体育祭が終わってから、一週間が経った。相変わらず、私は異様な腹痛に悩まされる毎日を送っていて、自分の首からは私にしか見えない気味の悪い赤い縄が垂れ下がっている。
 けれどその日、目が覚めるとやけに朝が綺麗だった。いつもは空なんて見ないくせに、なんとなく見上げた空には少しの雲間から降り注いだ何本のも光の柱が、青空を金色に塗り替えている。空気が澄んでいるからなのか、いつもよりも世界の輪郭がはっきりと見えているような気がした。
 起き上がって、今日一日の事を考えて絶望する。いつものように学校に行きたくないと訴える私を、心の中でもう一人の私が殺して諦めさせるのだ。
 なんとか準備をして家を出る。その重い足取りで最寄り駅までやって来ると、いつも以上に多くの人が駅構内に押し寄せていた。蟻の行列のように、次から次へと人々は駅に入っていく。あまり見た事がないくらいに混雑している駅の様子に、思わず何事だと眉を寄せる。
 人混みには近寄りたくないけれど、状況が分からない事にはどうしようもない。覚悟を決めて駅の中へと足を踏み入れると、すぐ近くに居た二人組の女性たちの話し声が聞こえてきた。
「なんか、人身事故らしいよ?」
「えっ、そうなの?」
「うん、SNS情報だけどね。」
「うわー。それって、いつ電車動くんだろ〜」
 人身事故という言葉に、私の中の何かが小さく反応する。
 混雑する人混みの中で、改札口の近くに立っている駅員が拡声器を片手に持った。
「えー、ただいま○○駅にて人身事故の為、電車が停車しております。運転再開の目処は今のところ立っておりませんが、普及作業に尽力していますのでもう暫くお待ち下さい。繰り返します…」
 駅員さんの声が、人の気配の中を伝染していく。説明を聞くに、どうやら私が登校する為に使っている電車が止まっているらしい。
 朝から予期せぬ出来事に、駅構内は騒然としていた。足止めをされている人々はスマホを片手に情報を確認したり、電車以外の交通手段に変更したりして慌ただしさが溢れている。いつ来るかも分からない電車を待つ人達が、すし詰め状態になりながら長い列を作っていた。
 電車に乗れず立ち往生する人々が、朝から一日の予定を崩されたその不満を徐々に零し始める。
「チッ!マジかよ!」
「死ぬ時まで、人に迷惑かけんなよ!」
 制服を着た学生たち。
「人身事故だって?」
「勘弁してくれよ、大事な会議があるのに!」
 スーツ姿のサラリーマン。
「ちょっと、朝から止めてほしいんだけど。」
「予定が狂っちゃって、本当最悪。」
 清潔感ある服を着こなすOL。
 ノイズのように聞えてくる死者への罵声。きっと普通に生きられる奴には、線路に飛び降りてしまう気持ちが理解出来ないんだろう。
 別に私が飛び降りたわけでもないのに、悲しくて苛々してくる。なんで死ぬ時まで、他人に気を遣わなきゃいけないんだろう。今まで散々気を遣って他人を優先してきたから、だから死ぬのに。自分の事で精一杯で、誰かの迷惑を考えられるそんな余裕がないから死ぬのに。余裕が無くなるくらい必死に生きたのに。
 一気に気分が落ち込んで、私は人の流れに逆らうようにその場を離れる。擦れ違う人々の声や気配が不快で、目が回りそうになった。
「なんか、飛び降りたの☓☓☓駅近くの会社のサラリーマンらしいよ?」
 その中で、誰かの興味本位で呟かれた声がやたらと耳に残った。☓☓☓駅は私の通う学校がある駅だ。この事故がどれくらい前から続いているのかは分からないが、色んな情報もSNSを通じて一瞬で飛び交っていくのだろう。
 不意に何故か、その駅で何度か見かけた首に赤い縄が括りつけられたサラリーマンの事が頭に浮かんだ。
 何の根拠もないし、全く関わりの無いことかもしれない。今だに私にしか見えないこの気味の悪い赤い縄のように、ただの私の妄想かもしれない。
