じりじりとコンクリートを焼く日差し。暑さを訴えているかのようなセミの大合唱。こめかみを伝って流れていく汗。
「あっつ……」
いくら川のせせらぎを感じられる河川敷だろうが橋の下の日陰だろうが、夏の暑さは誤魔化されなかった。手にしている本であおいでみたところで当然変わるはずもない。
小さく息を吐いて脇に置いていたペットボトルを手に取れば、喉を通っていくのは生ぬるい水。清涼感なんてちっとも感じられないが飲まないよりはマシだろう。
そう自分を納得させてぬるくなってしまったペットボトルを再度脇に置き、再び本を手にした。
先ほどまで読んでいたページを開けば残りはあと半分ほど。この調子なら日が暮れるまでに一通り読めるはずだ。
だが本に集中したのも束の間、背後から聞こえた声に呼び戻されてしまった。
「やっほ、あずくん」
「……蛍」
「もう、子供の頃みたいに『ほたちゃん』って呼んでくれたらいいのに」
「呼ばない」
振り返ればそこに立っていたのは幼馴染で二つ年上の蛍。会うたびに子供の頃の呼び方を求められるが応えるつもりはないから毎回このやり取りをしている。
お決まりの会話に満足したのか、蛍は俺の持っていた本に気づいて指さした。
「それ、今度出るやつ?」
「うん」
「ドラマ?」
「いや、映画」
読んでいた本――それは、出演が決まった映画の台本。
メインを張るような役どころではないから本来であれば自分の出演場所だけ覚えていたらいいのだが、どうにも自分は一通り頭に入れないと作品の世界観や自身の役柄に入り込めないタイプだった。器用貧乏だと自分でもつくづく思う。
「久しぶりだね。人気子役、折島梓の映画出演」
「元、な」
「なんでそうやって卑屈になるかなぁ?」
「そりゃ国民的女優に言われたら嫌味に聞こえるだろ」
子役としてデビューし、今や現役女子高生にしてドラマや映画に引っ張りだこの人気女優。それが俺の幼馴染――青野蛍の現在のプロフィール。
蛍のデビュー作は俺のデビュー作でもあり、そうなったきっかけは母親同士が結託して応募したオーディション。そこで姉弟役として抜擢された俺たちはありがたくも世間から評価され、子役としての人生を共に歩み始めた。
だが、時が経つにつれ二人揃っての出演は少なくなり、明らかに俺へのオファーが減り始めて。それはあまり愛想や子供らしい可愛げのなかった自身の性格が原因であり、にこやかで明るく受け答えのできる蛍が生き残るのは必然だと子供ながらに理解していた。
高校一年生になった現在はもうオファーなんて来ないし、オーディションで運よく選ばれたってほとんど台詞の無いような端役。それでも一応、まだ役者の端くれではある。
もしも今、演技が好きかと問われたら俺はきっと『嫌いじゃない』と答えるだろう。手放しに好きだと言える時期はとっくに過ぎ去ってしまったのだから。
落ちぶれた元人気子役、折島梓の現在はそんなどうしようもない状態だ。
「あずくん?」
「……ごめん、考え事してた」
隣を見れば頬杖をつきながら俺の顔を覗く蛍は、ナチュラルだがきちんと施されたメイクやシャツにパンツという落ち着いた服装のせいか随分と大人びて見えた。
そりゃそうか、蛍はもう高校三年生。もうすぐ成人年齢だって迎えるのだから大人にも見えるだろう。
上京してしまい物理的に距離が開いたことだけじゃない。役者としてのポテンシャルや、変わることのない年齢差。他にも様々な要素が絡み合って、蛍の存在は子供の頃と比べてはるかに遠くなってしまった。昔は手を繋いで横並びで歩いていたっていうのに。
悔しいような寂しいような、何とも形容しがたいそんな心情を知られないために、すかさず蛍に向けて質問を投げかけた。
「そういえば今って撮影期間じゃないの」
「ちょっと時間できたからさ、たまには地元で息抜き」
「ふぅん。こんな何もない場所で?」
「そんなことないよ。生まれ育った家があって、通ってた小学校や中学校があって、小さい頃たくさん遊んだこの河川敷があって――なにより、あずくんがいる」
夕日に照らされながら「それだけで十分でしょ」なんて言って笑う蛍はきらきらと輝いていて、まるでドラマのワンシーンのよう。
そんな完成された光景に咄嗟の反応ができず言葉に詰まった俺は、じわりと熱を帯びた頬を隠すように再び視線を落とした。――蛍相手に何照れてんだろう、俺。
視線の先にある台本の存在に興味を惹かれたのか、蛍がそれを指さして何気ない口調で問いかけた。
「ねぇ、ところで今度の映画ってどんな役なの?」
「主人公のクラスメイト。枠が空いてるからって珍しく声かけてもらったんだよ。ほら、蛍が中学生になるくらいまでセットで起用してくれてた監督いただろ。あの人」
二人揃っての仕事がほとんど無くなり、自分の需要が低迷し始めたのだと感じ始めた頃。そんな中でもセットで起用してくれていたのが今回声をかけてくれた監督だった。
もちろん今ではセットでの起用なんて無いけれど、随分俺たちのことを気に入ってくれていた監督はこうして枠が空いている時に声をかけてくれることがある。
俺の返答を聞いた蛍は指で唇を叩いて考える素振りを見せた後、首を傾げながら口を開いた。
「もしかしてその映画って、まだ主演知らされてない?」
「あー……、まだスケジュール調整中で確定してないって言ってたな」
「それ、あたし」
「え?」
「あたしなの。その作品の主演候補」
