平宮達志は数学の新米教師だった。秋也の通う工業高校は、勉強は不真面目だが、生活面は比較的真面目という生徒が多かったが、自我の強い学生も少なくなく、だいたい、良くも悪くもはっきりした生徒がクラスを牛耳っていた。強くなければ馴染めない。そういう雰囲気は少なからずある高校でやっていけるのかと心配になるようなひ弱で、校則違反を見つけてはこんこんと諭す素朴な男だった。

 一部のクラスメイトは平宮をバカにしていたが、そもそも秋也は教師に興味がなかった。学校に行かないと、専業主婦の叔母が心配するし、学校が終われば、吉沢らんぷでのアルバイトがある。らんぷやに行けば、技術を学べるし、専門的な情報を欲しがる客は吉沢店長しか相手にしないから、地元の知り合いの接客は負担ではなかった。時折、心配して顔を出す遥希と会うのも楽しかった。教師に気を回す時間なんてなかった。

 休まず学校に通い、勉学も手を抜かない秋也は、周りの生徒から浮いて見えたのだろう。あるとき、平宮が『本当に就職志望か?』と聞いてきた。

 はやく稼げるようになりたいんだと伝えると、『おまえは成績がいいから、大学進学を考えた方がいい』と言ってきた。

 保護者会では、大学に進学させてあげてほしいと、平宮自ら、叔母に頭を下げた。叔父はしたいようにするといいと言うし、吉沢店長も大学へ行った方が選択肢が広がると背中を押してくれた。

 大学へ行くと決めてから、平宮は授業後、毎日秋也のために補習を行った。勉強してなんになるんだとバカにするやつはいたが、平宮は『人生の選択肢を間違えるな』としか言わなかった。

 間違えるなと言われても、それしか選べない選択肢がある。秋也はどこか冷めていて、話半分に聞いていたが、今なら言えるだろう。

 選択肢を間違えたのは、平宮じゃないのか? と。

 高校2年の冬、平宮は国立大学の夜間部を受験したらどうかと提案してきた。授業料は安いし、寮もある。アルバイトを続けながら学べるし、学歴も手に入る。今の秋也にとって、選択肢が最大限増える方法だと笑顔を見せた。

 その笑顔が疲れ切っていると気づいたときにはもう遅かったのかもしれない。

 受験を控えたある日、立ちあがろうとした平宮は、背中を丸めて机にうつ伏せた。

『具合が悪いのか?』

 リュックを背負いながら、秋也は尋ねた。

『最近、ちょっと背中が痛くてな。年かな』
『いくつだよ』

 あきれると、平宮は笑った。

『冗談だよ。おまえの受験が終わるまでは倒れてられないからな』
『俺より必死だな』

 秋也はますますあきれたが、自分のために一生懸命になる平宮の期待に応えたい一心で、補習は欠かさずに参加した。

 無事に大学合格が決まると、平宮は誰よりも喜んだ。涙ぐんで、『頑張ってよかったな』と肩を叩いてきた。その手の力が、意外にも弱々しくて驚いたことを、今でも覚えている。

 ある日、吉沢らんぷでアルバイトする秋也のもとへ、矢崎温美がやってきた。

 温美は高校の後輩だ。美人で目立つ彼女は、高校に入学してきたときから、男たちに人気があった。ふざけた男たちにからまれているのを何度か助けて以来、らんぷやへ用もないのに来るようになった。

 とはいえ、温美はランプに興味がない。あるのは平宮のことばかりで、店内を移動する秋也を追いかけ回しては彼の話をする。秋也が卒業したあと、平宮に勉強を聞きに行く生徒が増え、ますます忙しく働いているとか、そんな話だ。

 平宮の話をする温美はどこかキラキラしていた。彼女は祖父母に育てられ、両親の顔も知らない。出会ったときは、蔑むような冷たい目をしていたのに、いつからか、優しい目をするようになった。そんな態度の変化に、秋也は一つだけ心配があった。

 らんぷやの客から、温美が年上の男と一緒に単身向けアパートに入っていくのを見たという話を聞かされたのだ。

 真っ先に、平宮の顔が浮かんだ。秋也は下校してくる温美をらんぷやの前でつかまえると忠告した。

『先生はやめろよ』

 温美はすぐに意図がわかったのだろう。挑戦的な笑みを浮かべた。

『なんでダメって言ってんの?』
『立場を考えろ』
『なにそれ。秋也くんもみんなと一緒だよね。なーんにもわかってないんだ』
『バレたら退学になるかもしれないだろ?』
『別にいいよ。高校行かなくたって、選択肢がいっぱいある時代でしょ?』
『あいつだって辞めなきゃいけなくなる』

 声を押し殺すと、温美はさみしそうな目をした。

『もういいんだよ。なんだっていいんだ』

 温美はそう言うと、逃げるように走っていった。