「このように、平安朝の文学において──」
教養とは、香水のようなものだと思っている。
無駄に振りかざしては“鼻につく”のだ。
修めた学問は、ほのかに香る程度で纏わせるのがスマートだろう。
──なんて物思いに耽る春の昼下がり。
古典の授業という名の退屈なBGMを子守唄に、僕は窓辺の席でうたた寝を繰り返している。
そう。古典はまさに、教養そのものだ。つまむくらいで丁度いい。
ゆえに、僕は古典の勉強はしない。ギリギリまで。テスト前日まで。
──在天願作比翼鳥
「では、辻堂くん。解説を読んでください」
しまった。
教科書を忘れたのだ。
「辻堂くん。辻堂愛人くん」
しかし、ぼっちを嘆いている余裕はない。
女性教師の分厚いメガネが鈍く光る。その奥に潜む三白眼が、僕をじっとりと見据えていた。
あれは獲物を狩る猛禽類の目だ……背中を冷たい汗が伝う。
土下座しよう。
僕の決断は早かった。最上級の礼を持って詫びるのだ。
「使っていーよ」
立ちあがろうとしたその時、ややかすれたメゾソプラノが聞こえた。
この声は覚えがある。前の席に座っている女の子だ。
彼女はゆったりと、まるで新幹線のシートをリクライニングするかのように上体を後方に反らした。そのまま、僕の机に頭を置く。仰向けに天井を眺めている状態だ。
おまけに、開かれた教科書が顔に乗っけられていて、上手い具合にご尊顔は隠れている。
「えっと……?」
「早く取りなよ。あの先生、キビシーから。課題出されるよ?山みたいに」
「顔に乗ってる教科書……だよね。いいの?」
「いーよ」
「……あ、ありがとう」
なかなか個性的な援護射撃だが、せっかく差し伸べられた救いの手だ。
僕は彼女の顔を覆う教科書を掴み、ゆっくりと持ち上げた。
…
……
なんて、綺麗なんだろう
僕は玉手箱を開けたのだ。
そこにあったのは、ふたつの水晶玉。
……
…
──そう錯覚を抱くほどに、この子の瞳は美しかった。
まんまるの大きな瞳。
その色は、緑とも青とも、どちらとも言えないような曖昧な境界の上で爪先立ちをしている。
ゆるやかな風が頬を撫でた。
運ばれてきた桜の花びらと、その香りが僕の鼻先をくすぐる。
まだ桜は咲いていたんだ。そんな考えが頭をよぎった刹那、僕の意識は現実へと連れ戻された。
「辻堂くん。まさか教科書を忘れたのでは……」
「あっ、いえ!あります!」
「では、読んでください」
「はい……」
開いた教科書からチラリと目線を上げ、前に座っている女の子の背を見る。
彼女はもうこちらを向いていない。
「えっと、すみません。どこでしたっけ?」
「はぁ……48ページ。白居易の長恨歌が源氏物語に与えた影響についての解説です」
……日本語でいいすか?
戸惑ったけれど、該当部分はすぐに目についた。
赤いマーカーで塗られていたのだ。その部分だけ塗料が滲み、紙が変形してしまっているほどに。
彼女の手によるものだと思うけれど。
「天に在りては 願わくば比翼の鳥と作り──」
比翼の鳥。それは仲睦まじい男女を表現したものだという。
2羽の鳥があたかも1羽に見えるほどに寄り添い、双方の片翼をもってして空を飛ぶのだ。
青くさい言い方をすれば、赤い糸で結ばれた運命の相手。ということだろう。
*
「ご苦労さま。では、辻堂くん。あなたの言葉で構わないわ。思ったことを言ってみて」
これバレてたな。教科書を忘れたこと。
ペナルティなのだろうが、ここは甘んじて受けるしかない。
「思ったこと……どうなってしまうんだろうな。と」
「つまり?」
「ふたつでひとつ。というのなら、もし片方が死んでしまったら──」
──残されたもう一方は、二度と飛べなくなって
それは突然のことだった。
先生の問いに答えながら、ぼんやり教科書の文章を眺めていた僕の視界が暗くなったのだ。
不思議に思い顔を上げると、目の前にひとりの女の子が立っていた。
僕に教科書を貸してくれた、前の席の子だ。
「飛んでけ……」
消え入りそうな声でそう呟くと、彼女は僕から教科書を取り上げた。
そして大きく振りかぶると──
「飛んでけぇッ────!」
──窓の外に向かって思い切り放り投げたのだ。
風に煽られた教科書は、海で溺れたかの如く空中でもがいている。
けれど一瞬。ほんの一瞬、翼をはためかせた鳥のように僕には見えた。
ふぅぅぅ。と長く息を吐き、呼吸を整えると、彼女は僕をじっと見据えた。
その時、僕ははじめて彼女の顔を見た。
目が離せない。同年代の少女だというのに、彼女の湛えた表情はとても大人びて見える。
愛しい人を見つめるような、やりきれぬ哀しみを堪えるような……
「ほらね。ちゃんと飛べるよ」
彼女の表情が泡のように弾けた。
今度は歯を見せてイタズラっぽい笑顔を僕に向ける。
「アゲてけ、アゲてけー♪」
ささやくように言い残し、彼女は優雅に歩き出した。
僕は呆けたまま、その姿を目で追う。
「尾萩さん、いまのは何の真似ですか!……ちょっとどこ行くの!」
「帰りまーす」
「なっ、待ちなさい!」
「お腹痛いもーん」
「戻りなさいったら!」
先生が去り行く彼女を呼び止める。名前を叫んで。
おかげで、僕は知ることができた。
彼女の名を──
『尾萩杏子』
教室を包むどよめきを掻い潜り、僕は耳を澄ませていた。
遠のいていく彼女の足音を探して。