朝、民宿の三人で朝食を食べている時だった。
――ドンドンドン!
 突然、玄関ではなくダイニングのガラス戸が強く叩かれる音が響いた。カーテンが閉まっているため相手の姿は見えない。
「朝からうるせぇな」
 寝起きで機嫌の悪い裕が文句を言いながら立ち上がり、勢いよくカーテンを引く。しかしその向こうにいる人物を見た途端、コロリと機嫌を直した。
「おぉ、オサム。久しぶり」
「久しぶり、じゃねぇよー。玄関のインターホン壊れてんじゃんか」
 裕が鍵を開けてガラス戸を引き開けると、その隙間から覗き込むようにして裕の友人らしき少年が顔を出す
「悪ぃ。今度修理しとくわ」
「押しても反応ないから何分待ちゃいいのかと思ったよ……っと、今ちょっといいか?」
 少年は口元を手で隠して声を潜め、首を傾げた裕の耳元に顔を近づけた。しかしリビングに他の人間がいることを考慮していなかったのか、あまり小声になりきっていなかった為、麗奈にも会話が筒抜けである。
「……で、その人間を狙った雑魚共がここらに入り込んでるって噂でよ……」
「ふーん?」
「……オレこないだ会ったんだけど、その人間、まだ子供なんだ。十五くらいの女の子で……襲われたらかわいそうだろ。自分のテリトリーはちゃんとパトロールするに越したことはないぜ」
「……なあ」
「ん?」
「その人間ってあいつか?」
 裕が一歩右にずれ、庭先に立っていた少年は家の中を覗き込んであっ、と声を上げる。
「あっれぇ、君こんなとこにいたのか!」
「……あ、あの時の!」
 ようやく相手の姿を認識した麗奈は驚いて目を丸くした。
 その少年は、麗奈が元の下宿先に行った時に駅の方向を教えてくれた彼だったのだ。
「そうそう、この子だ! 本当はオレが同じとこに下宿する予定だったのになぁ。なーんだ、こんなとこ泊まっちまったのか」
「こんなとこ言うな」
「あはは、でもここなら大丈夫だな、安心した」
「……お前って本当に何も知らないのな」
 裕が大袈裟に溜め息を吐く。
「その雑魚共とやらはとっくに俺が追い出したぞ?」
「マジか!?」
「……マジ。用事それだけか? 俺、今飯食ってんだけど」
「そっか。じゃあそろそろ御暇するかな。こーう、お前も元気してっかー?」
「――っ、ふぁい!」
 口に食べ物を入れたまま口を手で押さえて、宏が慌てて返事をする。
「あっはは、相変わらず可愛い奴だな」
「でも最近生意気になってよ」
「宏、だめだぞーちゃんと裕の言う事聞かないと」
「…………はい」
 子供に言うような口調にがっくりと肩を落として、宏が小さく返した。
「んじゃオレ帰るわ。食事の続きをごゆっくり」
「じゃあな」
「おう。……あ」
 裕が戸を閉めようとすると、少年は思い出したようにそれを止めた。
「何だよ」
「お前、何か顔付き変わったな。何かあった?」
「……はぁ?」
「金棒を持った鬼というか、水を得た魚というか。何かいいことあったみたいだな」
「はぁ? ……何だそれ」
「ま、いーか。じゃな」
「あっ、おい!? ……訳分かんねー」
 首を傾げつつ、裕が食卓に戻ってくる。
「お友達?」
 麗奈が尋ねると、裕はコクリと頷いた。
「昔馴染みなんだよ。時折尋ねてきては好きなだけ喋ってさっさと帰る。この辺に住んでんだろうな。……あぁ飯が冷める」
 ブツブツ言いながら朝食を食べている裕を見ながら、さっき『オサム』とあの少年を呼んだ時の裕の顔を、麗奈は思い出した。
(久しぶりって言ってたから……きっと会いに来てくれて嬉しいんだ、本当は)
 裕は照れ屋だと宏が言っていたのを思い出し、一人納得した。

 朝食の片付けの後は、特にすることもなく各自で自由時間を過ごしていた。麗奈は部屋で本を読み、裕はお気に入りの屋根の上でうとうとしている。宏はリビングでコーヒーを飲みながら、朝刊に挟まっていたチラシを眺めてお買い得商品に片っ端から印を付けていた。
