『次は霞原、霞原です……』
 駅への到着を告げる車内アナウンスで麗奈は目を覚ました。
 首に掛けた水晶のペンダントが窓からの光を反射して揺れる。
 適度に効いた暖房と規則的な電車の振動に眠りを誘われて深く眠り込んでしまい、危うく乗り過ごすところだった。長旅のときに目的地の駅が終点でないというのは少し危険だ。絶対に眠らないと決めていたのに、やはり乗車から一時間くらいであっさり寝落ちてしまった。

 網棚からボストンバッグを降ろして電車を降りる仕度をしながら、次第に速度を落としてきた車両の窓から外の景色を眺める。萩山の最寄駅を出発したときは窓いっぱいに森や田んぼなど長閑な田園風景が広がっていたのに、今見える景色は初めとは打って変わってマンションや一軒家、住宅地ばかりだ。景色が移り変わっていく様子を見ていたら面白かったかもしれないなと少しだけ後悔した。

 目的の霞原町は萩山から、市電と特急を乗り継いでおよそ四時間の場所にある。麗奈が以前住んでいた町とは、萩山を挟んで正反対の方向だ。運良くこの町には学生向けの下宿を経営している母親の知人が住んでいたため、転がり込むことにしたのだ。高校生の下宿を快くOKしてくれた主人には頭が上がらない。

 この辺りは公立私立合わせて通学圏内に高校が多く、受験先の選択肢が豊富だ。住むのに便利そうな商店街や駅とも近く、先週下見に来たときは下宿先の主人もとても親切にしてくれた。色々調べ家族とも相談した結果、麗奈はこの町に住む事に決めたのだ。

 さまざまな手続きを終え、準備を終えて村を発った麗奈は、ようやく特急での長旅を終えて町に到着したところだった。
 駅の改札口を出て、辺りを見回した。時刻は午後三時。平日にもかかわらず、駅前の商店街は賑やかだ。麗奈が以前住んでいた田舎の住宅地と比べれば倍以上の人が行き交っている。
 プリントアウトした地図をポケットから取り出し、目的の家を探す。駅からその家までは、徒歩三十分ほど。少しだけ交通の便の悪いところがこの町の欠点かもしれない。駅から離れると住宅街があまりに入り組みすぎて、道にも迷いやすい。麗奈は慎重に地図を見ながら、下宿先を目指した。

 下宿先の近くの住宅街に入って暫く歩いたときだった。
「ワン、ワン」
「グルルル」
「ギャン!」
 近くで動物の声が聞こえた。犬が喧嘩しているのだろうか。声から察するに、複数いるようだ。

 動物好きではあるが喧嘩の最中に巻き込まれたくないなあと思いながら歩いていくと、突然、目の前に声の主達が飛び出してきた。
「うわ、何!?」
 間一髪、大きく跳んで避ける。声の主たちはもみくちゃになりながら狭い道を横切って反対側にあるコンクリート製のゴミ捨て場に勢いよく突っ込んでいった。
 とばっちりを食らわないうちに立ち去ろうと歩き出すが、気になって足を止めた。

 激しい唸り声を上げながらごみ捨て場でもみ合っているのは、三頭の獣。どうも二対一で争っているらしい。襲っている側の二頭はどちらも中型犬くらいの、三角形の耳とくるりと巻いた尾を持つ真っ黒な犬だ。毛の薄汚れた、見るからに野犬といった様相。
 一方追い詰められている方は身体が一回り小さく、飼われているのか綺麗な毛並をしていた。焦げ茶色の三角形の耳を低く伏せ、黄金色の毛並みを逆立てて牙を剥いているが、身体のあちこちに血が滲んでいて、劣勢なのは明らかだ。

「……あれ?」
 じっくり観察してみると、小さい方になんだか既視感を覚える。犬にしては尾が太い。犬というよりは――。
「もしかして……キツネ?」
 狐を道端で見かける事なんて有り得るのだろうか。近くの山から下りてきてしまったのだろうか。野生にしては綺麗な毛並みだ。近くの動物園から脱走でもしたのだろうか。

 しかし今はそんなことよりも、どうやって彼(彼女?)を助け出すかということのほうが先決だった。
 下手に手を出すと噛まれるかもしれない。しかし二対一は可哀想だよなぁ、などと考えながら、恐る恐るゴミ捨て場を覗き込んだ。

