うまく効かない薬の所為にする前に、習慣から見直した方が良いよ、と担当教授は言った。
「前もって予定を何度も確認する癖をつけるとか、信頼のおける友人や家族にリマインドを頼むとか。まあ、いろんな対処法があると思うけれど」
「すみません」
 いや全部やってるよ、という毒は飲まざるをえない。ここでは圧倒的に青井が弱者だ。そして、教授が強者だ。青井は単位を乞う立場であり、教授は単位を与える立場。
 自明だ。
「君の身体の事情は知っているけれどね、青井君」
 外からは雨音が聞こえてきている。研究室はエアコンの除湿が効いていて涼しすぎた。鳥肌が立つ腕をさすりながら、青井はうつむいた。
「以後、気をつけます、すみません」
 何度も重ねる謝罪の言葉が回数を追うごとに薄っぺらくスライスされていくのを、青井はいたいほど感じていた。教授は眼鏡をくいとあげると、今し方提出したばかりの、「青井拓斗」のレポートをつらつらと読みながら、ため息を一つついた。
「……君のレポートは毎回、そう毎回、興味深い。だからこそ私としては是非単位を出してあげたい。でもね、だからこそ、こうも提出期限を間違えられてばかりだと、他の学生に示しがつかないよ」
「……すみません」
 謝罪の薄皮があったとしたら、もう何枚も剥がれてしまって、肝心の中身がなくなってしまうんじゃないだろうか。しかし今の青井が切れる手札はそれしかなかった。どんなに皮がはげて無様でも、自分の非を認め続けることだ。それしかない。
 課題レポートの提出期限を一週間、間違えていることに気づいたのが二日前。課題を仕上げて出したのが今日。期日は一日過ぎてしまっていた。よりにもよって卒業に必要な必修科目でそれをやらかしたのだ。世の中はきっちり時計と日付で管理されていて、みんなそれに従って生きているのだから、僕の夢の中では締め切りが一週間後だったんです、なんていう言い訳は、通用しない。
「これきりだからね。さすがに次はないよ」
 教授はレポートを掲げて見せた。「確かに受け取りました」
「はい。……ありがとうございます!」
 青井は勢いよく頭を下げた。これが夢だったらどうしようと思いながら。
 
 教授の研究室を出ると、むっとした湿気が漂う廊下に急に放り出される。温度差に震える。手の指の先は紫色になっていた。何分問答をしたか分からないけれど、青井には永遠に感じられた。まだ鳥肌が立っていた。
 ともあれ、単位を出してもらえることになった。これが仮に夢だったとしたときのために、スマホに日記をつけておく。カレンダーのメモ欄の、今日のところに、小さく「文一課題提出成功」とだけ書き込み、スマホをポケットにしまう。そして、紙一枚提出しただけで異様に軽くなったリュックを背負い直すと、青井は文学部棟の階段を下りていく。孤独な足音が雨音の中に消えていく。
 外へ通じる一階のエントランスに出てくると、夏休みの計画を立てている陽キャたちの集団が自習室を占領していた。あまりの圧に、孤独はどこかへ吹っ飛んでしまったけれど、代わりに残ったのは大きな疎外感だった。
 ここに長居するべきではない。

「あ、青井くん! 青井くん!」
 ショートボブ美人が手を挙げる。大園こまちだ。何かと声を掛けてくる女子大生である。
「青井くんも、夏休みどこか遊びに行かない?」

「……いや、僕もう用事があるから、パス」
「ええーつまんなーい」と誰かが言った――青井にとっては誰でも良い。こまちはちょっと悲しそうな傷ついたような顔をして「そっか、残念」とだけ言った。

 おまえたちは良いよな、と言う言葉を呑む。何の心配も無くて、今が夢か現実かを疑うこともなくて、何のハンデもなくて、生き苦しくなくていいよな。頭の中で彼女たちの間抜けな笑顔にそう言葉をぶつける妄想をしていたら、ふと――
「そういえば、課題レポート、教授はなんて?」
 大園がこちらをじっと伺っていた。ぎょっとした。青井は慌てて笑顔をつくり、小さく手を振った。
「通してもらえたよ。ほんとに、……教えてくれてサンキュ、大園」
「よ、よかったぁ。文学一の単位落としたら来年面倒だもんね!」
「今度なんかおごるよ」
「べ、別にいいよ!」
 大園は手がもげるんじゃないかというくらい手を振りたくって、青井の申し出にとんでもない、とくり返した。
「私、そういう人を見捨てられないだけで――」
「でも、サンキュ。助けてくれて」
 言いたくもないことや、考えてもいないことを言うのは、メンタルがすり減る。上げた口角が引きつる前に、青井はきびすをかえした。
「じゃ、新学期に逢おう」
「またね!」
 大園の声が追いかけてくる。青井は適当に手を振った。
 きっと大園は、かわいそうな人たちに声を掛けるのが好きなのだろう。
 
 簡易メッセージサービス「メッセ」のアカウントには二件の通知が来ていた。片方は小学校からの幼なじみ、久瀬隼人から。「今晩ファイゴでオンラインしようぜ」。
 すかさず「了解」の絵文字を送る。「良いけど何時から?」
 もう片方は、小早川美春からだった。「元気?」
「元気だよ。美春は? 調子はよくなった?」
 すぐさま既読がつく。そして入力中の画面が表示され、返事がポップアップされる。
「雨のせいか少し落ち込み気味。でも、元気になった。たっくんのおかげ」
青井拓斗と小早川美春は付き合っている。小学生の時からその才能を見抜かれた、同い年の、稀代の若いピアニスト。そんな美春と、こんな青井が付き合っているんだから、世の中というものはよく分からないな、と青井は思う。
 出会いは小学生の頃のピアノコンサート。
 再会は、美春がこのN市の高校へ転校してきたためだ。
 それまで「胡蝶の夢症候群」のために味のしないガムをずっとかみ続けるような高校生活を送っていた青井は、彼女の登場に驚いた。彼女が天才ピアニストとして知られているからではなく、――あの日の夢の続きを目の当たりにしている気分になったからだ。
 彼女は人当たりよく、頭も良くて、青井にしてみれば完璧だった。これでピアノのプロなのだから、天は彼女に四物くらい与えたに違いない。出血大サービスだ。青井は、それが自分に与えられるはずだったギフトの一つであったらいいとさえ思った。青井に与えられなかった何かを、彼女が代わりに受け取っていればいいとさえ思った。
 本当は、強い光を放つ彼女の笑顔を、物陰のダンゴムシみたいに見つめていられたらそれで良かった。彼女が音楽室のグランドピアノで即興する演奏は、以前聞いたときと変わらず、青井に不足している全てを補ってあまりあった。
 

「次会えるのはいつになるかな」
「わからない」
 美春はいつもコンサートで飛び回っている。世界中の大きな会場から小さな会場までいろいろだ。個人サイトに上がっている予定によると、来年までずっとコンサートで埋まっていて、とても青井とデートをするような余暇は作れそうになかった。
「そうだよね、変なこと聞いてごめん。美春の生のピアノが聞きたくてさ」
「こっちこそ、ごめんね。時間作ってあげられなくて」
 続けて、美春は素早くこう送ってきた。
「たっくん大好き」
 僕も、と即答できない自分がいる。少し考えて、青井はゆっくりとスマホをフリックした。
「僕も美春が好きだよ」
 確かめるように。
 送信ボタンを押してから、青井はスマホをポケットに突っ込み、構内をゆっくりと校門に向けて歩き出した。