制服を着た学生にスーツ姿のサラリーマン、清潔感のある服を着こなすOLや薄手のカーディガンを羽織る婦人。様々な人たちが集まる朝の駅のホームは、いつも通りに居心地が悪い。電車の到着時刻が迫り、徐々に人が増えていくのをなるべく視界に入れたくなくて足元に視線を落とす。
 周囲を人に囲まれていると、どうやって立っていたら良いのか、何をしていれば周りから変に思われないだろうかと無駄に不安になって焦る。ただ電車を待っているだけなのに、今日も私だけが世界に上手く馴染めていないような気がして仕方なかった。
 不意に、視界の先で赤い縄が揺れる。それは私の首を一周するように巻き付いて、顎の下、喉仏の辺りから鳩尾辺りにまで縄先が伸びてだらんと垂れ下がっている。その垂れ下がった縄先を天井や軒にでも縛り付けてしまえば、今すぐにでも首を吊る事が出来そうな気味の悪い縄だ。そっと手を伸ばして赤い縄先に触れようとすれば、私の手は想像していた通りに縄を擦り抜けて宙を掻く。己の首に巻き付いているのに触れる事の出来ない不思議なこの赤い縄は、今からちょうど二週間前に突如として私の首に現れたものだ。
 二週間前の朝のこと、目が覚めて起き上がると見慣れない赤い縄が首に巻き付いていた。手でその縄に触れようとしても何故か全く触れられず、結び目さえも存在しない赤い縄は首から取り外すことが出来ない。寝る前には存在していなかった筈の縄は、まるで血で染めたようなどす黒い赤色で異質そのものだった。気味が悪い。
 まだ自分が寝ぼけているのかと疑いたいが、鏡を覗き込みながら何度も何度も縄に触れようと悪戦苦闘している内にすっかり目は覚めてしまっていた。一体、この気味の悪い縄は何なのか。冷や汗をかきながら自分の部屋を出て、リビングに居る母に変な赤い縄が首に巻き付いていると必死に訴えるも、母は「…何か首にあるの?」と不可解そうな顔をして首を傾げた。
 どうやら、母にはこの気味の悪い縄は見えていないらしい。未知のものへの恐怖が、一気に背中から全身へと流れて鳥肌が立つ。見えない母が可怪しいのか、見えてる私が可怪しいのか分からないが、ただただこの異質な赤い縄が怖い。襲い来る恐怖と謎の焦りに勢い任せて何度も何度も赤い縄の存在を口にするも、ついに母が赤い縄を見ることは無かった。
 そんな馬鹿なと、どうしようもない絶望が私を襲う。けれども、日常生活からは逃れられないもので、自分の身に異変が起きようが行きたくもない学校に行かなければいけない。そんな脅迫じみた固定観念に背中を押されて、首の縄を気にしながらも恐る恐る家の外へと出れば、すれ違う人々は誰一人として私の首に纏わりつく赤い縄に反応を示さなかった。母と同じように、この異質な縄は誰の目にも見えていないようだ。
 私だけが見えているという気味の悪さに、再び体内の温度が下がったような感覚になる。行き交う人々の中で、為すすべもなく戸惑う私を嘲笑うように、赤い縄はゆらゆらと怪しく揺れていた。その日から、私は突然首に現れた赤い縄と共に日々を送り始めることになったのだ。
 少し離れたところから踏切の警報音が聴こえ始めて、駅のホームにアナウンスが流れる。暫くすると、柔らかな風を巻き込みながら電車がやって来た。その勢いのある風に靡くように、赤い縄の先が流されていく。自動ドアが開いてぞろぞろと人並みに呑まれるように電車に乗れば、より一層身体が重たくなった。逃げ出したくなるような憂鬱さに視線だけでも自動ドアに向ければ、残酷に電車内は閉ざされる。流れるように進み始めた窓の外の景色は、人が邪魔で僅かにしか見えない。周りを囲む人、人、人。その存在を考えただけで、一気に呼吸がしづらくなる。いつから私は、こんなにも人間というものが苦手になったのだろうか。
 多くの人々が利用する密閉された電車内は、どこにも逃場が無くて気が狂いそうになる。周囲の人々も私と同じ人間という括りであるはずなのにまるで違う別の生き物のように思えて、どう足掻いても不完全な自分だけが酷く劣っていて、生き恥を晒しているような気がするのだ。
 そして、やはりそんな私の醜さを表すようにぎゅるぎゅると腹が痛くなった。パンパンに張り出した腹が暴れ出しそうになるのを、冷や汗をかきながら必死に抑える。もう嫌だ。お願いだから誰も私に近付かないで。誰も私を見ないで。そうやって毎日毎日、息を押し殺しながら自分も殺す。この世界の何もかもうんざりして俯けば、視界に入るのはあの血の色のようなどす黒い赤。ああ、首に纏わりつくこの赤い縄が、私が大衆に醜い恥を晒す前にキュッと締まって絞め殺してくれれば良いのに。
