何度か諦めを重ねてトイレから出て教室に戻ると、教室には誰一人居なかった。予定表を見れば次の授業は移動教室であるため、授業の準備を終えたクラスメイト達は既に教室を去ったのだろう。自分以外に誰も居なくなった教室で、私はようやく深く息を吐き出した。静かな空間に始業の合図をするチャイムが再び流れて、少しの間立ち尽くす。そしてゆっくりと教室を出ると、私はすでに授業が始まっている移動教室ではなく一階にある保健室に向けて足を進めた。
保健室までやって来ると、ドアには『保健医不在』と書かれた看板が掛けられていた。それでも、ここ以外に行く宛の無い私は諦め悪くドアに手を掛ける。
すると、鍵は掛っていなかったのか保健室のドアは何の抵抗も無く簡単に開いた。白い壁に囲まれた空間は、消毒の匂いがほのかに鼻を掠める。開けっ放しの窓からは暖かい日射しが差し込み、室内に入ってくる緩やかな風がふわりとカーテンを膨らませていた。強張っていた身体が、少しだけ自由を取り戻したように呼吸がしやすい。
室内に置かれている長椅子に座りながら、誰も居ない保健室で何もしない時間を過ごした。首に括りつけられている赤い縄が、呑気に視界の端で揺れているを眺めながらぼんやりとした心地でいると、人気の無い廊下に一人の足音が響く。
徐々に近付いてきた足音に無意識に息を止めていれば、不意にガラッと保健室のドアが開けられた。驚いてビクッと肩を跳ねさせながら視線をドアへと向けると、そこには私と同じように気味の悪い赤い縄を首から垂らした結川周が居た。結川は今朝見た時とは違って、血の気が引けたように青白い顔色をしている。
「あっ、…三上さん。」
私の存在に気付くと、結川は少し目を見開いてから覇気の無い声で小さく呟いた。突然のことで私は「…ぁ、」とまともな反応も出来ずに、一人あたふたと情けない表情を作る。
そんな私に結川もどう反応したら良いのか分からないようで、「…保健室の先生、いないよね?」なんて誰がどう見ても分かりきっている事をわざわざ聞いてきたりした。それに対して情けない表情のまま「うん…」と答えれば、結川は「そっか。」と眉を下げて軽い声を出す。何故、私という人間はただの会話でさえも上手くこなす事が出来ないのだろうか。数秒間の言葉のやり取りでも躓き、結川に要らぬ気を遣わせてしまった。
それから特に何の会話もする事もなく、保健室には再び静寂が訪れた。遠くから授業をする声が聞こえるだけの穏やかな空間は、先程と違って居心地が悪く感じる。突然、現れた結川の存在が私は気になって仕方がないのだ。
ちらりと盗み見るように結川に視線を送れば、結川の白い首に巻き付いた赤い縄が嫌でも目に入る。ゆらゆらと振り子のように縄先が揺れて、その縄先がいつか駅のホームで見たサラリーマンの時のように結川の頬を何度か強く叩いていた。結川が縄先で叩かれている異様な光景を横目にしながらも、私は結川との会話で悪かったところを無意識に振り返り自分を責めることがやめられない。
何処か変なところはないか、私は正常な人間に見られているだろうか。ああ、結川はクラスの中心にいる人種だから、私とは違うあちら側の人間だから、絶対に変な事は出来ない。この嫌なくらい穏やかな静寂の中で、この忌まわしい腹でも鳴ったら私はもう終わりだ。
考えたくもないのに碌でも無い思考が止まらなくて、それに反抗するようにどんどん私の腹は活発になり始めた。必要のない緊張感で、私は身体を支配される。額から冷や汗が流れ始めたその時、結川は何を思ったのか、静かに保健室のドアを開けた。
「…なんか保健室の先生来なそうだし、俺、やっぱ授業に戻るわ。」
「…え、」
結川は血の気が引けたように青白い顔をしながらも、私を振り返って律儀にそう告げると保健室を出ていく。その何処かふらふらとした足取りに、私はハッとして座っていた長椅子から立ち上がった。
結川の体調は大丈夫なのだろうか。保健室へ来たということは、きっと体調が悪かったに違いない。結川の顔色の悪さを見ればそんな事一目で分かったはずなのに、私は自分の居心地の悪さに精一杯で何の気を遣うことも出来なかった。
自己嫌悪に襲われながら、結局自分はどうするべきだったのかと終わりのない反省に明け暮れようとしていたら、ガラッと再び保健室のドアが開けられた。結川と入れ違うようにして、室内にやって来たのは保健室の先生だった。
