爆ぜる牡丹に恋をした

「約束は本当なのかね?」

男は嘘くさい笑みを浮かべた。言葉遣いこそ丁寧であるが、肩眉をわざとらしく上げて煽るように私を見つめる。

「えぇ、勿論です。私は貴方の知りたいことを何でも教えましょう、扑克(ポーカー)に勝てたらの話ですけれど」

私は腹の底が読めない目を細める。カード越しの男の額に脂汗が滲んだ。それでも取り繕うかのように微笑みは絶やさない。目の前の中肉中背の男からは煙草の匂いがする。ホラーが専門のジャーナリストらしい、無精ひげを撫でながら唸るその姿は如何にもそれっぽかった。数時間前、私は訪れてきた彼ととある約束をした。「もし扑克(ポーカー)をして、貴方が勝ったら私の情報を好きなだけ教えてあげる」と、「得た情報も、写真も記事に載せることを許可します」と。
男は私の言葉に嫌な笑みを浮かべると、二つ返事でトランプを捌き始めた。
私は長い髪を一つに括って、白い袴の袖を捲る。真夏の昼間では木陰の下に建てられた小屋とは言え、通気性がすこぶる悪いので頭がくらくらしてくる。よく言えばサウナ、悪く言えば部活動後の部室だと客は感想を漏らしていた。私たちは流れる汗を気に留めることなく、頭を回し続ける。古びた机を隔てた小さな小屋の中では二人の熾烈な争いが静かに繰り広げられていた。
いや、実際はそうでもなかった。
彼の態度は傍から見れば眉唾物に見えるかもしれない。しかし、私にとっては赤子同然だった。なんと分かりやすい男なのだろう。穴が開くほど目の前の男を観察した。しかし、あまりの観察しがいのなさに私は心の中でがっくり肩を落とす。手札の数字に検討がついてしまったので、今度は彼の今日の夕飯を当ててみようか。少女の中では最早別のゲームが繰り広げられていた。

「いいのかい、それで」

既に五枚の表が開示された状態で男は怪しげに尋ねる。私はふふふと上品に笑った。

「逆にそちらこそ良いのですか、瘦せ我慢するのはお辛いでしょうに」
「何を……俺は別に痩せ我慢など」
「ふふ、なら早くオープンしてしまいましょう」

男は小娘の口車に乗せられたことに腹が立ったらしい。「あぁいいとも!」と碌に考えもしていないくせに、とっておきを見せるかのようにカードを開示してくる。
男の手元には同じ数字の組が二つ。
私の手元に視線を戻す。同じ数字のペアが一つ、残りのカードも同じであった。
ツーペアとフルハウス。
余裕で勝ちきれなかったのが悔やまれる。やはり、陰で違うゲームを進行していたあまり、変に観察して怪しまれたのが肝だったか。この程度だったらストレートフラッシュくらいはいけたかもしれないのにとため息が漏れた。

「さぁ貴方様の負けですのでどうぞお帰りはあちらから」
「貴様、何か仕込んだだろ?」

血管が今にも切れそうな勢いで掴みかかってくる男。私は流し目ですぐ傍で微動だにしない巫女に助けを求める。しかし、白粉を綺麗に叩かれた顔は微動だにしない。自分でどうにかしろということだった。着物の襟が首に食い込んで頸動脈を巻き込みながら締め上げる、息が上手くできなくて段々と額に脂汗が滲んだ。私は気づかれないようにこっそりため息をつくと、片方の口角だけをぎこちなく上げる。

「仕込みなどあるように見えましたか?ここには貴方が持ってきたカードしかないのに。逆にわざわざそのようなことを聞くなんて、仕込んだのに勝ちきれなかったのは貴方の方じゃないのですか」

自分より二回りも年下の小娘に煽られたのが気に食わないらしい。彼は突然鎖骨を押して私を投げ捨てる。バランスを崩した私は簡単に吹き飛ばされるが、そこは巫女が受け止めてくれて事なきを得た。
勝負に負けたのもそうだが、ここまで来て情報が手に入らないことにいらいらしているようだ。そうだろう、私の情報など簡単なものしか出回っていない。これを掴めば彼はきっと大出世できたはずだ。それをたった一度の、しかも半分は運要素の扑克(ポーカー)にたった一回負けただけで人生が変わってしまったのだから、悔しいなんて言葉では表しきれないはずだ。
男は鬱憤を晴らすように飲み物が入っていた食器を床に叩きつけ、自分の腕を引っ掻く。それでも私の表情は変わらず余裕たっぷりの笑みを浮かべているものだから、彼は堪らず声を荒げた。

「お前、何者なんだよ!!ただの小娘じゃないのか!」
「ただの小娘ですよ。神に捧げる少女という謎多き小娘です」
「一つくらい情報をくれたっていいじゃないか!お前がいつまで経っても口を割らないからこっちは儲からないんだぞ」
「知りたければ扑克(ポーカー)に勝てばいいと言っているでしょう。何、簡単ではありませんか。私はかぐや姫のように何も現に存在しないものを求めているわけではないのですよ。貴方の言ったただの小娘との勝負ごとにたった一度勝てばいいと言っているのです」
「黙れ!!!女狐が」
「お嬢様に暴言を吐かれると困ります。何せ彼女は」

それまで黙っていた巫女がにべもない態度で、客の言葉を訂正しようとする。その瞳には静かな怒りが込められていた。私は頷いて、立ち上がると微笑を崩さず言い切った。しかし、有無を言わせない、断乎として反論は認めないという圧がそこにはあった。

「私は神に捧げる少女です」

少女は『神に捧げる少女』だった。
小さな村の小さな神社のそれまた小さな小屋に住む女。
しかしただの人間ではない。
少女は17歳の年の奉納祭で神のために命を捧げる。
その代わりにとある力を手に入れた。
それは人の心を読める力だった。
少女は人ではなく、神からの使いなのだ。
マニアックなオカルト誌からはじまり、少女の正体はまことしやかに噂され、広まっている。
妖艶な笑みを浮かべた私は口紅を親指で拭き取る。

「神に与えられしこの身は人の心を読むことなど造作もないのですよ」

少女は顔色一つ変えることなく平気で虚言を弄する。
当たり前だが、そんな噂は嘘である。
少女は確かに神に捧げる少女として17歳の奉納祭で死ぬ運命だが、だからといって何か特別な力を持っているわけでも、神の使いでもなんでもない。
少女は人の心が読める訳では無い。正しくは人の感情を読むのだ。
体温、汗の匂い、目線の動き、ボディーランゲージ、癖。
何もないこの小屋の中で心理学の本を擦り切れるまで読み、学び、実践することで少女が手にしたのはまるで魔法のような、それでいて果てしなく地道な作業の積み重ねである心理戦であった。
今までに訪れた客は様々である。
編集者をはじめ、趣味で訪れる好事家や、心理学者、大金持ちの暇人。
皆、神社に金を落とし、私の正体について知ろうとする。私はその度に好奇の目を向けてくる相手に問いかけるのだ。
扑克(ポーカー)をしませんか?」と。
一度手を出してしまえば疑う余地はない。何故なら神に捧げる少女は負けなしだからだ。
だから騙されるのだ。淀みのない瞳で、または絶望に浸りながら、まんまと小娘の口車に乗せられるのだ。

「ということでお帰りください。私は私の仕事がありますので」

今度はきっぱりとした態度で相手を扉へと追い込む。小太りな男はひぃと情けない声を上げて、逃げるようにその場を去った。巫女が扉を閉めると私は姿勢を崩してため息を吐いた。疲れた。面白ければまだいいものの、話もつまらなければ、心理戦も下手なんて私にとっては最悪の相手である。皺のない襟を緩めてその場に横たわった。

「お嬢様、あれは言いすぎです。はしたない」
「すみません、つい調子に乗りました」
「それに疲れるまでやるものではないですよ。どうせお嬢様に利益はないのですから、そこまで必死にならなくても……」

私が扑克(ポーカー)に勝とうがこちらには一銭も入ってこない。これは完全なる趣味の範囲だった。一人鳥籠の中で日がな一日を過ごすのはあまりに退屈だから、内緒で賭け事を始めたのに今ではこの有様だ。連日客が絶えないこの状況は、趣味の範疇をとうに超えていた。それでも何故、私がこれを続けているのかというと単純に楽しいからだ。面倒な客の相手は好きではないが、勝負をしているあの緊迫した空気と探り合いが、何もない小屋にひと時のスリルを与えてくれる。私はそれが好きだった。
あと、私の正体が公にでると色々とまずいのもある。現代日本で豊作のために人を殺しているなんて記事が出まわったら損害はこの神社だけに収まらず、村全体に多大な影響を及ぼすだろう。幾らなんでもそれは少し気が引ける。
巫女が愚痴を呟きながら身辺を整えてくれている。足元には男が怒り任せにぶちまけていった硝子(グラス)とカードが混在している。飛び散った飲み物は紙製のそれにひたひたに沁みていて、インクが滲んでいた。珍しい柄のトランプだっただけによくもやってくれたなという怒りが込み上げてくる。まぁ私の所持品ではなく、用意したのは神主だが。

