碁盤の目のようにきっちりと並べられた道路を駅の方へ下ってゆく。昔は小さな城下町だったというので、その名残だろう。狭い道は等間隔に住宅や店舗を並べる。あまりに似通った景観なので、同じところをぐるぐる回っているような感覚に陥ることがあった。二年目ともなれば、さすがに慣れたけれど。
 青井は途中の安売りの自販機で缶コーラを二本買う。つめたい容器に指を滑らせると、はやくも汗を掻いている。通り雨が止んだ後の太陽はすっかり夏の表情を見せていた。ビニール傘をくるりとまとめ、両手に缶コーラを持った、その瞬間だった。首の後ろのあたりに、視線を感じた。

――見られている?

振り返った後ろの電柱から誰かがこちらを伺っている。
 青井はさっと人影から視線をそらした。そしてあたかも何も見なかった風に振る舞った。そのまま家へ帰ることだけを考えた。

 気のせいだ。そうに違いない。

 しかし、男は青井と一定の距離をおきながらついてくる。青井が振り返れば電信柱の影にすっと隠れ、青井が歩き出したら再び歩き出す。その繰り返しだ。
――なんだこれ。
 まるで、「だるまさんが転んだ」だ。確実に青井のことを追ってきている。
――なんなんだ?
 相手は表情はおろか、顔すら見えない。尾行に慣れているのか、男であることしか分からなかった。ばくばくと心音が警鐘のように鳴り続けている。なぜこんなことになっているんだ? 
 つか、つか、男の足音がじょじょに近くなっていく。距離が縮まっているのだろう。青井の手の中で缶コーラが滑りそうになる。抱え直した二本の缶をしっかり握ると、青井は姿勢をかがめて、腿を高く上げた。
「くっ」
 短く息を吐き、渾身の力で濡れたアスファルトを蹴る。そのままの反動でもう一歩。
 何を隠そう、青井は元陸上部なのだ。家まで目測百メートル。両手にそれぞれ握りしめた缶を惜しく思いながら、脇に引きつけた肘ごと振る。背中でほぼ空のリュックが暴れる。心臓が縮み、膨らみを繰り返し、体中に血液を送り出す。警鐘の音は号砲へ変わり、青井をトラックの上へと駆り立てた。
 水たまりに派手に足を突っ込む。それでも速度は緩めない。後ろも見ない。身体で覚えている走り方で、家を追い越し、その先の角を曲がり、さらに小さな公園を突っ切る。
 そして男が追ってくるかどうかを確かめながら走り流し、青井はようやくスピードをゆるめた。体中にびっしょりと汗を掻いていた。台無しにしたコーラのことを残念に思いつつ、缶二本をリュックに放り込み、スマホを取り出した。――夢ではない。
 念のため一一〇番を打って、通話ボタンを押すだけにおく。

 追いかけられる夢はしょっちゅう見る。決まって青井は得体の知れない恐ろしい塊から逃げていて、決まって場所はこの碁盤の目のような通学路だ。まさか夢の中のシミュレーションがこんな風に役に立つ日が来るなんて。青井は顎までたれてきた汗を拭うと、スマホを握りしめて、そっと元来た道を避けてアパートを目指した。
 細心の注意を払って帰宅する。上手く撒けたらしい、男らしき人影はどこにもなく、ほっと息をなで下ろす。ポケットから鍵を取り出して開けると、慣れた部屋の様子が目に入ってきた。レポートを徹夜で仕上げたあとの、散らかった部屋だ。
「――よかった」
 なんとか、帰ってこれた。
 とその時、



 ぴん、ぽーん。


思わず手に持っていたスマホを落とした。タイル張りの玄関に落ちて、けたたましい音が鳴り響く。

ぴん、ぽーん。


「青井さん。青井拓斗さん!」


 青井はぞっとした。表札なんか出していない。だからこの部屋に住むのが青井拓斗だと知っているのは大家と友人の久瀬くらいのものだ。それが――

「青井さん、青井さん。いらっしゃるんでしょ。今の聞こえましたよ。開けてください!」
 ガンガンガンガン!
 青井は音にせき立てられるようにスマホを拾った。がたがた震える指で一一〇番に電話を使用とする。だが、

