それはちょうど、去年の夏休みのことだった。

 家の玄関を出るとじめっとした、身体にまとわりつくような熱風が襲ってきて、思わず「うっ」と声が漏れた。
 アスファルトに反射した日差しが眩しくて、目まで痛くなりそうだった。
 今日は最高気温が38℃に迫る猛暑日だと、今朝のニュースの天気予報が告げていた。

 38℃って…人間で言うともう発熱しているレベルじゃないか。

 雲一つない空には太陽がギラギラと輝いていて、体感はもっと暑く感じるような気がした。
 一瞬家に引き返そうとも思ったけれど、僕は渋々熱をもった自転車に跨って、近所の図書館まで自転車を走らせることにした。
 図書館までは一時間とかからないけれど、夏に一時間も自転車を走らせるのは、文字通り自殺行為だと思い知らされる。
 図書館に到着する頃には、全身から汗が吹き出していた。
 しかし館内に入ると、寒いくらいの冷気が僕を歓迎してくれる。

「涼しい…」

 ほっと息をついて、まずは鞄に入れていた本をカウンターの返却ボックスへと入れた。

 僕は本を読むことが好きだ。
 暇さえあれば本を読んでいる。
 いや暇がなくても本を読む時間を作るだろう。
 こんな暑い中わざわざ図書館にやって来たのは、どうしても読みたい本があったからだった。
 借りていた本は昨日ちょうど読み終わってしまって、どうやら続きものだったらしいその本が気になって、いてもたってもいられずに借りに来たのだ。
 図書館内は歩き馴れていて、どこになんの本棚があるかはもう把握していた。
 入口から見て、一番奥が文学の棚だ。
 無駄な音を立てないように、ゆっくりと、静かな足取りで目的の本棚へと歩みを進める。
 作家順に並んでいるそこから、昨日読んでいた本の作者の頭文字を探す。
 本の独特な匂いが漂う。
 紙の匂いなのか、インクの匂いなのか、装丁に使われたなにかの匂いなのか。
 よく分からないけれど、僕はその匂いが好きだった。

「あ、」

 あった。
 僕は一冊の本を手に取ると、その表紙を眺めた。
 これだ、二巻目。
 どうやらこの物語は三部構成だったらしい。
 三巻目もあれば借りておきたかったのだけれど、そちらはどうやら貸し出し中のようだった。

 また来るしかないか…。

 暑いのでなるべく外に出たくはなかったけれど、図書館に来ること以外、休みの予定がないので、たまのいい運動だと思って通うことにする。
 せっかくの夏休みだ。
 できるだけたくさんの本を読んでおきたい。
 その他数冊の本を手に取って、貸し出しカウンターへと持っていった。
 手続きが終わり図書館を出ると、先程からまったく和らぐことのない容赦ない日差しが僕に降り注ぐ。

「あっつ…」

 太陽から目を背けて、僕は再び自転車に跨った。
 自転車に乗りながら考えることは、先程図書館から借りてきた続刊のことだった。
 続きが気になってしょうがない。早く読みたい。
 主人公たちはこの先どうなってしまうんだろう。

「……あーだめだ!」

 僕はいてもたってもいられず、自転車を降りた。
 目の前には、涼やかな川が流れる河川敷がある。
 ちょうど高架下になっている日陰までやってきて、僕は無造作に腰を降ろした。
 鞄から先程借りたばかりの続刊を手に取る。
 家に帰るまで我慢できなかった。あと四十分も自転車を走らせるなんて無理だ。
 こんな暑い日に外で本を読むなんて、自分でも馬鹿だと思う。
 けれど近くの喫茶店を探す手間すらおしい。
 とにかく早く続きを読みたい。
 僕はうるさい蝉の声なんて気にならない程に、その本に没頭した。


「ふう…」

 少しキリのいいところまで読み切って、僕は一息ついた。
 面白い…。
 どうしてこんなにも面白い文章を書けるのだろう。
 本当にすごいと思う。
 こんなお話、僕じゃ到底思いつきっこない…。
 急に喉の渇きを感じて、持って来ていた水を慌てて飲もうとして顔を上げると…。

「おや?読み終わったの?」
「うわあっ!?」

 目の前に女の子の顔があった。
 僕の顔を覗き込むように見ていて、目が合うとにこりと笑った。


 僕と彼女の世界が、繋がった瞬間だった。


「い、いつからそこにいたの?」

 僕が尋ねると、彼女はうーん、とわざとらしくあごに指をあてた。

「いつだったかな?」
「こんなところにいたら、熱中症になるよ」
「それはこっちのセリフだよ」

 何がそんなに楽しいのか、彼女はふふっと笑う。

 彼女の名前はたしか、笹原 美夏(ささはら みか)。クラスメイトだ。

 しかし、僕と彼女はまったくと言っていいほど話したことがない。
 彼女は明るく、クラスでも人気があり、いつも周りに友人がいる。
 片やいつもひとりで本を読んでいる僕。
 接点なんてあるはずもなかった。

「えっと、笹原さん。僕に何か用?」
「特に用はないけど…クラスメイトがいたら、とりあえず声は掛けるでしょ?」

 その発想には同意しかねる。
 クラスメイトを見掛けたら、とりあえず退散。それが僕だ。
 やはりクラスのカースト上位の人間は、僕と意見が合うことはなさそうだと思った。

「で、何読んでるの?」

 本に興味があるとは思えないけれど、僕は読んでいた本の表紙を彼女に見せた。すると彼女から意外な言葉が飛び出してきた。

「お、それ読んだことある!」
「え、本当に?」
「うん!三部構成だよね?三巻とも読んだよ。それねぇ、最終的にねぇ、主人公がぁ」
「ちょ、ちょっと待って!もしかしてネタバレしようとしてる?」

 僕は慌てて彼女の発言に割って入る。

「冗談だよ、ネタバレなんてするわけないじゃん。今読んでるのにさっ」

 彼女と親しくない僕は、彼女がどんな人間なのかわからない。
 本当にネタバレされたらどうしようと、無駄に冷や汗が出た。

「さてと」

 彼女がさっと立ち上がる。
 目の前でふわりとスカートが揺れて、僕は慌てて顔を背けた。
 その様子に気が付いた彼女はまた笑った。

「そんなに慌てなくても、下に短パン履いてるから大丈夫だよ?」

 そういう問題ではない気もするけれど、これ以上なにかを言われるのは困るので、僕は知らんぷりを決め込んだ。

「明日もここにいる?」
「え?」
「私、部活終わりがこの時間なんだ、また明日話そうよ!」
「あ、いや、」

 彼女は言うだけ言ってさっさと行ってしまった。
 困った。
 僕は今日、初めてこの河川敷で本を読んだ。
 ここが水辺で涼しいからいつもここで本を読んでいる、と勘違いされたのかもしれない。
 彼女は、明日もここにいる?、と訊いてきた。
 ということは、もしかしたら明日もここに来るのかもしれない。

「どうしよう…」

 当然明日は家に引きこもって本を読むはずだった。
 外に出る予定なんて、まったくない。
 それを彼女に伝えたくても、当然彼女の連絡先など知るはずもなく……。

「はぁ……」

 僕は大きなため息をついて、ゆっくりと自転車を自宅へ走らせた。