「あら、三上さん来てたの?」
保健室の先生は私に視線向けて、慣れたように声を掛けた。それに対して私は「…あ、お腹痛くて。」といつものように小さく告げる。
こうしてもう何度か保健室に訪れている私を、保健室の先生はどう思っているのか知らないが、毎回授業を抜け出してお腹が痛いとやって来る私に、少なくともあまり良い印象は無いのだろう。そんな事は分かっている。けれど、それでもお腹が痛いのは本当のことなのだ。
保健室を利用した後、授業へ戻ってもやはり毎回のように腹痛に襲われた。そう何回も保健室に向かうわけにもいかず、狭い教室内でクラスメイトたちに囲まれた席で何度も正気を失いそうになりながら、一日の長い授業を終える。やっとの思いで帰りのHRの時間になったと思ったら、担任教師は朝よりも簡潔に連絡事項を告げると、HR終了のチャイムが鳴ったところで「じゃあ、体育委員は放課後頼むな。」と朝と同じように軽々しい声を残して教室を去っていた。
その吹けば飛んで行きそうな程の軽い声に、重く深い絶望へと落とされる。私は一体何度地獄に落ちれば良いのだろう。朝のHRで理不尽に告げられた体育委員会の仕事を、私はこれからやり遂げなくてはならないのだ。最悪だ。もう立ち上がれない。既に私は私の限界を超えている。
このままならない感情をどうにもしようがなくて、席に座ったまま視線を落とせば、首から垂れ下がった赤い縄が見えた。相変わらず気持ちが悪い。
「佳奈ー!部活行こう!」
校内が一斉に騒がしくなって、教室内も友人たちで談笑する者や呑気に帰り支度をする者で溢れる中、隣クラスの少し派手な女子の大きな声が教室に響いた。
「あー!待って、今行く!」
その派手な女子の言葉に返すように、慌ただしく木嶋佳奈が荷物を持って教室内を駆けていく。
「てか、今日顧問来ないから自主練だっけ?」
「そーだって!」
廊下に出て行ったのにも関わらず彼女たちの大きな声のやり取りは、いまだ教室に居る私にまで聞こえてくる。何がそんなに面白いのか知らないが、足取り軽く部活へと向かう木嶋佳奈とその友人のケラケラと笑い合い声がうっとおしく耳に残った。気持ちが悪い。
身体から沸き上がってくる気持ちの悪さに、視線の先で揺れる赤い縄を睨み付けながら必死に耐えた。
「あの、三上さん。」
騒がしい教室内で突然、自分の名前が呼ばれた。その事に驚きながら振り返れば、眉を下げてこちらを伺うような表情の結川周がいた。
「…結川、くん?」
声をかけられるとは思ってもみなかったので、おどおどしながらも名前を呼べば、結川は少しぎこちなく口角を上げた。
「田所が部活忙しいみたいでさ、俺に変わってくれって事で体育委員のやつに行くことになったんだけど、一緒に行かない?」
そう言った結川の顔色は、保健室で会った時に比べてほんの少しマシになったように見える。けれど、結川の肌は依然として青白く首に括りつけられている赤い縄がよく目立っていた。
結川がふらふらとした足取りで保健室を出て行った後、
私は一限目の授業が終わってから教室へと戻った。
教室には既に移動教室から戻って来たクラスメイトたちが何人か居たが、その中でも何でもないような顔をして田所諒を含めたスクールカースト上位集団とヘラヘラ笑っている結川が目についた。
その姿は保健室で見た青白い顔色をした結川とは、まるで別人のようで、何処か無理をしているように思えて仕方なかった。
保健室で見た結川を再度思い出しながら、目の前に立つ結川をまじまじと観察するように見ていれば、結川は少し困ったように首を傾げる。そんな結川の様子に気付き、私は慌てて「うん、行こうか。」と返事をした。
朝のHRで担任に告げられた委員会が行われる三年一組の教室へ結川と共に向かうと、もう既に何人かの体育委員が集まっていた。見知らぬ他学年の生徒たちが集まる教室内は、とても居心地が悪くて気分が重たくなる。
体育委員長だという一人の先輩の「同じクラスや学年ごとに纏まって近くの席に座ってほしい」という指示に従って結川と私は隣同士の席に着いた。
暫くしてから体育教師がやって来て、今回体育委員が集められた説明を聞く。要するに来月行なわれる体育祭の準備の為らしい。
「体育委員の皆さんには、これから体育祭のクラスの種目決め、プログラム制作、当日のテント張りや競技の準備をやってもらいます。」