 けれど、確かにその時、赤い縄先に頬を打たれながら、いつも虚ろな目で線路を見ていた彼の姿が確かに浮かんだのだ。
 それと同時に、私は自分の首から垂れ下がる赤い縄の事が少し分かってきたような気がした。
 駅構内の騒がしい人混みから、距離を取るように駅の外に出る。いつ電車が動くかも分からない状況で、周囲を人に囲まれたまま長いこと待機するなんて私には出来そうにない。きっと列に並んだ所で直ぐにお腹が痛くなり、トイレに行くために列を何度も抜け出すはめになる。
 それにこの駅がこんな状況なら、他の駅だって同じように皆身動きが取れないだろう。スマホを片手に情報を確認しながら、一旦私は駅を離れた。
 何処に行く訳でもなく、ただ歩きながら一人になれそうな所を探した。今朝、綺麗だと思った空は少しの時間を掛けて既に形を変えてしまっている。あったはずの雲は徐々に流され、太陽もより高い位置に上った。
 そんな自然な事が、時折私に寂しさをもたらしてくる。きっと、この首に括りつけられた赤い縄もそんな自然の事のような気がする。


 

 それから暫くして無事に電車も動き出し、遅延証明書を持ってやる気無く学校に行く。正直、腹痛をひたすらに耐えるだけの苦痛な授業時間が潰れてホッとした。
 人身事故により、私の最寄り駅を使う生徒以外にも電車が遅延した生徒たちは多くいて、生徒だけでなく教師たちも交通手段に戸惑い、皆学校へ来る時間がバラバラだった。
 ちらほらと登校する生徒に混じりながら教室に入れば、クラスの三分の一程が空席のままだった。現代文の教師が一応授業という形をとっているものの、殆ど自習に近い。教師と一部のクラスメイトが授業に絡めながらも、色々なたわいもない会話をしている緩いものだ。
 いつものように、音一つ鳴らすのに緊張するような静かな授業では無いことに安堵して席に座る。伏せていた視線をそろりと上げて教室内を見渡せば、結川の席は空席でまだ学校に着いていないようだった。
 その後も、生徒が集まるまでの時間稼ぎのような授業は続けられ、電車が問題無く動き出した事もあってか、少しすると一人、また一人と教室に入って席に着く。
 空席が徐々に埋められた所で、キーンコーンカーンコーンと授業終了のチャイムが鳴り響いた。騒がしくなる教室には、ほぼクラスメイト全員が揃っている。
 しかし、その中でも今だに結川の席だけが空席のままだった。
「あー!てか、ところで昨日大丈夫だったん?」
「そーそー!結川、いきなり倒れたんでしょ!?」
 突然、聞こえてきた「結川」の名前に私は思わずその集団の方へと視線を向ける。いつも騒がしいスクールカースト上位集団の二人が、クラスのリーダー的存在である田所の元へと詰め寄っていた。
「いや〜、知らねぇよ。放課後普通に喋ってたら、いきなり過呼吸になってぶっ倒れてさ〜、まじビビった!」
 昨日の事を思い返すように、田所は所々笑みを浮かべながら軽々しい口調で話した。そんな田所の雰囲気に、スクールカースト上位集団の奴らも「何それ怖っ!結川からなんか連絡ないわけ〜?」と結川について聞き出そうと興味津々に聞いていた。
「ないない!結川が倒れた後、保健室の先生呼んでそれっきり!何の連絡もねぇ〜!」
「え〜、それって結構ヤバいやつなんじゃん?」
 やたらと大袈裟に話す田所と、態とらしく喋る女子の声が煩くて苛々する。
「喋ってて突然とか怖ぇな。体調とか悪かったんか?」
「アイツ、何気に保健室行く回数多いしな。ただ、サボってただけかもだけど!」
 賑やかに談笑しているスクールカースト上位集団の奴らは、誰一人として結川の事を心配しているようには見えなかった。結川の存在が、ただの話しのネタの一つとして扱われるのが凄く嫌だと思った。
 結川が過呼吸になって倒れたという田所の話に、私はきっとこのクラスの誰よりも衝撃を受けていた。その話が本当ならば、今日学校へ来ていない事にも当然納得がいく。