 読んでいた本を半分ほど読んだところで読書に飽きた麗奈は、何か飲むために一階に降りようと部屋を出た――その時。
 ピ――――――――……
 謎の機械音が、家中に響き渡った。
 麗奈が階段で立ち止まると、裕が慌てたように廊下の窓から飛び込んでくる。
「何の音?」
「ああもうちくしょー、また誰かインターホンぶっ壊しやがったな!」
「インターホン?」
「これ、“ピンポン”の第一音」
 言われてみれば、そう聞こえなくもない。そういえばさっきそんなことを言われていたような。なるほどと納得したはいいが、休みなく鳴り続けるその音は、聞いていると次第に神経に障る嫌な音だ。
「よし、麗奈。初の客だ、出ろ」
 突然裕が、麗奈の肩に手を置いた。
「あたしが?」
「ああ。泊まりたいって言ったら宏に任せろ」
「うん。分かった」
 早く止まないかなこの音……と思いつつ、麗奈は玄関ドアを開けた。
「……はい」
 外を見ると、門の前であたふたしている少年が目に入る。
「あのー……何か御用でしょうか」
 おずおずと呼びかける麗奈に気付いた少年が、こちらに気付いて右手を上げた。
「あっ。やっほー麗奈、久しぶり」
「は?」
 ぎょっとして少年の顔を見つめると、見覚えのある顔がにっこり微笑んだ。
 人懐こい笑みを浮かべる、丸い瞳。
 太陽の光に透けて光る、胡桃色の髪。
 服装は違えど、とてもよく見慣れた顔に麗奈は唖然とした。
「は……萩!?」
「ご名答。元気してたー?」
 にこにこ笑顔で手を振ったのは、萩山神社でバイトをしているはずの萩であった。そんな彼が何故か民宿の前に(インターホン壊して)立っていたのだ。
「何で!? ていうか私服初めて見た! 着物じゃないから分かんなかった!」
「あはは、いくらなんでも着物に袴で街中歩いたりしないよ」
「何でここに……」
 麗奈が言いかけたとき、萩がふと視線を上げて家の中を見た。その視線を追うと、裕が玄関の壁に寄りかかって、何故か不機嫌そうにしている。
 萩の視線を受けた裕は、深く溜め息を吐いて壁から離れ、嫌そうに玄関まで来た。
「……何すか」
「ごめんなさい。インターホン壊しちゃったみたいで……ボタンが引っ込んで出てこないんだよね」
 裕は靴を履いて出てくると、インターホンをガツンと思い切り足で蹴り付けた。なんと行儀の悪い。しかし同時に、不快な音もぷつりと止む。
「おお、凄い」
 萩が感心した声を上げた。
「元々ボタンが固くなってんだ。無理やり押したらこうなる」
「ごめんなさーい」
 悪いとは微塵も思っていなさそうな声で、萩がもう一度謝った。
「で、用は?」
 萩の謝罪には返事をせず、裕が淡々と尋ねる。
「そうよ。何しに来たの?」
 麗奈も尋ねると、萩は少しムッとする。
「麗奈まで? せっかく会いに来たのに、もうちょっと感激してくれても」
「あ、会いに来た? 何で?」
「それは後でね。あ、一応僕、客として来たんですけど、入れてもらえます?」
 萩が言うと、裕はあからさまに嫌そうな顔をして玄関に上がった。
「宏、出て来い」
 呼ばれた宏が、再びダイニングのドアを開けて顔を覗かせ、萩を見て数秒間固まる。
「……裕のお友達ですか?」
「ちょっと待て宏、見た目で歳が近そうだからって誰でも友達だと思うなよ。客だ」
「あぁ、はい……こちらへ」
 宏に案内された萩は、興味深そうにきょろきょろ家の中を見回しながら民宿の方に入っていった。

「知り合いか?」
 萩が部屋に入った後、裕が麗奈に尋ねてくる。
「うん。ほら、あたしの家、代々神社の宮司やってるって言ったよね。そこの神社でバイトしてる人」
「ふーん……バイトねぇ」
