シネシネシネシネ。
 今日も蝉が呪いの言葉を吐いている。その声聞きながら、私は今日も行きたくもない学校に向かう。襲いかかる腹痛に耐えて人が詰め込まれた電車に乗り、停車した途端に人の群れから抜け出して駅のトイレに籠る。
 惨めな朝のルーティンを終えて外に出れば、同じ制服を着る学生たちで通学路は溢れていた。
 最近は、以前にも増して腹の調子が悪い。毎日のように学校に行く前から下痢が止まらなくて、心も身体も朝から疲れ切っている。
 友達と楽しげにはしゃぐ学生たちを見ると、酷く心が騒ぎ出して苛々する。なんで、そんなに笑っていられるのか。私は毎日こんなに辛いのに、なんでお前等ばっかり楽しそうなんだ。
 しまいには皆私を見て笑っているんじゃないかと急に不安に思って、急ぎ足で学生たちの前から逃げ出した。道を歩く人、人、人。その誰も彼もが、私も見て笑ったり怒ったりしているように思えて怖い。
 神経を擦り減らすようにして学校に着くと、疲れがどっと増す。これから、また一日が始まってしまうという恐怖心に身体が呑まれる。
 逃げ出したい気持ちを必死に押し込めて、教室に向かうとやはり呼吸がしづらくなって足が止まりそうになる。ドアの影に隠れて教室の中を覗き込むと、スクールカースト上位集団が毎日飽きもせずに集まって談笑していた。
「ふわぁ〜…馬鹿眠いんだけど、もう帰りてぇ。」
 その中心で田所が欠伸をしながら不機嫌そうに溢す。そんな田所を周囲の奴らが「いや、今来たばっかじゃん!」と突っ込み、ケラケラとした笑いが教室内に伝染していった。
 以前、それは結川のポジションであった筈だ。けれど今では、もう別の誰かがその代わりとなって普段通りのやり取りをしている。その事に誰もなんの違和感も感じていなくて、まるで最初から結川なんて居なかったように彼等は過ごしていた。
 結川が学校に来なくなってから、もう一ヶ月以上の月日が流れた。相変わらず担任教師はそれに関して何も言わず、クラスメイトたちも直ぐに結川の居ない日常に慣れていった。
「てか、今日体育あるじゃん。くそだりぃ〜」
「そもそも、今日の体育って何やんの〜?」
「あ?そんなん知らねぇよ。」
「え、田所って体育委員じゃないの〜?」
「そー。でも聞いてねぇから知らね。」
 体育委員の仕事を全くしていない事に対して、田所は悪びれる様子もなく興味無さげに答える。そして、思い出したかのように「三上が聞いてんじゃね?」となんて無責任に言い放つのだ。
「いや、女子と男子の授業内容違うだろ!」
「んじゃ、知らねぇ〜。」
「適当か!」
 ケラケラ。ケラケラ。
 軽い笑い声が教室内に転がって、私にその全部がぶち当たる。何もかもが憂鬱に感じて、嫌悪感に沈む。
 教室に入る事はせずに、私はまたトイレに向かって逃げ込んだ。薄暗いトイレの個室で、自分の首から垂れ下がった赤い縄を見る。何をするわけでもなく、血のようなどす黒い赤をただただ眺めていた。




 
 あれから、いつも通りにチャイムが鳴って学校が始まった。そして、何時間も何時間も惨めな思いをしながら、お腹の痛みに耐え続けた。
 あと一時間で今日の授業が終わる、そう祈るような気持ちで六時限目の古典の授業を受けていた。静かな教室内には、古典教師の教科書を音読する声が響く。
 それが眠気を誘うような穏やかなもので、何人かのクラスメイトたちは無駄口も叩かず静かに机に突っ伏している。その生み出された静寂が余計に、この空間を居心地の悪いものにしていた。
 教室に居る無数の人の気配が、私を見張っている。そんな筈無いって分かっているのに、身体は無意識に緊張してその焦りから下腹部がどんどん張っていく。
 毎日何度もこの時間が訪れるたびに、自分の尊厳が踏みにじられるような気分になる。お腹が痛くなって、腹にガスが溜まって自分ではどうしょうも出来なくて必死に掌を傷付けて耐える。
