ドアの開く音がする。
「裕! それに萩さんも、今何時だと思ってるんですか」
「へーへー」
「はーい」
 裕と萩が、面倒臭そうに返事をした。宏が部屋のドアを閉めると、二人の声量が下がる。
「あーあ、怒られた」
「誰のせいだよ」
「君の声が大きかったんだ」
「俺かよ!」
 ガンッ、と今度は壁を叩く音がする。流石の二人も宏の怒りが伝わったのか、話を止めたようだ。
 数秒後、トントンと小さな足音が階段を降りていった。
 ベランダを照らしていた隣室の明かりが消える。麗奈も天井から垂れ下がった紐を引いて、照明を消した。
 この住宅街に街灯は少ないが、その代わり星もよく見えるし月の光が明るい夜だ。麗奈はカーテンを閉めるのをやめ、ベッドに潜り込んだ。
 萩が何時まで滞在するつもりが知らないが、二人の様子を見る限りではこれからの生活が思いやられる。
 麗奈は人知れず溜め息を吐いて、輝かしい理想の青春像をふと思い浮かべた。
(だけど、妖怪なんかに関わった時点で、既に普通の青春が送れるはずなかった……)
 確かにそうだが、もしかしたらそれはそれで楽しいかも知れない。高校には知っている先輩もいる。また部活にも挑戦したい。
 そう考えると早くも待ち遠しくなって、麗奈はもう少ししたら始まるであろう自分の華やかな高校生活に思いを巡らせた。

 窓の外には満天の星空。満月を過ぎて僅かに細くなった下弦の月が、遠くのビルの間で一際輝いていた。