 彼らはまるで麗奈など見えていないかのようで、気にも留めない。狭いゴミ捨て場の中で牙を剝き合いながら一塊になっているため、追い詰められている狐を助け出す事もできない。
 どうしたものかと思案していると、その狐が二頭の野犬の間を潜り抜けて再び道へ飛び出してきた。すかさず犬の片割れが追い、飛び掛かる。
「ギャン!」
 黒犬の牙は見事に狐の左前足を捕え、狐は悲鳴を上げてひっくり返った。
「あっ! ……ああもう何やってんの、近所迷惑だから!」
 麗奈は周囲に人がいないことを確認して、持っていたボストンバッグを二頭の間に無理やりねじ込んだ。やっと麗奈の存在に気づいたらしい三頭が、一瞬動きを止めて麗奈を見る。
「こら、やめなさい。保健所呼ぶよ」
 言葉が通じるとは端から思っていないが、麗奈の言葉を無視して二頭は噛み付き合いの喧嘩を再開し、もう一頭の黒犬が応戦するかのように飛び掛かった。
「だめだってば! いい加減にしなさい!」
 駆け寄ってきた黒犬を咄嗟に横から捕まえ、無理矢理持ち上げる。するとその犬は急に、まるで飼い犬でもあるかのように大人しく抱かれてしまった。数秒経っても逃げようとしない。まさかこの暴れ犬を手で捕まえられるなんて思ってもみなかった麗奈は拍子抜けした。
 噛んだり暴れたりしないところを見ると、どうやら人には馴れているようだ。ということは野犬ではなく人を知っている野良犬、なのだろうか。
 これならいけると判断して、抱き上げた犬を脇に抱え、空いた手を組み合っている二頭の間に大胆にも突っ込み、大きな犬のほうを抱え上げる。
「お、重い……ほら早く、今のうちにお逃げ」
 麗奈が攻撃側の二頭を確保すると、怪我をした狐は道の端に寄って蹲った。前足を引きずっている。先程噛まれたときに深く傷ついてしまったのだろうか。

 両腕の荷物を下ろしたいが、下ろしたところでまた喧嘩が再開されるだろうことは予想できる。
「まったく……道端でこんなことして、保健所に連れて行かれちゃっても知らないよ」
 少々手間だが、麗奈は二頭の犬を狐から遠いところへ連れて行き地面に下ろすことにした。
 犬達は落ち着いたのか、もうゴミ捨て場の方へ戻ろうとはしない。興味深そうに麗奈の顔をじっと見上げて首を傾げている。麗奈はほっとして、二頭の頭を撫でた。野犬かと思ったのは気のせいだったらしい。人によく慣れている。
「そうだ。パン食べる?」
 昼食のためにと駅で買ったパンが一つ余っていたので、動物の体に良くない具が入っていないことを確認し、半分に割って二頭に見せる。すると彼らは同時に齧り付いた。
 野良犬に餌をやったらいけないという話は知っているし、そんなことをすると後を付いてきてしまうという話もよく聞いていたので、麗奈はどうやって彼らを撒こうかと考えていたのだが、二頭は食べ終わるとさっさと立ち去ってしまった。
「恩知らず……」
 今までどうやって撒こうか考えていたのに、見向きもせずにおいていかれるとそれはそれで少し腹が立つ。

 先程の場所へ戻ると、狐はまだ道端に蹲っていた。怪我した左前足から血が止まらないのか、ずっと傷を舐めている。
 逃げるだろうなと思いながらも、静かに近付いてみる。どこかで飼われているのだろうか、野生動物かと思っていたのにこちらも逃げようとはせず、顔をあげて金色の瞳を麗奈に向けた。
 傷が深いのか、舐めるのをやめた前足からは血がぽたりぽたりと地面に垂れている。麗奈が手を差し出すと、狐は少し警戒するように匂いを嗅いで、再びこちらの顔を見上げた。試しに頭にそっと触れて、そのまま背中、肩へと手をスライドさせ、怪我した前足を握って持ち上げる。狐は麗奈の手を目で追っただけだった。どこかで飼育されているのだろうか、人馴れしているらしい。足に触れても嫌がらないのを確かめて、麗奈は鞄から取り出した自分のハンカチで狐の足を縛ってやった。
「おうちに帰ったらちゃんと消毒してもらうんだよ」
 軽くぽんと頭を撫でて、麗奈は再び目的の下宿先に向けて歩き出す。
 狐はゆっくり立ち上がり、ハンカチを巻かれた左の前足を浮かせたままでぴょこぴょこ跳ねるようにして、麗奈とは反対方向へ走っていった。