「せっかく立派なものでしたのに……」
「残念ですが仕方ありませんね」

同情する、というよりは彼女も同じように「あの糞客め」という憎しみめいた共感だった。私は苦笑いをしながらそっと目を逸らす。ただでさえ客とつまらないやり取りをしたのだ、その上愚痴まで聞かされたらかなわなかった。男の自慢話も長いが、女の愚痴というのはそれ以上に長く面倒だ。
視界の端でふと何かを思い出したかのように、忙しなかった彼女の顔があげられる。

「いえ、そう落ち込まなくても良いかもしれませんよ」
「……何故でしょう」

私が眉を顰めながら聞くと、巫女は足早に部屋を去る。一分も掛からないうちに帰ってきた彼女の手には、小ぶりな桐の箱があった。

「こちらをご覧ください」

まるで玉手箱のように慎重な手つきで開かれる。そこには着物の柄に似たトランプが入っていた。西洋風のものとは違い、変な艶がない。無駄なものをそぎ落とされた洗練されたデザインは高級感と落ち着きがあった。
明らかに今までの客とは違う。
それは紙に触れた瞬間に分かった。今まで使っていたそれこそ零れた飲み物で簡単に文字が滲むほどの安い防水加工の施されたそれとは違う、和紙製だった。私は驚いて巫女に目配せする。

「もしかして、がっぽがっぽなのですか?」
「はい、お嬢様には一円も入らない話ですが」

全く、私が稼いだお金で神主はとんだ富豪生活を送っているのだろう。そんな大金があるのなら少しくらいこの古びた小屋の改築費に充ててくれたっていいのに。
私のお遊びは、最早一種の商売として成り立っていた。客は面会料という名のお布施を事前に神社に奉納することで私の情報を聞き出そうとする。その金額によって用意する飲み物やお茶菓子、トランプが変わってくるのだがこのレベルの準備は初めてだった。こんな田舎の娘に高級トランプをつぎ込めるなんて相当面白い人なのかもしれない。私は若干身を乗り出して尋ねる。

「一体どんな方がお越しになるのですか?」
「とても有名な俳優さんらしいですよ」
「はいゆ……?何ですか、それ」
「テレビにでるやたらと喋りが上手くて、やたらと顔のいい人間、と言えばいいでしょうか。今回来る方はスキャンダルも一切なく、とても品のある方なのですよ」

雑すぎる説明に余計に混乱した。やたらと顔はいいの部分は心底どうでもいいが、やたらと喋りが上手いということはきっと面白い展開ができるはずだ。口が回る人は頭も回る、それで襤褸を出さないとなれば尚更良い。

「ホラー映画の撮影の為にここに勉強しに来たいとのことでしたけど、不思議ですねぇ、こんな辺鄙な村にわざわざ訪れるだなんて。お嬢様の名が密かに上がっているのかもしれません」
「……ここは心霊スポットでも何でもないんですけどね」

一応訂正をしておく。巫女が頬に手を当てて蕩けるような表情をしていることから明日訪れる客人は大層優美高妙な方なのだと思った。言動もいつも以上に気を付けなければならない。それよりも俳優なんて珍しい職業の方が来るのだ、期待で膨らむ胸を押さえて私は再び横たわる。無駄なことに使う体力は無いので客が帰ったあとは死んだように眠るのが私の習慣だった。
奉納祭は三日後だ。
三日後の今頃、私の命はない。
となれば、きっと明日来る方が私の最期の客となるのだろう。どんな客であろうと負けたくない、負けられない。
私は一眠りしてから、来る明日に備え、読心の本を夜通し読もうと決意した。


ミシミシミシミシミシミシ

けたたましい一定の波が鼓膜を貫き、脳で響く。

「っううぅ」

あまりの不快感に飛び起きると、もう光が外から漏れていた。朝だった。蝉は今日も休むことを忘れて鳴いている。私はむくりと起き上がると、掛け布団を畳み始めた。
昨晩の寝苦しさで今晩は寝れないかも……なんて不安は杞憂だったようだ。気が付けば私は意識を手放していたらしい。窓のない部屋は熱を帯びた空気で満たされていた。ふと背中に手を伸ばすと小さい頃のおもらしを彷彿させるほどぐっしょりと汗で濡れていた。

「気持ちが悪い……」

何もかもが上手くいかない朝で顔が歪む。しかし、朝から風呂に行くことなんてきっと許してはもらえないから我慢して手拭いで首筋を拭った。

「あっ!!!本!!!!」

枕の隣には無造作に積まれた心理学の本がある。完全に忘れていた。睡魔に身を委ねすぎたあまり、そのまま熟睡してしまったようだ。がっくりと肩を落としながら部屋の掃除を始める。流石の私も凄い人が来ると知ってしまったので、多少は身構えてしまう。
敷布団のシーツを剥がし、枕のカバーも剥がす。裸になった敷布団を三つ折りにして部屋の隅に追いやる。普段はやらない床のからぶきをすると、赤紫色の染みが所々についた。昨日の客が零したものがまだ残っていたようだ。
いつものルーティーンが終わると、唯一の扉が叩かれる音と共に一人の人影が見えた。

「おはようございます」

背中を九十度に曲げて、こちらに入ってきたのは顔なじみの巫女だった。私に仕える巫女は二人いる。昨日の巫女は年と感性が近いこともあり、比較的仲は良好だった。観察する限り下心もないので、純粋な気持ちで向き合ってくれていると分かる。
しかし、彼女は違った。明らかに私を毛嫌いして、汚らわしいものとして扱う。態度や言葉では表立つことないが、私にとってはとても分かりやすい。何なら私だけに伝わるよう意識してやっているのではという節まである。

「お嬢様、本日のお加減はいかがでしょうか」

まるで機械のように、淡々と台本を読むように、巫女は問う。私が調子が良かろうが悪かろうが本当はどうでも良いのだろう。ひんやりとした声音に私は本心を覆い隠す完璧な笑みを浮かべる。

「今日も今日とて蒸し暑いですね。風も入ってこないので参ってしまいます。……障子をあけてもよろしいでしょうか」
「えぇ、ただお嬢様はそこに。私が開けます」

目の前に翳される手。立ち上がろうとする私を制してきびきびとした動きで木枠に手を掛ける。
私が障子を開けることを禁じられているのは、万が一ここから逃げ出したら困るからだろう。
『神に捧げる少女』
建前では崇められる綺麗な言葉であるが、実態はそうでもない。
100年に一度、『神に捧げる少女』に選ばれた娘は17歳の夏、奉納祭にて神に捧げられる。神に捧げると言えば聞こえがいいが、事実は腹を切って死ぬことを指す。
そして『神に捧げる少女』は奉納祭までこの小屋から出ることを許されてはいない。かつて、奉納祭前夜に夜逃げを実行しようとした前例があることから祭りの日まで外出することは禁じられることになったらしい。
心拍数が早まる胸をそっと撫でる。ドクドクと妙に生々しい鼓動が掌に伝わった。
私は不安になるとよく胸に手を当てて自分の心臓が動いているかどうかを確認する。
鼓動が確認できると、今度は少し下に手を滑らせる。
そうすると丁度子宮の辺り、硬いものとジグザクに縫われた皮膚が当たるのだ。
私の爆弾。私だけの爆弾。
10年前に埋められた傷跡が、無理やり隠すように残されていた。
この爆弾は私が小屋を出ると爆発するようになっている。
小さい頃はただの脅し文句だと思っていたが、巫女が言うには本当に爆発するようだ。
50キロ近い体が、それは花火のように粉々と、鮮やかに、一瞬で爆ぜる。
震える指を抑え込むために腕を掴んだ。しかし掴んだそれもハイノキの枝のよう細く、力を込めればぐにゃりと曲がってしまいそうだった。いつも客と対峙しているときの自信は何処へやら。自分のことを考えると途端に意気消沈してしまう。顔を洗うための水が張られた桶には情けない顔の自分が反射していた。私はこんな体でも生きながらえているんだ、と思った。
顔を上げると巫女と目が合う。絹に似た髪を一つに括って靡かせる彼女は、世間と私の感性が一致すればきっと美人の部類に入るのだと思う。私はその顔をじっと観察した。
爆弾の詰められた他は空っぽの少女は、どれだけ心が読めようが誰にも生きることを願われていない。誰からも生きてほしいと思われていないのに、世界で私だけが私に生きてほしいと思ってしまうのは薄汚い人間の証拠だ。

