キーンコーンカーンコーンと間が抜けたようなチャイムを耳にして、私の午前中の格闘が終わった。教師の挨拶と共に私は急ぎ足でトイレに駆け込むと、ぎゅるぎゅると動く、張りに張りまくった下腹部を必死で落ち着かせる。
 暫くして教室に戻れば、ガヤガヤと相変わらず騒がしいクラスメイトたちが、机をくっつけ合って弁当を食べ始めていた。
「結川ー!購買行くなら、ついでにカレーパン買って来て!」
「えー。まぁ、どうせ行くからいいよ?お金は?」
「結川の奢りで!」
「絶対、買わないからね!」
 その中でも、田所の声は人一倍大きくてよく響く。チラリと視線を声が聞こえた方へ向けると案の定、また田所に結川が絡まれていた。
 田所は弁当をかき込みながら、「えー!いいじゃん!奢って!」と容易く結川に強請る。そんな光景をクラスメイトたちも見慣れているのか、スクールカースト上位集団もケラケラと笑いながら二人の様子を見て楽しんでいた。
「結川奢ってやれよ〜」
「嫌だってば!なんで俺が!?」
 必死に噛み付く結川が面白いのか、いつの間にかスクールカースト上位集団は田所の味方をするように結川を誂い始めた。
「早く行かねぇと売り切れるぞ〜?」
 弁当を口いっぱいに頬張りながら、田所は結川の薄い肩を遠慮なくバンバン叩いて促す。そのあまりのしつこさに、結川は諦めたように「もう、分かったってば!行ってくるから!」と告げて教室を出て行った。
 そんな結川の後ろ姿に、スクールカースト上位集団は再びケラケラと笑う。アイツらは知らない。このやり取りの間で、結川の首に括りつけられた赤い縄がどれだけ忙しなく動いていたのか。その光景がどれほどに気味悪く、危ういものかを。
 やりきれないような気持ちになりながら自分の席に向かうと、既にクラスの女子グループの一人、木嶋佳奈が私の席を占領していた。女子グループは私の席を含めた他人の机同士ををくっつけ合って、我が物顔で弁当を食べている。
 大袈裟にキャハハッと笑って、私の席で弁当を食べている木嶋佳奈を横目に、机の横に吊るしたスクールバッグから弁当箱を手早く取り出した。弁当を食べている木嶋佳奈には、まるで私の姿が見えていないようで、私の行動に対して特に何の反応もされなかった。
 その事に安堵するような苛立つような微妙な気持ちなりながら、私は弁当箱を持って静かに教室を出て行った。昼休みのざわつく校舎内を歩いていると、三人組の女子生徒たちと擦れ違った。見る限り他の学年だと思われるが、三人のうち、一人の首からは赤い縄が垂れ下がっている。
 この女子生徒のように学校内でも度々、赤い縄を首から垂らしている人は存在する。無意識に、その揺れている赤い縄を視線で辿ってからそっと外した。この赤い縄も、随分見慣れたものだ。
 不意に、天井に付けられたスピーカーからジジッとマイクの入る音がした。
「あー、体育委員に連絡します。今日の放課後、明日の体育祭準備があるので体操着に着替えてからグラウンドに集まってください!繰り返します。体育委員は…」
 体育教師の溌剌とした声が、校内に響き渡る。朝のHRで担任教師からも伝えられた連絡ではあるが、体育委員の参加をより促す為か念を押すように再度、校内放送が流れた。
 突然、体育委員に決められてしまってから約一ヶ月が経った。この一ヶ月は結川の助けを借りながら、非常に面倒な体育委員の仕事をやり遂げてきた。それが、体育祭で一段落つくと思うと少し感慨深く感じる。けれど、やはり大変なのでさっさと早く終わってほしいのが本音だ。
 今だに放送が流れる校内の階段を、テンポ良く下りて外へと向かう。その途中で購買の前を横切ったが、人が凄い勢いで押し寄せていて結川の姿は見えなかった。