 無情にもそんな願いは届かず、惨めさに自己をボロボロに崩されながらも学校の最寄り駅に着いた。同じ学校の制服を着た学生たちが楽しそうに会話して歩く中を、逃げるように足を進めて駅のトイレに駆け込む。極限まで張り詰めた腹をなんとか緩めれば、惨めさは尚更増す。トイレの音姫の水の音が優しく響くのを、蛍光灯がチカチカと瞬く個室の中でただただ聴いていた。こんな朝がずっと続いていくならば、もうこのまま此処で死んでも良いと思った。
 けれど刻々と過ぎていく時間に、無意識に心が騒ぎ出す。真面目とかそんな大層な人間じゃないのに、幼少期の頃から学校へ行かなければいけないと、大人たちに何度も刷り込まれてきた呪いのようなものが身体を動かすのだ。つまり、学校をサボる勇気が無い。きっと行きたくないと訴えたところで、学校を辞めるか辞めないかの選択があって、辞めたところでその先の将来が見えないし、このまま学校に行き続けるのは苦痛で明日も見えない。
 どちらにせよ、地獄のように思える。私が真っ当に生きていける道はもう何処にも無いのかもしれないと、諦めの気持ちを抱えて便器から立ち上がった。
 駅のトイレから出て、通学路を埋め尽くす学生たちに無理矢理に混ざるように歩く。朝から元気な女子高生たちのキャハハッという笑い声が、全て自分に向けられているような気がして居心地が悪かった。世界中の皆が、私を見て嘲笑っている気がしてならないのだ。今歩いている奴ら、皆死ねばいいのにと密かに心の中で罵倒する。
 重い足取りのまま学校に辿り着けば、ざわつく校舎にまた腹が痛くなってきた。階段を上がって廊下を進み教室の前まで来ると、朝から盛り上がる男子や女子たちの会話が聞こえて一気に呼吸がしづらくなる。
結川(ゆいかわ)〜、今日の委員会代わりに行ってくんね?」
「えー!やだよ!」
「いいじゃん〜この前はトイレ掃除も変わってくれたじゃん〜。放課後に、体育委員は仕事あるって先輩が言ってたんだけど、俺部活行きてぇしさ。」
 騒がしい声に顔を顰めながらも教室を覗き込めば、クラスでも目立つ生徒、所謂スクールカーストの上位の男女が教室の中心で一人の机を囲むように集まっていた。
「この前は大会が近くて部活が大変だからとか何とか言ってたから、仕方なくトイレ掃除代わってあげたんじゃん!体育委員とか絶対面倒くさいやつ!」
「だって、お前帰宅部じゃん?何か予定でもあんの?」
「無いけど、嫌だよ!」
 囲まれた中心でそう騒ぐのは、このクラスのムードメーカー的な存在の結川周(ゆいかわあまね)だ。スクールカースト上位集団の中でも、結川は皆のイジられキャラとして確立した地位を築いていた。
 そんな結川に「頼むよ〜」とふざけたように声を掛けるのは、このクラスのリーダー的な存在である田所諒(たどころりょう)だ。サッカー部に所属している田所は女子からの人気も高く、何処か垢抜けた雰囲気で男子からも一目置かれている。
「行ってあげなよ結川〜、うちら応援してあげるからさ。」
「ね〜!ガンバ〜!」
「そんな応援いらないし!」
 田所に便乗してギャーギャーと嫌がる結川を面白がるように、周りに居た女子たちも声を掛けている。よくある学生のノリ。今日も今日とて、あの場所は近寄り難くてうんざりとする。なるべく彼らを視界に入れないように、俯きながら窓際の後から二番目の自分の席に座った。
「まぁ、とりあえずそういう事で頼むよ結川〜」
「そういう事って何!?」
 まるで漫才のように大袈裟にツッコんで、頭を抱えながら机に突っ伏した結川をケラケラと楽しげにスクールカースト上位集団は笑っていた。それを遠目に、何がそんなに楽しいんだろうなと冷めた事を思う。視線を集団の中心へと向ければ、机から突っ伏していた顔を上げて、唇を尖らせながら「不満気です」という表情をしている結川がいた。それは、本気で嫌がっていないような冗談まじりの表情で、また彼らはそんな結川をイジって一層笑う。