 暴れ出した腹がどうにかなってしまいそうで怖くて、泣きそうになる。少しでもこの静寂を壊そうと、汗が止まらない手で無駄にシャーペンの芯をカチカチカチと出したり、爪で机を叩いたりして必死に抗った。
 それでも当たり前に何の解決にもならなくて、腹痛は更に酷くなっていく。額からはだらだらと汗が流れ落ち、呼吸も上手くしづらくなった。
 腹が張り裂けそうな程ガスが溜まって、出口を求めて容赦無く動き出す。それをコントロールの効かない身体で無理矢理に抑え込みながら、首に括りつけられた赤い縄が目の前で揺れているのを見た。
 ゆらゆらと揺れるそれがあまりにも呑気で、残酷に思えて悔しくて悲しくて苛立って辛い。なんでだ。なんで私が、こんな目に合わなきゃいけないんだ。
 もう嫌だと思っても、どうにもならなかった。
 ぎゅるぎゅるぎゅる。
 ぐぎゅうぎゅぎゅるる。ぐぅぎぅ。
 腹と穴の中間辺りで鳴った間抜けな音が、静かな教室内に大音量で響き渡った。サァーッと血の気が抜けて、自分の心臓の音が大きくなる。やってしまった、と思った。
 その音は私の周囲に居るクラスメイトたちにも、もちろん聞えていたようで、ひそひそとした声や見えない視線が刃物ように浴びせられる。
「今の誰?」
「腹の音?それとも…」
 聞えてきた声に、とてつもない羞恥を感じて死んでしまいたくなった。ずっと恐れてしまった事が、起きてしまった。起きてしまった事は、どれだけ後悔してもどうしようもなくて、黙ったまま俯く事しか出来ない。
「今の、三上さん?」
「…え、」
 前の席のスクールカースト上位集団の一人である女子が、ケラケラと笑いながら後ろの席の私を振り返る。
「腹の音、めっちゃデカかったよ?」
 その瞬間、一人の私が死んだ気がした。心がぐちゃぐちゃに爛れていくのを他人事のように感じる。
「…あ、うん。お腹鳴っちゃって、あははっ、」
 目の前の女子に合わせるように、口角を上げて歪な笑みを作った。全然笑えないのにヘラヘラ笑って、嫌いな女子に必死に気を遣う。
 死んだ私の身体を、まだもう一人の私が刺している。
「なんだ腹の音かぁ、まさか(・・・)と思ったわ〜」
「すげぇ爆音だったもんな!」
 スクールカースト上位集団の女子が声を掛けたからか、周りの席のクラスメイトも私を笑いのネタにする。私に向けられる笑いは、いつもの自意識過剰ではなくて本物だった。
 痛い。苦しい。助けてほしい。
 まるで公開処刑だ。この場所は、私の恥を晒す場所でしかない。毎日、私は此処で恥を晒されて殺される。私が一人死んで、また一人死んで、自分の死体が積み重なっていく。
 大切だったものや諦めたくなかったものも、全部死んで空っぽになって、私は今自分が何者であるのか全く分からなかった。なんで、こんな事になってしまったんだろう。 
 恥ずかしくて情けなくて絶望した。もう全部、死んでしまえ。
 あの時は鳴ってくれなかったチャイムが今更ながらに鳴って、六時限目の授業が呆気なく終わる。私を笑っていたクラスメイトたちは、既に私を笑う事にも飽きたのか、授業終了と同時に席を立ち上がり、楽しげな友人たちの輪の中に入っていく。
 いつもなら、授業が終わった瞬間にトイレに駆け込むのに、今は何も出来なかった。身体が動かなくて、一歩踏み出したら私が粉々に崩れ落ちてしまいそうで怖かった。
 シネシネシネシネ。
 教室の開けられた窓から、容赦無い蝉の声が入り込む。蝉から発せられる「死ね」の声がどうしたって、自分に向けられているような気がした。
 私の恥が晒された。ずっと必死で隠したかったものが、耐えてきたものが晒された。一体、何の罰だというのだろう。私が何か悪い事でもしたっていうのだろうか。
 もう無理だと思った。きっと、本当は今までずっと無理だったのだ。それでも、どうしてか私は今日までやって来てしまった。
 騒がしく楽しげな教室。酷く惨めで場違いな私。
