深夜0時、揺れない電車で絶望する。

◻︎◼︎◻︎

佐藤みつ梨(さとうみつり)・26歳。広告系デザイン会社勤務のグラフィックデザイナー。

今夜はもともと少しの残業をするスケジュールではあった。
けれど、19時半を過ぎた段階で『これも明日デザインチェックしたいから』と、チラシのデザイン原稿を渡されたのは想定外のこと。
『わからないことがあったらなんでも聞いてくれ』と言っていた上司は、それから15分ほどで退社していった。
もう新米のデザイナーって歳でもないから、よほど特殊な要望でもなければ、チラシのデザインくらいは自力でできる。
だけど文字情報をしっかり読み解いて、どこをどう読ませるかメリハリをつけたデザインを完成させるには、どうしても時間がかかる。

そして22時を過ぎて働くための深夜残業申請をして、退社できたのが23時30分。

予定を大幅に上回る残業。

疲労困憊で会社を一歩出たらポツリポツリと雨粒が当たって、バッグから折りたたみ傘を取り出す。
夕飯はあきらめて、さっさと帰宅してシャワーを浴びて眠りにつきたい。
ただそれだけ考えて駅に向かった。
これでも「明日もなるべく早めに出社しよう」なんて思っているのだから、会社員の鑑な自分自身に感心と同情を寄せる。

なんでもいいから、とにかく一分でも早く帰って一秒でも長く眠りたい。

たったそれだけが私のささやかな望みだったのに、神さまっていうのはかなり意地悪な性格をしているようだ。

0時近くまでの残業なんて職業柄よくあることだ。
駅のホームについた瞬間に電車が乗り入れて来たんだから、それなりに運の良い一日の締めだと思った。
乗り込んだ電車は、平日深夜という時間のせいもあって人もまばら。余裕で座れる。
心の中で「ふ〜〜〜」なんて、年齢も性別も超越したような大きな息をついて着席する。

それから2駅分進んで、さらに駅を出発して3駅目に向かっている時だった。

——キキィーーーーーッ!!

「えっ」
ブレーキの音を響かせて、電車が止まった。
ただ事じゃないとすぐにわかる止まり方。

それだけなら大丈夫だった。
ただ電車が止まっただけなら。

だけど、電車が止まって1分も経たないうちに車内灯が明滅したかと思ったら真っ暗になって絶望する。

マズい。

〝満員電車よりはマシだ〟と自分に言い聞かせる。
それでも鼓動がどんどん速くなって、冷や汗なのか脂汗なのかわからないものが滲んでくる。

「大丈夫ですか?」

誰かが心配そうに声をかけてきた。
明るい時に見たこの車両には、私の席の対角線上に飲み会帰りの学生らしき女性二人と、私の近くにサラリーマン風の男性が一人乗っていた。
ということは、彼だ。
彼は私の座る端っこの座席の低い壁を隔てた横、ドアの前の空間に立っていた。
「なんか、息が苦しそうですけど」
彼の指摘は正しい。
鼓動が速くなっているのと同じだけ、呼吸も乱れている。

これは、私が抱えている一番の問題。

「あの……」
「はい?」
「すみません……電車が動くまで、話しかけ続けていていただけませんか?」
「え?」
「あの、なんていうか、私、ダメなんです。閉塞感のある場所とか暗闇とか」
「ああ、たしかに少し閉塞感もあって暗闇だ」
彼は落ち着いた声で言う。

この車両に乗客はたったの4人だけど、窓はすべて閉まっていて外は雨。
深夜の線路上という自由に出入りできない空間には閉塞感がある。

「それでその……だれかと話していないと、不安になって、か、過呼吸になってしまうんです」
こんなこと、たまたま居合わせただけの初対面の人間から言われたらきっと面倒だ。

「うーん……じゃあ、しりとりでもします?」

面倒がるどころか、まさかの提案。

「あ、あの、しりとりだと考えてる時間に沈黙してしまうので」
「で、すよね。すみませ、ん」
今、「で」と「ん」を少し強く言った。
勝手にしりとりをして、勝手に終わらせた。
なんかちょっと……変な人かもしれない。
心配してくれたんだから、悪い人ではないんだろうけど。

「じゃ、落語でもやりましょうか」
「え、なんで」
「大学時代は落研(おちけん)だったんで」
「そうなんですか」
「まあ、嘘ですけど」
「え? ……は?」
「いや〜こんなときのために、落研入ってれば良かったなって。友だちの誘いを断った大学一年の自分を叱りたいです」
なんだこの人。