 ふとその時、ゆらりと集団の間からよく見慣れた赤い色が揺れた。ケラケラと笑いが渦巻く中心に居る結川の首には、私と同じ気味の悪い赤い縄が巻き付いている。どす黒い血のような色をした縄は、あの楽しげな空間に恐ろしく似合わない。結川はこのクラスで唯一、私と同じように赤い縄が首に巻き付いている存在だった。コロコロと表情を変えて騒ぐ結川の首で、不気味に揺れている縄先にはなんだか禍々しさえ感じる。
 この縄が現れた二週間前、最初は自分の首に巻き付いた縄しか見えなかったが、時間が経つたびに他の人の首にも同じような赤い縄が巻き付いているのが見えるようになっていった。通学中に擦れ違う人や同じ学生の中でも、首を一周するように赤い縄が巻き付いていて顎下から鳩尾辺りまでその縄先を垂らしている人たちが、決して多くはないが少なくもない。私と同じように異質な赤い縄が巻き付いた人とそうではない人の違いはよく分からないが、赤い縄が巻き付いた彼らは私と違って、自分の首にある赤い縄の存在が見えていないような気がする。
 というのも以前、首に巻き付く赤い縄がブラブラと激しく揺れているサラリーマンを駅で見かけた事があった。気味の悪い赤い縄に意志のようなものがあるのかは知らないが、とにかくそのサラリーマンの首に巻き付いた赤い縄は自由気ままに縄先を遊ばせていて、振り子のように大きく揺れた縄先でサラリーマンの頬を何度も叩いていたのだ。縄に触れられないとはいえ、そう何度もバシバシと音が聞こえてきそうな程に暴れられたら、流石に不快に感じて手で縄先を振り払うような仕草をしてもおかしくない。けれど、そのサラリーマンは微動だにせず己の頬を叩く赤い縄の存在など、まるで認識していないかのようにぼんやりと線路を眺めているだけだった。それからも、何人か首に赤い縄が巻き付いている人を見かけたりしたが、皆その縄を認識している素振りを見せたことは無かった。
 そして現在、教室の真ん中でクラスメイトたちに囲まれた結川も、己の首に巻き付く赤い縄に気付いている様子は今のところ見られない。男子高校生にしては色が白い結川の首に、赤黒い血の色をした縄はよく目立っていた。人の首に垂れ下がるそれは、まるで犬の首に着けられたリードのようにも思えて何度見ても強烈な違和感がある。
 突然現れて見えるようになったこの縄は、一体何なのだろう。そう考えたところで分かる事なんて何も無いのだけれど、自分の首に巻き付く縄の存在があまりにも未知すぎてとても考えずにはいられない。こんな有り得ない現象を誰かに話したところで、到底信じてもらえるはずがないし何の理解も得られないだろう。そもそも、こんな話をできる誰か(・・)なんて私には居ないのだけど。
 視線を落とせば、首から垂れ下がった赤い縄先が目に入る。今見えているものを他の誰かに証明する術は何もなくて、もしかしたらこの赤い縄は全て私の妄想なのではないかとも考える。この世界で私だけにしか支障をきたしていないとすれば、ただの妄想であっても何ら不思議ではないのだから。まぁ、例えこれが妄想であったとしても気持ちが悪い事に変わりはない。とうとうそんなものが見え始める程に、私は壊れてしまったのだろうかと自虐的に思った。
 不意に、チャイムが鳴って長い一日の始まりを告げる。無理矢理に檻に入れられたような感覚が襲った。教室は一気に人口密度が増えて、少しすると担任教師が軽快な声で朝の挨拶をしながらやって来る。その声に結川の席に集まっていたクラスメイトたちも散り、全員が席に着くと静かな空間が訪れた。担任教師は教室内を一瞥すると、連絡事項を淡々と告げ始める。
 静かな空間に響くその声を聞きながら、私は周りを囲むクラスメイトたちの気配に恐怖して、だんだんと身体が上手く動かなくなっていく。同級生が何十人も静かに座る教室内は、いつものように地獄だ。怖くて仕方がない。人に囲まれていると何処にも逃げ場がないように思えて、少しでも変な行動をとったら惨めさを含んだ視線を向けられそうで私はとてもまともでは居られなくなる。敵しかいない教室内で何も失敗は許されないのに、この空間に焦れば焦る程またぎゅるぎゅると腹が痛くなってきた。最悪だ。この空気の読めない己の腹に、もう何度絶望してきたことか。この腹を掻っ捌いて、中の役立たずな腸を引き摺り出してやりたいくらいだ。
 こんな状況下で何故他の人は普通に過ごせているのか分からないし、私もいつから普通に過ごせなくなってしまったのかも分からない。クラスメイト達がいる教室でただ席に座って教師の話を聞く普通のことが出来ない私だけが、欠陥品のように思えて惨めで堪らない。とにかく早くこの時間を終わらせてくれ。そう願っても、担任教師の話はやたらと長くてなかなか終わる気がしない。