 裕が何やら考え込み、麗奈は首を傾げる。その時、焦ったように宏が飛び出してきて台所へ駆け込んだ。
「お茶、お茶を」
「あ、お構いなくー」
 追ってきた萩が台所の宏に呼びかける。
「あ、でも、もう葉っぱ出しちゃいました」
「おー早い。じゃあ折角だからいただきます」
「そちらの椅子をどうぞ」
 宏が萩にダイニングテーブルの椅子を勧めた時、麗奈は微かな声で裕が「何で来んだよ……」と呟いたのを聞いた。どうやら裕は、萩のことが気に入らないらしい。インターホンを壊されたからだろうか。
 麗奈が萩の隣の椅子に座ると、萩にお茶を出した宏も向かい側に腰掛けてチラシの続きを眺め始めた。しかしチラシをめくる速さからして、読んでいないのは明らかだ。
 裕は台所で冷蔵庫をガサガサ漁って、何か食べ物を探しているらしかった。
「ねえ萩、さっきの」
「このお茶美味しいね。淹れる人が上手いからかな」
 麗奈は話を切りだそうとしたが、何故か話を遮られてしまった。
「……萩」
「お茶菓子も美味しいなぁ。何処のだろう」
「萩、さっき後でねって言ってたじゃん」
 どうも話を意図的に逸らされているような気がする。麗奈が声を強くすると、萩は湯呑みを置いて麗奈の目を見た。
「麗奈、家を離れてみてどう? 楽しい?」
「は? うん、まあ」
「困ったこととかはない?」
「別に?」
「ならいいけど。あぁそうだ、僕があげたペンダント、まだ持っててくれてるよね」
 麗奈はぎくりとした。
 あのペンダントは、あの犬の妖怪達に壊されてしまったのだ。
 だが隠す理由は特にないので、ここは素直に言うことにした。
「持ってるけど……ちょっと、壊れちゃって」
「壊されたんだろ」
「……え?」
 一瞬、空気がピリッと凍りつく。
 ジュースを注いだグラスとスナック菓子の袋を持ってリビングを出て行こうとしていた裕が、ドアの前で足を止めた。
「ねえ君達、ちょっと話があるんだけど」
 萩は急に振り返って、裕に話しかけた。ドアノブに手をかけたまま裕は少し顔を強張らせ、やがて渋々というように戻ってきて宏の隣の席に着く。
「……裕?」
 席に着いた裕に、宏が不安そうに呼びかける。恐らく状況を理解していないのは、麗奈と宏だけのようだ。
「いきなりだけど」
 萩が口を開いた。
「昨日、麗奈を危険な目に合わせなかった?」
「は?」
 裕と宏は答えず、麗奈だけが声を上げた。
「ちょっと萩、何それ」
「あのペンダントしてたんだから、麗奈が誰かに守護されてるって事は一目で分かるはずだよね」
 まるで反応を見るように、萩が一旦言葉を切る。裕は何も言わない。
「ずっと見張ってろなんて言わないけど、もうちょっと強力な術を掛けるとか、他の妖に人間食べるのが趣味のヤツがいないか確かめるとか、できたんじゃない? それとも、自分の住む土地で殺人まがいの事が起こってもなんとも思わないの? 妖の中に人間を食べるのがいるんだから仕方ないって?」
「ちょっと待って、萩! 何言ってるの」
「麗奈が昨日妖怪に襲われたことだよ」
 さらりと言ってのけた萩に、麗奈は質問の趣旨が伝わっていない事を知って苛立つ。
「だからそうじゃなくて! 何で知ってるのよ!」
「麗奈にペンダント持たせたよね? あれ、自動的に小さな結界が張られるような術を掛けてあったんだ。結界が無理に壊されたら、術者にもそれが分かるんだよ。落としたり踏んだりして物理的に力を加えたくらいじゃあの石は割れないから、だとすれば妖が風刃や水刃の術を使って破壊したとしか思えないだろ?」
「だろ? とか言われても、意味不明な言語がたくさん出てくるから何言ってんのかさっぱりなんだわ」
 こめかみを押さえながら言った麗奈に苦笑して、萩はゆっくりと噛み砕いて言い直す。