「姫様、今日は大人しいですね。いつもは何やら怪しい本を読んでぶつぶつ呟いているのに。それが習慣となればいずれ客の前でも襤褸を出しますよ」

急に声が頭上から降り注いできて、私は肩を震わせた。視線を上げると巫女が不思議そうにのぞき込んでいる。考えこんでいたのが、大人しいと捉えられたみたいだ。

「ふふふ、私はもう十七ですよ。そんな粗相はしませんよ」

襖が開け放たれた長方形の木枠は、窮屈な部屋に光をもたらした。と言っても、広がるのは小屋の前の雑木林だけなのだが。襖という障壁がなくなった途端に今がその時だと言わんばかりに蝉が一斉に鳴きだす。
季節は夏なのだ。
もう、とっくに17歳の夏なのだ。
それなのに、どうして私は17年間もこの狭い6畳半の小屋に一人閉じ込められているのだろう。

「神に捧げる少女だなんて……」

馬鹿馬鹿しい
喉までせり上がった言葉を飲み下す。危ない、私はあくまでも純粋無垢な神に捧げる少女なのだから、自分自身が何故ここにいるのかなんて疑問に思ってはいけない。幸いにも呟きは蝉の求婚にかき消され巫女の耳には届いていないようで、私は生まれて初めて耳障りな蝉を好きになりかけた。

「お嬢様。朝食はどういたしましょう」

巫女が手についた埃を親指と人差し指で擦り合わせながら問いかける。姫様、なんて恭しい呼び方に全くそぐわない態度に思わず笑ってしまいそうになる。結局彼女の目に映る私はその程度のただの小汚い少女なのだ。

「いつもと同じでいいですよ。どうして改めてそんなこと聞くの?」

彼女は微塵も心配していなさそうな声で答える。

「もうすぐ奉納祭なので。主から姫様の好きなものを召し上がればよいと承りました」

なら初めからそう言えばいいじゃないか。飛び出しそうになった言葉をぐっと堪えて「それは嬉しいわ」と綻んでみせる。
互いに仮初のこの空間に吐き気がする。
私は貴方が嫌い、貴方も私が厄介。
それで話が済めばどれほど楽だろう。
それでも私を捨てられないのは、村人の反感を買うのが怖いのか、神に見捨てられるのが怖いのか、神社の収入源が無くなるのは困るからか。
何にせよ、私は傀儡だと思ってくれた構わなかった。私は生かされている、生かされている間は「神に捧げる少女」なのだ。
いい感情しか持つことしか許されていない、純粋な少女なのだ。
むしろこの場での正解は彼女みたいな対応なのかもしれない。変に情が入ると、自分の身まで亡ぼすことになる。私を逃がす手助けなんてしたら連帯責任でここの巫女は全員殺されるだろう。そんな馬鹿なことを彼女たちがするようには思えない。
諦めの表情で「では、だし粥に梅干を添えたものを」と答えようとしたとき、緊迫した空気を切り裂くほどの大きな声量が小屋を貫いた。

「姫さまああああ!」

私を呼ぶのは先ほどの粘っこい声ではなく、鈴を鳴らしたような愛らしい声だった。声の在処を探すようにきょろきょろと首を動かすと、乱れた足音が近づいてくる。まさかと思い若干引きながら窓の方を見つめると、予想通り昨日会った巫女が鬼の顔で迫ってきていた。この急斜面の山を駆け上がってきているのか、なんと恐ろしい女なんだ。
勾配20%を超える激坂を普通の道と同じスピードで走る彼女はさながら猪である。

「何あの子……」

流石の嫌味巫女もドン引きしたようで、無意識に顔を引きつらせていた。

「何かとんでもなく急ぎの用事があるのでしょうか」
「それは私にも聞いてみないと分かりません」

呆れたように巫女が首を左右に揺らすのと同時に、息を切らした巫女が飛び込んでくる。とんでもなく急いで来たのか、袴の裾は粘土だらけで頭頂部には葉っぱが刺さっていた。年上巫女が汚いとばかりに顔を顰めるが、そんなのお構いなしで年下巫女は必死な形相で声を荒げる。

「い、います!!相島透っ」
「へ?」
「だから、もういらっしゃっています!!相島透さんが」
「それは貴方の見間違えではないですよね。いくらなんでも早すぎますよ、約束の時間より3時間も前倒しだなんて」
「見間違えるわけないじゃないですか!だってあんな天女みたいなお方そうそういませんよ。あれ、本当に野郎ですか?」
「野郎なんて汚い言葉使わないでください!仮にでもお嬢様付の巫女なのですよ」
「仮にでもって、姉さんが言えることじゃないでしょ……」

おいおいそれが昨日私に言葉遣いを指摘した人間の言う言葉なのか。このままでは突っ込みの大渋滞が起きてしまう。私は混乱する現場を何とか整理しようとした。

「まぁまぁ喧嘩はよしてください。それと私も確認するけれど本当に相島透さんで間違いないのですね?」
「はい、お嬢様もあってみれば分かります。驚いてひっくり返らないでくださいね」

私はもう朝食をとることが出来ないまま、寝起きで扑克(ポーカー)に挑まなければいけないのか。ふらふらと千鳥足で今日の着物を取った。瞼を重く落としたまま直立していると、巫女が帯を締めてくれる。

「待ってください、そんな約束の時間を守らない方、お嬢様と会わせられません」

片手でウエストを容赦なく締め上げながら年上巫女は厳格な態度で言う。危うく胃酸が逆流しそうになったが、そこは乙女の意地で何とか持ちこたえる。
年下巫女は体の左半分を小屋に、右半分を外に出しながら言い訳を述べる。全く、忙しない人だ。

「そうは言っても……ってあ!!駄目ですよぉ、ここまでいらっしゃったんですか、えぇ時間がない?次の予定があるにしろお嬢様優先ではないですか……ってグチグチ口答えするな?はぁ分かりましたよ……」

大丈夫なのか、何か言いくるめられていないか。何だか外が賑やかになってきて私はそわそわとしてしまう。慌てていつもの皮張りの椅子に腰掛けると、背筋を伸ばして客人を待った。ひと悶着あった後、年下巫女に加えて年上巫女も参戦した口論は決着がついたらしい。年下巫女が申し訳なさそうに手で小さく罰を作った。私が展開に追いつく暇もなく、年下巫女は作り笑いで扉を開け放つ。

「それではお待ちかね!相島透さんのとーじょーです!」

心の準備が整わない中、光と共に人影が入ってきた。しかし、外の太陽光が明るすぎて逆光になっている。顔はよく見えないが上背がとても高かった。巫女が余裕をもって入れる扉を、頭を下げてくぐる仕草が見えて私は目を疑った。

「急に来てしまって申し訳ないです」

なんと声もよかった。私は感嘆の声を漏らす。
流石俳優と言うだけある。一人の人間に対して五人もの男や女が仰々しく連なっていた。その中心で腰を折るのは頭一つ飛びぬけたシルエットであった。随分楽な格好をしている、だぼっとした着こなしなのにどうしてこうも体のバランスが良く見えるのだろう。私は間抜けな顔で彼の一挙手一投足に集中した。

「こんにちは、お嬢様」

ようやく光が落ち着いて、彼の顔が鮮明になる。
にこりと上がった口角。一目見た瞬間、世が世であったら国が傾いていただろうと思った。涼し気な切れ長の目元に、薄い唇と、すっと通った主張の少ない鼻梁。男性のわりに透明感のある肌はそのまま後ろの背景を透かしてしまいそうだ。

「ぇ……」

情報量が多すぎる。私の頭は意味のない言葉が口から漏れてしまうほど、故障寸前だった。きっと彼の美しさを文字に書きだせばきりがないだろう。たじろぐ私に悪い笑みを浮かべて距離を詰める男。私は思わず身を縮こませそうになったが、何とか神に捧げる少女としての理性が繋ぎとめる。

「どうしたの?」

試すような表情、きっと彼は私が見とれているのだと勘違いしている。でなければ、たった五文字をそんなに意気揚々と発音できないのだ。
生憎、私は彼の顔面に驚いてはいるが、性的衝動は感じていなかった。
神に捧げる少女は今まであらゆる人間と対峙してきた。その経験から段々と人にそういう感情を抱かなくなってしまったのだ。
少女は人の心理状態を察することができる。その過程で、善人を探そうとふるいに掛けると驚くことに誰も残らない。出会ってきた人間が特殊なだけかもしれないが、私にとっては経験が世界のすべてだった。結果、人に対する期待や恋心の類を忘れてしまった現在の少女が完成したのだった。

「笑いかけないで貰ってもよろしいでしょうか」

私の腰の低い態度に、何を勘違いしたのか目の前の男は更に蕩けるような笑みを浮かべる。

「ふふ、我慢しなくていいんだよ」
「そうじゃなくて……巫女が倒れます」

突如、何やら重いものが倒れる音がして私は苦笑いを張り付けながら振り返る。
案の定、巫女が鼻血を垂れ流しながらぴくぴくと打ち上げられた魚のように痙攣していた。
私の言わんこっちゃないという表情に、君はただ驚く表情を浮かべて立ち尽くしていた。