『えー、ご乗車中のお客様にお知らせいたします』
やっと車内アナウンスが入った。

『現在、この電車の一本前を走ります電車が、ホーム上のお客様と接触したとの連絡が入りました』
一本前が事故。
この電車じゃなかっただけ良かったのかな。

『そのため、こちらの電車も緊急停止いたしました』
「この時間に事故か〜。酔っ払いですかね」
「そ、そうですね……」
前を走っていた電車に進路を塞がれているところを想像してしまうと、また呼吸が乱れる。
後ろにだって電車が止まっているはずだ。

『えー、こちらの電車については、架線の接合部に停車しておりますため、一時停電しております。復旧まで今しばらくお待ちください』
少し移動してくれればいいのに。
こういうとき、電車って結構融通がきかない。

「接触事故ならそんなにかからず復旧するかな。何の話しましょうか」
「な、なんでもいいです。中身なんか無くったって」
「座ってもいいですか?」
「どうぞ」と言い終える前に、彼は私の左隣に腰を下ろした。背負っていたリュックを前に抱えて。

「パンダのしっぽって何色か知ってます?」

確かになんでもいいとは言ったけど、パンダのしっぽの話って。
……それは白か黒かの二択だ。
「……白」
「自信あります?」
動物クイズ大会?
「自信っていうか、知ってます。仕事でミスしたことがあるので」
「ミス?」
「……パンダのイラストのフリー素材を使ったら、そのイラストのしっぽが黒で、クレームが入りました」
つい仕事のミスを思い出して、なんだか余計に息苦しくなる。
「うーん……ってことは」
彼は腕を組んで何かを考えている。

「保育園の先生」

「え?」
「あなたの職業」
また急に何を言い出すのか。
「ちがいますけど」
「パンダのイラストを使う仕事から想像してみたんですけど。じゃあパン屋さん」
「〝パン〟だけに……ってことですか?」
暗がりに慣れた目で、彼がこの決しておもしろくはないダジャレに満足げにうなずいたのがわかった。
どうせこの場限りのことだろうし、職業くらいは明かしても問題無いだろうか。
「もっと単純です。デザイナーなんです、パンフレットとかチラシとか作ってる。フリー素材を使うって、仕事ではあんまりしたくないんですけどね」
「予算の都合とか」
「です」
低学年向けの塾のチラシをデザインする、低予算の案件だった。

——『佐藤さんが責任持って調べてくれないと、営業の僕がお客さんに謝らなきゃいけないんですよ』

あの時の営業担当者の言葉はもっともだ。

無料で商業向けにも使えるようなイラスト素材には、情報の正しさが保証されていないものも混ざっている。
そんなことわかりきっているんだから、もっときちんと確認するべきだった。

思わず「ふぅ」と、ごく小さなため息をついた。

「ていうか、保育園の先生がこんな時間まで仕事して電車に乗ってたらブラックすぎません? パン屋さんだって」
言いながら思わず「クスッ」と笑ってしまった。
「それもそうか」
彼も小さく笑ったようだ。
「だけど、俺たちも大概じゃないですか? こんな時間の電車に乗ってて」
「……私は勝手に残業しているだけなので。それにデザイナーの仕事ってこんなものですよ」
「勝手ってことはないでしょ」
「でも——」

言いかけたところで「ガッ」と音がしたかと思ったらゆらっと車両が少し前進して、車内灯がふたたび明滅した。
そして今度は車内を明るく照らす。
それだけでさきほどまでとは比べものにならないくらい安心する。

「とりあえず、明かりがついて良かったですね」
声をかけられてハッとする。
照明に気を取られていたけど、隣に彼がいるんだった。

左の少し上を見ると彼の顔がある。
同い年か少し年上くらいの、短髪にスーツの男性。
抱えているのはノートパソコンが入っていそうなグレーのリュック。

暗闇では息苦しさと恐怖に押しつぶされそうでそれどころではなかったけど、冷静になればやっぱり見ず知らずの人に図々しいお願いをしてしまっていた。

「あ、ありがとうございました。お話ししていただけて助かりましたっ」
座ったまま、焦ってぺこぺこ頭を下げる。
「あれ? もう終わり? 〝電車が動くまで〟じゃないんですか?」
さっき、たしかに私がそう言った。
だけど妙な安心感を与えるような、穏やかで落ち着いた声色で微笑まれるとかえって気恥ずかしい。
社交的なタイプではないから、急にどうするのが正解なのかわからなくなって困ってしまう。