「青井さん、天才ピアニストの小早川美春とお付き合いされてましたよね?」
 美春の名が出たことで、判断が鈍った。
「小早川美春についてお聞きしたいんですけども。小早川美春の行方をご存じで?」
 男は矢継ぎ早に質問をたたきつけてくる。

「小早川美春は二年前に失踪したまま行方が分からないそうですが」

――え?

「小早川美春は本当に生きているんでしょうかね?」

――美春が?

「小早川美春は死んでいるんじゃないですか?」

――どうしてそんな話になる?


「小早川美春を殺したのは貴方ですか?」


 青井はドアにチェーンをつけ、勢いよくドアを押し開けた。
「こ、殺してないッ……!」
 男は青井の表情を見て満足げに微笑んだ。日に焼けた肌の割に、歯が白く光っていた。見たところ三十代後半くらい、だろうか。若作りな四十代というセンもある。安そうなスーツを着た長身の男だ。
「どうも、『週刊ヌー』って雑誌の記者をやってます、綾小路と申します」
 「やっている」のイントネーションがすこし違っていた。関西のなまりだろうか。押しつけられた名刺には「綾小路ススム」と言う名前と、先ほどの自己紹介の通りの肩書きが書かれていた。
「僕はね、小早川美春失踪事件を独自に追っている者でして」
「美春は、失踪なんかしてない、でたらめ言わないでくださいよ、」
「してるんですよこれが」
 綾小路は手帳をめくって、あるページをとうとうと読み上げた。
「二年前の八月の末、詳しくは二十九日ですかね。彼女は忽然と姿を消してしまいました。靴も貴重品ものこしたまま、本人だけが消えてしまったんですね」
「嘘だ!」
「嘘じゃありませんとも。青井さん、小早川美春・失踪で検索かけてみてくださいよ」
「そんな突拍子もない話……」
「言っちゃなんですけど……現実をご覧なさいよ」と綾小路は言った。
「胡蝶の夢症候群。大変なのは存じ上げてますけど、さすがにそろそろ目を覚ますべきではありませんか」
 青井は一一〇番の画面を消して、言われるがまま検索をかけた。小早川、といれただけで「小早川美春 失踪事件」とサジェストが出てきて、心臓が縮み上がった。
「嘘だ……」
「八月二十九日。ほら、僕の言ってることと変わらないでしょう」
 インターネットの情報はおおむね綾小路の言っていることと一致した。
「失踪……? 美春が? 二年も前から……?」
 目の前がぐらりと揺らいだ。めまいを起こしている。ドアノブにすがるようにしゃがみ込んだ青井を追い立てるように、綾小路が続ける。
「ここまで目撃証言はゼロです。彼女は蒸発してしまった」

 綾小路の聞き慣れないイントネーションが、非現実的に響く。青井はスマホを操作して、今日確実に単位を取ったことや、久瀬と約束をしたこと、そして――美春とやりとりをしたことを確認した。
「じゃあ、じゃあいままで、僕と連絡してた美春はなんだったんです?」

それは本当に美春さんですか(・・・・・・・・・・・・・)?」

 まぶたが震え始めた。

「美春に決まって……」
「貴方の夢では?」

「……」

 何も言えなかった。スマホを持った手をだらりと垂らした青井を見て、腕時計を見た綾小路は、そろそろ時間ですので、と前置きして、こう告げた。


「いろいろ言いましたけど、僕はね、貴方の味方ですよ、青井拓斗さん。……それでは失礼します。いつでも連絡ください」


がちゃん、と扉が閉まる。青井は玄関で崩れ落ちた。