 そのまま外に出ると太陽の日差しが眩しくて、思わず目を細めた。肌へと当たる熱に、徐々に本格的な夏が近付いて来たのだと実感する。
 眩しい日差しから逃れるように日陰になっている校舎裏に足を進めると、そこは相変わらず人気が無くて静かだった。ポツンと置かれた古いベンチに、慣れたように腰を降ろし、背もたれに力の抜けた上半身を押し付ける。
 深く息を吐くと、一気に脱力感が伸し掛かった。持っていた弁当箱を開くこともせずにベンチに置いて、何をするわけでもなくボーッと空中を見つめる。
 昼休みはこの場所で、ただただ時間が過ぎるのを待つのが私の日課だった。力が抜けていく身体に反応するように、空腹の腹が間抜けに鳴る。それを無視してひたすらに目を瞑る。
 欠陥品である私の腹は、昼ご飯を食べると腹痛が余計に酷くなるのだ。昼ご飯を食べてしまうと消化もあり、腹が一段と活発的になって午後の授業がどうしてもキツい。ぎゅるぎゅると腹が鳴ってパンパンに膨らんでお腹が痛くなって、酷い時は全く身体が動かせなくなる。そんなの、とても授業を受けられる状態ではない。
 毎日こんな様子ではどうしようもないので、いつからか私は昼ご飯を食べる事を止めた。昼ご飯を食べる事は止めても、私の腹の異様さを知らない母に上手く説明も出来ないので、作ってもらった弁当は家に帰ってから気付かれないように全て食べている。
 遠くではしゃぐ学生たちの声を聞きながら、閉じていた瞼を開けた。ゆらりと視界を横切る赤に、もはや今は少しの親しみさえ感じる。私の首に括りつけられた赤い縄は、まるで空中を泳ぐように縄先を揺らしていた。背景の空の色に、赤はよく映える。
 この見慣れた不思議な光景は、時に私を和ませ始めていた。現実か妄想かなんてそんな大差ないように思えて、ただ自由気ままに揺れている赤い縄が少し羨ましい。
「…早く、楽になりたい。」
 いつの日か、結川が言った言葉を無意識に呟いた。私の声は、校舎裏の静寂に転がっていくように消えていく。
 不意にゆっくりと流れていた時間を断ち切るように、耳障りなチャイムが鳴った。また、地獄のような時間が始まる。教室に戻りたくない気持ちに必死に抗い、なんとか立ち上がって中身が入ったままの弁当を手に取った。
 重たい足で踏み出せば、赤い縄は揺れる。校舎裏の日陰から、眩しい日差しの下に出る。校舎に入って階段を上って、一歩一歩教室へと近付く度にまた呼吸がしづらくなった。
 あまりの息苦しさに、もしかしたら赤い縄に首を絞められているのではないかと下を向けば、いつものように縄先は鳩尾辺りで揺れている。
 学校が息苦しいのはいつもの事だ。そう分かっている筈なのに、最近は酷く嫌気が差して、こんな場所に居られるわけがないと喚き散らしたくなる。
 教室へ入ると、一層酸素が薄くなったように感じた。上手く動かない身体を操ってなんとか自分の席に着けば、視界の端を結川が通り過ぎていく。
 その白い首にぐるぐるとキツく赤い縄が巻き付いていて、それを心配に思うのと同時に何故か少しだけ安心した。






 昼休みに流れた校内放送に従って、放課後私と結川は体操着姿でグラウンドに向かった。グラウンドには既に何人かの体育委員が集まっていて、体育教師に指示を受けている。
「うわー、なんか大変そう…」
「そうだね…」
 結川の発言に即答してしまう程、忙しなく動き回る体育委員の姿に自然と腰が引けた。
 グラウンドを見渡せば、明日の体育祭に向けて体育委員だけでなく、運動部も総出でグラウンド整備に励んでいるようだった。その中に田所の姿も見えて、なんだかやりきれないような気持ちになる。
