ピピピ……。アラームは私だけじゃなく、ベッドから遠くに掛けてある制服までも起こす勢いで部屋中に鳴り響いた。
 重たい瞼を擦りながらまだ騒がしく鳴っているアラームを消した。
 ベッドから起き上がって部屋のカーテンを開けると、皮膚を焦がすほどの熱い日差しが部屋の中に入り込んできた。
 今日は私の新刊の発売日だった。だから彼はきっとその新刊をメールで言ってた永久橋の下で読むのだろう。もう橋の目星はつけている。あとはそこに行くだけだった。
 確信を得てから既に2か月以上が経過していた。今日は8月12日。その間話す機会はいくらでもあった。
 だけど私は話しかけられなかった。その理由は私が一番知っている。
 私は名前も顔も本性も知らない彼を好きになった。初恋だった。そしてその彼が川端二葉であることを知ってしまった。つまり川端二葉こそが私の初恋相手。
 だからこそ話しかけられない。好きな人だからなおさら声を掛けるなんてことできない。
 でも関わらないと、距離を詰めないと彼は気づいてくれない。だから私は今日を勝負の日に設定したのだった。彼と確実に会える今日に。
 その一歩を踏み出すように私はクローゼットへ向かった。

 姿見に映る自分を見つめた。薄くメイクされた顔に、色素の薄いミディアムヘアの髪に青みがかった瞳、服装は白い長袖ブラウスを身に纏っていて、タンポポ色のスラックスを履いていた。
 私はもう一度窓を見た。薄い素材だとはいえ、長袖だと暑いかもしれない。私は長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくった。
 部屋を出ようとドアノブに手を掛けた時、大事なことを忘れていることに気づいた。
 お母さんが使っていたお化粧道具を再度開けた。そこには香水が入っていた。
 私はこの香りが大好きだった。バニラの香りがする香水でお母さんがいつもつけていた香水だったから。この香りを嗅ぐとお母さんが近くにいると思わせてくれる。
 プッシュすると瓶の中に入っているバニラの香りがする香水は魔法の粉のように宙を舞い、私の体の一部となった。まるでシンデレラが魔法で美しいドレスを身に纏った時のように。

 私は赤いボックスの前に立っていた。そこには買われることを待っている飲料水たちが綺麗に陳列されていた。私はその中で一番安い天然水を買った。今日は暑いから念のために2本買っておこうかな。
 ボタンを押すと待ってましたとばかりに天然水はガタン、と下へ落ちてきた。一口飲むと、一瞬にして私の体を冷やしてくれた。
 彼が来るであろう永久橋に向かっていると後ろからチリンチリンと音がした。振り返ると、その彼が自転車に乗ってこちらに向かっていた。やっぱりここの橋だったんだ。
 私は急いで橋の脇に隠れた。しばらくすると。
 「ガチャッ」
 近くで自転車を停める音がした。もうすぐそこに彼がいる。
 脇から顔を半分出して彼の様子を観察した。彼は左手を扇子にして仰いでいた。そして右手には大手書店のロゴがついた封筒のようなものを持っていた。
 そしてその中から出てきたのは、今日発売の私作の新刊だった。彼はすぐさまその本のページをめくっていた。教室で読む時と同じように丁寧にページをめくりながら、優しい目で私が紡いだ文字を眺めていた。
 せっかく今日を勝負の日に設定したのに、私は彼に近づけないでいた。胸の奥で速く打ち続けている鼓動が彼に近づくことを邪魔しているのだ。
 だけど橋の脇は太陽からの日差し攻撃が直接当たる。このままだと倒れてしまうかもしれない。
 戦いの末、勝ったのは太陽からの日差し攻撃だった。私はその攻撃から逃れるために、彼がいる橋の下へと覚悟を持って避難した。
 そこは別世界だった。静かに流れる川とほどよく冷えた風、そして永久橋の下にできた灰色の影が、この川のほとりを真夏から秋へと魔法のように変えてくれた。ここには幽霊が棲んでいるんじゃないかと思うくらいに。
 私は少しずつ彼に近づいて行った。だけど一向に私に気づいてくれる様子はなかった。もう目と鼻の先にいるというのに彼は気づいてくれなかった。そしてそんな近い距離にいるのに、私も話しかけられずにいた。
 だけどどうしてか、すごく居心地がよかった。ページをめくる音と涼しさに満ちたこの空間は、私の大好きなあの季節に似ていた。
 30分くらい経ったと思う。私がこの空間と同化してきた頃に、彼はページをめくる手を止めた。そしてそのまま本を閉じて彼は立ち上がった。
 まずい、ずっとここにいたことがバレてしまうと思ったが、私が見えていないかのように彼は真っ直ぐに自動販売機の方へ向かった。その瞬間、当初の予定と大きくずれているというのに、ほっとしている自分に気づいた。
 魔法がかかっていない灼熱地獄の中で彼は長い時間、順番を待った末、飲料水を買おうとしていた。
 ところが、彼は鞄の中を覗いたまま固まっていた。遠目から見ても明らかに様子がおかしかった。もしかしたら、彼はお財布を忘れてしまったのかもしれない。そうだとしたら大変な事態だ。
 彼はすぐ後ろに並んでいた人に睨まれながらこちらへ引き返して来た。足取りはおぼつかなくて、熱中症になりかけていると思った。
 彼はさっき座っていた場所に腰を下ろし、読書を再開させようとした。しかし、暑さで意識が混濁しているのか、彼の手は次のページをめくろうとしなかった。
 今こそ話しかけるチャンスなのではないだろうか。私はさっき偶然にも天然水を2本購入していた。その1本を彼に渡せば彼を熱中症から救うことができるのではないか。これはきっと神様がくれたほんのささやかな奇跡なんだ。
 だけど、その意思に反して私の口は動いてくれなかった。この期に及んで、まだ彼に近づく勇気を出せないでいる自分がいる。話しかけなければ、自分は彼にとって空気よりも存在感がなくなってしまうというのに。
 すると10歳の誕生日にお父さんが何か言っていたことを唐突に思い出した。
 『素敵な物語に巡り会えるといいね』
 『うん、もっと色んな小説を読むよ』
 『そういうことじゃないんだけど……』
 その後の美味しい料理の味によって消された会話。あの時、お父さんは何かを言いかけていた。そして私はその続きをもう既に知っていた。それこそがきっと、この口を動かす鍵なんだ。
 お父さんがあの時言いたかった、素敵な物語の本当の意味。それは、本ではなく現実の物語のことだった。本には確かにすごい力がある。知らない場所にも遠い時代にも連れて行ってくれる。その気になれば物語の登場人物と友だちにだって、恋人にだって、家族にだってなれる。
 だけどそれは、ただの頭の中の想像でしかない。私は本の中の登場人物じゃない。だからどうしたって、本の世界では生きてゆけない。
 私に宿った温もりと全身に響き渡る鼓動が皮肉にもそれを証明していた。現実を生きる私は、ただ本の世界に他の人間よりも憧れを強く抱いていただけだった。
 そう思えることができたのは、私が本の中の物語よりも素敵な物語の登場人物を現実で見つけたからだと思う。彼なら、きっと知らない場所よりも、遠い時代よりも素敵な場所に連れて行ってくれる。彼なら、きっと友だちにも、恋人にも家族にもなってくれる。
 だからこれからは現実を大切にしていきたい。現実で物語を紡いでいきたい。目の前にいる彼と。
 ページをめくるように私は口を開いた。
 「何読んでるの?」
 こうして私は新しい物語のページをめくった。
 私と彼の物語を。

                                                       ~終わり~