 スクールカースト上位集団に比べたら結川と関わった時間はとても少ないし、そこまで深い関わりを持ったわけでもないのに、私は学校を休んだ結川の事が気になって仕方がなかった。
 以前、過去にいじめられたという他校生たちを前にして、酷く動揺し少し呼吸を乱していた結川の姿を思い出す。あの時そんな結川の首を、赤い縄はぐるぐると強く締め上げていった。まるで縄先が首吊りのように結川の頭上に伸びて、そのまま地面から足が離れてしまうのではないかと肝を冷やした程に恐ろしい光景が頭の中に蘇る。
 苦しそうに他校生たちを睨み付けていた結川の呼吸が、締められる首と並行するように徐々に乱れていくのが怖くて、とても見ていられない気持ちになった。詳しくは知らないけれど、きっとストレスなどが原因で過呼吸になる事もあるだろう。
 もし、他校生たちを前にした時と同じような事が、田所たちの前でも起こってしまったとしたら、そう考えると私の中の何かが私を駆り立てるように落ち着かない気持ちになる。
 思い返せば、保健室で度々遭遇した結川はいつも青白い顔をして体調が悪そうに見えた。もしかしたら、日常的に何かしらの症状はあったのかもしれない。
 田所の前で過呼吸を起こし、倒れる結川の姿を頭の中で何度も想像する。ただの妄想かもしれないけれど、私は居ても立ってもいられなくなり、次の授業の事なんて考えられず衝動のまま教室を飛び出した。
 走って一階にある保健室まで向かい、閉まっていたドアをガラッと勢い良く開けた。
「…み、三上さん?そんな急いでどうかしたの?」
 息を乱しながら保健室に飛び込んできた私に、保健室の先生は目を見開いて驚いたように座っていた椅子から立ち上がる。
 その困惑したような保健室の先生の表情を見た私は、じわじわと冷静さを取り戻して、一体私は何やっているんだろうという気持ちになった。
 けれど、やっぱり結川の事が気にかかる為、自信無さげに口を開く。
「先生、結川くんが昨日倒れたって…」
「あぁ、誰かから聞いたのね。」
 私の言葉に保健室の先生は、何処か納得したように頷いた。
「…大丈夫なんですか?」
「うーん、どうかな?とりあえず、今は自宅療養中としか言えないけれど…」
 大丈夫とも大丈夫じゃないとも言わない曖昧な保健室の先生の言葉に、私は酷く気分が落ち込んだ。それだけで、きっと結川は大丈夫ではないんだと思った。
「…そうですか。」
 そう力無く零れ落ちた自分の声が、何処か他人事のように聞こえた。
 次の授業が始まるチャイムが鳴り、その音の余韻が静かな保健室の空間に波紋のように広がる。
「結川くんの事、心配してくれたのね。」
 相変わらず優しい物言いをする保健室の先生に、私は胸が痛くなる。「心配している」と誰かに言われてから、初めて自分の言いようのない不安が全部その為のものだと気付いた。
 けれど、私なんかが結川を心配したところで、何も現状は変わらないのだろう。それが、やけにもどかしくて堪らない気持ちになる。
 結局、あれこれ考えたところで、どうする事も出来ない私は諦めと共に項垂れる。目を伏せれば、首から垂れ下がった赤い縄がいつものようにゆらゆらと揺れていた。
 いつの事だか、赤い縄が結川の首を締め上げるのを見た日。それは、いつか結川を何処か遠くへ連れて行ってしまうような気がしていた。「楽になりたい」と言っていた結川の意志を尊重するように。
 そんな馬鹿げた妄想の筈が、今目の前の現実に現れようとしているように思えてまた私は怖くなった。





 結川が学校を休んだ日から、今日でちょうど二週間が経った。
 朝いつものように腹痛に耐えながら学校へ行き、息苦しい教室に入る。教室の中心には既に、田所を含めたスクールカースト上位集団が集まっていてケラケラと楽しげに談笑をしていた。
