人生、そう上手くはいかないものだ。
本屋でホテルを調べて片っ端から電話をかけてみたり、タクシーの運転手に尋ねてみたり、挙句の果てには道行く人々を捕まえて尋ねてみても、近くに空いている宿はなかなか見付からなかった。
ホテル自体あるにはあるらしいのだが、全て部屋が埋まっているという。
他に探せばまだあるのかもしれないが、もともと麗奈が行く予定だった下宿の事を言う人ですら少なかったから、おそらく小さな民宿や下宿などは、知らない人の方が多いのかもしれない。
「はぁ……どうしろって言うのよー」
麗奈は商店街のベンチに腰掛けて空を見上げた。
来た頃は綺麗に晴れていた空は、今では黒い雲に覆われてどんよりと曇っている。親に迷惑を掛けないと宣言したものだから、電話をかけて助けを請うのはプライドが許さなかった。
時刻は午後六時過ぎ、宿を探し始めてから一時間以上が経過している。
(バスか何かで隣町辺りにでも行ってみるかな……でもそんな事して、道に迷っても困るし)
考え込んでいるうちに雲行きは怪しくなり、辺りは薄暗くなる。雨が降らないうちに駅に戻ろうと立ち上がったが、その瞬間、雷鳴が轟いた。
「きゃあ! ……びっくりした」
始めは霧のようだった雨は次第に強さを増し、駅に駆け込む頃には土砂降りになっていた。麗奈は傘を持っていなかったので、全身濡れ鼠だ。
濡れたシャツをぎゅっと絞りながら、麗奈はふと下宿先に着いたときの会話を思い出した。
『下宿してる人たちには、別のところに移ってもらう事になった』
別のところ。
下宿しているのは学生で、皆この近くの学校に通っているはずだ。だとすれば、別の下宿先に移ったとしてもあまり学校から離れるはずがない。
――と、いうことは。
「やっぱり、近くにまだあるんだ!」
小さな宿だったら、人通りの少ない住宅地にあってもおかしくはない。それならばまだ探していない住宅地に行ってみる価値はある。
日が完全に暮れる前に何としても泊まるところを見つけなければと、少し雨足が弱くなったのを見計らって、麗奈は駅を出た。
小学・中学と公立だった麗奈は交通機関での通学をしたことがなく、高校生や大学生は学校から離れた所に下宿しても電車で通学できるのだという事には残念ながら気が付かなかったのだった。
道に迷うこと覚悟で、麗奈は先程とは違う道に入ってみることにした。
「一軒あるんだから、少なくともあと二軒はあるはずよね……」
まるで害虫か何かのように考えながら、迷路のような住宅街を適当に歩く。そろそろ止むだろうと思っていた雨はまた強くなり、麗奈は駅のコンビニで傘を買わなかった事をひどく後悔した。大雨の降る中駅に辿り着いて、傘を買わずに再出発する馬鹿がどこにいるだろうという話だが。
「百円の壊れやすいビニール傘買うより、あとでもっと頑丈なの買った方がいいもん」
言い訳じみた独り言を呟き、ずぶ濡れのまま住宅街を歩き続ける。辺りはもう薄暗く、知らない人が今の麗奈を見たら変質者、もしくは幽霊か何かだと思ったかもしれない。
「っくしゅん!」
雨に濡れて冷えたのか、くしゃみが出た。
「……やば、これ風邪引くかも……もう戻ろうかなあ」
そして辺りを見回し、数秒間考える。さあここはどこでしょう。
道に迷うこと覚悟で住宅街に入ったが、案の定迷っていた。持っていた地図を取り出し、それがほとんど役に立たない事を思い出す。
あとは、無いに等しい勘に頼るしかない。
「今日ってほんとについてないな……占いはいい方だったのに」
牡羊座は四位である。
何もせずに止まっている訳にはいかないので歩き出し、五回目の角を曲がった時だった。数件先の家の玄関が開き、人が出てくる。
住宅街に入ってからほとんど人影を見ていなかったから何となくほっとして、その家の前を通り過ぎようとした。
(ん?)
玄関から出てきたのは恐らく麗奈と近い年頃の、ジャンパーのフードを深く被った少年。傘を差さずに出てきたと思ったら、ゴミ袋を両手に一つずつ持って雨の中走っていった。
しかし麗奈が気にかかったのはその事ではない。
少年が出て行った家、その入り口の門の横、腰の高さ程の塀に、小さな看板が掛かっている。
雨で視界が悪くてよく見えなかったので、麗奈は少し近づいてその文字を読む。
『民宿 狐荘』
普通なら名前が書かれているはずの所に、小さくこれだけ書いてあった。
(変なの……この家どう見たって周りと同じただの民家だし。表札だって、こんなんじゃ誰も宿だなんて思うわけ……)
宿?