「えーと、簡単に言えば、あれは凄く丈夫なお守り。そう簡単には壊れないくらい丈夫なはずなのに、誰かに壊された。そしたらその犯人は妖怪しかいないよねってこと」
「成程……ってちょっと待った、もう一つ。萩は妖怪の事とか、あたしがどんな人間とか、知ってるの?」
「知ってるよ」
「何で?」
「何でって……」
 萩は視線を一旦裕の方に戻して、少し残念そうに答えた。
「本当は、僕が最初にカミングアウトする予定だったのにな。どこぞの狐サンに先を越されちゃったというかぁ」
 裕が目を細めて萩を睨み返す。
「え……ってことは?」
「ねえ麗奈、君を捕まえた二人組は、麗奈をどうして狙うんだって言った?」
「神社の家系だから妖力がどうのこうのって」
「じゃあ、なんで今まで狙わなかったんだろう」
「なんか強力な守護があった、とか? そんなこと言ってたような……ハギシン? だっけ」
「ああ、そこまで言ったんだ。そうそうよく覚えてたね。萩神っていうのは、萩山神社の神体のことだよ」
「祀られてる神様って事?」
「うん。萩山の“萩”に、神様の“神”で、萩神。訓読みと音読みが続くの、湯桶読みっていって呼び名としてはあんまり好きじゃないんだけど……」
「それがどうかしたの?」
「さっき僕、麗奈に結界のペンダント持たせたって言ったよね。お守りに」
「うん」
「……麗奈が今まで襲われなかったのは、萩神の守護があったからでしょ」
「うん」
「……萩神は自分の元から守護の対象が離れたからといって、守護を止めたりしないと思うよ? 離れるなら離れるで、しかるべき方法で守護を続ける」
「ふーん。で?」
「……うん……? 鈍いなぁ……」
 ちょっと呆れたように萩が呟く。確かこの状況は、昨日にも同じ事があった気がする。話の流れを思い出し、麗奈は漸く答えに辿り着いた。
「あぁ、萩がその“萩神”だってことか!」
「そうそう! やっと分かったかー!」
「へぇー……えええぇ――――!? 神様!? 嘘!?」
 驚きのあまり声を裏返らせながら、麗奈は椅子を勢いよく後ろに引いて仰け反った。
「……やっぱり分かってなかったか」
 額に手を当てて、萩は肩を落とした。

*****

「萩って、神様なの?」
 やっと落ち着きを取り戻した麗奈は、言葉を選びつつ慎重にかつ率直に尋ねた。萩は少し考え込んで、困ったように頬を掻く。
「分かりやすく説明できるか分かんないけど。あのね、神っていっても、神話や物語にあるような天地を作る神様じゃなくて、神無月に出雲に集まるような神様でもなくて、なんて言うか……守り神的な」
「守り神って神様じゃん」
「いや……そうじゃなくて。まあ確かにそういうふうに呼ばれてはいるけど、普通の妖怪と大差はないんだよね」
「でも、神社に祭られてるのは神様でしょ?」
「まぁそうだけどー、んー、パス! なんかうまい言い方ない?」
 萩が裕に話を振った。自分では説明しきれなくなったらしい。話を投げられた裕が突然のことに驚きながら考える。
「俺!? ……えっと、人間でもさ、死んだ後に神社に祀られるのがいるだろ? 菅原道真とか家康とか」
「てことは萩って……死」
「待った、僕まだ生きてるから」
「まぁ、人間が妖を勝手に神と崇めて神社建てたとかだろ。そういうの多い」
「んー、大体そんな感じ。要は、ちょっと霊力は強いけど、神社に住んでるただの妖ですってことで。一件落着」
 あーすっきり! と、勝手に納得させたつもりになった萩が両手をぱちんと合わせた。麗奈が未だ納得行きかねるまま、話はまとめられてしまったらしい。
「じゃあ、結局萩も裕と一緒で人間じゃないってこと?」
「うん」
「分かった」
「分かったんだ……飲み込み早いな」
 麗奈が頷くと、萩は再び裕と宏の方へと目を向ける。