「……本気で言ってる?」
まさか未確定の主演が蛍だなんて思うはずがなく、開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
だが、監督がどうして俺に声をかけたのか――その理由が、今回はただ枠が空いていただけじゃないことを確信した。
「もう一つ同時期の作品のオファーがあって、どっちを選ぶか迷ってたところだったの」
「さすが売れっ子……」
「でも……うん。あずくんがいるならこっちだな」
子役の頃から俺たちを知っている監督だから、きっとこうなることを予想していたんだろう。俺が出演するのなら蛍もこの作品を選んでくれる、と。
「俺がいるかどうかより蛍のやりたいほうを選べよ」
「だってどんなにすごい作品を並べられても、あずくんのいるほうがあたしには魅力的に見えちゃうんだもん」
俺がいる、いないで決めるものじゃないだろうと再度検討を促したものの蛍は頑なだった。この調子ならもう蛍の心はこの作品に決まって、きっと揺らぐことはない。
ならばせめて主演――蛍の顔に泥を塗らないよう、端役ながらも全力を尽くすだけだ。
密かに意気込んだ俺は、「早くあたしも台本欲しいなぁ」と嬉しそうな蛍を横目に今度こそ台本を開いた。
そして一か月後、迎えたクランクイン初日。
まさかあんな事態が起こるとは、誰も予想していなかった――。
****
「入院……!?」
「どうするんですか、今日から撮影なのに!」
「代役なんてそんなすぐに見つかるかどうか……っ」
スタッフ陣のクランクイン初日とは思えないほど物々しい雰囲気に、現場に入ってすぐ何か起きたのだと察した。
そしてキャストが揃ったタイミングで監督から告げられたのは、蛍の二つ下――つまり名前が三番目に掲載されるくらい主なキャストがロケ中に負傷し、急遽入院してしまったということ。
完治までにしばらくかかるため今のスケジュールでの参加は厳しいという状況の中で選べる方法は二つ。撮影スケジュールを練り直すか、負傷したキャストの代役を立てるか。
だが、撮影スケジュールを変えるとするならば、予定が限界まで詰め込まれている蛍はきっと参加できなくなってしまう。作品の看板とも言える主演を変えることのほうがよっぽとスタッフ陣にとって避けたい事態であることは明白だ。
とはいえ代役を立てるのならば無理やりスケジュールをねじ込むことに了承してくれて、かつそれなりに実力のあるキャストを探さなければならない。そんな役者を見つけるのだって一筋縄ではいかないだろう。
「……あの、監督! すごくすごく差し出がましいとは思うんですが、提案してもいいですか?」
誰もが幸先の悪いスタートを切ることに顔を曇らせていた時、不意に蛍が声を上げた。こういうトラブルが起きた時に場の空気を変えようとするのは昔からやっていたことで、今でも変わっていないのかと少し懐かしさを覚える。
懐かしい記憶に浸れていたのも束の間。蛍はあろうことか俺の腕を引っ張って監督の前に差し出した。
「あずくんを――折島梓を、代役にしてくれませんか」
「は!? おい蛍、何言って……っ!」
突然何を言い出すんだと驚きに目を見開いて蛍を止めようとするが、お構いなしと言わんばかりに蛍が俺の言葉を遮る。
「だって台本ほとんど全部覚えてるでしょ、あずくん」
「それは……」
「監督も知ってますよね。彼、昔からいくら端役だろうが台本を丸ごと頭に入れちゃうこと」
俺が台本を一通り覚える癖があることを蛍はどうやら覚えていて、だからそれを利用してこの状況を打破しようとしたらしい。
監督もそのことに覚えがあったのか悩む素振りを見せた後、俺の顔をまっすぐ見ながら口を開いた。
「梓くん」
「……はい」
「このあと、少し話せるかな?」
「分かりました」
ひとまず欠けてしまったキャストのシーンを避けて撮影を始めることになりその場は解散。俺は監督に連れられ少し離れた部屋で先ほどの提案について話し合うことになった。
「すみません。蛍が突拍子もないことを」
「全然。むしろありがたかったよ、こちらは慌てふためいちゃってたから」
監督はそう言って安心したように笑うと、「それで、本題なんだけど……」と切り出した。
「梓くん、今でも台本ほとんど覚えてるの?」
「そう、ですね……全体的な流れだけでも入れるようにしてます」
「今回も?」
「出番自体は少ないですけど、一応……」
俺の言葉に監督は納得したように頷いて、おもむろに台本を取り出すと三番目にある名前を指さした。
「無理を承知で聞くんだけど……この役、お願いできないかな」
「……俺じゃ、周りと差がありすぎませんか」
主演の蛍を筆頭に、メインを埋めるのは当然それ相応の人気や知名度はもちろん、実力だって伴っている人ばかり。緊急事態とはいえこんな中途半端な知名度や実力の俺なんかがその中に混ざるのは分不相応にしか思えない。
そんなこと分かりきっているはずなのに、監督は穏やかな笑みを浮かべながら首を横に振った。
「確かに演じるにあたって実力は欲しいけど、それ以外のものが必要とは思ってないよ。そして、この役を演じるための実力が梓くんにはあるって思ってる」
子役の頃から知ってくれていて、今もなお気にかけてくれる監督にそう言われて嬉しくないはずがなかった。こんな風に実力を買って、自分に懸けてくれる人がまだいたなんて。
