「お先に失礼します。」
仕事終わりにそう声を掛けて、スタッフルームを後にする。ちらほらと客が居る書店から外に出ると、太陽が空を茜色に染め上げていた。
仕事の気怠い疲れを身に感じながら、じわじわと肌に纏わりつくような湿った空気が肌に触れる。日が暮れていく時間なのにも関わらず、街は今だに重たい暑さに包まれていた。
熱せられたアスファルトの上を緩く流れる風に、微かな夏の匂いを感じて、またこの季節がやって来たことを実感する。
夕暮れの街を人々は、いつもと変わらずに忙しなく行き交っていた。その群れの中で、もう見えない筈の赤い縄を無意識に探している。
学生、サラリーマン、OL、学生、中年、学生。擦れ違う人々の首を見ながらふらふらと歩いていれば、ドンッと強い衝撃が身体に走った。
慌てて身体を立て直すと、目の前には男の人が立っている。驚いて「すっ、すみません!」と反射的に謝りながら、深く頭を下げた。完全に私の不注意だ。
相変わらず、こうゆう自分は好きになれなくて嫌になる。あの頃よりも、少しはマシに生きられるようにはなったとは思うが、世界に上手く馴染めないのは今も健在だ。
焦りとやらかしてしまったという恐怖で頭を上げられずにいれば、頭上からは想像していたよりも穏やかな声が掛けられた。
「いえ、大丈夫ですか?」
その声に何処か聞き覚えがあるような気がして、恐る恐る顔を上げる。目の前の男の顔をよく見て、私は思わず目を見開いた。
「…ゆ、結川くん?」
驚きのあまりに情けなく震えた私の声に、あの頃よりも少し大人びた結川はぱちぱちと瞬きをして「もしかして、三上さん?」と首を傾げた。
「うん、三上です。久しぶりだね。」
「うわぁ、本当に…?」
そう言った結川の口元は、もうあの頃のように無闇矢鱈にヘラヘラと笑っていない。それでも、あの頃に感じた結川の穏やかな雰囲気はあまり変わっていないように見えた。
「…あれから、何年ぶりかな。」
結川は向かい合っていた私から、そっと視線を外して何処か遠くを眺めながら呟く。その少し冷たさを含んだ声が、あの頃の結川の遣る瀬無さを表しているように感じた。
「高校二年生の時だから、もう六年くらい経つね。」
「六年かぁ、早いね〜」
「うん、早いよね。」
あの絶望から、もう六年の月日が経った。長いように思えて、この世界や自分との狭間で振り回されるようにしながら、ぐるぐるとあっという間に過ぎ去った日々。
「…あー、俺。学校途中で辞めたから、高校の頃の事あんまり記憶なくてさ。」
結川は私に対して、気まずそうに言葉を選びながらそう言った。それが「高校の頃の話しをあまりしたくない」と遠回しに言っているような気がして、私は一言「そっか。」とだけ返す。
あの絶望の日々に、結川の中では今だに折り合いのつかない感情があるのだろう。それは、私にも同じ事が言える。
決して良い思い出ではなくて、惨めで情けない生き方しか出来なかった自分が居る。今でもそんな自分を許せない自分が居て、長い年月をかけて少しずつ受け入れている途中なのだ。
結川が記憶に無いと言ったように、私も正直必死過ぎて高校生活があまり記憶に残っていない事も多い。残っていたとしても、どれもキツくて辛い記憶ばかりだ。
けれど、短い期間だったけれど結川と共に過ごした時間だけは私の灰色の高校生活の中で、唯一色鮮やかに蘇る。
お互いの首から気味の悪い赤い縄を垂らして、狭い教室の中で上手く生きられないながらに必死に足掻いていた日々があった。そんな結川の事を、私は今では戦友のように思っている。
「また、結川くんに会えて良かった。」
偽りようがない本心を口にすれば、結川は少し驚いたように目を見開いてから、ゆっくりと瞳を細めた。
「…うん。ありがとう。」
その一言で、ずっと胸につっかえていたしこりのようなものが消えていくような心地がした。
ゆらゆらと、今は見えない赤い縄が揺れる。あの頃、死んだ自分を弔うように、そんな自分が居た事を忘れないように。
見上げた結川の白い首には、今はもうあの赤い縄は見えない。けれど、この世界で上手く生きられない人間に巻き付いた息苦しい呪いは、今でもきっと結川の首にあって私の首にもあるのだ。
あの頃よりも当たり前になってしまった感情が、時折自分の手につかない形で暴れ出す。その度にまた首を絞められたように苦しい思いをしながら、何度も絶望と諦めを繰り返しながらも生きていくのだろう。
どうしたって私達は、この生き方しか出来ないのだ。これから先も、この首に括り付けられた赤い縄と共にきっと生きていく。
そして、いつかあの懐かしい絶望を思い出して、そんな事もあったなってお互いに話し合える日が来たら良い。それで、もう良いのだ。
茜色だった空に、藍色が混ざって夜がくる。街は相変わらず、たくさん人々が行き交っていて忙しない。そんな中で、私はもう見えなくなった赤い縄をまた無意識に探している。
今思えば、あの血の色をした気味の悪い縄は、私の青春そのもののような気がした。
夏の匂いを含んだ風が、人混みの中で立ち尽くす私と結川の間を通り抜けていく。触れられたくない話を避けるように「今日も、暑いね。」と呟いた結川の声に、「もう、夏だね。」と返せば、何処かから蝉の鳴き声がした。
シネシネシネシネと、今年も呪いの言葉を吐きながらその命を燃やしている。昔と変わらないその声に、私と結川は何かを思い出したかのようにクスリと笑った。