*****


「……やっと着いた」
 道に散々迷った挙句、一時間かけてなんとか下宿先に辿り着いた麗奈は、表札を確かめて門の横についたインターホンを押した。
 待つこと数秒。
 ばん、と勢いよくドアが開かれて、この家の中年女性が飛び出してきた。
「麗奈ちゃん! やっと来てくれたのね、ずっと待っていたのよ! まさか迷っちゃったの?」
「はあ、まあ……」
 そのまさかである。
 狐を見つけて寄り道したせいで、あの後自分のいる位置が解らなくなってしまったのだ。
 曖昧に笑ってごまかすと、女性はそれどころではなかったと呟いて、麗奈を招き入れた。
「あのね、今ちょっと大変な事になっちゃってて」
 麗奈を玄関に入れるなり、女性が切り出した。
 家の中は服や鞄などが散らかっていて、片付ける暇もないほど忙しかった事が伺える。
「さっき、うちの旦那が倒れちゃったのよ。すぐに大きな手術をしなきゃならないらしくて。だから急遽、下宿してる人たちには申し訳ないんだけど、別のところに移ってもらう事になったの」
「えっ?」
「本当に急な事で、電話もできなくてごめんね。旦那がすぐにまた働けるようになるとは限らないし、手術やら入院やらに費用もかかるから、学生さん達の面倒みてあげるだけ暇もお金もないのよ……。だから、何時間もかけてきてくれたのにごめんなさい。一度家に帰って、別の下宿先を探してもらえるかしら?」
 あまりに突然のことに、理解が遅れる。数時間かけてここまで来たというのに。
「……そういうことなら仕方ないです……よね。忙しいのにすみませんでした、旦那さんにお大事に伝えてください」
 フル回転させた頭でなんとかそれだけ返す。
「本当にごめんなさいね。落ち着いたら、また連絡するから。その時は良かったらうちにいらっしゃい」
「はい、分かりました」
 本当に申し訳ないと何度も繰り返す彼女の手を煩わせるのは申し訳なくて、麗奈は女性に頭を下げて玄関を出た。
 ドアが閉まる瞬間にふと振り返ると、女性がバタバタと部屋の奥まで走っていくのが見えた。
(大変だな……)
 麗奈は溜め息を吐いて、親に連絡するために鞄から携帯電話を出し、――画面に映った文字を見て絶句した。
『充電してください』
「げっ」
 これでは連絡ができない。
 目の前に元下宿先の家はあるが、だからといって忙しいところを再び邪魔して電話を借りるわけにもいかない。
 とりあえず駅まで戻るか、と結論を出して歩き始めたとき、
「もしかして今日からここに泊まるっていってた子かな?」
 背後から声をかけられた。
 麗奈が振り返ると、後ろに立っていたのは麗奈より幾つか年上と思われる青年だった。小さなトランクを引いている。
「そうですけど……」
「ああ、オレ、今までここに泊まってた者です。急に親父さん倒れちゃって、追い出されちゃって……もう聞いたかな?」
「ああ、はい。だから今、とりあえず駅に戻ろうと思って」
「……駅? 駅はそっちじゃないけど」
「はい?」
「方向が反対だ。あっち」
「えっ、でも今こっちから来たんですけど」
「てことは、君は恐ろしく遠回りをしたんじゃねーかな」
「……そうですか……ですよね」
 散々さまよったのだ。自分がどの方角からどのルートで来たかなど覚えているはずもない。少年は顔を赤くした麗奈を見て苦笑した。
「一人なんだろ、気をつけなよ。最近物騒だから、暗くなる前に帰ったほうがいい。駅はこの道まっすぐ行けば、案内板があるからすぐ解る。間違えないようにね」
「はい。ありがとうございました」
「じゃあ気をつけて」
 麗奈が去った後もしばらく、少年はその場で麗奈の後ろ姿を見送っていた。そしてポツリと呟く、その声は麗奈の耳には届かなかった。
「あの子だな……」