もう一度表札を確認する。確かに『民宿』の二文字が書かれている。
これこそ麗奈の捜し求めていたものだった。
バシャバシャと雨の中を駆け戻ってくる音がして、麗奈は振り返った。さっきの少年だ。彼はチラリと麗奈に視線をやると、不審そうな顔をして門を開け、中に入ろうとした。
「あの……」
「はい?」
少年が振り返る。
その顔が驚くほど整っていたので、麗奈は一瞬何を尋ねようとしていたのか忘れてしまい、相手に怪訝な顔をされてしまった。
民宿という人名は恐らく無いから、あの表札は確かにこの家の役割を表しているはず。大丈夫、もし違っていたらそのまま立ち去ればいい。躊躇いつつ、恐る恐る尋ねた。
「その……ここって、民宿なんですか?」
「はあ……そうですけど。そこに書いてません?」
小馬鹿にしたような物言いに、ややカチンとくる。あんなのですぐに分かるかと言い返したいのを抑え、再び尋ねた。
「今、お部屋空いてませんか? その、もしかして、要予約だったり」
「もしかして、客?」
同じ単語を繰り返して、逆に尋ねられる。
それにしてもこの少年、敬語を使うのに慣れていないのだろうか。初対面の人に対して、あまりに態度が悪い。麗奈は少しむっとして、
「泊めてくれるなら」
と、強気に言い返す。
しかし少年はそんな事は気にも留めず、何故か「あぁ」と納得したように頷いた。
「泊まるんだったらどーぞ、こちらに。あ、床濡らすなよ」
「わかってるから!」
いきなり喧嘩腰になりながら、麗奈は少年に連れられて建物の中に入った。玄関に入ると、ぱたぱたとスリッパの足音がして、正面の階段から青年が降りてくる。
「ユウ! 傘も差さずに……濡れませんでしたか」
「濡れないわけないだろ。ゴミ捨てに行けって言ったのお前じゃないか」
「またそうやって人のせいに……あれ、お友達ですか?」
青年が麗奈を見つけて目を丸くする。ユウと呼ばれた少年は呆れたように首を振った。
「いや。客」
それだけ言って、少年は雨避けの為に被っていたジャンパーのフードを下ろす。麗奈は何となく少年を見上げ、思わず息を呑んだ。
フードのお陰で濡れずに済んだ彼の髪は、驚くほど綺麗な金髪だった。外国人のような薄い金色ではなく、薬で染めたようなくすんだ金色でもない。実際には薄茶色なのだが、光の当たり具合によっては金色に見える、そんな色だ。形の整った眉も、少し長い睫毛も同じ色で、これが本物であることを示していた。
隣に立って初めて気付いたが、少年の身長は麗奈とそれほど変わらない。視線の高さも同じくらいだ。同じ年頃の男の子としては身長が低い方だろうと思う。
彼は麗奈の視線には気づかず、客と聞いて驚いた顔をした青年に指示を出した。
「コウ、タオル持って来い。このままだと風邪引く。それから部屋、すぐに」
「はい……ああ、ちょっと待った! その濡れた足で上がらないでくださいよ。今あなたの分も持ってきますから」
コウと呼ばれた青年が慌てて奥へ走っていく。その背中が見えなくなってから、少年は言いつけを破って濡れた足で家に上がり、ペタペタと歩き出した。床を濡らすなって自分が言ってたくせに……と麗奈は心の中で毒づく。
しかし数歩歩いたところでタオルを抱えた青年がすぐさま走ってきて、彼を玄関に押し戻した。
「ユウ!」
「うるせーな」
少年はバスタオルを一枚取り上げて、ばさりと麗奈の頭に被せた。
「風邪引く」
「あ、はい……ありがとう、ござい、ます……」
頭を下げた麗奈は、そのまま数歩よろめいた。急に頭を下に向けたからか、眩暈がしたのだ。なんだか頭痛もするような気がする。
少年が不思議そうに麗奈の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いや、ちょっと……頭がぼんやりして」
「……手遅れだったな。コウ、部屋に布団も敷いとけ。毛布はこの間干したのがあるだろ」
「はい。すぐに用意できます」
「それと、寝巻きも新しいのを下ろせ。それから、……あー、あんた名前は」
「……高沢」
「とりあえず、これに名前だけでいいから書いて」
彼は麗奈を座らせて紙を渡し、自分はタオルで濡れた手足を拭きながらてきぱきと青年に指示を出していった。
まるで何かの司令官みたいだ、と麗奈はぼんやり思った。