 その中から、もう習慣化されたように結川の姿を探す。けれど、首から赤い縄を垂らしてヘラヘラと笑っている彼の姿は今日も何処にもなかった。あれから二週間、結川は一度も学校に来ていない。
 結川が過呼吸で倒れたという日に一体何があったのか、私には知りようがないけれど、二週間も学校を休んでいるということはきっと只事ではないだろう。
 結川の身に起きている事が精神的なものなのか、それとも何らかの病気なのかも分からない。以前から、保健室で顔色の悪い結川と何度か遭遇したことがあるので、何らかの病気があったとしても可笑しくない筈のだが、担任教師や保健室の先生も結川に関しては何の説明もしてくれなかった。
 突然、学校に来なくなった結川に対して、最初はクラスメイトたちの中で話題になっていた。それこそ、スクールカースト上位集団は騒ぎに騒いで結川の事をネタにしていたのだが、二週間も経った今では結川の居ない事が既に彼等の中で日常になっている。
 けれど、たまに「てか、今日もアイツ休みじゃね?」なんて、スクールカースト上位集団の誰かが思い出したように口にしていたりした。
 教室で朝から盛り上がっているスクールカースト上位集団を横目に、私は自分の席に座る。
「つーか、アイツ出席日数やばくね?」
「夏休みにはまだ早ぇよな〜。」
 今日もスクールカースト上位集団の中の誰かが、話題の一つとして結川の事を話している。
「学校ってどれぐらい休んだら留年になるっけ?」
「さぁ〜?でも二ヶ月とか休んだら流石にやばいんじゃん?」
 皆そんな話はしながらも、深刻そうな表情はしていなくて結川の今後の話さえもただの世間話程度なのだろう。田所もスマホを片手に、やたらと気怠そうに話を続けている。
「つーか、結川って結局なんで休んでんの?」
「知らねぇ〜」
「てか、このまま辞めんじゃね?葉山の時も直ぐだったよな。」
 そう言った誰かの発言に、私は密かに心臓が跳ねた。学校に来なくなった結川が、そのまま居なくなってしまうのではないかと変な予感がするのだ。あの日から、ずっと私はその事について考え続けている。
 結川が居ない日々が日常となっていくのが、何処か納得がいかない気がして私は無意識に拳を握りしめた。
「葉山も結局なんで辞めたんだか知らねぇけど、援交とか妊娠とかめっちゃ言われてたよな。」
「そーそー!あの子、佳奈とかから嫌われてたからめっちゃ噂回ってたよね!結局、何が本当か分かんないけど!」
「あー、葉山とかもう忘れてたわ〜」
 いつの間にか、話題は結川から葉山へと移り変わっていった。他人の事をあーだのこーだの言う彼等の耳障りな声を聞きながら、朝の時間が過ぎていく。
 暫くしてからチャイムが鳴って、いつも通り私にとって地獄のような時間が始まった。クラスメイトたちは自分の席に戻り、担任教師がやって来て静かになった空間で淡々とHRを行う。
 自分の周りを囲う人の気配に怯え、誰にも変に思われないように息を潜めた。静かな空間に私の焦りが積もっていくように、ストレスが全て下腹部へと集結する。もうどうしたら普通になれるのか分からなくて、動き始めた腹を必死に抑えた。
 きゅるきゅると鳴る腹に、お願いだからこれ以上は止めてくれと恐怖しながら祈る。痛くなるお腹で溜まっていくガスで、もうまともに思考は動かなかった。辛い時間をただただ耐え抜く。
 どうして私だけが、どうして。そう繰り返していれば、そのうち朝のHRが終わって、直ぐに一時限目の授業が始まる。途方に暮れるくらいに長い、辛い時間がずっと続いていく。私だけが、生きづらい。
 普通の生活がまともに送れないほど、お腹が痛くなったって、首に気味の悪い赤い縄が見えるようになったって、結川が学校に来なくなったって、いつだって世界は何の支障もなく廻っている。