「じゃあ本題に戻って。君達のところに居たのにもかかわらず、麗奈は昨日襲われてるんだ。それは要するに君達の力不足ってことだろ? 僕は怒っているんだよ」
 萩の言い分を聞いて麗奈は驚いた。他者に対する萩の態度が、普段とは違いすぎる。いつも一緒にいたという訳ではないから彼の性格を全て知っているわけではないが、ここまでストレートな文句を言うような人だとは思ってもみなかったのだ。
「……んだと!」
「それが客に対する態度? 感心だね」
 萩を睨みつけた裕に、彼は涼しい顔をして言う。
「萩……いくらなんでもちょっと言い過ぎだよ」
「言い過ぎなんかじゃない。麗奈はまだよく解ってないからそんなこと言えるんだ」
「でも」
「麗奈が死んでからじゃ遅いんだよ!」
 ぴしゃりと強く言われて、麗奈は口を閉じた。萩がここまで腹を立てているのを、初めて見た。此処へ来てからずっと笑顔だったけれど。彼は静かに怒っていたのだ。
「君達は昨日、あんな雑魚から麗奈を守れなかったんだろ。怪我をさせるのは防げたけど、今後もっと強い妖が来ないとは限らない。いつ麗奈が襲われるか分かったものじゃないよ」
「結局何が言いたい?」
 我慢が限界を突破しつつある裕が、怒りを抑えるように静かな声で尋ねた。それに対して、萩はあっさりと答える。
「仕方ないから、これから暫く護衛役として僕も麗奈と一緒にお世話になりますって」
「……」
「……」
「は?」
「よろしく。狐サン」
 先程の態度とは打って変わって、萩がにっこり微笑んだ。

 やって来て早々、萩は周囲を探検したいと言って民宿を出て行ってしまった。麗奈が自分の部屋に戻ると、先に上に上がっていた裕が部屋の前に立っている。
「裕?」
「おー、麗奈」
「どうかしたの?」
 尋ねると、裕は少し気まずそうに視線を逸らし、彼らしくない小さな声でぼそぼそと呟いた。
「その……ごめん」
「は?」
「昨日。ごめん」
「昨日? ……もしかして、萩の言ったこと気にしてんの?」
「ばっ、違ぇよ! ただ謝ってなかったなぁと思って……」
「悪くないなら謝らなくていいのに」
 明らかに気にしている表情の裕を置いて、麗奈は部屋に入る。気が強そうだと思っていた裕が、穏やかな萩にあんな風に言われただけでここまでへこむとは。案外デリケートなのかもしれない。

 裕の気配が扉の前から消え、隣の部屋に入る音がした。部屋に戻ったようだ。それにほっとした矢先、カツン、と窓の方から別の音が聞こえてくる。
「……何?」
 開いた窓からベランダを見ても、何も無い。
 首を傾げていると、下から何かが飛んできて窓に当たり、再び音を立てた。ベランダに落ちたものを見ると、小さな小石だ。誰かが下から石を投げているのだ。
 外に出て裏庭を見下ろすと、裏庭の真ん中で萩がこちらを見上げていて、麗奈が出てきたことに気付くと軽く手を振った。
「ちょっと下りて来られる?」
「うん、待ってて」
 言われたとおり一階に下りて裏庭へ行くと、萩は申し訳なさそうに両手を合わせて謝った。
「呼びたててごめんね。二階は民宿の人達の部屋だろ? たぶん関係者以外立ち入り禁止かなあと思って」
「ううん、大丈夫だよ。散歩終わったの? 何か用事?」
「うん、まあ、……麗奈に言いたい事があってね」
「何? 言いたい事って」
「やっぱり萩山に帰らない?」
 数秒の間が空いた。
「……え? かえ、るって」
「地元の高校じゃなくても、隣の町にも大きな高校はあったし。そこなら萩山から通えるよ」
「待ってよ、なんでいきなり」
「君をここの狐に任せておくのは危険だと判断したから」
「……さっき言ってた事?」
 萩が頷く。暫く一緒に泊まるとは言ったものの、連れ帰るのが本来の目的だったらしい。だが、いくつか引っかかる事があった。