深呼吸をすればごちゃごちゃといろんな考えで渋滞していた頭がクリアになり、自然と踏ん切りがついた。
「いい作品になるように、精一杯頑張ります」
何年振りに演じるか分からない、主演に近いメインの役。
――大丈夫、台詞はまだ曖昧な部分もあるが流れはきちんと入っている。必死にやれば台詞はすぐに覚えられるし役にも入り込めるはず。
自分にそう言い聞かせて落ち着けるように胸に手を当てれば、プレッシャーや緊張感はもちろん、やりがいのある役を演じることに対する高揚感で忙しなく脈打つ鼓動が伝わった。
翌日以降、細かな箇所で多少の変更はあったものの撮影自体はスムーズに進み、まるで初日のトラブルなんて無かったかのよう。幸いなことに周りのキャストとの相性が良かったらしく、急な役柄変更となった俺も上手くやれていた。
気づけば撮影は折り返し地点を迎え、そのタイミングで行われたのが慰労会という名のちょっとした打ち上げ――と言ってもキャストのほとんどが未成年だから遅くなりすぎないよう夕方からだしロケ場所として借りている学校のグラウンドでバーベキューだけど。
「あずくんお疲れ!」
「ん、お疲れ様」
少し離れた場所で涼んでいた俺を見つけた蛍がジュースを片手に近づいてきて隣に腰を下ろした。
「あっという間に折り返しだね」
「俺はようやくここまで来たって感じ」
「ごめんね、初日から大変なこと押し付けちゃって」
あの提案を受けたのは自分自身だから蛍が謝ることじゃない。
だが、そうフォローしたって変に気を遣わせるだけだろうと口を噤んだ。周りの空気に敏感で、すぐにその場を取り繕おうとする癖がある蛍には逆効果な気がしたから。
せめて気にしていないことだけでも伝わればと首を横に振れば、蛍はどこか安心したような笑みを浮かべた。
「これはあたしの勝手な気持ちなんだけどさ、最後にこうやってあずくんと一緒にお芝居できるなんて思わなかったから本当に嬉しかったんだよね」
満足げに言う蛍は「引き受けてくれてありがとう」と続けて感謝を口にしたが、それは全く響いてこなかった。
そんなの当然だ。先ほどの言葉の中に、聞き流すことのできない単語が含まれていたのだから。
「……なあ蛍」
「ん?」
「"最後"って、どういうこと」
「あ……」
俺の指摘でようやく自分の失言に気づいたのか苦い顔を浮かべる蛍。その表情が意味するものはつまり、蛍が何かを終わらせようとしているということ。
ゆらりと視線が揺れているのは言うべきか迷っているのだろう。だがこのままはぐらかされては困ると再度名前を呼べば、観念したのか重々しく口を開いた。
何となく言おうとしていることに察しはついているが、それを言われたって俺が蛍を突き放すことなんてないのにな。
「実は…………この仕事、辞めようかなって、悩んでて」
「……理由は?」
「世間とのギャップ……かなぁ。定着してきたイメージを守れば守るほど本来の自分が分かんなくなって、どんどん違う誰かに変わっていくのが……なんか、怖くなって」
変わっていくことが怖いと言うが、俺から見れば蛍は昔からずっと変わってなんかいない。子供の頃から見ているからこそ、自信を持ってそう言える。
だからこそ蛍は俺に奥深くに隠した本心を打ち明けたのかもしれない。昔から知っている相手から見て自分が本当に変わってしまったのか、そうじゃないのか確かめるために。
「ごめん、急にこんなこと言われても意味分かんないよね! あんまり深く考えないで――」
「変わってないよ、何も。周りが期待してくれるから必死で応えようと頑張って、頑張りすぎて疲れて、でもそのことを誰にも言えずに苦しんで。正直、不器用すぎて腹立つレベル」
「えっと……もしかして、あたし怒られてる?」
「別に怒ってない。自分がどんな人間なのか分からなくなったって言うから教えてんの」
自分に疎いところがある蛍にはおそらくストレートに言わなきゃ伝わらない。それこそ芝居でするような回りくどい言い方をしてしまっては意味がないだろう。
「いつも笑ってて、周りも巻き込んで楽しい気持ちにして明るい雰囲気を作れるタイプで、その反面マイナスの感情は表に出せない不器用。俺の知ってる蛍は――ほたちゃんは、そういう人」
「……あずくん……」
久しぶりに口にした懐かしい呼称はむず痒い。だがそのおかげと言うべきか、何だかいろいろと吹っ切れた。
今なら心の内を、素直な言葉を口にできる気がする。本当はあまり得意じゃないけれど、今言わなきゃこれから先いつ伝えられるか分からないから。
「あのさ、俺がどうして演技続けてるか蛍知ってる?」
「え? 知らない……」
「蛍がいるから」
「……あたし?」
成長とともに遠くなっていく蛍とまだ繋がっていると感じられるもの――それが俺にとっての演技。
ただ蛍との繋がりを断ちたくない一心でしがみついて、好きか嫌いか分からない状態のままずるずると続けてきた。まあ、まさかそれを蛍のほうから手放そうとするなんて思ってもみなかったけど。
「蛍がいなきゃ、とっくに演技なんてやめてた」
「そう、だったんだ」
「でもそのせいで続けることへの義務感みたいなものが生まれて、それからは演技が好きかどうか分からなくなったし、夢中になれなくなった。……今の蛍みたいに」
「……」
少なからず自分に重なるところがあったのだろう。俺の言葉に蛍は何も返さず、唇を噛んで目を伏せた。