「仕切り直して本日はよろしくお願い致します。神に捧げる少女です」
「相島透です!今日はよろしくね。君とポーカーできるの楽しみにしてたんだよ!」
「私も同じ気持ちです」

社交辞令を適当に言ってのけると、机の横で慎ましやかに立っている巫女に目配せをする。ちなみに年下巫女は鼻にちり紙を詰めて小屋の裏で待機することになった。年上巫女が「夏炉冬扇だわ」とぼやいていたのは僅かな良心から伝えないことにする。早速巫女が札を混ぜ、振り分ける。私も手元を見たが悪くない数字だった。これは余裕で勝てるだろう。
しかし、正面の男を見ていると拭えない違和感があった。何だろう、別におかしいところはない。いや、現実離れした顔はさておき言動、動作、息遣い、どれも嘘を吐いているようには見えず落ち着いていた。

「落ち着いて……?」

それが一番おかしいのか。私はようやく腑に落ちた。

「どうかしたの?早く次の手を」
「あっ、はい。すみません」

私は慌てて手札を見た。しかし、あまり集中はできない。彼は落ち着きすぎている。普通なら金を掛けていようが掛けていまいが、真剣勝負の賭け事となれば多少の緊張と高揚で汗ばんだり脈が速くなったりする。彼にはその兆候が一切見られなかった。まるで眠っているかのように、穏やかで乱れが一切ない。
それが完璧の域にまで達しようとしているので余計に怖い。
彼の様子を観察していると、私如きに神の使いというのは間違いだと思った。これは後天的に身につけたものだ。彼はどうだろう、私の見解では生まれつきのように見える。仮に後天的に身に着けたものだとすれば一体どれだけの努力と時間を要したのだろう。
彼こそ本当に天の使いかと勘違いしてしまいそうだ。
手元から視線を外して、正面を見る。口角のあがった表情はまだ余裕があるように見えた。
負けられない。私は気持ちを切り替えるために深呼吸をする。遅い瞬きを一度、まるでスイッチが押されたかのように世界が変わる。五感全てが研ぎ澄まされた今、負ける気はしない。

「ふふ、余裕ぶっていられるのも今のうちかもしれませんよ」
「お、よーやく本気出す気になったんだね!」

勝負は一時間半も掛かった。
ほぼ互角の勝負では接戦の末、神に捧げる少女の勝利であった。
しかし、私は結果に釈然としなかった。
神に捧げる少女にとってはお見通しだった、相島透にはまだ余力があったことが。
八百長で勝ってしまったことにどうしても納得がいかない。負けた時でさえ、彼は騙されてしまいそうなほど精巧な演技をしていた。
私は彼が考えていることがさっぱり理解できなかった。




取材班が帰ってから、よく分からない薬を巫女から手渡された。飲み込んだ瞬間、脳みそがとろとろと溶けてしまったのかと錯覚するほどの強い眠気に襲われて少し眠った。
夢の中で、何故か相島透が出てきた。私は彼の真正面に立って彼の顔を見つめる。私は今日彼の笑顔しか見ていないはずなのに、夢の中では洞窟のように暗い瞳が虚ろにこちらを見つめていた。
彼には感情が何もないように見える。
私とおんなじ、空っぽ。
衝動的に手を伸ばすと、目の前にいたのはペインターパンツの男ではなく、今にも落ちてきそうな天井だった。
体がだるくて視線だけを動かすと、締め切った障子の僅かな隙間から月明かりが夏風と共に差し込んでいる。

「あ、もう……夜かぁ」

一人しかいない部屋で、はぁとでかいため息を吐いた。

「どうしたの、ため息なんて吐いちゃって」

突然、薄い壁一枚の向こう側から声がして飛び起きた。巫女か?違う、女の人の声じゃなかった。じゃあ一体誰。今まで物珍しさで小屋の付近に訪れる人はいるが、誰も私を気味悪がって話しかけようとしてこなかった。
思い当たる節もないし、相当な変人が来たか。私は眉を顰めながら壁を叩いた。

「あの、誰かいますか……」
「いませんよー」
「ほら、やっぱりいるじゃないですか!!」

私が反応すると、外から笑いを堪えるような声がした。

「誰か当ててみてよ」

問いかける声音は水あめのように甘い。しかし、声量を抑えているからか時々低く掠れて、忘れかけていた声の持ち主が男性だということを意識させる。どうしよう、このまま彼が喋り続けたら心地よくてまた寝てしまいそうだ。意識が飛ばないように私は今までの記憶から男性の声を引っ張り出す。と言っても人生でこんなに透明感のある声、今日以外に聞いたことはない。

「え……まさか、相島透さん?」
「おお、正解」

相当驚いたのか声が震えていた。

「よく分かったね」
「吃驚するのはこちらですよ。どうしてここに?」

相島透は相当有名で多忙な人物だというのを知った今日、どうして彼がこんな辺鄙な神社の小屋に訪れたのか真意が分からない。大体マスメディアの取材に来る人は、表向きには興味があるように熱心に話を聞きに来るが、私がただの少女だと分かると途端に興味を無くしてどこかに行って二度と帰ってこないではないか。
私はとりあえず声のする方へ移動した。壁を軽く叩くと右から軽い音が返ってくる。私は右に移動してまた壁を叩く。今度はちゃんと正面から音がした。

「ここにいるの?」

確かめるように爪が木の柱を撫でる音がする。相手からは見えないというのに反射的に首を縦に振ると、突然、眩しい光が差して目を細めた。暫くして眩しさにも慣れてきた私は恐る恐る顔を上げる。二重の輪が重なり合う形は、よく巫女が夜の巡回に来る時に障子から見える形とよく似ていた。

「懐中電灯ですか?」
「いや、スマホのライト機能だけど」

光源の正体は和紙に透けた懐中電灯ではないのか。私は聞きなれない単語に首を傾げる。

「恐れながら、すまほって何ですか?新しい懐中電灯の種類ですか?」
「スマホ、知らない?携帯電話。ガラケーとかなら分かる?」

彼が軽々と口にする単語を繰り返そうと試みるが、すぐ口の中でへばりついた。知らない単語の波が押し寄せて私の頭は爆発寸前だ。なんだ、すまほって。『けいたいでんわ』も分からなければ、がら何とかもよく分からない。返事に困って緘黙を続けると、「ねぇ」と外から甘い声がする。

「障子、開けてよー。僕、君と会って話してみたいんだよね」
「何故?」
「昼間見て、めっちゃ可愛かったからー」
「お世辞は結構です」
「って理由が半分と、半分は今度のオカルト映画の勉強のため」
「んぐっ……騙されました」
「ほら、そういうところが可愛いんだよ」
「……お口が達者なことで」

私はそのすらすらと流れる口説き文句に一種の感心を抱きながらも、障子に触れることはできなかった。昔からそうだ、障子まで近づいて開ける寸前まではできるのに、どうしてもその先をしようとすると腕に力が入らなくなる。死にたくないから、朝の言葉を思い出した。別に障子を開けたところでここから逃げなければ爆弾は起動しないのに、私は死の池に飛び込むことは愚か石を投げ入れることすら怖いみたいだ。
そこまで生に縋りついたところで私には何もないのに。
醜い、醜い、醜い
自分のことが嫌いで嫌いで、今すぐ畳の上でのたうち回って絶叫したくなる。爪の奥に血が溜まるまで腕を掻きむしって、こんな自分消してしまいたくなる。
それでも正座の姿勢は崩せなかった。深呼吸をして乱れた精神を統一する。
私は『神に捧げる子』だから、こんなところで襤褸を出すことは許されない。
例え誰であろうと、一回きりの仲であろうと、人前に出るときの私は純粋無垢で清廉潔白な相応しい女を演じなくてはいけない。
私は微笑みを浮かべると、申し訳ない気持ちを前面に出して答える。

「映画の勉強は感心しますし、協力したいと思います。けれど、私は障子を開けることはできません」
「どうして」
「開けてはいけないと言いつけられているからです」

私がきっぱり答えると、彼は数秒の沈黙の後ケラケラと笑いだす。私は何故彼が笑うのか分からず、戸惑いながら「何か変なこと言ってしまいましたか?」と聞く。すると壁の向こうから衣擦れの音が聞こえ、彼が首を振っていることが分かった。