「体育委員は早くこっちに来なさい!」
 大きな声にビクッと肩を揺らせば、グラウンドの隅で突っ立っていた私達を体育教師が手招きして呼んでいる。思わず隣りに居た結川と顔を見合わせれば、結川は「ゲッ…」と言いたげに顔を引き攣らせていた。
「…行くしかないよね。」
「そうだよね〜、腹括りますか!」
 結川はゴクリと息を呑んで、「今行きまーす!」と返事をしながら体育教師の元へと走り出す。それを私も追いかけて、体育祭準備に取り掛かった。
 競技に必要な道具を体育倉庫から運び出したり、待機所のテントを張ったりと動き回っていれば、いつの間にかグラウンド一帯が夕焼けに染まっていた。
「じゃあ、今日はこれで準備は終了です。明日の体育祭、頑張りましょう!お疲れ様でした!」
 たくさん動き回っていたのに、相変わらず溌剌とした声で話す体育教師に形だけの挨拶をして、体育祭準備が終わった。
 「やっと終わった」という開放感と「明日嫌だな」という絶望感が混ざり合い、深く息を吐く。
 ちらりと隣を見れば、結川もガクリと肩を落として「もう、へとへとだよ〜」と情けない声を出していた。それに同意しながら、遠い目をして頷く。
「明日体育祭なんて、とても出来ない…」
「それな〜!」
 夕焼けに染まった空に、結川はグッと両腕を伸ばす。グラウンドに伸びた影には、当たり前に赤い縄の存在は映っていなかった。
 解散した体育委員たちは、ダラダラと歩きながら校舎に戻って行く。その後を追いかけながら、結川と一緒にのろのろ歩いた。
 教室に着けば、想像した通りにクラスメイトは誰も居なかった。とりあえず体操着から制服に着替えようと更衣室に向かい、手早く着替えを済ませてから再び教室に戻る。
 教室に入ると既に制服に着替え終えた結川が、窓を開けてぼんやりと外を眺めていた。
 入り込む風がカーテンを膨らませて、私の髪やスカートを揺らす。そっと結川へと近付くと、結川の赤い縄が風に流されて私の腕に触れてから、するりと擦り抜けていった。
 初めて誰かの赤い縄に触れてしまった事に、少し驚いたがやはり感触は何も感じなかった。改めて、この赤い縄は誰にも触れる事が出来ないのだと実感する。
 体育祭のプログラム制作をした時のように、茜色に染まった教室で結川と二人きり。あの時から、結川との距離は少しだけ近付いたような気がする。
 窓の外を見つめる結川の隣に並んでみても、結川は私の存在に気付いていないのか、暫く窓の外を見つめていた。その眼差しは真っ直ぐで、夕日に照らされた横顔になんだか胸がざわつく。
「あっ、三上さん帰る?」
 不意に私の存在に気付いた結川が、何て事ないように言う。
「うん、帰るけど…?」
「そっか!じゃあ、俺も帰ろっと。」
 結川の反応に「え、」と声を出す前に、結川は開けていた窓を静かに閉める。そして、そのまま席に纏めていた荷物を軽やかに背負った。
「どうせだから、駅まで一緒に帰ろ。」
 緩く瞳を細めながらそう言った結川に、私は反射的に頷いた。確かにこの学校に通っている殆どの生徒が電車通学で来るので、下校するなら自然と駅へと向かうことになる。
 けれど、結川と二人きりとなると少し、変な意味合いが含まれてしまうんじゃないかと密かに戸惑った。以前はそんな事を気にする前に田所が結川に絡んできたので、結局一緒に帰る事はなかったからそこまで気にも止めなかったのだが、今更ながらに学生特有の気恥ずかしいような感覚が私を襲った。
「いや〜疲れたけど、あんまり遅くならなくて良かったよね!」