*****
この大雨で、荷物はほぼ全滅だった。
下着だけはビニール袋に入れていたので濡れなかったが、あとは服も本も全て水を吸って大惨事だ。その無事だった下着と出してもらったパジャマを着て、麗奈は和室に敷かれた布団に入っていた。
「失礼します」
さっきの青年が、盆を持って入ってきた。麗奈はあわてて起き上がり、頭を下げる。
「あの……すみません、いきなり来たのに色々としてもらっちゃって」
「いいえ、お気になさらず」
彼は笑って、麗奈の枕元に盆を置く。そこには水の入ったグラスと、テレビコマーシャルでよく見る青い箱の風邪薬が載っていた。
「この薬、飲んでください。熱が高くなる前に」
「え、あの……」
「ああ、大丈夫ですよ。これは今買ってきたものですし、まだ開封していませんから」
躊躇った麗奈を気遣うように、青年はビニール包装された薬の箱を見せて微笑んだ。箱には駅前にあった薬局のシールが貼ってある。
「え、もしかしてわざわざ買いに? そんな事まで……すみません」
「買いに走ったのは私ではなくユウですが」
「ユウ、ってさっきの……また雨の中行ってくれたんですよね。どうしよう、そんなにしてもらっちゃって……」
「ですから本当に、気にしないでください。久しぶりのお客さんなんです。ユウも珍しく張り切っていましたから。……熱が上がらないうちに、これを」
麗奈は青年に小箱とグラスを手渡され、封を開けて薬を呑んだ。麗奈がグラスと薬を盆に戻すと、青年は麗奈を寝かせて布団を肩まで引き上げた。
「今日は疲れているでしょう。ゆっくりお休みください」
「本当に有難うございます」
青年が出て行くのを見送って、麗奈は溜め息をついた。
どうにか今夜は泊まるところを見つけることができた。しかしこの先どうすればいいのだろう。
早く学生の下宿をやっている家を探さなくてはいけない。
「それはまぁ……何とかなるか」
薬が効いてきたのか、少し眠気がしてきた。これからのことは明日考えればいい。麗奈は暖かい布団の中で目を閉じた。
本屋でホテルを調べて片っ端から電話をかけてみたり、タクシーの運転手に尋ねてみたり、挙句の果てには道行く人々を捕まえて尋ねてみても、近くに空いている宿はなかなか見付からなかった。
ホテル自体あるにはあるらしいのだが、全て部屋が埋まっているという。
他に探せばまだあるのかもしれないが、もともと麗奈が行く予定だった下宿の事を言う人ですら少なかったから、おそらく小さな民宿や下宿などは、知らない人の方が多いのかもしれない。
「はぁ……どうしろって言うのよー」
麗奈は商店街のベンチに腰掛けて空を見上げた。
来た頃は綺麗に晴れていた空は、今では黒い雲に覆われてどんよりと曇っている。親に迷惑を掛けないと宣言したものだから、電話をかけて助けを請うのはプライドが許さなかった。
時刻は午後六時過ぎ、宿を探し始めてから一時間以上が経過している。
(バスか何かで隣町辺りにでも行ってみるかな……でもそんな事して、道に迷っても困るし)
考え込んでいるうちに雲行きは怪しくなり、辺りは薄暗くなる。雨が降らないうちに駅に戻ろうと立ち上がったが、その瞬間、雷鳴が轟いた。
「きゃあ! ……びっくりした」
始めは霧のようだった雨は次第に強さを増し、駅に駆け込む頃には土砂降りになっていた。麗奈は傘を持っていなかったので、全身濡れ鼠だ。
濡れたシャツをぎゅっと絞りながら、麗奈はふと下宿先に着いたときの会話を思い出した。
『下宿してる人たちには、別のところに移ってもらう事になった』
別のところ。
下宿しているのは学生で、皆この近くの学校に通っているはずだ。だとすれば、別の下宿先に移ったとしてもあまり学校から離れるはずがない。
――と、いうことは。
「やっぱり、近くにまだあるんだ!」
小さな宿だったら、人通りの少ない住宅地にあってもおかしくはない。それならばまだ探していない住宅地に行ってみる価値はある。
日が完全に暮れる前に何としても泊まるところを見つけなければと、少し雨足が弱くなったのを見計らって、麗奈は駅を出た。
小学・中学と公立だった麗奈は交通機関での通学をしたことがなく、高校生や大学生は学校から離れた所に下宿しても電車で通学できるのだという事には残念ながら気が付かなかったのだった。