 どんどん腹が張ってくる恐怖と焦りで額からは汗が流れて、呼吸も上手く出来ない。腹が痛い。ガスが溜まって死にそうだ。一層の事、盛大に恥を晒す前に殺してほしい。毎日、毎日嫌になるくらい何度も繰り返すこの瞬間にどれだけの死を願えば良いのか。汗で湿る手の平を痛めつけるように爪を立てて強く握り締める。
「えー、それから体育委員は今日の放課後に活動があるので三年一組の教室に行ってください。一ヶ月後にある体育祭の準備の事で色々と仕事があるそうです。」
 そんな私の地獄を知る由もない担任教師は呑気に連絡事項を告げたかと思うと、何かを思い出したというように顔を顰めた。
「…そういえば、女子の体育委員は葉山(はやま)だったな。」
 担任教師の発言に、教室内の雰囲気が少し変わった。教師の告げた『葉山』とは、一週間ほど前に突然学校を辞めた葉山由香里(はやまゆかり)のことだ。高校二年の四月の終わりという、新学年が始まったばかりの微妙な時期に学校を辞めた彼女には、援助交際が学校にバレただとか子供を妊娠しただとか、あらゆる噂がされていて、暇な学生たちのスキャンダルの的となっていた。
 葉山由香里が何を思って学校を辞めたのか理由は分からないが、本当に急なことだったので担任教師も彼女の所属していた委員会のことまで気が回らなかったのだろう。
「えーと、急遽葉山が辞めてしまったので、女子の体育委員を決めます!委員会に入っていない女子は、挙手してください。」
 担任教師の突然の物言いに、静かだった教室は少しざわめき出した。その薄っすらとしたざわめきに、苦しい静寂から解放されたと安堵したのも束の間ことで、私は自分が委員会に所属していない担任教師の求めている生徒の一人であることを思い出した。注目は避けたいけれど批判される事も避けたいので、私は爪の食い込んだ掌を恐る恐る上げる。担任教師の呼びかけに手を挙げたのは、私を含めて三人しかいなかった。
「この中で体育委員をやりたい奴は…いないよな?」
 そう言った担任教師の視線が怖くて、目の焦点を宙に彷徨わせる。少しのざわめきの中、手を挙げた三人のうちの一人が、痺れを切らしたように声を張り上げた。
「先生ー!私、部活があるんですけど!夏帆も今日バイトだよね?」
 そう言った三人のうちの一人、木嶋佳奈(きじまかな)は積極的に自分には予定がある事を担任教師にアピールした。それに釣られるようにもう一人も「そー!そー!私もバイトあるから!」と何処かわざとらしいような口調で言う。
 そんな彼女らの強引なアピールを面倒くさそうに一瞥した担任教師は、溜め息を吐きたそうな顔で私に問いかけてきた。
「あー、じゃあ三上(みかみ)はどうだ?」
「…えっ、」
 何の心の準備もさせてくれない理不尽な問いかけに、私はまともな反応の一つも出来なかった。
「体育委員、やってくれるか?」
 念を押されるよう言われた担任教師の言葉と共に、周りからの「面倒くさいからお前がやれよ」という冷めた視線が容赦無く身体中を刺す。最初からこの理不尽な提案を拒否する権利など私には存在していない。
 何の抵抗も出来ず項垂れるように「…あっ、はい。」と小さく呟けば、教室内の滞っていた空気が再び緩やかに流れ出す。
「じゃあ、体育委員は放課後頼むな。次の授業遅れないように!解散。」
 素早くそう告げた担任教師の言葉に、被さるようにHRの終わり知らせるチャイムが鳴り響く。ざわつき始めた校内に習うように、担任教師は言いたいことだけ言って足早に教室を出ていった。呆気なく終わったHRに、クラスメイト達はだらだらと雑談混じりに次の授業の準備をし始める。先程、担任教師に向かって部活があると強引なアピールをしていた木嶋佳奈は、集まってきた友人たちに向かって「まじセーフ!委員会とかダルくね?」と可笑しそうに笑っていた。
 それを何処か冷たい目で見ながら、私は重たい身体をなんとか動かして席を立ち上がる。そのまま急ぎ足でトイレへ駆け込むと、世界を区切るように個室のドアを強く閉めた。薄暗いトイレの個室の中で、ゆっくりと目を閉じて瞼の裏の深い闇を見つめる。そうやって全ての感情を押し殺して、溢れ出しそうになるものをただただ必死に耐えた。