「なんで? 好きなようにしろって言ってくれたのは萩なのに……」
「下宿先に泊まるんだったらね。でも泊まれなくなったんだろ?」
「あっちなら大丈夫だったってこと?」
「あの辺りは、強い妖のテリトリーだったんだ。麗奈を狙う奴が来たら追い払うようにってお願いできた……麗奈が前まで住んでた町もそうだよ。あの辺を仕切ってる妖に頼んであったんだ」
「だから今まで襲われなかったってこと?」
「そう。だけどここで一番強いのはあいつ――裕って言ったっけ? あの狐なんだ。彼に頼んだって、昨日のザマだろ。狐なんかに麗奈の護衛なんて務まらない。任せてられないよ」
 麗奈が口を噤んだ、次の瞬間。
「狐が弱くて悪かったな!!」
 空から声が降ってきたと思ったら、萩と麗奈の真横に裕が飛び降りてきた。
「てめー黙って聞いてりゃさっきから何だ、俺達が雑魚だって言いたいのか!?」
「立ち聞きは良くないなあ。それに今僕達は話をしてたんだ。邪魔しないでくれる?」
 顔を赤くして怒鳴る裕に、萩がさらりと言ってのけた。裕はますますカッとする。
「窓が開いてたんだ、丸聞こえだ! わざわざ窓の真下で聞こえよがしに悪口ばっか言われて黙ってられるかよっ」
「これだから血の気の多いワン公は困るんだ」
「誰がワン公だっ!!」
 萩の、相手によってコロコロ態度を変える技には麗奈は感心してしまった。お兄ちゃんぶってみたり子供っぽくなったり、かと思えば他人を怒らせることばかり言う。たぶんこれは彼の演技なのだろう。
「萩……裕も、やめなよ」
「やめろ……? こんだけ言われて黙ってろと?」
「僕は別に何も言ってないけど。割り込むなって言っただけじゃないか」
「てめえふざけんな! 狐には任せられないとか何とか言ってたじゃねえかよっ」
「麗奈を連れて帰る為に事実を言っただけだ。もしかして麗奈を連れて帰らないで欲しいの? 危険な目に合わせといて?」
「俺の所為じゃねぇ」
「ここは君の土地なんだろ。人間を襲うような妖はすぐに追い払うのが務めじゃないのか? それに第一、麗奈が出て行こうと行くまいと君には関係ないだろ」
「そいつはここで働くって言った」
「自分が危険に置かれてる事を知らなかったんだから仕方ないよ。……それから」
 萩は、怒りで握り締められた裕の両手に目を遣り、微かに口の端を上げた。
「僕は山生まれ山育ちだから、体力に自信はあるんだ。それに君よりは長生きしてる方だと思うよ。町育ちのワン公に負けるとは思えないかな」
 言葉の端々に、自分の方が強いだろうという自信をちらつかせる。裕の中で、何かが音を立てて切れたような気がした。
「……でもここは俺の土地だ。ここで力を一番上手く使えるのは俺だ!」
 裕が右手を上に突き上げる。つい最近何処かで聞いたような甲高い金属音が響いた。萩が軽く上を見上げて、面白そうに口角を上げた。
「で?」
「なんでもいいから一発食らわしてやる」
 裕が、右の掌をさっと背後の壁についた蛇口へ向けた。水撒き用の外付けの蛇口である。直後、バギッと変な音がして蛇口の先が吹き飛び、壁に空いた穴から水が勢いよく噴出した。噴き出した水は地面に落ちることなく、彼の手の辺りに浮いてぐるぐると集まり、塊となる。
 裕がその手を萩に向けると、水塊はそれに従うように勢いよく萩に向かっていった。
「はぁ……こんなことしに来たんじゃないのに」
 面倒くさそうに、萩が掌を前に向ける。途端、水塊が透明な壁にぶち当たったかのように萩の前で弾けた。
「仕方ないなぁ。そんなに遊んで欲しいなら、相手してやらないこともないけど」
「……てめえが散々馬鹿にした狐の腕ってもんを見せてやろうか?」
 裕はこめかみに青筋浮かべながら不敵に微笑んだ。

 完全に蚊帳の外の麗奈は壁側に寄って、その様子をただ見物しているしかなかった。