「いやいや、真面目だなぁと思って」
「……馬鹿にしてますか?」
「そんな!むしろ感心してるんだよ。君、反抗期とかなさそうだね」
「反抗なんて、出来ませんよ」

笑ったはずなのに、口角が痙攣して上手く笑えなかった。よかった、顔合わせしなくて。和紙一枚に守られた私の威厳にほっと息を吐く。
彼は何か勘違いしている。私は聖人君子なんかじゃない。反抗したところで、弱くて未熟で未来なんて何も変わりやしないから反抗しないのだ。
腹に手を当てて、風化しかけている傷口を掻きむしった。乱暴にしたせいで中にある硬いものが腹膜を刺激し、激痛が襲う。かはっと少量の胃液と共に私は畳の上に倒れこみ、酸素を貪った。
駄目だ、立ち上がれ。まるで呪いのように脳内で何度も繰り返される言葉に、反射的に足に力が入る。よろけながらも何とか立ち上がると私は腰を90度に曲げた。
彼は知らない。
17年前、神に捧げる少女となった日から私の内臓は爆弾に支配され、静かなる魔物が腹の中を牛耳っているということを。

「……申し訳ないのですが、お帰りいただけますか。先ほども申し上げた通り、私にそこを開ける権利はございませんので」

お帰り頂けますかと言ったのは私なのに、口の中が乾燥している。擦り合わせる手汗が止まらない。私が拒絶すればこれ以上、彼が踏み込んでくることはないのに。落ち着けと言い聞かせていることに対して反比例するように荒くなっていく息に、頭は混乱していた。こめかみに冷や汗が流れる。それを拭いながら、気づく。
私、怖いのか。
だって、彼は、

「じゃあ僕が開ければいいか」

カラカラカラ
夜の静寂に響く木材。
ひっ、と喉の奥から引きつる音がした。

「おっ、開いた」

彼は、変な人だから。

「ビックリしすぎじゃない?あ、これ不法侵入とかで訴えられないよねぇ?」

あ、や、と意味のない言葉が飛び出す。

「じゃじゃーん。本日二度目の相島透です!って言ってもテレビないもんなぁ。興味ないか、僕のこと」
「やっ、なんであああけたんですか!!」
「何でって、君が開けられないっていうから。じゃあ僕が開ければいいかなって」

当然のように答える彼。罪悪感というものはないらしい。彼はにこにこと暗い部屋の中を見回して、しかし家具すらない部屋は数秒で見飽きたようですぐ私に視線を戻し唇を尖らせた。

「なんでこう、乙女の部屋なのに防犯対策ガバガバなのかなぁ。もっと南京錠を付けるなり何なりして欲しくない?」
「いえ、誰も私を気味悪がってここになんて侵入しようとはしないので不要かと」
「勿体ないねぇ、こんなに面白い子なのに」
「……初めて言われました、そんなこと」
「嬉しい?」

無駄にきらきらとした瞳が五センチの距離まで接近してきて私は仰け反る。それこそ猫であれば毛を逆立てて威嚇をしていただろう。今まで不気味だの、詐欺師だの、散々言われてきたが面白いという感想は初めてだった。言われて悪い気はしないが、何だか肯定するのも違う気がする。戸惑いながら私は引きつる頬を無理やり作り笑顔に変える。

「嬉しい……です」

君は私の態度にふぅんと値踏みするような目で見つめてくる。先ほどの潤んだ宝石の瞳は何処へ行ったのやら。ころころと変わる表情に私はついていけない。

「早速だけど質問、いい?」
「あ、はい」
「神に捧げる少女っていつもは何してるの?」

私は少し迷った後、後で巫女に怒られない程度にふんわりと伝える。

「特に何もしておりません。私の仕事は17歳の奉納祭の日に神様に捧げられるのみなので」
「そうなんだね、なんかもっとしているのかと思っていたけど」
「いえいえ、この狭い小屋の中では本を嗜んだり来客をおもてなしする以外の娯楽はないのですよ」
「それは……辛かったね。ごめんね、しんどいことを話させちゃって」
「いえいえ、一度話すと決めたのは私なのでどんな質問でも大丈夫ですよ」

質問は本当にどんなものでも大丈夫だった。17年間神に捧げる少女と言う奇妙な傀儡をさせられてきた私にとって、この手の質問はざらにある。むしろだいぶ甘い方だ。世の中の物好きはもっと際どいことを聞いてくる。それに比べればオーバーリアクションで、単純な質問ばかりの彼は答えやすいほうだろう。
しかし、この人間が大丈夫ではない。
改めて目の前の彼をじっと見つめた。
人当たりのよい笑顔、自然に振り分けられた艶のある髪、毛穴の見えない頬と、切れ長の瞳の奥にある黒曜石のような瞳。
全世界の人間から最も美しいパーツを集めて張り付けたような顔だった。
それだけでも信じられないというのに、顔の良さを自覚したような自信に満ち溢れたオーラで溢れている。鼻につかないのは常に謙虚な言動を心掛けているからだろう。
世間知らずな私にも分かる、この男只者ではない。

「どうしてここの神社では神に捧げる少女が必要なの?」
「それは、村の作物の豊作を願うためです。この土地は海にも近く、山もすぐ傍にあって自然豊かなのが一つの特徴なのですが、如何せん昔から自然災害が多くてですね。こうやって神に捧げる少女を土地神様に100年に一度納めなければならないといけないそうです」
「へぇ、神に捧げる少女になる基準とかは?」
「……親族がいない、もしくは不明な孤児です。あと、未婚の少女なのも条件です」

なるべく落ち着いたトーンで聞きやすいように答える。彼は常時頷きを欠かさず、表情を変えながら真剣に話を聞いてメモを取った。私が話せるのはこのくらいだと一息つくと、つむじに突然ぬくもりが伝わった。驚いて視線を上に向けると、穢れのない白魚のような手が私の頭の伸ばされていた。綺麗な顔がすっと近づいてきてそっと耳打ちをする。

「協力してくれてありがとうね」

全身に鳥肌が立った。顔に出なかっただけまだ頑張った方だと思う、思いたい。ぴくぴくと痙攣しかける表情筋は限界だと文句を言っている。なんだこの男、何がしたいんだ。今まで様々な人と出会ってきた、やたら自分語りをしたがるおばさん、「それだから若い者は……」と主語のでかい愚痴を零す記者、変なカルト集団からやってきた話の通じない男。
どんな人でも全て完璧に対応し捌ききってきた歴戦の戦士ともいえる私にとってみても、彼の存在は『異常』そのものだった。
自己愛の高い人なのかと思えば、ふとした瞬間に滲み出る自己嫌悪の感情。
洗練された顔を最大限に活用していながらも、決して自分自身を認めてほしいという気持ちは見られない。
普通の人間であれば、誰しも欲という概念が存在する。誰かに認められたい、褒められたい、相手より優位に立ちたい。そういう汚らしく、ある意味人間らしい感情が彼は欠損しているように見受けられる。
だから私は錯乱状態に陥っていた。

「相島さん」
「透でいいよ!」
「透さん」
「……」
「透くん?」
「まぁ及第点かな。それでどうしたの?」

まただ。全身からその謎のキラキラを出さないでほしい。
私はふと昨日の晩読んだ小説を思い出した。女が顔のいい男に口説かれ口づけをされ駆け落ちをするという話だったような気がする。小説によると女はこのような状況ではときめきを感じて頬を赤らめるそうだが、私は今対極の状態と言っても過言ではない。
真っ青を通り越して血色感の皆無な頬、紫に染まり震える唇。
とてもじゃないけれど、恋なんて感情生まれそうにない。

「貴方のことは教えてくれないんですか」

私はついそんなことを聞いてしまった。得体の知れない人間過ぎて一周回って興味が湧いてきた。それに私だけべらべらと個人情報を渡しておいて、彼のことを何も知れないなんてずるいだろう。彼はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、片目を閉じた。そう自然にやっているが、普通に気障なウインクである。

「僕の名前は相島透で、年齢は二十歳をちょっと過ぎたところ!」

そのちょっとの部分が大事なんだろ、とは突っ込む勇気がなかった。

「職業は俳優とかタレントとか色々。今日はオカルト映画の特集インタビューでこの村に来たんだ。趣味は音楽鑑賞とか映画鑑賞。特技は演技、かな。ファンの人からはよく王子様って言ってもらうよ、へへ恥ずかしいよね」
「王子様、ですか。はは、いいですね」

寸前で出掛かった「盲信者め」という言葉が飛び出さなくて本当によかった。私は取り合えず笑っておく、勿論目は合わせずに。人の感情は何よりも目に最初に現れると思う。今の私が仮にでも俳優の彼と視線を交わせば、観察力の高さですぐに呆れた感情を見抜かれるだろう。
逸らした顔に白い指が滑る。耳の付け根から顎にかけて頬骨をなぞる手つきは絶妙に気色悪い。私は神に捧げる少女だと心の中で何度も唱えて心の中のざわつきを静める。彼が中途半端な美しさであればそのへらへらと笑う顔面を殴って再起不能にさせていたかもしれない。

