川面を渡る風はとっくに春を置いてきぼりにし、明るく踊る光に満ちていた。
 だがまぶしい陽射しは半井(なからい)蒼真(そうま)には届かない。川に架かる橋の下にいるからだ。
 五月。人によっては病む季節。

「めんどくさ――」

 蒼真は今日から始まった進路面談のことを考え、ため息をつく。午前授業で帰宅中なのは面談のおかげだけど、憂鬱なのは変わらなかった。
 自分の予定日は明後日。それまでに大ざっぱでいいから方向性を決めなくてはならない。
 大学、あるいは専門学校進学。それとも就職。
 そんなん決められるかよ。口に出すのは情けない気がして、蒼真は心の中で毒づいた。

 本音を言えば、このまま家で好きなイラストを描いていたい。これでもSNSの描きアカではフォロワーも少しはいるのだ。
 だけどそんなわけにはいかない。仕事になるかどうか不確かなものに没頭していられるような、余裕のある半井(なからい)家ではなかった。
 すぐに働けとも言われないが、大学に行くには都会で一人暮らしか遠距離通学を選ばなければならない立地のこの町のこと。下宿代の仕送りはするけど奨学金を取らないと学費が足りないと申し渡されていた。

「あーあ」

 きっちり護岸工事された川辺で蒼真はゴロンと寝転がった。制服のブレザーは脱いで、停めた自転車のハンドルに放り投げてある。
 岸の上には国道が通っていた。その脇に建ち並ぶのは全国区のチェーン店ばかり。つまりここは、どこにでもある地方都市だ。蒼真の真上の橋をトラックが通るたびにゴオオと重い音がした。

「蒼真?」

 視界のすみにレモンイエローがはためいたかと思うと、いきなり名前を呼ばれた。飛び起きて座る蒼真のことを見おろしたのは、知らない女の人だ。いや――知らないこともないか? クラスの女子生徒にすごく似ている気がする。

林田(はやしだ)――?」

 林田珠季(たまき)。中高同じで、クラスだって何度も一緒になったことがある。
 だけど目の前の人は蒼真よりいくつか歳上に見えた。セミロングの髪を栗色に染めていておしゃれだし、黒髪の女子高生な珠季とは違う。大人っぽいレモンイエローのキュロットスカートと七分袖の白いブラウスが、五月にしては夏めいて見えた。

「――やっぱり私のこと、そう呼ぶんだ」
「え、ごめんなさい」

 この人は、少なくとも蒼真の知っている林田珠季とは別人だ。姉か何かかもしれない。いきなり呼び捨てたことを蒼真は後悔した。その人はやや悲しげな早口になる。

「ううん、仕方ないよ。私こそごめん、こんな風に会えると思わないから」
「は? ええと、なんで俺を」
「私、ちょっと言いたかったの。ずっと言いたかったの」
「どういうこと。ていうか何です?」
「ほんとひどいと思ったよ? 女の子の顔なんだから、あんな言い方するもんじゃないでしょ」
「いやマジ、なんのことっスかっ!」

 心当たりがなさすぎて蒼真は叫んだ。誰にどんなひどい発言をしたんだ俺は。
 蒼真はうつむいて目を閉じ、記憶を掘る。ブラジルに届きそうなぐらい。でもわからなかった。降参。

「すんません、俺ほんと何を言いました――ってあれ」

 顔を上げると女の人はいなくなっていた。

「――は?」

 キョロキョロするが、影も形もない。まるで一人でしゃべっていたかのような居心地の悪さに蒼真は誤魔化し笑いを浮かべた。

「うっそだろ」

 つぶやいても誰も応えてくれなかった。所在なくてノロノロと立ち上がる。
 と、高校の方からクリーム色の自転車が走ってくるのが見えた。国道ではなく、護岸の途中に整備された遊歩道を来る。

「うえっ」

 自転車の主は、林田珠季だった。
 さっきの謎の女性とはやはり違う。いつもの制服姿で黒髪の珠季は、蒼真と目が合うとキキッとブレーキをかけた。

「何してんの、半井(なからい)

 ケロリと言われて気づいた。
 そうだ、珠季は「蒼真」なんて言わないじゃないか。
 蒼真と珠季はお互いに「林田」「半井」と苗字で呼び捨てる。異性のクラスメートとしてはそれなりに気安い距離感の、ゆえに決して付き合ったりとかにはならない相手だった。

「……なんかぼーっとしてただけ」
「現実逃避? したくなるよねー」

 ハハハと乾いた笑いをもらした珠季は、そういえば面談の一番手だった。今まさに、済ませてきたのか。

「おまえどうすんの、進路」
「……指定校狙い」
「はあッ? そんな成績良かったのかよ」
「ふっふーん」

 得意気にした珠季は「でもさあ」と川に目をやった。

「東京に出るのもなんだかな、て」
「……目、ひどくね?」

 まったく関係ないことが気になって、蒼真は指摘した。珠季の右目、こめかみ寄りの白目部分が真っ赤だ。視線が真っ直ぐだとわからないぐらいの端っこなので目立たないけど。珠季はパッと目を隠す。

「なんか軽い結膜炎みたいなやつよ。ゴロゴロするだけ」
「うっえー、ゾンビになりかけかと思ったわ。これから全身崩れてくるんじゃねえの」
「ひど!」

 珠季はムッとしてハンドルを握り直した。不機嫌にぷいっとペダルを踏み込んで去る背中に、蒼真は急いで叫んだ。

「ヤバそうなら病院行けよ!」

 珠季の肩が揺れたような気がするが、振り向いてはくれなかった。
 悪いことを言ったと反省したのは伝わっただろうか――だってほら、女の子の顔のことだから茶化しちゃまずいと思ったのだ。さっき文句を言われたばかりだったから。


 家に帰った蒼真は、ふと気が向いてゾンビガールの絵を描いた。
 濁った目は力強く、まだらにくすむ皮膚がファンキーで、ボロボロの服とほどけた包帯がちょいエロい。モノトーンに荒廃した都市の中を走る色鮮やかなゾンビちゃんは何故か生命力に満ちていた。

 美大なんて金のかかるところには行けない。イラストやデザイン系の専門学校ならとも思うが、そこまで方向性を振り切るのが怖いんだ。自分の才能に自信なんてないから。
 それよりは普通の大学に進んで、つぶしのきく状態にするのがよくないか?

 迷う蒼真の横っ面をはたくように、アップしたゾンビガールには続々いいねがついた。バズるほどではないけれど。
 おかげでこの〈進路〉という迷宮は、行っても行っても深まるばかりだった。