「おい拓斗。昨日約束したろ、オンライン対戦しようって。ドタキャンはないぜ」
 古い家屋の玄関さきで、身をかがめた久瀬が唇をとがらせる。昔から変わらない癖が、却って今の青井にはありがたかった。しかし、約束を思いがけずすっぽかしたことは、罪悪感として喉の奥にざらざらと残っている。
「もう大学も夏休みだろ?」
「そうだけど、ちょっと……その、事件があったんだ」
 久瀬の、小学校の頃から変わらない優しげな線と、ラグビーで鍛えた肉体とを交互に見、ため息をつく。この男はこう見えて大のゲーム好きなのだ。
「事件?」
「うん。昨日はごめん。頭の整理がつかなくて」
 畳張りの居間に通される。目の前にどんと出されたやかんと、麦茶のコップとを往復していた視線がようやく久瀬の上に止まる。
「もう、ゲームどころじゃなくてさ」
「それで俺んちに押しかけてきたってわけ。ふうん。何がらみ?」
「……美春」
 久瀬の眉がピクリと動いた。

「まだ、おまえ、あのこと、自分のせいだとか思ってる?」

 やはり、
 久瀬も知っていたのか。現実なのだ。これは、現実だ。
 夢じゃない。そう思ったら、少し涙が出た。

「……美春が失踪してたの、昨日、ようやく知ったんだ」
 久瀬は飲みかけていた麦茶をぶっと噴きだした。青井の顔にも少し飛んだ。
「うわっきたなっ」
「悪い悪い。……ていうかきのう? もう古いニュースになっちまって誰も話題にしないぜ? どういうことだよ、何で今更」
「いや……それが」

『貴方の夢では?』

 綾小路と名乗る男の言葉が脳裏を何度も巡る。 青井はゆっくりと麦茶に口を点けた。
「美春のことを調べてるって言う記者が来た。それで……美春を殺したのは、僕じゃないか、みたいなことを……」
「はぁー?」
 久瀬はコップをちゃぶ台にどんと置いた。
「あり得ないだろ。なんでおまえが、わざわざあの子を殺すんだよ。んなわけねーだろ」
「……そうだよね」
「そもそも生きてるかもしれないじゃん」
「そう、だよね……」

 青井は久瀬の言葉に背中を押されるようにしてようやくうなずいた。

「もうぜんぜん自信が持てなくてさ。二年間もこんなおおごとに気づかなかったなんて、僕はなんて馬鹿なんだろうってずっと……」
「馬鹿じゃねえよ、おまえは悪くない」久瀬が迷いなく言った。「何も悪くないよ」
「そうかな」

 久瀬の言葉はいつも力強い。青井はようやく、リュックから名刺――と、気の抜けたコーラ二缶を取り出した。

「何それ」
「昨日の戦利品。こっちは気の抜けたコーラ」
「気が抜けてるのはなにゆえ?」
「めっちゃ振ったから」
「いや、なんで?」
 考えるには糖分がいる。青井は麦茶を飲み干したコップに、丁重に開けたコーラ缶の中身を注いだ。
「全ての気が抜ける音がしたぞ今」
「隼人も飲む?」
 二人分のコップに元コーラ、砂糖水を満たし、二人でちゃぶ台の真ん中の名刺をのぞき込む。
「週刊ヌーって何?」
「聞いたことねえけど、ま、検索すれば出るだろ」
 久瀬がスマホを操る。青井と違って高速のフリック入力だ。
「あ、出た出た。週刊ヌー。ムーの間違いじゃないんだな」
「見せて」
 青井が見たのは、このご時世にあるまじき古めかしいホームページに、真っ黒の背景、けばけばしいレインボーのゴシック体で「週刊ヌー」と書かれている画面である。まるでこの画面だけ三十年前からタイムスリップしてきたみたいだ。原稿募集中、という文字が小刻みに左右に移動している。

「ダサい……」
 ともあれ、「週刊ヌー」じたいは存在しているようだ。青井は正座でしびれた足をくずして、砂糖水を飲んだ。甘すぎる液体は喉の奥を焦がすように流れ落ちていく。
 縁側で風鈴が鳴った。
 
 久瀬は何かを迷うように切り出した。
「あの子が失踪したとき、おまえが取り乱してたのはよく覚えてる。おまえ、しばらく不安定だったよ。どうにかなるんじゃないかと心配だった」
「……そうだったんだ」
「おおかた、悪夢か何かの類いだと思って忘れたんだろう。次第にあの子について何も言わなくなったから、あの子については踏ん切りがついたんだろうなと思って、黙ってた」
 久瀬は青井の目をのぞき込んだ。
「あの子のことは死んだと思って忘れろ」
 思わぬ言葉をかけられ、青井は久瀬の目をまっすぐ見つめかえした。
「なんで?」
「きっと戻ってこないよ」
「……わからないじゃないか」
 
――美春。
 彼女の奏でる音が恋しい。

「美春とは連絡を取ってたんだ。昨日まで」
「――は?」
 久瀬の声音が明らかに変わった。「なんでそれ早く言わないんだよ!」
「でも、昨日までだ。……見てよこれ」
 青井は美春のサイトを見せた。小早川美春の公式サイトに繋がるリンクだといわれて、メモしておいたものだ。このサイトの情報によれば、今美春は海外ツアーの真っ最中、になっている。……はずだ。
 久瀬は食らいつくように青井のスマホをのぞき込んだ。
「公式サイト? 待て、俺も調べてみるか」
「このサイトは、俺が美春の予定を見るのに使ってたんだけど……」
「小早川美春の公式サイトだろ?…… ん? 俺の端末で見る限り、更新は二年前で途絶えてるけど」
「……リンク、送るよ」
 メッセを使ってコピペしたリンクを送る。開いて中身をみたらしい、久瀬は額をたたいた。
「うわ、よくできてんな。これ偽物だよ。公式サイトの顔してるけど、実際は公式サイトとURLが違う。よく似せたフェイクだ」
 
――偽物。青井は奥歯をかみしめた。

「なにからなにまで同じ作りになってる。込んでるなー……」
「それで、昨日、綾小路って人が来た後に、美春にメッセで通話を掛けたんだけど」
 青井はメッセの画面を見せた。
「全部通話失敗になってるな」
 久瀬の言うとおり、画面には「通話失敗」という灰色の文字が並んでいる。
「そう。全部向こうから切られたんだ。それで……」
 青井は数十件の通話失敗の履歴を遡って、メッセの最新履歴をうつした。
「たっくん大好き」「僕も美春が好きだよ」なんて、恋人同士のやりとりを一人者の久瀬に見せるのは心苦しかったが、致し方ない。
「今どこにいる?って聞いたら、濁すばっかりなんだ。素直に海外だって言えば良いのに」
「『何を言ってるの』『どこだっていいじゃん』……ふむ」
 久瀬は顎に手を当てて宙を見上げた。
「警察の発表によると、貴重品も靴も残ってたって話だけど、スマホはどうなんだろうな?」
「だから僕、今日、美春の家に行ってみようと思う」
「……おまえ一人で?」
「うん」
 青井はうなずいた。久瀬は少し考えてから、
「おまえの場合夢か現実か分かんなくなるだろ。証人として俺もついていく」
「助かる」
 青井は久瀬の肩を小突いた。
「久瀬がいてくれてよかったよ」

「嘘だね」と久瀬が言った。「おまえは俺を利用するためにここに寄ったんだろ?」
 ――図星。
 何も言えずにいる青井に、久瀬はにやりと笑って見せた。

「いいぜ、何度だって利用されてやる」