演技に対する迷いや不安が滲むその表情は自分にも身に覚えがあるもので、その様子につい苦笑を浮かべてしまう。
「っていうのが、少し前までの俺」
「少し前まで……?」
「……この作品でさ、久しぶりに心から演技を楽しいって思えたんだよ」
久しぶりの蛍との共演。絶対に失敗できない代役というポジション。いつもとは比べ物にならない量の台詞や出番。それらを乗り越えるためにとにかく必死で奮闘しながら演じる日々は大変だったが自分でも驚くほど楽しくてやりがいがあって、あと半分で終わるのが惜しいだなんて思うほど。
こんな風に思うのなんていつ振りだろうかと過去を振り返ってみれば、いろんなことを思い出した。
初めて二人で演技をした時の楽しさや蛍が少しずつ遠くなっていく感覚、演技が蛍との共通点を手放さないための手段になった頃のこと――。
思い返せば過去の印象的な記憶には必ず蛍がいて、そこには演技があった。
「俺、昔は純粋に演技が好きで楽しかったんだと思う。だけど、ちゃんとした理由とか目標も無いまま何となく続けてる後ろめたさが、それを忘れさせてた」
ちゃんとした理由もない、胸を張って演技が好きだと言えるわけでもない。そんな俺がこのまま続けることが正しいのか分からなくて、それでもやっぱり蛍との繋がりを切れなくて。
だから、今回こんなに楽しく演じれているのは蛍がいるからなのだと最初は思っていた。けれど、それは大きな勘違い。
台本を隅まで読み込んで自身の演じるキャラクターの性格や心情を自分の中に落とし込み、作り上げた役を演じること。それが俺にとって、何ものにも代えがたい楽しさだった。
蛍がいるとかいないとかじゃなく、演技を好きだと思える理由だ。
「別にちゃんとした理由なんてさ、いらなかったんだよ。ただ演技が好きで楽しいからやる。それだけでいいんだなって、ようやく気づいた」
「演技が好きで、楽しいから……」
蛍だって、俺と同じような楽しさをきっと感じているはず。
だってこの楽しさを教えてくれたのはほかでもない、蛍自身なのだから。
子役として活動していたあの頃はいわゆるごっこ遊びの延長だったのかもしれない。あの河川敷で一緒に台本を読みあって幼いながらに役作りなんかしちゃって、日が暮れるまではしゃいで。
そうやって二人でキャラクターを作り上げることや演じることが心から楽しかった。
あの頃のそんなまばゆい記憶や感情は今も心の中に色濃く残って、演じるうえでの原動力となっている。
「ほたちゃん。俺と演技の世界に飛び込んでくれて、ありがとう」
「あずくん……」
「……俺も、共演できて嬉しかった。最後かもしれないなら、なおさら」
「…………うん」
二人の間に漂う感傷的な雰囲気を後押しするかのような夕焼けを見ながら、俺は何気ない風を装って昔のように手を重ねた。
別に蛍が演技から離れることを引き留めるつもりはない。けれど後悔だけはしてほしくなかった。手放してしまってからじゃ、もう遅いから。
だからその前にもう一度向き合うべきだと思うんだ。余計なものを全部取っ払った自分の気持ちと、もう一度。
「ほたちゃんは――演技、好き?」
答えはきっと、蛍が一番よく分かっているはずだから。
その後も撮影は順調に進み、しばらくして映画は無事に公開。大ヒットとまではいかずともそこそこの評価も受け、それなりの成果を達成した。
完成披露や舞台挨拶、ヒット御礼など数々のイベントをこなし上映数も落ち着いてきた頃――主演の青島蛍は、無期限の活動休止を発表した。
****
じりじりとコンクリートを焼く日差し。暑さを訴えているかのようなセミの大合唱。こめかみを伝って流れていく汗。
「あっつ……」
「よくこんな暑い場所で台本読み込もうなんて思えるよねぇ……」
「だから着いてこなくていいって言っただろ」
「もう! あずくんってば相変わらず冷たい!」
頬を膨らませる蛍は不満を訴えて気が済んだのかはたまた拗ねたのか、それ以上何も言わず手に持った本に視線を落とした。
あの映画から一年ほどが経ち俺は高校二年生。蛍に至ってはもう高校生じゃないのだからそろそろ大人になってくれないだろうか――なんて、昨年抱いた感情とは正反対のものに密かに苦笑を漏らした。
「台詞の習得度はどのくらいですか、復帰準備中の青島蛍さん」
「やっと半分くらいだから邪魔しないでください、人気再熱中の折島梓さん」
ちょっとした悪戯心で煽ってみれば同じように反撃されて互いに睨みあったが、すぐに吹き出してケラケラと笑った。
「あははっ、撮影もうすぐなのに全然進まないじゃん!」
「こっちにいるうちに覚えるー、って意気込んでたのにな」
「そのつもりだったんだけど、さすがに無理かも……」
「まあそんな気はしてた」
「あずくん!」
活動を休止して地元に戻ってきていた蛍は、復帰と同時にまた東京へ帰るそうだ。
俺はまだ高校に通っているからしばらくは地元にいるが、卒業後は上京することも考えている。ありがたくもあの映画をきっかけにオファーが来るようになり、忙しくさせてもらっているから。
――もし、二人とも地元を離れたとして。それでも、俺たちは帰ってくるたびに昔と変わらずこの河川敷で台本を読んだり軽口を叩いて笑いあいながら、共に切磋琢磨して演技の道を歩んでいくのだと思う。
脇に置いた二つのペットボトルは、きっともう生ぬるい水になっているだろう。