悩んでいると「ジジー……ッ」と、ファスナーの滑る音が聞こえる。

「キャラメル好きですか?」

彼がリュックから取り出したのは、おもちゃのオマケがついた、箱入りのキャラメルだった。
「え……はい、まあ」
パッケージのテープをクルッと一周させて封を開ける。
「じゃあ、はい」

彼に促されて差し出した手のひらに、白い個包装のキャラメルがひと粒。

袋を開けて丸い粒を口に入れる。
数年、下手したら十年以上ぶりかもしれない甘さが口に広がる。
でも……
「こんな味でしたっけ?」
「ひさびさですか?」
コクッとうなずく。
「なんか、一瞬柑橘みたいな風味を感じたような」
「へえ」
そう言って彼もひと粒口に入れた。

大人が二人、電車のシートに座って無言でキャラメルを舐めている。

「うーん柑橘……?」
目を閉じて、眉間にシワを寄せている。
「あ……勘違いかもしれないです」
「いや、俺これしょっちゅう食べてるから、自分の中で味のイメージが固定されてるのかも」
「でも、昔はそんな風に感じなかったし」
「食品て、知らない間に結構マイナーチェンジされてるんですよ。ひさびさだったら味が変わってる可能性はあります」
箱の原材料の欄を見ながら彼が言う。
「あとはまあ、体調とか状況でも変わりますけどね」
状況で味が変わると言うなら、今の状況はかなり特殊な気がする。
「……でも、なつかしい感じはします。安心する味」
キャラメル味のお菓子やキャラメルラテなんかはよく口にするのに、キャラメルそのものを食べる機会は減った。
口に入れた瞬間のコロコロとした触感もどこかなつかしい。

「キャラメルって四角いのが多いのに、なんでこれは丸いか知ってます?」

今度はキャラメルクイズ。
この人のペースにもなんとなく慣れてきた。
「かわいいから、とか」
「食べるたびに角の無い優しい気持ちになるようにって、願いが込められてるらしいです」
「え……そうなんですか?」
知らなかった。なんだか素敵な理由。

「嘘ですけど」

「………」
ちっとも慣れてなんていなかった。
「そういう理由だったら良くないですか? って思って。本当の理由はもっと合理的です」
「合理的?」
「このキャラメルのサイトに書いてあります」
箱に書かれたウェブサイトの情報をこちらに向けてくる。
「……普通、見なくないですか? キャラメルのサイト」
そもそも、オマケつきのキャラメルを大人が〝しょっちゅう〟食べているのもレアケースなんじゃない?
「あ、お子さんと?」
「子どもどころか、結婚もしてないです」
苦笑いで言われてしまった。
「どんなものにもいるんですよ、マニアって。案外おもしろいですよ、キャラメルのサイトも」
「キャラメルマニア……」
本当か嘘か、この人の言葉はわからない。

「さっきの」
「さっき?」
「勝手に残業してるだけ、なんてことないでしょ」
「でも、私がもっと速くデザインできれば良いし、それに……」
「それに?」
「私が……満員電車に乗れなくなったのが悪いんです。フレックス制に甘えて、ラッシュを避けた時間に通勤して遅くなってるので」

フレックスタイム制の勤務スタイルは、会社が決めたコアタイムと呼ばれる数時間を含んだ規定の時間働きさえすれば、始業と終業の時間は自分で決められるというものだ。
私は始業も終業も他の人たちより遅くして、通勤や帰宅の満員電車を避けている。

「満員電車なんて、乗りたくて乗ってる人間はいないんじゃないですか?」
「でも乗ってる」
「俺も毎朝、ケガでもしそうだなって思いながら乗ってますよ。早起きできれば避けられるのになーって思いながら、毎日なぜか通勤ラッシュに揉まれてますね」
また苦笑い。
「〝満員電車を避ける〟って同じ目的なのに早起きだったら褒められて、フレックスで遅く行ったら〝甘え〟になるってことはないでしょ。制度を上手く使いこなしてるだけで」
「そう……ですかね」
彼はコクリとうなずく。
「あ、だからって満員電車にしか乗れない俺も甘えてるわけじゃないんですよ。15分の二度寝っていう幸せを毎朝自分に提供できててえらいです」
そう言いながら小さくピースをされてつい、「ふっ」と笑ってしまった。
「通勤ラッシュの満員電車に乗ってて甘えはあり得ないです」
私にはできないポジティブな考え方がうらやましい。