「それにしてもどうしたのー?急に僕のこと知りたくなったの?」

わざとらしく首を傾げる彼は認めたくないが様になっていた。私は嫋やかな笑みを絶やさずに、それでも不安から震える指先をぎゅっと抑え込んだ。本当のことを言ってしまえば、何かが壊れる。そんな予感がした。まるで禁足地に初めの一歩を踏み出すかのような恐ろしさと漠然とした不安で背中に冷たい汗が流れる。それでも他に言う言葉が見つからなかった。いや、ここで誤魔化せば良かったのだ。そんなことないと、ただの気まぐれだと、当たり障りのないことを言えばよかった。
そんな後悔は私が本心を告げた後に襲った。

「貴方の心が読めないんです」

刹那、彼の表情が固まる。完璧な笑顔はぼろぼろと乾いた粘土のように剥がれ落ちた。大きく見開かれた瞳の奥の、光のない瞳孔が揺れる。肺が急速に萎んで息ができなかった。殺されると、本能的が警告音を鳴らしても私は微動だにできなかった。
そればかりか、畳みかけるように死にかけの喉は言葉を続ける。

「透くん、本当の君はどんな人なんですか」

私は今どんな顔をしているだろう。うまく笑えているだろうか、否そうではないことは分かっていた。表情筋は全て弛緩して、荒い息遣いだけが、鼓膜を揺らす。サバンナの真ん中のガゼルとライオンだった。次、何か行動を起こせばきっと私の命はない。
先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた彼はもういない。
代わりにいるのは、怪しげに光る瞳を冷ややかに細める男だった。目と鼻の先にある口角がぎこちなく持ち上げられ、三日月形に歪んだ。

「知りたい?」

試すような口ぶりで聞く彼。口を開いた瞬間その場の空気が底冷えした。冷淡な声はトーンからしてみても、先ほどの相島透とは別人なのではと思ってしまう。それでも目の前の人物は二人に分かれることなく、輪郭はしっかりと一人分しかない。
私は密かに好奇心を抱いていた。
彼は確かに変な人だ、私が出会ってきた中で一番腹の底が読めない。
だからこそもっと接近してみたいと思った。今まで懐柔できなかった人間はいない私にとって、未だ懐柔できていない彼のことをもっと知りたい欲が、恐怖に打ち勝とうとしていた。

「……はい」

固唾を呑む。喉が生々しく音を立てた。
無表情の男は脱力していた私の手首を強引に掴んで小指を絡ませてきた。

「じゃあ明日も来てあげる」

「はぁ、本当に来るんですかね」

真っ白な和紙を見てため息を吐いた。もうすぐ夜が更けようとしている時刻、私は奉納祭の書類に追われていた。もう何十枚目かも分からない書類に墨を滲ませていく。幾ら文字を書いたって、頭の中は昨日の男のことばかりだった。軽薄そうな笑みを果たして信じてもいいのか、期待に胸を膨らませる感情が体を充満させる。しかし、期待しすぎていざ来なかったときの落胆を想像すると手放しでわくわくは出来なかった。
相島透はまだ来ない。
その間に私の手首は限界を迎えていた。文字を書きすぎて腱鞘炎になってしまったようだ。痙攣する右手を抑え込む。今日はもう寝てしまおうか。どうせあんなの言葉の綾だったのだ、私は単なるお遊びに過ぎない。芸能人さんの戯れの相手に過ぎなかったのだ。
ただ、知りたかっただけなのに。
どうして、あんな表情をしていたのか。
君はどうして自分を偽って生きているのか。
ぼうっと考えを巡らせていると、いつの間にか和紙の上には黒い染みが出来ていた。いけない、書き損じたそれを丸めてちり箱に投げ捨てる。
その時、夏嵐が障子の木枠を激しく揺らした。

「よぉ」

私はその声で一瞬誰だか気づくことができなかった。顔を見て、ああ約束をしていた人だとようやく分かった。約束通り訪れたことに喜びを感じながら、私は違和感を抱く。それにしても昨日の媚びるような態度はどうしたのか、一変して年相応の男のように振る舞う彼を見て私は目を丸くした。いや、彼の年齢は知らないが一般的な男性と比較して随分不愛想である。没落貴族という言葉がぴったりだと思った。
昨日と同じような気楽な服を着こなしている彼は、今日も障子を開け放つ。それから今度は座布団を持ってきたらしく枯葉の上に自前の座布団を敷いてそこに腰掛けた。居心地を良くしてどうする。
そんな専横な態度をされると自分だけきっちりしているのが馬鹿らしくなって、私も正座で折りたたんでいた足を崩した。

「なんか昨日より態度悪くないですか?」
「お前も昨日より随分本音を言うようになったな」
「おま……お前って……初めて言われましたよ」
「お前はお前だろ。だって俺名前知らないし」
「だって私名前ないですもん」

君の顎が外れそうになる。驚愕の表情で瞳孔が開かれたまま一点を見つめ続けるものだから死人のように見えた。一応目の前で手を振って意識を確認するが、うざかったのか振り払われる。

「名前、ないのか」
「はい」
「だって、年は17だろ?17年間どうやって過ごしてきたんだよ」
「お嬢様とかお姫様とか神に捧げる少女って呼ばれてきました」
「親の苗字とかは?」
「私は孤児ですので、物心つく頃にはここにいました」

平然と言う私に君は理解が追い付かないとばかりに瞬きを繰り返す。私はどんな顔をしていいのか分からなくて苦笑いを浮かべた。こういうとき普通は躊躇ったり、悲しそうな顔をしたりするのだろうか。けれど親がいないのも、名前がないのも、当たり前として生きてきた私にとっては逆に名前があることや親がいることの方が不思議に思えてしまう。名前がなくともお嬢様と呼べば私だと分かるし、身の回りのことは愛情がなくとも巫女が全てやってくれた。不自由はない。なのに皆、私が一言その言葉を告げると腫物を見るかのような視線を向けてくる。
その度に私はどうやって反応していいのか分からなくなるのだ。
私は可哀そうな子なのか。私の存在は変なのか。
認めてしまえば、何かが崩壊する。そんな予感がして、ただ曖昧な顔しかできないままでいる。

「あ、袖のとこ、取れかかってますよ」

ふと君の袖で蓑虫のように揺れる何かをみつけた。金色に揺れるそれを手に取ると、立派な細工が施された釦だった。流石芸能人ということもあり、服の装飾一つにしても高価である。君は現実に引き戻されたように袖口と私の方に視線を向ける。話題を転換させるのにも丁度よかった。私は部屋の奥から刺繍用の針と糸を取りに行こうと立ち上がると、君が俯かせてた顔を上げた。

「じゃあボタンで」
「へ?」
「名前、お前の。ボタンに決めた」

君は私の額に人差し指を突き立てると、「ボタン」と何度も口ずさんで少し顔を綻ばせた。自然に表情筋が上がる様に、私は初めて彼の本当の笑顔を知れた気がする。控えめだが、繕った笑い以外の笑い方もできるんだと彼の数少ない人らしい部分に少し安堵した。
私も真似して声でなぞる。何度も言っていくうちに、二人の声が重なった。微かに不協和音を避けた声で紡がれる3文字の名前は、ゆっくりと私の細胞全てに落とし込められる。
適当すぎやしないだろうか。しかしこの瞬間に17年間何もなかった私という存在に名前がついた。しかも出会って二日の男の釦が取れかかっていたという理由で。
ボタン
実に適当で、安直な名前である。しかし、私如きに名前をつけられるのならその程度でいいような気がした。
私はこの状況が何だかおかしくて、耐えきれず小さく噴き出した後、誤魔化すように咳ばらいを一回。射貫くような眼光をひんやりした瞳に向けてやる。

「勝手に決めるんですね」
「ああ、不便だからな。あと名前くらいはあってもいいだろ」
「一応お礼を言っておきます」
「一応ってなんだ、一応って」

つんけんした態度を取っているが、名前を付けられたことは悪くない。しかし正直に感謝の言葉を述べられないのは、会話の主導権を全て相手に握られていたからだ。子供じみた理由だが、そこは数多の客を手玉に取ってきた神に捧げる少女としての矜持が許さなかった。そんな私を察してか彼は不躾な態度に対して何も言及してこない。大人な対応に仕掛けた私はますます居心地が悪くなって、黙りこくる。
ここまでくると私の態度も随分砕けたものになっていた。染みついた言葉遣いは丁寧なままだが、自分だけ笑顔を取り繕うのも疲れるので表情筋を弛緩させた。
不意に神社の方から重たいものがぶつかる音がして目の前の男から視線を外す。斜め下の石畳には村の男たちが集まって、木製の骨組みが組み立てられていた。明日の祭りに備えて屋台を夜のうちに設置するようだ。今週の天気は概ね晴れらしく、提灯が雨天に気兼ねなく装飾されている。赤い和紙は淡い光に透かされていて、怪しく境内を染めていた。
私は特に表情も変えずに呟く。

「祭りの準備が進んでますねぇ」
「呑気だな、生贄のくせに」
「こういうのってもっと怯えた方がいいんですかね」
「そうじゃなくて」

君は私の問いを否定すると、神社の方に向けられていた顔を再びこちらに戻す。その顔には「昨日俺のことを分からないって言ったけど、お前も大概だぞ」という感情が滲んでいた。

