「わぁ〜。風が気持ちいいよー」

 マンションの11階。ここが僕の住まいだ。
 杏子さんがバルコニーで夜風を浴びている。揺れるアッシュブラウンの髪に目を奪われてしまったが、魚(キス)が傷む前に捌かねば。

 まずは鱗をふいて、頭を落とす。
 腹を裂いて、水洗いし、三枚におろす。
 骨を抜き、皮を引いたら、あとは昆布に包んで──

「お刺身です。醤油なしでどうぞ」
「すごい……いただきます」

 透き通るようなキスの刺身が、杏子さんの艶やかなピンク色の唇に近づいてゆく。
 それ以上見つめては罪になると感じ、僕は目を逸らした。

「ぇー、なにこれ……美味しいぃぃ」

 口に手を当てて、静かに感動を表現する杏子さん。
 僕も素直に嬉しい。
 幼少期から母がおらず、代わりに僕はこうして台所に立ってきた。その経験がいまに活きたのだ。

 
 *
 

 杏子さんは最後の一切れまで美味しそうに完食してくれた。
 釣られたキスも喜んでいることだろう。

「ドキドキしちゃった」
「え?」
「お魚捌いてる時の、指とか……見てたらドキドキした」
「な……なんだよそれ……からかわないでよ」
「ふふっ。また見せてね?」
「……やだよ」

 バルコニーから入る夜風がとても心地よい。
 冷房を切ってもいいくらいだ。
 
「お魚。お父さんの分はいいの?」
「父は今月いっぱい不在だよ。忙しい人なんだ」
「……ってことは今日は……ふぅん」
「なに?」
「んー?べつにー」

 よそよそしく髪の毛をいじる杏子さん。
 一瞬、僕と目が合うが、すぐに視線を逸らした。
 するとおもむろにスマホをいじりだし、ものの10秒たらずでテーブルの上に置いた。

「これで、よし。ねぇ、愛人くん」
「ん?」
「今日、泊まっていくから。トメてけ、トメてけー♪」
「……は?」