「あっつ……」
いくら川のせせらぎを感じられる河川敷だろうが橋の下の日陰だろうが、夏の暑さは誤魔化されなかった。手にしている本であおいでみたところで当然変わるはずもない。
小さく息を吐いて脇に置いていたペットボトルを手に取れば、喉を通っていくのは生ぬるい水。清涼感なんてちっとも感じられないが飲まないよりはマシだろう。
そう自分を納得させてぬるくなってしまったペットボトルを再度脇に置き、再び本を手にした。
先ほどまで読んでいたページを開けば残りはあと半分ほど。この調子なら日が暮れるまでに一通り読めるはずだ。
だが本に集中したのも束の間、背後から聞こえた声に呼び戻されてしまった。
「やっほ、あずくん」
「……蛍」
「もう、子供の頃みたいに『ほたちゃん』って呼んでくれたらいいのに」
「呼ばない」
振り返ればそこに立っていたのは幼馴染で二つ年上の蛍。会うたびに子供の頃の呼び方を求められるが応えるつもりはないから毎回このやり取りをしている。
お決まりの会話に満足したのか、蛍は俺の持っていた本に気づいて指さした。
「それ、今度出るやつ?」
「うん」
「ドラマ?」
「いや、映画」
読んでいた本――それは、出演が決まった映画の台本。
メインを張るような役どころではないから本来であれば自分の出演場所だけ覚えていたらいいのだが、どうにも自分は一通り頭に入れないと作品の世界観や自身の役柄に入り込めないタイプだった。器用貧乏だと自分でもつくづく思う。
「久しぶりだね。人気子役、折島梓の映画出演」
「元、な」
「なんでそうやって卑屈になるかなぁ?」
「そりゃ国民的女優に言われたら嫌味に聞こえるだろ」
子役としてデビューし、今や現役女子高生にしてドラマや映画に引っ張りだこの人気女優。それが俺の幼馴染――青野蛍の現在のプロフィール。
蛍のデビュー作は俺のデビュー作でもあり、そうなったきっかけは母親同士が結託して応募したオーディション。そこで姉弟役として抜擢された俺たちはありがたくも世間から評価され、子役としての人生を共に歩み始めた。
だが、時が経つにつれ二人揃っての出演は少なくなり、明らかに俺へのオファーが減り始めて。それはあまり愛想や子供らしい可愛げのなかった自身の性格が原因であり、にこやかで明るく受け答えのできる蛍が生き残るのは必然だと子供ながらに理解していた。
高校一年生になった現在はもうオファーなんて来ないし、オーディションで運よく選ばれたってほとんど台詞の無いような端役。それでも一応、まだ役者の端くれではある。
もしも今、演技が好きかと問われたら俺はきっと『嫌いじゃない』と答えるだろう。手放しに好きだと言える時期はとっくに過ぎ去ってしまったのだから。
落ちぶれた元人気子役、折島梓の現在はそんなどうしようもない状態だ。
「あずくん?」
「……ごめん、考え事してた」
隣を見れば頬杖をつきながら俺の顔を覗く蛍は、ナチュラルだがきちんと施されたメイクやシャツにパンツという落ち着いた服装のせいか随分と大人びて見えた。
そりゃそうか、蛍はもう高校三年生。もうすぐ成人年齢だって迎えるのだから大人にも見えるだろう。
上京してしまい物理的に距離が開いたことだけじゃない。役者としてのポテンシャルや、変わることのない年齢差。他にも様々な要素が絡み合って、蛍の存在は子供の頃と比べてはるかに遠くなってしまった。昔は手を繋いで横並びで歩いていたっていうのに。
悔しいような寂しいような、何とも形容しがたいそんな心情を知られないために、すかさず蛍に向けて質問を投げかけた。
「そういえば今って撮影期間じゃないの」
「ちょっと時間できたからさ、たまには地元で息抜き」
「ふぅん。こんな何もない場所で?」
「そんなことないよ。生まれ育った家があって、通ってた小学校や中学校があって、小さい頃たくさん遊んだこの河川敷があって――なにより、あずくんがいる」
夕日に照らされながら「それだけで十分でしょ」なんて言って笑う蛍はきらきらと輝いていて、まるでドラマのワンシーンのよう。
そんな完成された光景に咄嗟の反応ができず言葉に詰まった俺は、じわりと熱を帯びた頬を隠すように再び視線を落とした。――蛍相手に何照れてんだろう、俺。
視線の先にある台本の存在に興味を惹かれたのか、蛍がそれを指さして何気ない口調で問いかけた。
「ねぇ、ところで今度の映画ってどんな役なの?」
「主人公のクラスメイト。枠が空いてるからって珍しく声かけてもらったんだよ。ほら、蛍が中学生になるくらいまでセットで起用してくれてた監督いただろ。あの人」
二人揃っての仕事がほとんど無くなり、自分の需要が低迷し始めたのだと感じ始めた頃。そんな中でもセットで起用してくれていたのが今回声をかけてくれた監督だった。
もちろん今ではセットでの起用なんて無いけれど、随分俺たちのことを気に入ってくれていた監督はこうして枠が空いている時に声をかけてくれることがある。
俺の返答を聞いた蛍は指で唇を叩いて考える素振りを見せた後、首を傾げながら口を開いた。
「もしかしてその映画って、まだ主演知らされてない?」
「あー……、まだスケジュール調整中で確定してないって言ってたな」
「それ、あたし」
「え?」
「あたしなの。その作品の主演候補」
「……本気で言ってる?」