「いつから乗れないんですか? 満員電車」

「………」
「嫌なこと思い出させちゃいますかね?」
おかしな言動をしたかと思えば私の表情を読んで気を回す。本当に変な人。

「……一年くらい前から」
キャラメルの味だけが残った口でぽつりと答える。

「原因はあるんですか?」
「ひとつじゃなくて……複合的なことなんです。残業も続いて、ミスもしてしまって、それにあの頃は恋愛もうまくいかなくて……」
あの頃を思い出すと、どうしても息が苦しくなってしまう。
「それでもいつも通り、電車に乗ったんです。通勤の人で押しつぶされそうなくらい満員になった電車に——」
「無理しなくてもいいですよ」
呼吸の乱れた私を気づかってくれる。だけど私は首を横に振る。
「聞いて、もらってもいいですか?」
吐き出してしまいたい。

「あの頃、会社で毎日のように怒られて、へとへとになって家に帰っても身体は休まらなくて、彼氏に会ってもケンカばかりでした。せめて仕事の悩みを、私を否定せずに聞いて欲しかったんです。でもそれも叶わなくて……」
彼は黙って聞いていてくれる。
「それで、朝、満員電車に乗って……ドアが、ドアが閉まった瞬間に、〝逃げられない〟って思ってしまって」
身動きが取れないくらい車内はぎゅうぎゅうで、周りからは殺気立ったようなため息やケンカするような声が聞こえた。

——『佐藤さん、これちょっと修正が多いんですけど、今日中の提出でお願いします』

——『納期が短いからって、ミスは他人のせいにしたらダメだろ? みつ梨の責任だよ。こんなところで愚痴ってたって何にもならないよ』

——『ちょっと! 肘がぶつかってるんだけど』

「それで、頭が真っ白になって〝降りなくちゃ〟って思って」
だけどその電車は運悪く特急電車で、長い間止まってはくれなかった。
「それで本当に苦しくなってしまって。だけど、たまたま近くにいた女性が『大丈夫ですか?』って声をかけてくれて」
『もう少しで次の駅ですよ』って何度も言って、私を落ち着かせようとしてくれた。
「それで次の駅で降りて、しばらく電車を見送って、空いている電車でその日は……なんとか会社に行きました」

「ふうっ」っと大きく一回呼吸する。

「だけど、次の日の同じ時間に電車に乗ろうとしたら、ドアが開いた瞬間に怖くなってしまって。それで、電車を10本以上も見送ってやっと乗れて……それからは通勤ラッシュを避けるようになりました」

「……失礼ですけど、病院へは?」
「今も……ときどき通ってます」
「会社は休んだりしなかったんですか?」
また首を横に振る。
「一応、上司にだけは相談したんですけど、休むとは言えなくて」
「どうして?」
「……なんか、周りに知られるのが恥ずかしくて……情けなくて。本当は、ダメですよね」
この場ですら、弱い自分が恥ずかしくなってしまう。いたたまれなくなって落ち着かなくて、ゆるく握った拳を押しつけるように額に当てた。

少しの間、沈黙が訪れる。

閉塞感とはまた違った息苦しさ。
こんな話を聞かされて、きっと面倒だと思われているんだろうな。

「俺は——」
思わず、沈黙を破った彼の方を向いた。

「医者じゃないんで、いい加減なことを言いますけど」
「………」
「それで良いんじゃないですか? 会社を休む方が辛いなら、休まなくて」
言いながら、キャラメルをもうひと粒くれる。
「休んでリフレッシュも良いですけど、長期間休むことに後ろめたさを感じる人もいるだろうなって思ってて」
それは私のことだと、手のひらのキャラメルを見ながら思う。
「だったら、長く休まなくても良いんじゃないですかね」
「……そうですか? 母や友だちには休めって言われますけど」
みんなが私を心配してくれているのはわかっている。
それでも時々、休まないことを責められているんじゃないかと感じてしまう。

