夏休みの初日から、僕は習い事の合宿に向かうため電車に揺られている。
鈍行列車から伝わる振動は心地よく、車窓からの風景は牧歌的で心が和む。
──はずなのに、モヤモヤして仕方ない。
全部あの人のせいだ。いや、ぜんぶ僕のせいだ。
こうしてじっとしていると、数日前の彼女とのやりとりを反芻してしまう。
あれでよかったんだと思うように努めているが、ほんの僅かに残っている後悔の念が、日を追うごとに大きくなっていることに僕は気づかないフリをしていた。
「もう帰りたい。どうせ痛い思いするなら女の子にシバかれたい……なぁ辻堂」
ボックス席の向かいに座っている佐藤碧が、ため息まじりに愚痴をこぼす。
彼は僕と同級生で、同じ習い事を嗜んでいる希少な存在だ。
「鶴見さんは女性だけど?」
「あのな、辻堂。俺は女の子を話をしてんの。ゴリラの話なん──」
「誰が美人ゴリラだって?」
無意識に。本当に無意識に、僕と佐藤くんはその場に起立した。
生物的強者の前では、本能的にこうなってしまうのかもしれない。
僕らを震え上がらせる強者は女性だ。すぐそこに立っている。
鶴見玲。自称18歳(ネットで調べたら25歳だった)
180cmの長身に加え、人工的に築かれたものでない野生的な筋肉。それらを包み込むシンプルでスポーティーなファッション。
柔和な表情と可愛く編み込まれたフィッシュボーンの髪型は、ソリッドな印象の彼女に奥ゆかしい魅力を添えている。
「なぁ、佐藤?」
「はい!鶴見さんは、MMA女子世界ランク上位のファイターで!我らの師!素敵女子であります!」
「よーし、いい子だ……宿に着くまでスクワット。な?」
「ぁぁぁぁ──」
そう。習い事というのは、格闘技のことだ。
MMAと呼ばれる、総合格闘技。
僕は父子家庭のうえ、転勤族の父の都合で転校が多い。ただでさえコミュニティ外からの新参者はイジメのターゲットになりやすい上に、僕には“例の噂”がついて回る。
それを心配した父の勧めで、3年ほど前からMMAのジムに通っているのだ。幸い、父の転勤先は毎度それなりの規模の地方都市であったため、通うジムに困ることはなかった。
僕は暴力は嫌いだ。けれど格闘技のおかげで、他人を過剰に恐れることが無くなったのは本当にメリットだと思っている。
「ほらよ。調子どうだ、アイト」
通路でスクワットをする佐藤くんに入れ替わり、鶴見さんがボックス席に腰掛ける。
僕に渡したのは缶ビールだ。
「鶴見さん、僕は未成年ですよ」
「へー、いくつだっけ?」
「16です」
「戦国時代なら大人だな」
なるほど。戦国時代から転生してきたのか。
古代ギリシアのスパルタかと思っていた。
「まぁ、今回はお前の歓迎会みたいなもんだ。3泊4日だしな」
「歓迎会って……メンバーは僕ら3人だけですよね?あまり人が多いのはちょっと……」
「はー、シケてんのな。安心しろよ。もう1人向こうで待ってるだけだよ」
──女の子だぜ。
と告げると、鶴見さんは僕が手に持つ缶ビールを奪い取って席を立った。
女の子。
僕の限られた世界にあって、女の子という存在は……“あの子”と杏子さんだけだ。
「あ……あぁ、もう」
また杏子さんのことを考えている。
こういう時。もし僕が大人だったら、あの缶ビールの助けを借りるだろうに。