「怖くないの?」
「透くんが私の質問に一つ答えてくれたら、私も一つ答えます」
「……お前、思っていた以上に強欲なんだな」
「失礼な、したたかと言ってください」

私が臍を曲げて顔を背けると、彼は面倒そうにため息を吐く。

「んで、質問って言うのは?」
「透くんはどうしてあのようなキャラを作っているのですか」

彼は思い出したように眉を上げた。それが目的でここにいるのではないか、と思った。けれど、忘れているなら君の目的はもしかしたら別なのかもしれないなと考えて口には出さなかった。

「あぁ、そういえば昨日教えるって言ったね」
「忘れないでくださいよ、その答えを知るまでは私も死に切れませんから」

目の前の男はふっと温度のない瞳を更に絶対零度まで下げる。怒りが込められているわけでも、憎しみが込められているわけでもない。それなのに冷たいと思わせるのは、透き通るそれが放つ光が一切ないからだろう。君の目から急に人らしい温度がなくなると無機物のように見えた。それこそ、びいどろだった。澄んでいて美しいのに、あたたかみはない。それが二つ埋め込まれた顔は美しさと同時に危うさを持ち合わせていた。
これ以上何かが欠けてしまえば、その場で消えてしまいそうな儚い危うさだった。

「空っぽだからだよ」

すり硝子の声が耳をなぞって私は鳥肌が立った。無意識のうちに細く白い首に手を伸ばし、手の甲を押し付ける。私の肌よりほんのりあたたかい皮膚は血管の震えをそのまま伝える。人離れした美しい声は触れた首筋の振動が無ければ、精巧に作られた傀儡だと疑ってしまいそうだなと思った。

「俺は感情の起伏が著しく薄い」
「どうして、」
「周りの環境が特殊だったからだと俺は思ってる。俺は幼い頃からこういう職業をしてたからさ、お前ほどではないけど普通の人生とはかけ離れた世界で生きてきた。その過程で、まぁ何と言うか色々あった訳」

虚ろという言葉をそのまま擬人化した人間に一歩を踏み入れるのは流石の私でも恐怖があった。それでも喉のすぐそこまでせり上がってきてしまうのが、強い好奇心の悪いところだ。後先考えずに口にするのは軽率であるし、何より寿命を縮める。それでもいいから知りたいと思ってしまうのが私だった。ゆっくりと足音を立てないように、気配を殺すように、獲物に近づく猫みたいに、私は慎重に言葉を紡ぐ。

「その、『まぁ何と言うか色々』が知りたいと言ったら、怒りますか?」
「さっきも言ったように俺は怒るも何も、全部どうでもいいと思ってる。でもお前には聞かせたくない」
「……それは何故」
「壊れちゃうから」

私と同じだと思った。君の壊れるが何かは分からない。どの程度なのかも知らない。もしかしたら同じだと比喩するには大袈裟すぎるかもしれないし、同じだと言うには私が身の程を弁えた方がいいほどの大事なのかもしれない。けれど私が私自身の運命を疑った瞬間に世界が壊れるのと同じように、そこが一つ君の踏み越えてはならない境界線のような気がする。欲張って知ろうと踏み込めば最後、君の瞳の真っ暗な部分の深淵から抜け出せなくなる。壊れると言うのは、僅かに残った理性や感情が全てなくなってしまうということを指しているのかもしれない。
君は全身の筋肉の緊張を解いて仰向けに寝転ぶ。そんなところで寝たら汚いはずなのに、妙に自然に溶け込むそれに私は悪寒がした。

「空虚な人間はいらないんだよ。感情のない、ロボットみたいな奴に価値なんてない。感情があるのが人が唯一ロボットより優れていると言える部分なのにそれが欠損してるってばれたら、俺は途端に存在価値がなくなる」
「そうやって怯えて生きるならいっそのこと、俳優なんて辞めてしまえばいいのに」
「……そんな簡単に辞めれたら、俺はもうとっくに表舞台からは消えてるよ」

それはそうか。酷なことを言ってしまったかもしれないと思い、謝罪の言葉を述べておく。君は気にしていないというように軽く頭を振った。

「では二つ目です。どうして再び私のところに来てくれたのですか」
「おい、質問一つにつき一個って」
「後で二つ答えますから」

私が無理やり言いくるめると、君は遅い瞬きをする。すると、真っ暗だった瞳に一つだけ光が宿った。仰向けになったことと、雲隠れしていた月が気まぐれで顔を出したことで、夜の空で場違いなほど輝くそれが映りこんでいるらしい。惑星が溶け込んだ瞳が私の姿を捉えると、一つ吐息を零してまた瞼を閉じた。

「……俺の仮面を見破った人間はお前だけだったから」

また、君が一つ私の知らない表情をする。
君の話を聞く度に私は増々君のことが分からなくなっていく。
足跡を辿ったからと言って元の関係に戻れるわけがないなら、先に進むしかない。
しかし、無性に立ち止まりたいと願ってしまうのはどうしてだろうか。
立ち止まれば何も変わらないと分かっているからなのか。
関係ではなく、私自身が変わってしまうと薄々気づいてきているからなのか。
自分でもよく分からなかった。

「今から言うことは打算に打算を重ねた私欲だ。嫌な気持ちにさせるかもしれない」
「別に構わないです」

分からないからと言って知ろうとするのが正しい訳ではない。時には目を逸らす方が物事が円滑に進むことだってある。
この状況は正にそれであった。知りたい、ただその欲望に従って他人の心にずけずけ入りこみ、挙句の果てに自分さえ見失おうとしている。ここで辞めるべきなのだ、こんな男はとっとと付き人に引き取らせるべきなのだ。
何も知らない赤の他人は今の私を見れば嗤うだろう。
とんだ愚か者だ、と。

「年月を重ねる度に、取り繕うものがどんどん分厚くなっていった。塗り重ねる度にそれは剥がれなくなって、いつしか笑顔を絶やさない完璧な俺が、感情の起伏が薄い何も価値のない俺を乗っ取った。時々自分でもよくわからなくなってたんだ、本当の俺って何だろうって。兎に角笑って、打算的に反感を買わないくらいのお世辞と気遣いの言葉ばかり吐く。それで王子様って言ってもらえるなら、誰かから必要とされるならもうそれでいいかって思ってた」

男は一度言葉を句切る。それから喉を鳴らして、私の目を捉える。

「でも、昨日のお前の目は違った」

人ならざぬものの声は僅かな期待を帯びていた。

「穏やかに見えて鋭い視線は、人の本質を見抜こうとしていた。その目で思い出したんだよ、あぁそういえばこんなへらへら笑うのは俺じゃないなって。俺が必死になって作り上げた『相島透』だったなって。だからお前といれば何か取り戻せるかと思ったんだ」

昨日のことがまるでその場で出来事のように鮮明に再生される。あの時は試合に集中するあまり気づかなかったけれど、言われてみれば君を纏う空気が途中から少し変わったような気がした。

「お前が空っぽな俺を見抜いたなら、それを埋められるのもお前だけかもしれないって勝手に期待して、今ここにいる」

君は不思議と満足そうな表情をしていた。もしかしたら君の目的とは私の知りたいと言う欲を満たすためではなく、自分を取り戻せるかもという淡い期待からなのかもしれない。

「これで全部だ。さて次は俺の番だ。まずお前は死ぬのは怖くないのか?」

今度は私が質問を受ける番だった。私は逡巡の考えを巡らせた後、正直に自分が今感じていることを口にすることにした。

「うーん、怖いというよりはそれが私の生まれた意味なのでもう割り切っているという感じですね。怖いという感情は未知のものに対して生まれると思います。地位、金、人脈、家族、苦しんでようやく掴んだそれがたった一瞬で無に帰する経験は生きていてそうそうないでしょう。味わったことがないから人は死に対して怯えて生きるのです。私は失うことが怖いと感じるほどの地位も思い出も積み重ねてきたこともないので」

私が淡々と答えると、君はなるほどと納得したような顔をした。反対側の山から厳かな鐘の音が聞こえる。もう子の刻だった。明日のために少しでも体を休めておきたい私はここらが潮時だと障子に手を掛ける。

「今日はこれにて失礼します。明日は朝から色々とやることが多いので」

閉めようとした瞬間、木枠を掴んでた手に何かが重ねられた。冷えた指先が閉めようとする私を阻止する。どうしたものかと顔を上げると、君は珍しく動揺したように目を見開いていた。