 俯く視界で揺れているのは、どす黒い血の色。首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにまで縄先が伸びてだらんと垂れ下がっている。その縄先を天井か軒にでも縛り付けてしまえば、今直ぐにでも首を吊る事が出来そうな気味の悪い赤い縄。
 どれだけ願っても、この首に括りつけられた赤い縄は私を助けてくれない。殺して、くれないのだ。






 また、望んでもいない朝が来た。布団から一歩も出れずに、朝の気配をただ感じていた。そのまま、死んだように倒れていれば「ちょっとまだ寝てんの!?学校遅れるよー?」とドアの向こうで母の声が聞こえる。
 それを無視してひたすらに倒れていれば、部屋のドアが開き無理矢理に身体を起こされた。諦める事に疲れ切った私は、無感情のまま制服に着替えて家を出る。
 首から垂れ下がった赤い縄は、夏風にゆらゆら揺れる。擦れ違う人々の首にも、私と同じ赤い縄が見える。青々とした空に朝日が昇り、眩しい光の集中線が走る。
 昨日、私が死んだ筈なのに、まだ死んでない感性が無意識に動く。この世界に絶望したままなのに、素直に綺麗な朝だと思った。
 最寄り駅に着いて、忙しなく歩く人混みに呑まれながら
駅のホームに向かう。周りの人の気配に怯えて、欠陥品である自分の事を散々諦めてきたのに、今だに必死に普通の人間を装って何でもないフリして電車を待つ。
 歩き方や立ち方さえも、分からないくせに。どう振る舞えば変に思われないか、気になってしょうがないくせに。周りに人が居るとお腹が痛くなって、怖くて仕方ないくせに。
 どう足掻いても、自分だけが世界に馴染めないのに。自分のどうしようもなさに、笑えてくる。
 目の前の線路を、ぼやけ始めた視界で眺める。そこに踏み出せば、私の求める全てが叶う気がした。
 以前、駅で何度か見かけた事がある首から赤い縄が垂れ下がったサラリーマンの事を思い出す。あのサラリーマンは、人身事故以来一度も見かけていなかった。あのサラリーマンが、本当に線路に飛び込んでしまったのかは分からない。けれど、きっとこんな気持ちを抱えながら、あの虚な目でただひたすらに線路を眺めていたのかもしれない。
 引き寄せられるように一歩、線路に近付いたところで、カンカンカンと少し離れたところから踏切の警報音が鳴った。駅のホームに、電車の説明するアナウンスが流れる。 
 暫くすると、夏の匂いを含んだ風を巻き込むように電車がやって来た。その風に、私の首から垂れ下がる赤い縄が流されていく。
 自動ドアが開き、人の波に呑まれるように電車に乗り込んだ。周りを囲む人、人、人。やはり何をしたってどうにもならない腹は痛くなって、下腹部が張っていく。もう疲れた。
 全ての事がどうでも良くなった。腹痛に耐えながら、あと何駅あと何駅と頭の中で健気に数える事に何の意味があるのだろう。毎日必死に自分を殺して学校に行くことに、一体何の意味があるんだろう。
 お腹が痛かった。耐えて、耐えて、耐えて。
 ようやく、いつも降りる駅に着いた。自動ドアが開き、同じ制服を着た学生たちがどんどん降りていく。それ以外にも何人かの乗客が電車を降りて、ほんの少しだけ空間に余裕が出来た。
 電車に乗ったまま、友人とはしゃぎながら学校へ向かう学生たちの後ろ姿を眺める。私には、到底叶わなかった理想をすぐ近くで眺めるだけの日々。楽しそうで羨ましくて、一人の自分が可笑しくて惨めで嫌になる。
 この電車を降りたら、また学校に行かなければいけない。そう思ったら、足が地面にくっついてしまったように身体が動かなかった。
 アナウンスが流れて、ゆっくりと自動ドアが閉まる。私を乗せたまま、電車は次の駅に向かって走り出した。
 私は自分がやった事ながらに、少なからず衝撃を受けていた。今まで、故意にこんな事をしたことがなかったからだ。ここで乗り過ごしたら、きっと遅刻は免れないだろう。そんな事は分かっている。