体育教師が書類など配りあれこれと説明をしている中、私はじわじわと焦っていた。何人もの見知らぬ生徒たちが私の周りの席に座り、教師内で静かに体育教師の話を聞いている。こんな状況で、一体どうやって正常でいられるんだろうか。
それでも正常で居なくてはいけないという緊張感と今にもとんでもない事をしでかしてしまいそうな不安感で、もう私の腹は条件反射のように痛くなり始めた。冷や汗が流れる。ただの授業でさえ毎日が戦いなのに、突然体育委員会に参加しなくてはいけないなんて、私の狭いキャパは既に限界を超えている。
そもそも体育委員なんて、運動神経が良くて元気があり、コミュニケーション能力も高い者がやるべきではないのか。帰宅部で運動神経も悪く、根暗で教室の何処にも居場所が無い私のような存在がやるべきではないだろう。
痛む腹を押さえて周囲を盗み見れば、同じ学年の体育委員は知っているかぎり皆、運動部に所属している者だった。陸上部にバレー部にサッカー部、話したことはないけれどノリが運動部というか、私とは全く別の人種である事は確かだ。
あぁ、本当に居心地が悪い。
そう無意識に思う気持ちは制御できず、空気を入れ続けた風船のように膨らんだ腸は、今に出口を求めて飛び出して来そうなほど私の下腹部でぎゅるぎゅると活発的になっている。
静まり返った教室内に体育教師の溌剌とした声が響く。こんな状況で恥を晒すなんて絶対に嫌だ。嫌に決まってる。そう焦れば焦るほどにお腹の痛みも張りもは酷くなって、どうしたらいいのか分からないまま、必死にこの状況が終わるのを耐えていた。
「三上さん、」
「…えっ?」
手に汗握りながら毎回のように起こる腹痛に耐えていれば、唐突に名前を呼ばれる。汗が流れた額を上げると、隣の席に座った結川が心配そうに私を見ていた。
「大丈夫?体調悪い?」
今だ体育祭の説明を行う体育教師に気を使ってか小声で話す結川に、私は一瞬何が起きてるのか分からなくてポカンとする。その瞬間、私は少しだけパニックになりかけていた思考から解放された。
けれど、結川の言葉を動きの悪い頭で理解すると同時に私は焦った。この静かな教室内で一人異常な腹痛を耐える私に、結川は気付いてしまったというのか。結川に声をかけられるほど、私は普通ではなかったのだろうか。そうだとしたら、それは余りにも私が惨めだ。ずっと一人で抱えてきた誰にも知られたくない秘密が、明かされてしまったような心地で呆然とする。
スクールカースト上位の集団にいる結川に、絶対に変な奴だと思われたくない。私は普通の事を普通にこなせる人間で居たいのだ。そうでなければならないのだ。人に囲まれると腹痛が止まらないなんて、こんな情けない理由があってたまるか。
感情がジェットコースターのように吹き抜けていき、残ったなけなしの理性で結川の首に巻き付いた赤い縄を見ながら歪に笑った。
「…だっ、大丈夫!ありがとう。」
そう言った声は我ながら情けなく震えていたけれど、結川はそれを特に気にする事もなく「そっか。」と一言呟いて、私の真似でもするように下手くそな笑みを浮かべる。
そんなやり取りをしていれば、やたらと長かった体育教師の説明もようやく終わりが見えて、今日の委員会活動はこれで解散になるようだった。形ばかりの挨拶を終えて、集められた体育委員たちは忙しなく教室を後にする。その様子を眺めながら、徐々に冷静さを取り戻した私はゆっくりと荷物を手にした。
どうやら、私は今回もギリギリ恥を晒さずに済んだらしい。けれど、膨れ上がった下腹部がいつか取り返しのつかない事をしてしまいそうで私は毎日気が気ではなかった。
そして先程、結川に体調不良ではないかと指摘されたことが一層重く心に伸し掛かる。やはり、腹痛に耐えながら必死に普通を装っていた私は何処かおかしく見えたに違いない。結川には大丈夫だと言うしかなかったけれど、私はいつだって全く大丈夫なんかじゃないのだ。
視線の先で、己の首に括りつけられた赤い縄が蠢くように怪しく揺れるのを冷めた目で追う。それは今にもこの首を絞め殺そうとしているようにも見えるのだが、意思があるのかないのか、生き物のように縄先を宙を泳がすだけでいつになっても呼吸は苦しくならない。
何もかもが、ままならない。
赤い縄へ向けていた視線を、他の体育委員が立ち去った教室で未だに私の隣の席に居た結川に移す。結川は荷物を片手にしながら、体育教師から配られた書類を静かに眺めて何か考えるように口を開く。