まさか未確定の主演が蛍だなんて思うはずがなく、開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。
だが、監督がどうして俺に声をかけたのか――その理由が、今回はただ枠が空いていただけじゃないことを確信した。
「もう一つ同時期の作品のオファーがあって、どっちを選ぶか迷ってたところだったの」
「さすが売れっ子……」
「でも……うん。あずくんがいるならこっちだな」
子役の頃から俺たちを知っている監督だから、きっとこうなることを予想していたんだろう。俺が出演するのなら蛍もこの作品を選んでくれる、と。
「俺がいるかどうかより蛍のやりたいほうを選べよ」
「だってどんなにすごい作品を並べられても、あずくんのいるほうがあたしには魅力的に見えちゃうんだもん」
俺がいる、いないで決めるものじゃないだろうと再度検討を促したものの蛍は頑なだった。この調子ならもう蛍の心はこの作品に決まって、きっと揺らぐことはない。
ならばせめて主演――蛍の顔に泥を塗らないよう、端役ながらも全力を尽くすだけだ。
密かに意気込んだ俺は、「早くあたしも台本欲しいなぁ」と嬉しそうな蛍を横目に今度こそ台本を開いた。
そして一か月後、迎えたクランクイン初日。
まさかあんな事態が起こるとは、誰も予想していなかった――。
****
「入院……!?」
「どうするんですか、今日から撮影なのに!」
「代役なんてそんなすぐに見つかるかどうか……っ」
スタッフ陣のクランクイン初日とは思えないほど物々しい雰囲気に、現場に入ってすぐ何か起きたのだと察した。
そしてキャストが揃ったタイミングで監督から告げられたのは、蛍の二つ下――つまり名前が三番目に掲載されるくらい主なキャストがロケ中に負傷し、急遽入院してしまったということ。
完治までにしばらくかかるため今のスケジュールでの参加は厳しいという状況の中で選べる方法は二つ。撮影スケジュールを練り直すか、負傷したキャストの代役を立てるか。
だが、撮影スケジュールを変えるとするならば、予定が限界まで詰め込まれている蛍はきっと参加できなくなってしまう。作品の看板とも言える主演を変えることのほうがよっぽとスタッフ陣にとって避けたい事態であることは明白だ。
とはいえ代役を立てるのならば無理やりスケジュールをねじ込むことに了承してくれて、かつそれなりに実力のあるキャストを探さなければならない。そんな役者を見つけるのだって一筋縄ではいかないだろう。
「……あの、監督! すごくすごく差し出がましいとは思うんですが、提案してもいいですか?」
誰もが幸先の悪いスタートを切ることに顔を曇らせていた時、不意に蛍が声を上げた。こういうトラブルが起きた時に場の空気を変えようとするのは昔からやっていたことで、今でも変わっていないのかと少し懐かしさを覚える。
懐かしい記憶に浸れていたのも束の間。蛍はあろうことか俺の腕を引っ張って監督の前に差し出した。
「あずくんを――折島梓を、代役にしてくれませんか」
「は!? おい蛍、何言って……っ!」
突然何を言い出すんだと驚きに目を見開いて蛍を止めようとするが、お構いなしと言わんばかりに蛍が俺の言葉を遮る。
「だって台本ほとんど全部覚えてるでしょ、あずくん」
「それは……」
「監督も知ってますよね。彼、昔からいくら端役だろうが台本を丸ごと頭に入れちゃうこと」
俺が台本を一通り覚える癖があることを蛍はどうやら覚えていて、だからそれを利用してこの状況を打破しようとしたらしい。
監督もそのことに覚えがあったのか悩む素振りを見せた後、俺の顔をまっすぐ見ながら口を開いた。
「梓くん」
「……はい」
「このあと、少し話せるかな?」
「分かりました」
ひとまず欠けてしまったキャストのシーンを避けて撮影を始めることになりその場は解散。俺は監督に連れられ少し離れた部屋で先ほどの提案について話し合うことになった。
「すみません。蛍が突拍子もないことを」
「全然。むしろありがたかったよ、こちらは慌てふためいちゃってたから」
監督はそう言って安心したように笑うと、「それで、本題なんだけど……」と切り出した。
「梓くん、今でも台本ほとんど覚えてるの?」
「そう、ですね……全体的な流れだけでも入れるようにしてます」
「今回も?」
「出番自体は少ないですけど、一応……」
俺の言葉に監督は納得したように頷いて、おもむろに台本を取り出すと三番目にある名前を指さした。
「無理を承知で聞くんだけど……この役、お願いできないかな」
「……俺じゃ、周りと差がありすぎませんか」
主演の蛍を筆頭に、メインを埋めるのは当然それ相応の人気や知名度はもちろん、実力だって伴っている人ばかり。緊急事態とはいえこんな中途半端な知名度や実力の俺なんかがその中に混ざるのは分不相応にしか思えない。
そんなこと分かりきっているはずなのに、監督は穏やかな笑みを浮かべながら首を横に振った。
「確かに演じるにあたって実力は欲しいけど、それ以外のものが必要とは思ってないよ。そして、この役を演じるための実力が梓くんにはあるって思ってる」
子役の頃から知ってくれていて、今もなお気にかけてくれる監督にそう言われて嬉しくないはずがなかった。こんな風に実力を買って、自分に懸けてくれる人がまだいたなんて。
深呼吸をすればごちゃごちゃといろんな考えで渋滞していた頭がクリアになり、自然と踏ん切りがついた。