 けれど、もう無理なのだ。本当に私は限界なのだ。
 ぼんやりとした頭で、今だ多くの人を乗せた電車内を見渡す。イヤフォンを耳にする学生、腕を組み目を瞑るサラリーマン、窓の外を見る女性、座席に座る老人、スマホを弄る若者、本を開く女性、またスマホを弄る若者。
 人の気配に焦り、腹痛を起こす私は一体この中で何者だろうか。そんなのもう、どうでも良いか。
 電車内で首から垂れ下がる赤い縄が、ゆらゆらと揺れる光景をずっと見ていた。その非現実的な光景に比べて、異様な下腹部の張りと痛みだけは何よりも現実的だった。それに耐えていれば、また次の駅がやって来て電車が止まる。
 自動ドアが開くと共に何人もの乗客が降りていき、何人かの新たな乗客を乗せて電車は再び走り出す。腹痛も乗客も気になって仕方ないのに、私はまた電車を降りなかった。
 逃げ場を失った空間で腹痛に耐えながら、自分が何をやっているのか自分でも分からない。知らない人たちと電車に揺られながら、自分の知っている街からどんどん離れていく。
 それでも、必死にガスでパンパンになった下腹部に抗いながら私は電車に乗り続けた。





 あれから、どれくらい電車に乗り続けただろうか。電車は何度も新たな駅に着いては、人を吐き出したり呑み込んだりしながら別の街へ進んでいった。
 朝の通学や通勤時間を過ぎた今では随分と人が減り、どんどん都会を離れて走っていく電車内はガランとしている。長い事、腹痛を耐え続けて疲れ切っていた私は、空席が目立つ座席に腰を下ろした。
 座ったクッションの感触に安堵し、深く息を吐く。窓の外を流れていく景色をただただ眺めていれば、次の駅を知らせるアナウンスが車内に響いた。
 暫くして電車が止まり、自動ドアが開く。ホームに乗車する人は居なく、生温い空気と共に大音量の蝉の声が車内に入って来た。
 シネシネシネシネシネ。
 その呪いの言葉に、私は結川の事を思い浮かべた。田所たちに合わせる為に、必死に自分を作っていつもヘラヘラ笑っていた結川の事を。
 正直、ずっと学校を休んでいる結川を羨ましいと思った。毎日自分を擦り減らしながら学校へ行き、苦痛と羞恥で死にそうになっている私は、この地獄から離れられた結川が羨ましくて仕方ない。
 それと同時に悔しく思う。以前、他校生たちを前にしてあれ程に怯えていた結川が、色んなものを犠牲にして歯を食い縛りながら今の居場所を必死に築いてきたのに。それをこんな形で崩されてしまうなんて、結川があまりにも報われないと思った。
 私にとって結川は、あの息苦しい教室の中で唯一、私の事を気に掛けてくれた存在だ。結川は私とは違い、コミュニケーションが高くてクラスの中心に居るような人物だったのに、何故か私と少し似ているような気がした。
 私と同じ、赤い縄が首に括り付けられていたからもしれない。そんな勝手な仲間意識かもしれない。
 結川は、赤い縄なんて見えていないのに。自分の首に巻き付いた赤い縄に強く首を締め上げられても何でもないような顔して笑って、いつも危なっかしくて、優しかった。
 クラスメイトたちは私の存在なんてまるで空気のように扱うけれど、結川だけは違ったのだ。私はそれが、本当に泣きそうなくらいに嬉しかった。
 再び走り出した電車の中、俯いた視界で揺れる赤。ゆらゆらと空中を泳ぐように揺れてる赤い縄先を、無意識に視線で追いかける。
 この、私にしか見えない気味の悪い縄の正体をずっと考えていた。そして、最近少しずつこの赤い縄の事が分かってきたような気がする。
 毎日逃げ出したい私と、楽になりたい結川の首に括り付けられた赤い縄。虚ろな目で線路を見ていたサラリーマンの首に括り付けられた赤い縄。
 これはきっと、死の縄だ。
 この世界で、上手く生きられない人間に巻き付いた息苦しい呪いだ。