「体育委員の仕事、ヤバそうだね。」
きっと私に向けられているだろう発言に、私は少し慌てながら結川と同じく体育教師から配られた手元にある書類に目を向ける。あれやこれやと体育教師が長い説明をしていたが、正直腹痛に襲われて全く内容を聞いていなかった。
結川の発言に改めて書類に書かれた体育委員の仕事内容を見ると、とにかく仕事量が多い事が分かった。体育祭は六月の最初の週に予定されている。つまり今から約一ヶ月後だ。その間、この長々と書かれた仕事内容をやらなければならないと思うとうんざりする。
「…うん、そうだね。」
「多分、田所はこんなのやらないだろうな…」
結川のぼんやりとした声で、呟かれた言葉にハッとする。そうだ、本来ここに居るはずの体育委員は結川では無い。部活があるという田所諒に頼まれて、結川は今回の委員会に一時的に参加してくれたに過ぎないと今更ながらに実感した。
ということは、これから本来の体育委員である田所諒と協力して、体育祭まで続く大量の仕事をやっていかなけばいけないということなのか。私は今日何度目かの絶望した。
クラスのリーダー的な存在の奴と、協力なんか出来るわけがない。今日だって結川に無理を言って、自分の代わりに委員会に参加させる奴だ。そんな自分勝手な奴がこんな面倒くさい事をするわけがない。そんな状態でこれから先、一体どうやって体育委員の仕事をやっていけばいいのか検討もつかなかった。
「とりあえず明日、クラスで種目決めのアンケートでもとろうか?」
「 えっ!?」
これから先の事を考えて頭を抱えていると、結川は何でもないような顔をして簡単な提案をしてきた。その事に驚いて、思わず目を見開き結川を見る。
「…結川くん、体育委員の仕事やってくれるの?」
戸惑いながらそう聞くと、結川はヘラリと人の良さそうな笑みを浮かべる。その表情は、スクールカースト上位集団と一緒に居る時によく見かけたことがあるものだった。
「うん。というか、田所は絶対にやらないと思うからかさ。流石に三上さん一人じゃあ、無理でしょ?」
なんて良い奴なんだと思うと同時に、結川は本当にそれで良いのかという疑問が生まれる。私的には有り難いが、こんな面倒くさい仕事は誰もやりたくないだろう。
「本当にいいの?」
「うん、大丈夫。…それに、俺もきっと田所にやれって言われたら断れないし。」
そう言った結川の何処か諦めたような表情に、なんとなく共感が出来た。スクールカースト上位の集団に居る結川でさえ、クラスのリーダー的存在の奴に逆らう事は難しいのだろう。
自分を犠牲にして保たれる人間関係は虚しく、きっと長く続くものでは無い。それなのに正直、こんな面倒くさい委員会の仕事までわざわざ肩代わりしてやる結川の気がしれなかった。
けれど、私としては田所なんかよりも話がわかる結川と共に委員会の仕事をやる方がよっぽど良いので、何の不都合もない。
「そっか。じゃあ、これから大変になると思うけど、よろしくね。」
「うん。頑張ろー。」
結川は相変わらずヘラヘラとしながら、「じゃあ、明日のHRで体育祭の種目決めの事を話そう。んで、それが決まったらプログラム制作をして体育教師に提出しにいこう。」とこれからの流れを軽く打ち合わせをする。クラスへの連絡事項など苦手な事しかない作業だったので、コミュニケーション能力が高い結川が居るだけでも助かる事が多い。
「じゃ、三上さん、今日はお疲れ。」
「うん、お疲れ様。」
必要なことだけ簡単に話し合うと、結川は荷物を持って教室を出て行った。去っていく結川の背中を見送りながら、はぁーと深く息を吐く。
ようやく、長かった今日が終わりそうだ。誰も居なくなった教室で、緊張の糸が切れたように私はしゃがみ込んだ。膝に顔をめり込ませるようにして目を瞑ると、暗闇に溶け込んでいくような気持ちになる。このまま、何も見ずに終わりたい。
教室の開けっ放しにされた窓から、部活に励む学生たちの明るい声が聞こえてくる。グラウンドから響き渡るその声がなんだか辛くて、早くこんな場所から帰ろうと重たい身体を立ち上がらせた。
荷物を持って、教室から出てて廊下を歩く。首に括りつけられた赤い縄の先が、藻掻くように私の前を行く。まるでその縄先に、私の全てが握られているような気持ちになって、無抵抗のまま引っ張られるようにして歩いた。