 そんな私の心情を知る由もない結川は、労るように自分の肩を撫で歩きながら気軽に話を振ってくる。そのおかげか、私の感じていた気恥ずかしさは直ぐに薄れていった。
 緊張すると無駄に痛くなる腹が厄介だけど、穏やかな人柄の結川の前ではそこまで気を張り詰めなくても良いかと私は無意識に肩の力を抜く。
 体育祭の準備が整ったグラウンドでは、まだ運動部が何人か残って作業をしていた。それ以外の部活動は普段通りに活動しているようで、遠くから吹奏楽部の演奏が風に乗って聴こえる。
 下校している生徒もちらほらいるが、友人同士の会話で盛り上がっていて誰も私達を気にする者は居なかった。私は自分が思っていたよりも、色々な事を深く気にしすぎていたのかもしれない。
「俺、明日体力持つかな…」
「結川くん、出る種目多いもんね。」
「そうなんだよ〜」
 結川の気の抜けた声が可笑しくて、思わずクスリと笑みを零した。口角が自然と動くのは、随分と久しぶりかもしれないと我ながら悲しい事を思う。
「俺帰宅部なんだし、体育祭とか勘弁してほしいよね!」
「でも、結川くん運動神経良さそうに見えるよ?」
「いや〜、一般的だと思うよ?」
 流石クラスのムードメーカーといったところか、結川との帰り道はそこまで会話が途切れる事もなく、気まずい雰囲気になる事も全くなかった。もしかしたら、結川はコミュニケーションが苦手な私に色々と気を遣ってくれていたのかもしれない。
 お互いの首に括りつけられた赤い縄も、縄先を揃えるように優雅に揺れていた。こうやって誰かの隣を歩くのは、いつぶりだろうかと考える。少なくとも高校生になってからはあまり記憶に無くて、それだけ私は人と接する事が無かったのだと情けなくなった。
 結川とたわいもない会話をしながら歩いていれば、あっという間に駅に着いた。茜色に染まっていた空は僅かに藍色が混ざり始めているが、夏が近付き随分と日が長くなったように感じる。
 今日も時間帯故にか、帰宅を急ぐ人々で駅構内は混雑していた。見慣れた赤い縄を揺らしている人とも、何人か擦れ違う。
「三上さんは、何番線のホームなの?」
 人々の間を歩きながら結川にそう聞かれ、行き先を答えようとした瞬間、結川の隣を通り過ぎようとした他校の制服を着た集団が不自然に足を止めた。
「あれ、結川?」
 その声に、結川はバッと勢いよく顔を上げる。そして、声を掛けられた集団を視界に入れると大きく目を見開いた。他校生の集団もそんな結川の顔を今一度確認すると、ニヤリと嫌な笑みを浮かべて意気揚々と声を上げる。
「なんだ結川じゃん!てか、めっちゃ見た目変わってね?」
「うわー、マジで垢抜けたなお前!最初誰かと思ったわ!」
 他校生の彼らは結川と知り合いのようで、ゲラゲラと笑いながら結川に馴れ馴れしく話しかけて来る。結川へ向けられた容赦の無い言葉が、何処か田所を思い出させた。
 突然の事に戸惑い結川を伺えば、そこにいつもようなヘラヘラとした笑みは何処にも無かった。表情が抜け落ちたように目の前の集団から目を離さず、結川は呆然と立ち尽くしている。
「お前の事、地元でなかなか見かけねぇと思ったら、こんな離れた高校通ってたのかよ!」
「あの時も頑なに志望校黙ってたもんな〜!まじウケる!」
 他校生たちと結川が一体どのような関係性だったかは知らないが、彼らからぶつけられる言葉に結川は徐々に顔色を真っ青にして、怯えたように唇を震わせていた。
 そんな結川の反応を見て他校生たちは大層面白がっていたが、ずっと黙ったまま一言も発せない結川をなんとなくつまらなく感じ始めたのか、他校生たちの興味は直ぐに隣りに居た私に移っていった。
「つーか、何?結川の彼女?」
