翌日。
多分昨日と大体同じ時間くらいに、僕はまた河川敷へとやってきた。
彼女が来るかどうかもわからないけれど、仮に彼女がやってきて、暑い中ずっと僕を待っている、なんてことが起きてしまったら。
人気者の笹原さんに対し、ぼっちの僕が約束を破り炎天下の中放置した。
なんて噂が教室で広まり、新学期から僕に対するいじめが始まるかもしれない。
そう思うと気が気じゃなかった。
今日もし彼女が来たら、僕はここには来ない旨をしっかり伝えようと思う。
こんな暑い中、誰がこんなところで本を読むと言うんだ。…僕が言えたことではないけれど。
「おっ!いたいた!」
僕が本を読み始めて少し経った頃、笹原さんがやってきた。
「おつかれっ」
「お、おつかれ…」
彼女は昨日と同じように制服姿で、僕の右隣に腰を降ろした。
本当に来た…。
待っていてよかったと安堵する。
「あ、あのさ、」
明日からはもうここには来ない、そう伝えようとすると、彼女は僕の読んでいる本を覗き込んだ。
「で、どう?」
「え?」
「今どんなシーン?」
「え、ああ、えっと、主人公たちがとある村に到着して、そこで親友の手掛かりを見つけたところまで」
「ふむふむ、もうちょいで二巻目も終わりだね」
僕の話した内容と、右側が厚くなってきた本を見て、笹原さんはそう言った。
「笹原さんって、本当に本読むんだ…」
思わず零れてしまった言葉に、彼女はぷっと吹き出した。
「本読まなそうな見た目してるでしょ?」
「え、いや、そういうわけじゃ…」
「いいのいいの!よく言われるから!」
「そ、そう…」
本人は特に気にしていないようで、からからと笑い飛ばす。
「私、陸上部に入ってるんだけどね、休憩時間とかに本読んでると、やっぱりみんな同じように驚くもん。美夏って本読むんだ!?って」
笹原さんの言葉に、どう反応していいかわからない僕は曖昧な笑顔を浮かべる。
たしかに笹原さんは陸上部のエースで、スポーツ少女、というイメージの方が強いかもしれない。
教室でも本を読んでいる姿なんて見たことがないし、どちらかと言えばいつも賑やかなグループに所属していて、楽しそうに笑っている印象があった。
笹原さんは太陽の光がきらきらと反射する水面を見つめた。
「陸上は小学生の頃に始めたんだけど、それまではずっと室内で本ばっかり読んでたんだ」
僕は目をぱちぱちと瞬かせる。
すると笹原さんは「これも意外でしょ?」と少し照れたように笑った。
「小さい頃は身体が弱くてね、部屋で本ばかり読んでたの。で、そこで出会った本が、陸上部でひたすらに走る男の子の物語だった」
笹原さんはその本の内容を思い出すかのように目を細めた。
「主人公達が走る描写がね、ほんっとうに気持ち良さそうなの!風を切って走る描写とか、苦しいけど、走るのが楽しいって思いとか。読んでて自分自身が走っているみたいな感覚になって。私もこんなふうに走れたらなぁ、って。その本に心動かされちゃったんだよね」
笹原さんの言葉に、僕はうんうん頷く。
その気持ちはよくわかる。
本を読んで、その世界に心を掴まれて、そうして主人公に憧れる。
僕もいつもそうだ。
「それで陸上始めたの。お母さんは私の身体をすっごく心配してたけど、始めてみたらなんだかどんどん身体の調子が良くなって。今ではこの通り!」
むきっと上腕二頭筋に力を入れて、マッスルポーズをする笹原さん。
僕の口角は自然と上がっていた。
「陸上が好きって言っても、やっぱり本を読むことは今でも大好きなんだ。昔よりも読む時間は少し減っちゃったんだけどね」
えへへ、と頬を掻いた笹原さんが、くるっと僕に向き直った。
「で、いつも滝本くんが何を読んでるのか気になってたんだよね」
「え?」
僕の名前、知ってたのか。
思ったことが顔に出ていたのか、笹原さんはまたにこりと笑う。
「滝本 秋弥くん、でしょ?クラスメイトなんだから名前ぐらいちゃんと憶えてるよ」
「そ、そう…」
僕みたいな地味な人間が、笹原さんみたいな明るい人に憶えられているとは思わなかった。
勝手に別の世界の人だと思っていたけれど、笹原さんてこんなに話しやすくて気さくな人なんだ。
僕は偏った認識を持って、それを彼女に押し付けていたことを恥じた。
「おっと、もうこんな時間か」
笹原さんは左腕の腕時計をちらりと見て立ち上がる。
「じゃ、今日はこの辺で!また明日ね!滝本くん」
「え、あ、ちょっと…!」
笹原さんはまたもささーっとその場からいなくなってしまった。
明日はもうここに来ないんだけど…。
そう伝えたかったのに、結局今日も伝えられなかった。
「まぁいいか、明日伝えよう」
今朝までの重い気持ちはどこへやら、僕は軽快に自転車を走らせて帰路に就いた。