 親切に駅の方向を教えてくれた青年と別れて、麗奈は駅へ向かった。言われた道を行くと、行きの半分以下の時間で駅に着いた。やはり、かなり遠回りしていたらしい。案内板と自分が頼っていた地図を比較してみると、どうやら手元にあった地図は数年前のものらしい。今とは道が変わっていたことが判った。
「……こんなの迷わないわけないじゃん」
 今どきGPS付きの地図アプリがあるんだから、そっちを使えばよかった。電池ないけど。
 自分は一度あの家に行っているという事実を忘れて、麗奈はぼやいた。
 駅員に尋ねて公衆電話を見つけ、久しぶりに使うテレホンカードを差し込んで、番号を押すことが少ないので忘れかけていた母の実家へ電話をかける。
『もしもし、お母さん?』
『あら、麗奈? これ公衆電話よね。どうしたの、携帯は?』
『電池切れちゃって。あのね……』
 麗奈は先程の、下宿先での話を掻い摘んで伝えた。母はふぅんと考え込んで、軽い調子で尋ねてくる。
『一旦帰ってくる?』
『そうしたいけど……切符買うお金が』
 霞原から萩山までの長距離切符は高額だ。今はまだ手元にそんなに現金を持っていなかった。銀行で下ろせば用意できなくはないが、ただでさえ霞原に来たばかりだというのに、無意味に往復払うのもなんだか癪だ。
『そうね。じゃあ、どこか他に泊まるところを探しなさい。後のことはそれから考えればいいし』
『探しなさいって……そんなに簡単に見つかるかな』
『その辺り、私立高校も大学もあるから、学生街でしょ。ビジネスホテルや小さな民宿もあるし、下宿やってるところ結構たくさんあるから大丈夫よ。……あ、そうそう、お祖母ちゃんが麗奈に、暫くの間は人通りの少ないところをあまり一人で出歩かないようにって』
『え? 何で?』
『別に大した事じゃないわよ。最近物騒だから』
『そう……? カードがなくなりそうだから、一旦電話切るね』
『何かあったらまた電話しなさい。それじゃあ』

 電話を切った後、麗奈はふと首を傾げた。
「最近物騒だから」
――先程も、同じことを下宿先の前で言われたような気がする。
(あたし、そんなに心配されるほど可愛かったかなぁ?)
 斜め上の誤解が生まれた。

*****

 その頃、萩山神社。
 若者と初老の女性が楽し気に立ち話をしていた。アルバイトの萩と、麗奈の祖母である。
 その途中で、萩が階段を上がってくる気配に気づき、祖母に視線で知らせる。
「あら。咸子」
「お母さん、やっぱりここにいた。今麗奈から電話があったところよ」
「どうかしたの?」
「サッちゃんとこの下宿、急遽ダメになっちゃったんだって。旦那さん倒れたとかで……」
と、咸子は娘からの話を母に伝えた。

 背中を向けて手を動かしてはいるが、萩も聞き耳を立てているのは明らかだった。話し始めてから、持っている箒が同じ一メートル四方内を延々と往復し続けているからだ。そこだけ砂利がなくなって、下の地面が露出し始めている。
「やっぱり迎えに行くべきかな?」
「その必要はないわ。連絡があったら迎えに行けばいい」
「……本当に大丈夫かしら?」
「心配性ねー」
「だって……気になるものは気になるわよ、娘のことだもの」
「僕も」
 突然萩が口を挟み、二人の視線が集中する。深刻な顔をする彼に、咸子が声を掛けた。
「どうかした?」
「僕まだ麗奈には何も話して聞かせてない。だから麗奈は何も知らない……」
「もう、大丈夫大丈夫!」
 孫の心配などしていないかのように、けらけらと祖母は笑った。
「親バカ二人とも、揃って心配性なんだから。私が平気だと言うのだから平気よ」
 根拠の出処が分からない自信に少し不安になりつつ、しかし彼女の言葉を信用して、萩と咸子は視線を交わし、苦笑した。