道に迷うこと覚悟で、麗奈は先程とは違う道に入ってみることにした。
「一軒あるんだから、少なくともあと二軒はあるはずよね……」
まるで害虫か何かのように考えながら、迷路のような住宅街を適当に歩く。そろそろ止むだろうと思っていた雨はまた強くなり、麗奈は駅のコンビニで傘を買わなかった事をひどく後悔した。大雨の降る中駅に辿り着いて、傘を買わずに再出発する馬鹿がどこにいるだろうという話だが。
「百円の壊れやすいビニール傘買うより、あとでもっと頑丈なの買った方がいいもん」
言い訳じみた独り言を呟き、ずぶ濡れのまま住宅街を歩き続ける。辺りはもう薄暗く、知らない人が今の麗奈を見たら変質者、もしくは幽霊か何かだと思ったかもしれない。
「っくしゅん!」
雨に濡れて冷えたのか、くしゃみが出た。
「……やば、これ風邪引くかも……もう戻ろうかなあ」
そして辺りを見回し、数秒間考える。さあここはどこでしょう。
道に迷うこと覚悟で住宅街に入ったが、案の定迷っていた。持っていた地図を取り出し、それがほとんど役に立たない事を思い出す。
あとは、無いに等しい勘に頼るしかない。
「今日ってほんとについてないな……占いはいい方だったのに」
牡羊座は四位である。
何もせずに止まっている訳にはいかないので歩き出し、五回目の角を曲がった時だった。数件先の家の玄関が開き、人が出てくる。
住宅街に入ってからほとんど人影を見ていなかったから何となくほっとして、その家の前を通り過ぎようとした。
(ん?)
玄関から出てきたのは恐らく麗奈と近い年頃の、ジャンパーのフードを深く被った少年。傘を差さずに出てきたと思ったら、ゴミ袋を両手に一つずつ持って雨の中走っていった。
しかし麗奈が気にかかったのはその事ではない。
少年が出て行った家、その入り口の門の横、腰の高さ程の塀に、小さな看板が掛かっている。
雨で視界が悪くてよく見えなかったので、麗奈は少し近づいてその文字を読む。
『民宿 狐荘』
普通なら名前が書かれているはずの所に、小さくこれだけ書いてあった。
(変なの……この家どう見たって周りと同じただの民家だし。表札だって、こんなんじゃ誰も宿だなんて思うわけ……)
宿?
もう一度表札を確認する。確かに『民宿』の二文字が書かれている。
これこそ麗奈の捜し求めていたものだった。
バシャバシャと雨の中を駆け戻ってくる音がして、麗奈は振り返った。さっきの少年だ。彼はチラリと麗奈に視線をやると、不審そうな顔をして門を開け、中に入ろうとした。
「あの……」
「はい?」
少年が振り返る。
その顔が驚くほど整っていたので、麗奈は一瞬何を尋ねようとしていたのか忘れてしまい、相手に怪訝な顔をされてしまった。
民宿という人名は恐らく無いから、あの表札は確かにこの家の役割を表しているはず。大丈夫、もし違っていたらそのまま立ち去ればいい。躊躇いつつ、恐る恐る尋ねた。
「その……ここって、民宿なんですか?」
「はあ……そうですけど。そこに書いてません?」
小馬鹿にしたような物言いに、ややカチンとくる。あんなのですぐに分かるかと言い返したいのを抑え、再び尋ねた。
「今、お部屋空いてませんか? その、もしかして、要予約だったり」
「もしかして、客?」
同じ単語を繰り返して、逆に尋ねられる。
それにしてもこの少年、敬語を使うのに慣れていないのだろうか。初対面の人に対して、あまりに態度が悪い。麗奈は少しむっとして、
「泊めてくれるなら」
と、強気に言い返す。
しかし少年はそんな事は気にも留めず、何故か「あぁ」と納得したように頷いた。
「泊まるんだったらどーぞ、こちらに。あ、床濡らすなよ」
「わかってるから!」
いきなり喧嘩腰になりながら、麗奈は少年に連れられて建物の中に入った。玄関に入ると、ぱたぱたとスリッパの足音がして、正面の階段から青年が降りてくる。
「ユウ! 傘も差さずに……濡れませんでしたか」
「濡れないわけないだろ。ゴミ捨てに行けって言ったのお前じゃないか」
「またそうやって人のせいに……あれ、お友達ですか?」
青年が麗奈を見つけて目を丸くする。ユウと呼ばれた少年は呆れたように首を振った。
「いや。客」
それだけ言って、少年は雨避けの為に被っていたジャンパーのフードを下ろす。麗奈は何となく少年を見上げ、思わず息を呑んだ。