「いい作品になるように、精一杯頑張ります」
何年振りに演じるか分からない、主演に近いメインの役。
――大丈夫、台詞はまだ曖昧な部分もあるが流れはきちんと入っている。必死にやれば台詞はすぐに覚えられるし役にも入り込めるはず。
自分にそう言い聞かせて落ち着けるように胸に手を当てれば、プレッシャーや緊張感はもちろん、やりがいのある役を演じることに対する高揚感で忙しなく脈打つ鼓動が伝わった。
翌日以降、細かな箇所で多少の変更はあったものの撮影自体はスムーズに進み、まるで初日のトラブルなんて無かったかのよう。幸いなことに周りのキャストとの相性が良かったらしく、急な役柄変更となった俺も上手くやれていた。
気づけば撮影は折り返し地点を迎え、そのタイミングで行われたのが慰労会という名のちょっとした打ち上げ――と言ってもキャストのほとんどが未成年だから遅くなりすぎないよう夕方からだしロケ場所として借りている学校のグラウンドでバーベキューだけど。
「あずくんお疲れ!」
「ん、お疲れ様」
少し離れた場所で涼んでいた俺を見つけた蛍がジュースを片手に近づいてきて隣に腰を下ろした。
「あっという間に折り返しだね」
「俺はようやくここまで来たって感じ」
「ごめんね、初日から大変なこと押し付けちゃって」
あの提案を受けたのは自分自身だから蛍が謝ることじゃない。
だが、そうフォローしたって変に気を遣わせるだけだろうと口を噤んだ。周りの空気に敏感で、すぐにその場を取り繕おうとする癖がある蛍には逆効果な気がしたから。
せめて気にしていないことだけでも伝わればと首を横に振れば、蛍はどこか安心したような笑みを浮かべた。
「これはあたしの勝手な気持ちなんだけどさ、最後にこうやってあずくんと一緒にお芝居できるなんて思わなかったから本当に嬉しかったんだよね」
満足げに言う蛍は「引き受けてくれてありがとう」と続けて感謝を口にしたが、それは全く響いてこなかった。
そんなの当然だ。先ほどの言葉の中に、聞き流すことのできない単語が含まれていたのだから。
「……なあ蛍」
「ん?」
「"最後"って、どういうこと」
「あ……」
俺の指摘でようやく自分の失言に気づいたのか苦い顔を浮かべる蛍。その表情が意味するものはつまり、蛍が何かを終わらせようとしているということ。
ゆらりと視線が揺れているのは言うべきか迷っているのだろう。だがこのままはぐらかされては困ると再度名前を呼べば、観念したのか重々しく口を開いた。
何となく言おうとしていることに察しはついているが、それを言われたって俺が蛍を突き放すことなんてないのにな。
「実は…………この仕事、辞めようかなって、悩んでて」
「……理由は?」
「世間とのギャップ……かなぁ。定着してきたイメージを守れば守るほど本来の自分が分かんなくなって、どんどん違う誰かに変わっていくのが……なんか、怖くなって」
変わっていくことが怖いと言うが、俺から見れば蛍は昔からずっと変わってなんかいない。子供の頃から見ているからこそ、自信を持ってそう言える。
だからこそ蛍は俺に奥深くに隠した本心を打ち明けたのかもしれない。昔から知っている相手から見て自分が本当に変わってしまったのか、そうじゃないのか確かめるために。
「ごめん、急にこんなこと言われても意味分かんないよね! あんまり深く考えないで――」
「変わってないよ、何も。周りが期待してくれるから必死で応えようと頑張って、頑張りすぎて疲れて、でもそのことを誰にも言えずに苦しんで。正直、不器用すぎて腹立つレベル」
「えっと……もしかして、あたし怒られてる?」
「別に怒ってない。自分がどんな人間なのか分からなくなったって言うから教えてんの」
自分に疎いところがある蛍にはおそらくストレートに言わなきゃ伝わらない。それこそ芝居でするような回りくどい言い方をしてしまっては意味がないだろう。
「いつも笑ってて、周りも巻き込んで楽しい気持ちにして明るい雰囲気を作れるタイプで、その反面マイナスの感情は表に出せない不器用。俺の知ってる蛍は――ほたちゃんは、そういう人」
「……あずくん……」
久しぶりに口にした懐かしい呼称はむず痒い。だがそのおかげと言うべきか、何だかいろいろと吹っ切れた。
今なら心の内を、素直な言葉を口にできる気がする。本当はあまり得意じゃないけれど、今言わなきゃこれから先いつ伝えられるか分からないから。
「あのさ、俺がどうして演技続けてるか蛍知ってる?」
「え? 知らない……」
「蛍がいるから」
「……あたし?」
成長とともに遠くなっていく蛍とまだ繋がっていると感じられるもの――それが俺にとっての演技。
ただ蛍との繋がりを断ちたくない一心でしがみついて、好きか嫌いか分からない状態のままずるずると続けてきた。まあ、まさかそれを蛍のほうから手放そうとするなんて思ってもみなかったけど。
「蛍がいなきゃ、とっくに演技なんてやめてた」
「そう、だったんだ」
「でもそのせいで続けることへの義務感みたいなものが生まれて、それからは演技が好きかどうか分からなくなったし、夢中になれなくなった。……今の蛍みたいに」
「……」
少なからず自分に重なるところがあったのだろう。俺の言葉に蛍は何も返さず、唇を噛んで目を伏せた。
演技に対する迷いや不安が滲むその表情は自分にも身に覚えがあるもので、その様子につい苦笑を浮かべてしまう。