「休むなって話じゃなくて、休み方もいろいろあるって話」

「いろいろ?」
彼は穏やかに微笑んでコクリとうなずいた。
「有休を使って2、3日休んで旅行に行くとか、半日休んで好きなアーティストのライブに行くとか、午前休なら長く寝るとか、それに仕事の合間にキャラメルを食べるとか」
「……それ、ただのおやつ」
無意識に怪訝な顔をしてしまったかもしれない。
「仕事中でも〝食べるたびに角の無い優しい気持ちになる〟って結構良くないですか?」
「え、でもそれは嘘なんですよね?」

「自分がそう思えば、そうなります」

「そうかなぁ……」
眉を寄せつつ、キャラメルの小さな袋を開けて口に放り込む。
また、ほんのり柑橘の風味を感じた。
「まあでも、有休くらいは……取ってみようかな」
口の中でキャラメルを転がしながら言う。
今の会社に入社してから、あまり積極的に有休を消化してこなかった。
「残業もほどほどに。休み方はいろいろだけど、睡眠は大事ですから」
「そう言うあなただって、こんな時間まで残業してるじゃないですか」
「ああ、今日の残業は——」

その瞬間、「ガタッ」と車体が揺れる。

『大変長らくお待たせいたしました。安全確認が終了しましたので、運転を再開します。揺れますので、お立ちのお客様は——』

「やっと運転再開か。これで帰れますね」
「ですね」

時刻はもう、0時半をとっくに回っていた。
窓の雨粒と、それ越しに見える夜の街がゆっくりとスライドし始める。
ガタンゴトンという当たり前の揺れすらも、特別なもののように感じる。
なんだかすごく長かったような、短かったような。

「俺は今日、パンダのしっぽが白じゃなくてもいいんじゃないかって、上司を説得するための資料を作ってて大残業してました」
彼の発言に、思わずため息をついて苦笑い。
「またそんな嘘」
「嘘じゃないですよ」
「だったら見せてくださいよ、証拠」
「企業秘密です」
彼はニヤリとイタズラっぽく笑う。
やっぱり嘘なんだ、って私は眉を下げてまた苦笑い。
「動物園にいるパンダも今まで発見されてるパンダも、たしかにしっぽが白いんでしょうけど、山奥にいるまだ見ぬパンダのしっぽは黒かもしれないし、ピンクかもしれないし、虹色かもしれない」
「そんなわけ……」
「パンダって、指が6本だって知ってました?」
「え? 嘘」
「嘘です」
呆れを顔に出してしまう。
「7本です」
「どうせそれも嘘」
「残念ながら、これは本当です」
彼はスマホで素早く検索した画面を見せてくれた。
【パンダの指は7本ある】なんて見出しが目に入る。
「だけど、25年くらい前までは6本だっていわれてたらしいです。まだ見ぬパンダどころか、目の前にずっといたパンダにだって知らないことがある」
「パンダマニアなんですか?」
私の質問に、彼は「フッ」と読めない笑みを浮かべた。
「言いたいのは、予算も出さない案件のパンダのしっぽが黒いくらいでクレームを入れるような人間は視野が狭いってことです。狭量な人間だ」
「間違えたのは事実です」
「真面目に仕事して、ミスに対しては謝ったんなら、もう忘れていいんじゃないですか。自分の中のまだ見ぬパンダのしっぽは黒ってことにして」
「私の中にもいるんですか? まだ見ぬパンダが」
彼が自信ありげにうなずくから、思わず「ふふ」っと吹き出すように笑ってしまった。
この人に本気なのか冗談なのかわからない軽いノリで話を聞いてもらえたのは良かったのかもしれない。

『まもなく深端(みはし)〜深端です』

「あ、俺降ります」
「え、あ、そうですか」

なんだか急に現実に引き戻される。
たまたま乗り合わせて、苦しそうにしていた私の話を聞いてくれた人が電車を降りる。それだけのことなのに。

「これどうぞ」
席から立ち上がった彼が振り向いて、私に何かを差し出す。
キャラメルのオマケの箱だった。
「何が出るか楽しみですね」
「はい……」
短い時間だったのに、妙に名残惜しいと思いながら箱を見つめる。

「あなたと話せて良かったです」

「え?」
私は顔を上げて彼を見た。
「何か月前だったかな、朝の少し混んだ電車で苦しそうにしている女性がいて」
彼の話に心当たりがある。
ラッシュを避けても、途中の駅で予想以上に乗客が増えて息苦しくなることがある。
「声をかけることができずにいる間に次の駅で降りてしまって」
間違いなく私だ。
「じゃあ……」
「今日、電車に乗って驚きました」
だからすぐに、私の異変に気づいて声をかけてくれたんだと理解する。
「あの、ありがとうございました」
彼が笑ったのと同時に、電車が駅に着いて停車する。