「あの結川が!?嘘だろ?マジ生意気〜!」
 機関銃のように容赦無く次から次へと言葉を掛けられて、正直どう反応をしたら良いのか分からない。
「い、いや、違っ…」
 とりあえず否定しなければと勇気を持って声を出した筈だが、私の声はあまりにも小さく駅を行き交う人々の雑踏に呑まれ、他校生たちには全く届いていなかった。
 この他校生たちの人を煽るような言い方はとても不快なのに、どうしてか臆病になってしまう自分がいる。どうでも良い他人にまで顔色を伺って、「不快です」と主張出来ない自分が酷く情けなく思った。
「おい、結川なんとか言えよ?」
「人がせっかく話しかけてやってんのに、黙りやがって。」
 今まで黙りを貫いていた結川に、他校生たちは分かりやすく不満を露わにする。その理不尽さに、私はちゃんとした怒りを覚えた。
 ふと隣に居る結川に視線を送った時、私は思わず息を呑む。
 結川の首に括りつけられた赤い縄は、異常な程に揺れ動いていた。そして、勢い良くぐるぐると首に巻き付くと、いつか学校で見た時のように結川をきつく絞め上げる。
 けれどあの時とは違い、赤い縄先は結川の首を一層強く締め上げるように上へと伸ばされていて、足は地面に着いたままだが、見た目はまるで首吊のような状態になっていた。 
 そして、その赤い縄に吊られるように、結川の呼吸が心做しか荒くなっているような気がする。隣から伝わってくる不自然な息遣いに、私は結川に何か異変が起こっている事を確信した。
「…っ三上さんに絡むのはやめて、」
「あ?」
 結川は眉を歪ませてながら、声帯を無理矢理痛め付けるような掠れた声で言った。息苦しそうに揺れる肩が、今にも崩れてしまいそうでどうにかしたくなる。
 その血の気が引けたような真っ青な顔色は変わらないが、結川の瞳は目の前の他校生たちを強く睨み付けている。これまで見た事がない結川の表情からは、何か気迫が迫るものを感じた。
 そんな結川の声を聞いても、他校生たちは品の無い笑みを浮かべたまま、結川を馬鹿にしたように見ていた。
「何だよ?女の前だからカッコつけてんの〜?」
「てめぇ、俺らにそんな事言っていいのかよ?」
「てか、俺等から離れたくてわざわざこんな遠い学校通ってんじゃねーの?」
 繰り返される不快でしかない言葉に、私は胃の辺りが燃えて頭から血の気が引けていくような感覚になった。結川とどうゆう関係かは分からないけれど、そんなものはどうだっていい。コイツらが、結川を心底馬鹿にしてわざと傷付けている事くらいは分かる。それで十分、最悪な関係性だと私は理解した。
「…あの!結川くん、時間大丈夫?用事があるって言ってたよね?」
 目の前で起こる理不尽な言葉の暴力を、これ以上聞いていたくない。それに苦しそうに赤い縄に首を絞められている結川の姿を、私はこれ以上見たくはないのだ。
 私にしては結構勇気を振り絞って、他校生たちの一方的な物言いを邪魔するように声を上げれば、結川はやはり声が上手く出ないのかコクコクと必死に頷いた。
「…っ、」
「じゃあ、早く帰ろ!」
 目の前の他校生たちを無視して、私は結川の腕を掴むと一気に走り出した。「は?ちょっと、待てよ!」と慌てたように吐き捨てた他校生たちは、納得がいかないような険しい表情で私達を追いかけて来る。
 まさか追いかけられるとは思わず、「ひぃっ!?」と情けない声を上げて、私は結川を掴む手に力を入れて駅構内を爆走した。行き交う人々の間を縫うように走り、何度も人にぶつかりそうになってはひたすらに謝りながら逃げた。