「っていうのが、少し前までの俺」
「少し前まで……?」
「……この作品でさ、久しぶりに心から演技を楽しいって思えたんだよ」
久しぶりの蛍との共演。絶対に失敗できない代役というポジション。いつもとは比べ物にならない量の台詞や出番。それらを乗り越えるためにとにかく必死で奮闘しながら演じる日々は大変だったが自分でも驚くほど楽しくてやりがいがあって、あと半分で終わるのが惜しいだなんて思うほど。
こんな風に思うのなんていつ振りだろうかと過去を振り返ってみれば、いろんなことを思い出した。
初めて二人で演技をした時の楽しさや蛍が少しずつ遠くなっていく感覚、演技が蛍との共通点を手放さないための手段になった頃のこと――。
思い返せば過去の印象的な記憶には必ず蛍がいて、そこには演技があった。
「俺、昔は純粋に演技が好きで楽しかったんだと思う。だけど、ちゃんとした理由とか目標も無いまま何となく続けてる後ろめたさが、それを忘れさせてた」
ちゃんとした理由もない、胸を張って演技が好きだと言えるわけでもない。そんな俺がこのまま続けることが正しいのか分からなくて、それでもやっぱり蛍との繋がりを切れなくて。
だから、今回こんなに楽しく演じれているのは蛍がいるからなのだと最初は思っていた。けれど、それは大きな勘違い。
台本を隅まで読み込んで自身の演じるキャラクターの性格や心情を自分の中に落とし込み、作り上げた役を演じること。それが俺にとって、何ものにも代えがたい楽しさだった。
蛍がいるとかいないとかじゃなく、演技を好きだと思える理由だ。
「別にちゃんとした理由なんてさ、いらなかったんだよ。ただ演技が好きで楽しいからやる。それだけでいいんだなって、ようやく気づいた」
「演技が好きで、楽しいから……」
蛍だって、俺と同じような楽しさをきっと感じているはず。
だってこの楽しさを教えてくれたのはほかでもない、蛍自身なのだから。
子役として活動していたあの頃はいわゆるごっこ遊びの延長だったのかもしれない。あの河川敷で一緒に台本を読みあって幼いながらに役作りなんかしちゃって、日が暮れるまではしゃいで。
そうやって二人でキャラクターを作り上げることや演じることが心から楽しかった。
あの頃のそんなまばゆい記憶や感情は今も心の中に色濃く残って、演じるうえでの原動力となっている。
「ほたちゃん。俺と演技の世界に飛び込んでくれて、ありがとう」
「あずくん……」
「……俺も、共演できて嬉しかった。最後かもしれないなら、なおさら」
「…………うん」
二人の間に漂う感傷的な雰囲気を後押しするかのような夕焼けを見ながら、俺は何気ない風を装って昔のように手を重ねた。
別に蛍が演技から離れることを引き留めるつもりはない。けれど後悔だけはしてほしくなかった。手放してしまってからじゃ、もう遅いから。
だからその前にもう一度向き合うべきだと思うんだ。余計なものを全部取っ払った自分の気持ちと、もう一度。
「ほたちゃんは――演技、好き?」
答えはきっと、蛍が一番よく分かっているはずだから。
その後も撮影は順調に進み、しばらくして映画は無事に公開。大ヒットとまではいかずともそこそこの評価も受け、それなりの成果を達成した。
完成披露や舞台挨拶、ヒット御礼など数々のイベントをこなし上映数も落ち着いてきた頃――主演の青島蛍は、無期限の活動休止を発表した。
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じりじりとコンクリートを焼く日差し。暑さを訴えているかのようなセミの大合唱。こめかみを伝って流れていく汗。
「あっつ……」
「よくこんな暑い場所で台本読み込もうなんて思えるよねぇ……」
「だから着いてこなくていいって言っただろ」
「もう! あずくんってば相変わらず冷たい!」
頬を膨らませる蛍は不満を訴えて気が済んだのかはたまた拗ねたのか、それ以上何も言わず手に持った本に視線を落とした。
あの映画から一年ほどが経ち俺は高校二年生。蛍に至ってはもう高校生じゃないのだからそろそろ大人になってくれないだろうか――なんて、昨年抱いた感情とは正反対のものに密かに苦笑を漏らした。
「台詞の習得度はどのくらいですか、復帰準備中の青島蛍さん」
「やっと半分くらいだから邪魔しないでください、人気再熱中の折島梓さん」
ちょっとした悪戯心で煽ってみれば同じように反撃されて互いに睨みあったが、すぐに吹き出してケラケラと笑った。
「あははっ、撮影もうすぐなのに全然進まないじゃん!」
「こっちにいるうちに覚えるー、って意気込んでたのにな」
「そのつもりだったんだけど、さすがに無理かも……」
「まあそんな気はしてた」
「あずくん!」
活動を休止して地元に戻ってきていた蛍は、復帰と同時にまた東京へ帰るそうだ。
俺はまだ高校に通っているからしばらくは地元にいるが、卒業後は上京することも考えている。ありがたくもあの映画をきっかけにオファーが来るようになり、忙しくさせてもらっているから。
――もし、二人とも地元を離れたとして。それでも、俺たちは帰ってくるたびに昔と変わらずこの河川敷で台本を読んだり軽口を叩いて笑いあいながら、共に切磋琢磨して演技の道を歩んでいくのだと思う。
脇に置いた二つのペットボトルは、きっともう生ぬるい水になっているだろう。