高校時代、青井はチョウチョくんと呼ばれていた。無論「胡蝶の夢症候群」の所為だった。特有の眠気で眠りにつき、その先で現実と夢の区別がつかなくなり、授業中に「いやだ!」と叫んで飛び起きた時から、その運命は決まっていた。世にも珍しい幻の珍獣みたいな扱いを受け、あだ名が変わり、他人の目に「いうて病気だしな」という蔑視が混ざるようになった頃、美春が転校してきた。
 美春だけが「青井くん」と呼んでくれた。

「チョウチョくんはさ、いいよね」と聞こえよがしにクラスメイトが言う。「ハンデ? っていうの? あってさ。大目に見てもらえてさ。宿題忘れてもいいし、登校しなくてもいいし、俺もなろうかな、何だっけ、ちょうのなんとか?」
「胡蝶の夢症候群」とクラスメイトが言う。「さすがにそう言うのナシでしょ、センセに怒られんよ? 差別はいけないって。反省文書かされちゃうよ?」
「それに理解して『あげなきゃ』駄目じゃん」とまたクラスメイトが言う。
「差別じゃねえよ、区別だよ」とクラスメイトが言う。そして笑う。
 周りのクラスメイトも一斉に笑う。風に花がそよぐような自然さで。そしてまるで不自然なのは青井であるかのようにこちらをチラチラと見た。それが、彼らの連帯で、友情ごっこの証だったのだろう。
 青井は耐えられずに座っていた席から立ち上がり、隣の机にたむろっている連中をきっとにらみつけた。

「なに? どうしたの」とクラスメイトたちは聞く。可笑しそうに訊く。青井の唇はわなわなと震えて、何かを絞り出そうとあがいているのだが、上手く言葉にならない。言葉にしたら。言葉にしたら、足下の薄氷が割れて海に落ちる。そんな恐怖があった。だけど、言わずにはいられない、奴らに言い返してやりたい、好きでこうなったわけじゃない、好きで眠るわけでも、好きで夢を見るわけじゃない、そんな思いが、マグマみたいにどろどろの塊になって喉につかえた。青井の中で二つがせめぎ合って、とうとう、こぼれた。
「う、う……っ」
「なに? また夢の中?」クラスメイトたちが笑った。
「そういうのもういいよ、チョウチョくん」
……るさい。うるさい! 全員消えろ!
 そんなら僕と代わってくれよ!
 握りこぶしがブルブル震える。爆発しそうな怒りを前にして、何も感づけない愚かなクラスメイトたちは、やはり花々が風に揺れるように笑った。
 全員、全員消えちまえ!!

 そう言いかけた瞬間に、花のような香りが目の前をふとかすめた。手首を握られ、そのまま教室の外へ連れ出される。その香りの主が、その手の主が小早川美春だと気づいたときには、廊下を走り抜けて、階段を駆け下りて、下駄箱の前まで来ていた。気づいたら、二人で、必死に酸素を取り込んで、一緒に肩で息をしていた。
「なん、なんだ、いったい」
「――逃げ出したそうにしてたから」
 美春が言った。彼女も大きく息をしていた。
「どうせなら、一緒に逃げようと思ったの」
 彼女は真剣なまなざしで青井を見つめ、それから華やぐように笑った。
「ね、あの日のこと覚えてる? 私は、覚えてるよ」
 授業開始のチャイムが鳴る。美春の瞳の奥を見ている。僕の目の前にいる彼女の姿が、あの日のシフォンのドレスの少女とようやく重なった。
 美春が額の汗を拭う。そして、また青井の手首をつかんだ。
「このまま逃げちゃお!」
「え、ええと、小早川さん?」
「美春! みー、はー、る!」
上履きのまま走り抜けるグラウンド、焼けたアスファルト――ためらいが、無かったわけじゃない。どうしたって屋内用の靴だから、少しの違和感が残る。青井の中にだけ、残る。
 上履きのまま上がり込む駅の雑踏。上履きのまま闊歩する人波。明らかに異物としてそこに立っていたのだけれど、駅のごたごたした日常風景は青井のことも美春のことも吸い込んで、風景の一つに溶かしてしまった。
「……小早川?」
 美春は、誰も弾いてないストリート・ピアノの前に立ちすくみ、何かを悩んでいるようだった。
「……弾くの?」
「ねえ、青井くん。聞きたい? 青井くんが聞きたいなら弾くよ」
 静かな声で美春は言う。ピアノの鍵盤を撫でる指先は細くて白い。
「聞きたいよ」
 青井は即答した。
「小学生の頃から、……あのときから、僕は小早川美春のファンなんだ。聞きたい」


 ――夢。夢だ。

 白昼夢を振り払うように両頬をたたく。隣で信号待ちをしていた自転車の女性がびっくりしてこちらを見る。青井は視線に気づかなかったふりをして、赤信号の赤を見た。
「胡蝶の夢症候群」の人間の交通事故の件数は年々上がり続けているという。青井もいつ、夢見心地で赤信号の横断歩道に飛び出すか分からない。だから「胡蝶の夢症候群」の人間は基本的に運転免許を所持できない。法律でそう定められている。
 青井はスマホをチェックした。今日の日付のメモにはレポート提出済みの印がついていたし、オンライン対戦を約束した久瀬からは「いつでもいいだろ」という適当な返事がきていた。今は、現実だ。間違いようもない。
「いや、よくねえよ」
 ひとりごちると信号がようやく青信号に変わる。青井は安アパートへの帰路をたどった。