 暫く経ってから振り返ると、もう私達を追いかける他校生の姿は何処にも見当たらない。他校生たちを撒く事が出来たのか、途中で他校生たちが私達を追いかける事を止めたのかは分からないが、ともかく無事に逃げれたので良しとしよう。
 手を膝に付き上がった息を整えようとした所で、随分長い間結川の腕を掴んだままだった事を思い出した。
「あっ!いきなり掴んじゃって、ごめん!」
 そう言って慌てて、結川の腕から手を離した。力無くだらりと離されたその手に、心配になって隣に立ち尽くす結川の様子を伺えば、顔を隠すように深く俯いていて表情はよく分からない。けれど、その肌は今だに血の気が引けたように青白いままで心配になる。
 結川の首に強く巻き付いていた赤い縄は走っている途中で緩んだのか、結川の首から縄先を離し、いつものようにゆらゆらと鳩尾あたりに垂れ下がっていた。呼吸もまだ若干荒いけれど、先程に比べて少しずつ酸素を取り込めているように見える。
 その事に安堵してそっと胸を撫で下ろせば、不意に私達の間に消えてしまいそうな声が零れ落ちた。
「…ごめん。俺、ほんと情けない。」
 その弱りきった声は、混雑する駅の雑踏の中に直ぐに呑まれていく。男にしたら随分と薄い結川の肩が、行き交う人々にぶつかりそうになる度にふらふらと危なっかしく揺れていた。
 それを見た私は思わず、結川の腕を再度掴んで駅の端の方まで連れて行く。トイレの前を通り過ぎて行き止まりになった薄暗い場所は、人気がなくて先程までの人々が行き交う忙しなさは無い。その隅に隠れるように置かれたベンチに、今にも崩れてしまいそうな結川を座らせた。
「ちょっと、待ってて。」
 何の抵抗も示さず、されるがままにベンチに腰を降ろした結川にそう告げると、私は足早にその場を離れた。帰宅していく人々の間をまた縫うように進み、駅に設置された自販機で水を買うと、それを取って急いで結川の座るベンチに戻る。
 先程居た場所まで戻ると、結川は微動だにしないまま深く俯いていた。
「…顔色悪いから、飲んで。」
 そう言って買ってきたばかりの水のペットボトルを渡すと、私の声に俯いていた結川の視線がゆっくりと上げられる。そして、差し出した水を結川は力無く受け取った。
「気遣わせちゃって、ごめんね。」
 声は少し掠れているものの、段々と落ち着いたのか呼吸はもう普段通りに戻っていてホッとする。
 結川は泣き出しそうなほど眉間に皺を寄せて、苦しげに口を開いた。
「俺…、」
 そう一言発してから、結川はなかなか言葉が上手く出てこないようで「えっと…」としきりに声を詰まらせる。きっと結川の事だから、今起きた事について律儀に説明をしてくれようとしているだと思う。
 けれど、人間そんな簡単な生き物ではないから、自分の中で物事の踏ん切りがつかない限り、誰かに自分の事を上手く話すなんて出来ないだろう。私だってそうだ。異様な腹痛の事も赤い縄の事も、全部誰にも話せる気がしない。
「大丈夫だよ、無理に話さなくて。」
 私の声に結川は顔を上げて、何処か困ったように眉を下げた。
「…ありがとう、三上さん。」
 そう言った結川の表情は少し柔らかくて、私も自然と口角を上げる。
「明日は体育祭なんだし、とりあえず落ち着いてから帰ろう。」
「うわ…そうだった、体育祭じゃんね。」
 忘れてたと言わんばかりにヘラリと笑った結川に、私は何とも言えない気持ちになった。体育祭の準備で慌ただしく動き回ったと思ったら、不快な他校生たちに絡まれて、きっと結川にとっては散々な一日だったに違いない。
「もう、なんか疲れちゃって…明日が本番かぁ。」
 疲れ切ったような結川の声に、私は黙ったまま頷く。そして、結川は座っていたベンチから立ち上がると私に向かって丁寧に頭を下げた。
