「アイジンさーん!」
先ほどの面談を終えてから第二図書室に寄った帰り、校舎の西棟4Fの廊下を歩いていたら背後から呼び止められた。
──あの人のことを考えていたせいだろう。
しかし振り返ることはしない。僕は黙って歩を早める。
「アイジンさんー?」
ややかすれたメゾソプラノ。この声の主は“あの人”しかいない。
「アーイージーンーさーん…………ッぶ!」
ピタリと立ち止まった僕の背中に、何かがぶつかった。
ため息と共に振り返ると、そこには一人の少女が前屈みで立っていた。
両手で鼻を押さえ、僕を睨みつける目には涙が溜まっている。その瞳は相変わらず……水晶玉のようで幻想的な美しさだ。
「急ブレーキすんな。顔ぶつけたじゃん」
「先輩……」
「センパイって言うな!」
「先輩こそ、僕のことアイジンて呼ぶのやめてください。僕の名前はアイトって読むんです」
「私の名前だってセンパイじゃないし。杏子だし」
尾萩杏子。
あの騒動をきっかけに、僕らは少しずつ言葉を交わすようになった。
クラスの違う杏子さんと顔を合わせるのは、週1で組まれている古典の授業くらいだが、こうして僕の姿を見かける度に杏子さんは声をかけてくれる。
「先輩でしょ。年上に敬意を持って接してるんです」
「へぇーえぇーそぉーかぁー」
杏子さんは、僕のひとつ年上。本来なら高3なのだが、留年したため高2の身分でいるのだ。
だから僕は彼女をセンパイと呼ぶ。
──というのは方便で、本当のところは仕返しのつもりだ。
杏子さんが僕の名前を正しく呼ばない限り、僕も折れるつもりはない。
「敬意というなら、目線合わせて。私を見下ろすの禁止ですー」
「僕の方が身長高いから」
「……ふーん」
まずいな。ゴングが鳴ってしまった。
「プライドは私の方が高いから!」
えっへん。と胸を張って、渾身のドヤ顔をキメる杏子さん。
上等だ。撃ち合いに応じよう。
「国語の偏差値は僕の方が上だから」
「お顔の偏差値は私の方が上だから!」
「……腕相撲は僕の方が強いから」
「指相撲は私の方が強いからぁー」
「…………気は僕の方が長いから」
「脚は私の方が長いからッ─!」
杏子さんが自慢の“おみ足”で壁ドンする。
制服のスカートから露わになった白い太もも。僕の心臓が跳ね上がるのがわかった。
このけたたましい鼓動が杏子さんに悟られぬよう、必死に視線を逸らす。
「4勝4敗。私の勝ちぃー」
それ引き分けじゃん。
しかし、ここは負けを認めるしかない。早くこの“脚壁ドン”を解除してもらわないと……
「……負けました」
「っし、勝った勝ったー!アゲてけ、アゲてけー♪」
バンザイしながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる杏子さん。
多動……というより“高機動”と表現した方がふさわしい。
こうしてたまに絡まれるだけでもフルマラソン並みに疲弊するのだから、これがもし毎日となったら命に関わるだろう。
──ただ、嫌な気持ちはまったくない。
それどころか、杏子さんが何処から奇襲をかけてこないかと、内心期待しながら過ごしている自分がいるのは紛れもない事実だ。
同時に、不思議だとも思っている。
なぜ杏子さんは、僕のような地味で面白味のない男を構ってくれるのだろうか。
これだけ明るくて元気いっぱいで、(見てくれだけなら)美少女の杏子さんのことだ。
友人も多いだろうし、きっと恋人だって──
「付き合ってよ」
「……えっ」
──え?
いま……なんて……?