「ねえ、(たすく)くん、私って魅力ないかな」

 大園こまちはため息をつきながらアイスソイラテをストローで啜った。向かいで聞いている背広姿の男は、ゆっくりと唇をなぞったあと、たばこの箱をポケットから出したりしまったりして、「喫っても……」
「ねえ、禁煙何回目?」
「――それ言うこまちはその質問何回目だよ」
 こまちは頬を膨らました。
「佑くんは彼女さんがいてうらやましいですこと。彼女さん大事にしなよ」
「大事にしてるって。だからこうやって禁煙しようとだな――」
「禁煙成功は繰り返すもんじゃありません。アメでもなめてなさい」
「ったく、かわいくない姪」
「佑くんこそ頼りになんないおじさんだよね」
「おじさん言うなし。まだ三十五だし」
「叔父さん」
 こまちはテーブルに手をついて、ぐっと身を乗り出した。
「私ってそんなに性的魅力ないですか」
 佑は唇に触りながら、しばし無言でこまちの頭から指先までを眺め回した。綺麗に揃えたショートボブ、淡いピンクの爪、自分の姉に似て整った面差しをよくよく見て、一言、
「まぁ俺がおまえみたいなのに好かれてるって分かったら持ち帰って抱いてるかな」
「うわ言い回しがいちいち気持ち悪い、うう、気持ち悪い、聞いた私が悪かったよ叔父さん」
 こまちは座ると、空になったソイラテのカップを持ち上げて、それからため息をついた。
「こちら、完全に脈なしですよ、どうせ本命に振り向いてもらえない哀れな脇役ポジションですよ」
「告られてるのに振ってるからそうなるんだよ。適当に付き合っちまえ、そんで忘れろ、青井なにがしのことなんか」
 佑はとうとうたばこを取り出した。こまちは頬を膨らましながら指を伸ばして、そのたばこをかすめ取る。
「忘れられたら苦労しない」
 かすめとったたばこからはかすかに甘い匂いがする。こまちは目を細めて、「今何してるかな」と思いをはせる。
 青井拓斗に。
 大園こまちが青井拓斗に初めて会ったのは大学のオリエンテーションの時だった。
 おろしたての、慣れない靴を履いていた。それがこまちの背伸びだったのかもしれない。
 あいうえお順に並んだ前の席に、彼はいた。

「胡蝶の夢症候群?」
「そう、あらかじめ言っておこうと思って」
 青井拓斗は、こまちが今まで見てきた男性の中で一番ミステリアスな男だった。
「時折、僕は倒れて夢を見ることがある。それで、夢と現実の区別がつかなくなるんだ」
「そう、なんだ……」
 実際、知識としては知っていたけれど、「胡蝶の夢症候群」のひとに実際に知り合うのは初めてのことだった。こまちは、自分という肉体のことを忘れて、青井の話に聞き入った。
「薬はあるけど、治療薬じゃない。応急処置みたいなものだし、対処療法的。一度倒れて眠ったら起きるまで眠り続けるしかないし、……起きたら起きたで混乱する」
 そういって青井はふとホワイトボードの方をみた。すっと通った鼻筋が、くっきりしていた。
「なあ、大園。いまって夢じゃないよな」
「夢じゃないよ」こまちは言った。「現実だよ」
「――高校生の僕が見ている夢なんじゃないかって今も思うよ。大学に合格できたなんて奇跡だ、都合の良い夢なんじゃないかなって。大園も、この講義室も、全部嘘なんじゃないかなって」
 彼の横顔は、群れからはぐれてしまった鳥のようだった。たった一羽で空を飛び、そしてそのままどこかへ行ってしまいそうだった。だからこまちは――

「私を信じて、青井くん。夢じゃないよ」

 なんて、心の底から、ドラマみたいなことを言ってしまった。
 ついでに靴擦れもおこした。皮が剥がれた痛みを訴える右足首を気にしていたら、青井が絆創膏をくれた。
「使って」
 と、それだけ言って。

 それからだ、青井拓斗のことが頭から離れなくなったのは。




「ていうか佑くん、事件はどうなったの。犯人見つかった?」
 こまちはたばこの箱ごと取り上げて、没収したたばこを箱に戻しながら訊ねた。佑は「休み時間くらい好きに使わせろ」とぼやいたが、やがて表情をあらためると、
「守秘義務がある」
 とだけ言った。こまちはテーブルの下で佑の足を蹴っ飛ばした。
「格好つけるな、私の()借りたくせに!」
「いてっ! そういうところだぞこまち!」
「私だってその後を知る権利があると思うんだけど!」
「後で教える、あとであとで」
「そうやって煙にまいてごまかして! 『あとで』なんて来ないんだから!」
たばこの箱を握りしめる。
「わかった、二度と協力しないわ」
「いやそれは勘弁して、勘弁してこまちちゃん」
「利用するだけ利用してあとは無関係です守秘義務ですって言われるんだもん」
 佑は腕を伸ばしてこまちからたばこの箱を奪い取ろうとし――その弾みに近づいた耳に、こうささやいた。
「容疑者にカマかけたら洗いざらい吐いたよ」
「やっぱり犯人は彼の言うとおり母親だったんだ」
 こまちはすなおに佑にたばこの箱を返した。
「あとで彼には報告しておかなくちゃね。……問題は会えるかどうかだけど」


   
 実のところ、大園こまちには霊視能力がある(・・・・・・・)

 最初に視たのは病院で亡くなったばかりの祖父だった。祖父の霊は、泣きじゃくる母親の背後に立ち、どうしてやるべきかとおろおろしていた。まだ小学校にあがって間もないこまちは「おじいちゃん」と声を上げて母親を指さした。
「おじいちゃん」
 もちろん、こまちの気のせいか、母親を気遣った娘の優しさとして片付けられたのだが、そのときその場に居合わせた叔父の佑だけは、こまちにそのときの様子を詳しく聞いた。
「何を着ていた?」
「病院のふく」
「なんか言ってたか?」
「『のぞみ、なくな』って。あと……」
 こまちは黄色い帽子を脱ぎ、あかいランドセルを揺らした。
「『おれ、ようやく死んだか』って」

 最初は面白がりながら聞いていた佑だったが、こまちの言葉が現実になっていくにつれて顔色が変わっていった。こまちが言ったとおりの場所から祖父のへそくりが出てきたり、こまちが祖父の手記の冒頭をそらんじて見せたり、こまちの言動と現実が符合するたび、佑のなかで妄想が現実味を帯びてきた。
「なんでわかるんだ?」
「おじいちゃんが教えてくれるから」
 そしてこまちは隣の空白を指し示して、「ここにおじいちゃんいるよ」と言うのだ。かずかずの姪の言葉に、叔父は降参せざるをえなかった。
「信じるよ」

こまちはこまちで、他人と違う視界に気づいてから、視えるものを見えないように振る舞うことに苦労した。「彼ら」はこまちには生きている人間とそう変わらず視えるものだから、うっかりすると「一人で話している変な子」になりがちだった。おかげでこまちは、他の子たちの態度を見て行動をすることを覚えた。友人たちに視えないものは、この世のものではないと思うことにした。それが、こまちの処世術になった。


「そろそろ行くよ」と佑が席を立った。こまちは文庫本を開きながら、「頑張ってね」と叔父に声を掛けた。