「プシューッ」と鳴って、私が座っている席と反対側のドアが開く。

「じゃあ、おやすみなさい」
そう言って彼は背を向け、近くのドアに向かう。
「あの……っ」
「え?」
「あ……いえ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
二度目の挨拶をして、彼は電車を降りて行った。

名前や連絡先を聞こうかと思ったけど、一瞬で恥ずかしくなって気持ちを引っ込めた。

〝こんな気持ちは、いわゆる吊り橋効果みたいな勘違いだ〟

そう思いながら、彼の置き土産の箱を一周回してながめてから開けてみる。

「え……」

中から出てきたのは本物の木でできた小さな木馬。

——と、メッセージアプリのIDが書かれた小さな紙。

「いつの間に……」
ぽつりとつぶやいた。

◻︎◼︎◻︎

電車の夜から3か月半。
あの夜から今日に至るまで、結局私は彼にメッセージを送れていない。

〝何を話せば良いのかわからない〟

〝ナンパ慣れしている人なのかもしれない〟

〝あれから時間が経ってしまった〟

そんなネガティブな思考回路を言い訳にして、踏み出すことを躊躇ってしまった。

お礼を言えば良かったはずだし、色恋的なものが始まると決まっていたわけでもないのに、タイミングを逸してしまった。
電車でまた会えるかもしれないと淡く期待していたけれど、その機会も今のところ訪れていない。
後悔で胸がチクリと痛む。

そして、だんだんとあの夜の記憶が現実の色を失っていく。

だけどあの夜は確かに存在した。

「あー佐藤さん、またキャラメル買ってるー! デスクがおもちゃだらけじゃないですか」
隣の席の後輩女子・塩沢さんに指摘される。
「いいでしょ? 仕事中の数少ない癒しなんだから」
あの日の翌日から、私の仕事のお供はオマケつきのキャラメルになった。

あの時の木馬がいつもデスクで私を迎える。
それに、キャラメルを食べるたびに落ち着いた優しい気持ちにもなる。

木馬と同じシリーズのおもちゃも、同時に展開されていた別のシリーズもすっかりコンプリートしてしまって、最近はまた違うおもちゃのシリーズが始まったのを楽しみに集めている。
「今回は何ですか? この前はシマシマのキリンでしたよね」
「塩沢さんもなんだかんだで楽しみにしてるよね」
笑いながら、箱を開ける。

新シリーズは『空想アニマル』という、再生プラスチックで作られたちょっとだけ現実離れした動物のフィギュアだ。
「あ、パンダ」
箱から顔をのぞかせたパンダに、思わずあの夜を思い出す。

「え……」

パンダを箱から出した瞬間、言葉を失う。

「わ! かわいい! しっぽが虹色だ〜!」

明るくリアクションする塩沢さんに言葉を返すのも忘れて、急いでパソコンの検索画面にキャラメルの商品名を打ち込んだ。

——『案外おもしろいですよ、キャラメルのサイトも』

彼の言っていた通り、そのウェブサイトには想像以上にさまざまなコンテンツがあって情報が充実している。
その中からオマケの紹介ページを探し出して、ドキドキしながら震える指先でクリックする。
「嘘……」

【まだ見ぬパンダのしっぽは黒かもしれないし、ピンクかもしれないし、虹色かもしれない。固定概念にとらわれない想像力を忘れてほしくない、そんな気持ちを込めてこのシリーズを企画しました。 企画・デザイン:唐橋環(からはしめぐる)

そこに書かれていたのは、あの夜の彼の言葉だった。

「え? 佐藤さん、泣いてます!?」

驚きすぎて目に涙を滲ませたまま、思わず「あはは」と笑う。

「もー嘘でしょ〜!? こんなの予想外すぎる」

泣きながら笑う私に、理由のわからない塩沢さんが困惑していて少し申し訳ない。
だけど私にだって自分の感情をどうすることもできない。

仕事帰り、電車に揺られながらメッセージを打ち込む。

【キャラメルが丸い理由は、角を無くして口当たりを良くするためだったんですね。でも私は唐橋さんの言っていた理由の方が好きです】

さて、どんな返信がくるだろう。

fin.