「電気消すとさ、おしゃべりしたくなるよね。ケシてけ、ケシてけー♪」
「それなんとなく、わかる気がする」
杏子さんが「どうしても同じベッドで」と譲らなかったので、父がイラン出張で購入したギャッベを床に2枚敷いた。
いま僕らは、その上で並んで眠っているのだ。
他愛のない会話が続いた。なのに、それがとても楽しい。
ふたりでクスクスと笑い合って、同じ話題を行ったり来たり。
「ねぇ、愛人くん。誰かを好きになったこと、ある?」
杏子さんが唐突に切り出した。
「なんでそんなこと……」
「いいから。あるの?恋をしたこと」
「……ないよ」
「えー、もったいない。アゲてけ、アゲてけー♪」
聞いてはいけない。
それはわかっているくせに、気づけば口にしていた。
「杏子さんは?」
「私の恋愛遍歴?ひとりしかいないよ。知ってるでしょ?」
「……これから」
「え?」
「誰かと……恋をしたいと思う?」
沈黙が続いた。
時計の針が進む音がやけに大きく聞こえる。
──結局、杏子さんからの返事はなかった。
*
眠れないな。
僕は杏子さんに背を向け、夜風に揺れるカーテンを眺めていた。
「愛人くん。起きてる?」
背中に気配を感じた。杏子さんの気配。さっきよりも側にいる。
「寝てるよね?」
しっとりとした杏子さんの声色に、僕は緊張してしまい返事ができなかった。
タオルケットの擦れる音が聞こえる。
「ねぇ、愛人くん……私……」
杏子さんの体温がじんわりと背中に伝わる。ピッタリと寄り添っているのか。
心臓がうるさい。聞こえてしまいそうだ。
「いっそ……いっそ、私を……私を……」
──── 塗り替えてよ ────
消え入りそうな声だった。月よりもなお、朧げなほどに。
「……ぷっ……ふふっ……何言ってんだか。恥ずかしいセリフ……」
ごろんとカラダを仰向けにすると、「眠っててよかった」と呟き、呆れたように笑う。
切なげな笑い声は、次第に嗚咽へと変わる。
──すると杏子さんがカラダを起こし、何処かへ小走りで向かっていった。
僕もまた起き上がり、杏子さんの向かった先を見やる。
洗面所のようだ。電気が点いていた。
啜り泣く声が聞こえる。
──ひとり泣いていたのは、杏子さんも同じなんだ。今でも。
僕は洗面所へと歩みを進めた。
あの時、杏子さんがしてくれたように、僕も彼女のために何かしたかったからだ。
── 塗り替えてよ ──
杏子さんのためにできること。僕が──
「辰樹……」
僕のカラダがピタリと止まった。
「なんで……なんで私を置いていったの……ねぇ……なにか言ってよ……」
僕はそれ以上、進むことはできなかった。
引き返す僕の背に、杏子さんの咽び泣く声が聞こえた。
──いまでも、彼は棲んでいる。
僕のための空席など、ない。
*
パキっと、乾いた音が聞こえた。
この音は錠剤を開封する音だ。
彼女は、あの薬に抱かれて今夜も眠るんだな。
そう、ぼんやりと思い浮かべながら。
夜が明けるまで僕は、うたた寝を繰り返した。