フードのお陰で濡れずに済んだ彼の髪は、驚くほど綺麗な金髪だった。外国人のような薄い金色ではなく、薬で染めたようなくすんだ金色でもない。実際には薄茶色なのだが、光の当たり具合によっては金色に見える、そんな色だ。形の整った眉も、少し長い睫毛も同じ色で、これが本物であることを示していた。
隣に立って初めて気付いたが、少年の身長は麗奈とそれほど変わらない。視線の高さも同じくらいだ。同じ年頃の男の子としては身長が低い方だろうと思う。
彼は麗奈の視線には気づかず、客と聞いて驚いた顔をした青年に指示を出した。
「コウ、タオル持って来い。このままだと風邪引く。それから部屋、すぐに」
「はい……ああ、ちょっと待った! その濡れた足で上がらないでくださいよ。今あなたの分も持ってきますから」
コウと呼ばれた青年が慌てて奥へ走っていく。その背中が見えなくなってから、少年は言いつけを破って濡れた足で家に上がり、ペタペタと歩き出した。床を濡らすなって自分が言ってたくせに……と麗奈は心の中で毒づく。
しかし数歩歩いたところでタオルを抱えた青年がすぐさま走ってきて、彼を玄関に押し戻した。
「ユウ!」
「うるせーな」
少年はバスタオルを一枚取り上げて、ばさりと麗奈の頭に被せた。
「風邪引く」
「あ、はい……ありがとう、ござい、ます……」
頭を下げた麗奈は、そのまま数歩よろめいた。急に頭を下に向けたからか、眩暈がしたのだ。なんだか頭痛もするような気がする。
少年が不思議そうに麗奈の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いや、ちょっと……頭がぼんやりして」
「……手遅れだったな。コウ、部屋に布団も敷いとけ。毛布はこの間干したのがあるだろ」
「はい。すぐに用意できます」
「それと、寝巻きも新しいのを下ろせ。それから、……あー、あんた名前は」
「……高沢」
「とりあえず、これに名前だけでいいから書いて」
彼は麗奈を座らせて紙を渡し、自分はタオルで濡れた手足を拭きながらてきぱきと青年に指示を出していった。
まるで何かの司令官みたいだ、と麗奈はぼんやり思った。
*****
この大雨で、荷物はほぼ全滅だった。
下着だけはビニール袋に入れていたので濡れなかったが、あとは服も本も全て水を吸って大惨事だ。その無事だった下着と出してもらったパジャマを着て、麗奈は和室に敷かれた布団に入っていた。
「失礼します」
さっきの青年が、盆を持って入ってきた。麗奈はあわてて起き上がり、頭を下げる。
「あの……すみません、いきなり来たのに色々としてもらっちゃって」
「いいえ、お気になさらず」
彼は笑って、麗奈の枕元に盆を置く。そこには水の入ったグラスと、テレビコマーシャルでよく見る青い箱の風邪薬が載っていた。
「この薬、飲んでください。熱が高くなる前に」
「え、あの……」
「ああ、大丈夫ですよ。これは今買ってきたものですし、まだ開封していませんから」
躊躇った麗奈を気遣うように、青年はビニール包装された薬の箱を見せて微笑んだ。箱には駅前にあった薬局のシールが貼ってある。
「え、もしかしてわざわざ買いに? そんな事まで……すみません」
「買いに走ったのは私ではなくユウですが」
「ユウ、ってさっきの……また雨の中行ってくれたんですよね。どうしよう、そんなにしてもらっちゃって……」
「ですから本当に、気にしないでください。久しぶりのお客さんなんです。ユウも珍しく張り切っていましたから。……熱が上がらないうちに、これを」
麗奈は青年に小箱とグラスを手渡され、封を開けて薬を呑んだ。麗奈がグラスと薬を盆に戻すと、青年は麗奈を寝かせて布団を肩まで引き上げた。
「今日は疲れているでしょう。ゆっくりお休みください」
「本当に有難うございます」
青年が出て行くのを見送って、麗奈は溜め息をついた。
どうにか今夜は泊まるところを見つけることができた。しかしこの先どうすればいいのだろう。
早く学生の下宿をやっている家を探さなくてはいけない。
「それはまぁ……何とかなるか」
薬が効いてきたのか、少し眠気がしてきた。これからのことは明日考えればいい。麗奈は暖かい布団の中で目を閉じた。