「三上さん、凄い迷惑かけて本当にごめん。」
 重々しい口調で、結川は本日何度目かの謝罪をする。それに驚いて、私は慌てて手を振った。
「全然、気にしてないよ。私も体育委員の事で、結川くんには散々助けてもらったし。」
「…でも、」
「本当に、心配しなくても大丈夫だよ。それより、早く帰って明日の体育祭に備えなきゃ。」
「…そうだね。」
 いつもとは逆で、結川よりも私の方が口数が多くなる会話は何処か落ち着かない。
 結川は下げていた顔を上げると、私に向かって申し訳なさそうに微笑んだ。そして、私が渡したペットボトルの水をコクリと飲み込む。
「これ、ありがとね!そういえば、いくらだった?」
 元の調子を取り戻していくように、結川の声はやたらと明るくなる。それは若干の不自然さを含んでいて、また結川の自分を優先しない悪い癖が出ていた。
 私はそれに対して「そんな、いいよ。」と言ったが、結局結川に半ば強引にお金を渡される。その律儀さが、とても結川らしいと思った。
「三上さん、今日は本当にありがとう。また、明日頑張ろうね!」
 私の乗る電車とは別のホームだと言った結川と別れる時、結川は何度目かの「ありがとう」を私に伝えてきた。本当にそんな気にする事ではないのに、結川は自信無さげに眉を下げる。相当、今日の出来事が結川にとってはショックな事だったのだろう。
 それに頷き「うん、また明日。」と、私は結川と別れた。結川と別れて、一人駅のホームに出て電車を待つ。カンカンカンと電車が遠くから近付いて来るのを眺めながら、私はいつもように無意識に今日一日のことを振り返った。
 脳裏に重く焼き付いたのは、結川の首を絞めた赤い縄と苦しげな表情。そんなものは、もう見たくないと思う。結川は誰かに、理不尽な言葉を投げかけられて良い人間では無いのだ。そんな事があって良いわけがない。
 アナウンスと共に電車がホームにやって来て、夏の匂いを含んだ風に髪やスカートが流されていく。首に括りつけられた赤い縄も、視界の先で踊っていた。
 明るい電車の中にはすし詰め状態の人々が見えて、一気に気分が下がる。果たして、私はこの電車に乗れるのだろうか。そんな私の動揺は、直ぐに自分の腹へと伝わった。
 逃げ出したいような気持ちで人の波に押し込められるように電車に乗ると、ぎゅうぎゅうと四方八方を人に囲まれて、私は速攻で白目を剥きそうになる。
 無理だ。とてもじゃないけど、こんな状態で正常に居られるわけがない。あまりの人口密度の濃さに、条件反射ように下腹部がパンパンに張っていくのを感じる。焦りからか額から流れる汗が止まらなくなって、ひたすらどうしよう、どうしようと心の中でパニックになっていた。
 人の気配を全身で浴びながら、私は毎回のごとく自分が情けなくなって絶望する。どうして私だけが、こうなのだろう。お腹が痛くて、鳩尾あたりの制服をギュッと握りしめる。もう、勘弁してほしいと思った。
 人々に囲まれてきっと惨めな表情を浮かべているであろう私の首で、赤い縄は優雅に人々をすり抜けていく。こんな状態でも私の赤い縄は、結川のように私の首を締めない。
 これまで、赤い縄が巻き付き首を絞められている結川を何度か見た事があったけれど、今日みたいに苦しそうに声を掠れさせて呼吸を乱す結川は見た事がなかった。
 赤い縄に首を絞められたら苦しくなるのかは、私には分からないけど、少なくとも結川の心と赤い縄は何ならかの形で繋がっているのではないかと思う。
 いつか、結川の首に括りつけられた赤い縄が、結川を何処か遠くに連れて行ってしまうような気がして怖くなった。