「どうしたんですか、そんな顔して。もしかして私の晴れ舞台に来てくれたりするんですか?」
「いや、待て。まだ質問をもう一つする権利が俺にはある」

嗚呼覚えていたのか、しつこい男だ。門外不出だった神に捧げる少女の情報が、数多の記者が喉から手が出るほど欲しいそれが、得られたなら、多少妥協してくれたっていいのに。しかし、端から君の目的は私の情報ではないことを思い出して私は肩を落とした。
私はぶっきらぼうに「何ですか」と尋ねた。
澄んだ瞳と視線が絡み合う。私の心を全部見透かしていそうな真っ暗な闇に眼を逸らしてしまいたかった。ばれたくない、自分の醜さを知られたくはない。でも目を逸らしたところで結局は全部君は分かっている、そんな予感がした。だから私は諦めて、ただじっと目と鼻の先にある珠玉の瞳を見つめる。

「お前は生きたいとは思わないのか」

私は瞬きも忘れて彼と見つめ合う。君の両腕はだらりと脱力しているのにどうしてか首を絞められているような錯覚に陥る。喉に詰まる空気と食道から落ちていかない唾液に私の視界は一瞬、真っ白になった。
何秒意識を飛ばしていたのだろう。私の視界が再び鮮明になったときには、傾きかけていた体は重力とは反対の方向に引っ張られていた。

「っぶな……貧血か?」
「え、あ、ありがとうございます」

もやしみたいな腕に見えて中身は筋繊維が詰まっているらしい。私の体を腕一本で支える力は思いの外強かった。いやだいやだ、この男といると全てが乱されていく。主導権を握られた時点で私は負けなのだ。焦りからこめかみに冷たい汗が流れた。これ以上失態を犯すのはまずい。神に捧げる少女の実態は謎であればあるほど客受けもいい。彼の情報の使い方次第では赤字、ひいては存続の危機に関わってくる。明日死ぬとは言え、この神社の損害賠償でも求められたら私は堪ったものではない。私は早口でまくしたて、強引に会話を終わらせようとする。

「正直に言うと口を滑らせました。本来なら扑克(ポーカー)に勝利しても高いくらいの情報を貴方には渡したつもりです」

とっととお帰りくださいと広い背中をぐいぐい押す。君は半ば強制的に立たされると、またすまほとやらの光を付けて足元を照らした。私は最後にとっておきの言葉をあげようと思った。
明日死ぬ私を人生で経験したことないくらい楽しませてくれた男だ、これくらいの褒美はあげてもいいだろう。
私は顔を綻ばせると、縛って殺して奥に仕舞っていた感情の片鱗を君に一つ渡す。
それは神主も知らない、扑克(ポーカー)に百回勝ったって手に入らない、神に捧げる少女の心の声だった。

「知っていますか?最初から孤独な人間は、自分で知ろうとしない限り、願い方すら分からないんですよ」
息苦しいな。私はどうにかできないものかと腰にきつく巻き付けられた帯に手を当てる。ただでさえ内臓でないものが一つ、腹の中を支配しているのだ。これ以上きつくされれば流石に呼吸が辛かった。しかし、煌びやかなそれは思いのほかしっかりと取り付けられており簡単には緩められない。
それにしてもここまで着飾る意味はあるのだろうか。
朝から湯あみをさせられ、髪を複雑に結われて、上等な絹を何枚も重ねられた。十二単ほどではないが布の厚みの代わりにネックレス、ピアス、簪などの装飾品がこれでもかというほど盛られている。おかげで私は最期の晩餐もろくに味わえなかっのだ。食の恨みは一生というが、私から鰻丼を取り上げた罪は近海の海溝よりも深い。一口しか口につけなかった鰻丼とすまし汁を回収していった巫女には私の死後、毎回鰻丼に致死量の山椒が振りかけられる呪いをかけておこうと決意した。
ため息を吐きながらほの暗い部屋の唯一の光源である外に流し目を送る。いつものもの寂しい石畳とは打って変わって沢山の屋台が並び、境内には赤い提灯がぶら下げられている。どこからか笛と小堤の音が聞こえてきて真夏の訪れを実感する。今年もこの季節がやってきた。今日は私が生まれてから17回目の奉納祭だった。

「お嬢様、お支度は整いましたか」

しばしの間、ぼうっと外を眺めていると、巫女がドア越しに尋ねてくる。慌てて姿勢を正した私が返事をすると、数センチ開いた扉から手が伸びてきて盃が床に置かれた。

「覚悟が決まったからこれを飲んでください」
「これは何ですか」

聞いてから自分のしたことが無粋だと気が付いた。彼女もそれを示唆するように無言を貫く。

「亥の刻までに飲まなければ辛い目に遭います故、それまでには必ずお飲みください」

それでは、と静かに告げると人の気配はなくなった。私は口を真一文字に結びながら取り残された盃を見つめる。紫の液体は提灯の明かりを反射して怪しげに光っている。恐らくこれは葡萄酒(ワイン)だろう。液体に鼻を近づけ、香りを嗅ぐときつい蒸留酒と甘ったるい葡萄の匂いがした。きっとこの中には睡眠薬と遅効性の毒が入っているのだろう。まず睡眠薬で眠って、意識のないまま神に捧げられ私の体は解体される。万が一致死量を超えた睡眠薬で死ねなくとも、毒が全身に回れば確実に心臓は止まる。実に便利な飲み物だ。

「巫女が言ってた辛い目っていうのは、多分意識のあるまま殺されるってことだろうなぁ」

貼り付けにされたまま体をばらばらにされる想像をした。うん、それだけは避けたいな。私は盃に手を伸ばすと、人差し指だけ浸す。赤紫の液体のついた指をぺろりと舐めた。この程度では多分死ねない。舌に山椒を食んだときのような痛みが走ったが、私の意識はまだ保たれたままだった。
視線はゆっくりと傾き、いつの間にか私は布団も敷いていない床に仰向けに転がる。
祭り囃子の音が近づいたり遠ざかったりしてよく聞こえなかった。子供がはしゃぐ声も、段々と膜が張られたようにぼやけていく。年に一度だけ風に乗って流れてくるこの匂い、好きだったなぁ。質素な食事しか口にしてこなかった私にとってこの中濃ソースの香はたこ焼きか、お好み焼きか、たませんか想像を掻き立てるには十分だった。

「りんご飴、綿あめ、金魚すくい……」

屋台ののれんを眺めては口に出す。食べたこともない、体験したこともないそれに想いを馳せながら死ぬのもまた一興だろうか。
目を細めて遠くを見つめる。十にも満たない兄弟が仲良く手を繋ぎながら歩いていた。彼らは金魚すくいの店の前で足を止めると、二人で緑の虫眼鏡みたいなのを使ってすばしっこく泳ぐものを捕まえようとする。兄の方は3つ捕まえて袋を手に下げたが、妹の方は一匹も得られなかったようで空っぽの両手をじっと見つめた後その場で泣き出してしまう。

「あちゃー……」

あれは中々機嫌を取るのが難しい。これから彼らはどうするのか気になってしまった私は引き続きその様子を眺める。
兄は慌てて少女の涙を拭ってから、ぎゅっと小さな体を包み込んだ。そして手に下げた袋を妹に持たせてやる。妹はまだ止まらない涙を忘れて嬉しそうに笑ってそのきらきらした瞳で袋の中をずっと観察していた。
私は思わず綻ぶ。この子たちの幸せを守るために、死ねるならいいか。この世には酒に溺れて死にゆくものや、職場でいじめを受けて身を投げるものもいると聞く。それに比べればまだ私は綺麗に散れる方か。

「さぁ、そろそろ飲まなきゃ」

体を起こして盃を取りに行く。正座をして、襟を整えた。無駄な足掻きかもしれないが、散り際くらい綺麗でいたいのは女としての意地だった。
痛いだろうか、苦しいだろうか。そんなことも感じる間もないまま意識を失うのだろうか。
目を閉じて食器の淵に唇をつける。瞼を固く閉じると、覚悟が今だ定まらない震える手を緩やかに傾ける。
その時だった。

「今日はいつもと服が違うんだな」

どこからか声がする。小さくしていた背中をぴんと伸ばして振り返ると見慣れた顔がそこにはあった。
どうしてここにいるんだろう、昨日でおしまいのはずではなかったのか。

「透くん?」

濡れた唇を舐めながら君の名前を呼ぶ。あまりの衝撃に手の力は抜けて、漆塗りの高級食器は酒を盛大にぶちまけながら砕け散った。
高そうな布は瞬く間に紫色に染まった。嗚呼これは染み抜きしても取れなさそうだ、なんてこの期に及んで冷静な頭はきっと情報過多でショートしていたのだと思う。

「何してたんだ、今日の主人公さん」

神に捧げる少女のことを知ってる癖にこの男はいつもと変わらない不愛想なトーンだった。目の前に数時間後には死ぬ人がいても彼はこんな感じらしい。実に冷淡というか、淡白というか、そういう言葉が似あう人だ。

「たった今死ぬところだったのですが……」

痺れる唇でそう答えると、彼はぎょっとしたように目を見開く。

「それは邪魔した」

彼は珍しく申し訳なさそうな顔をする。私は気にしていないと顔を横に振った。

「それにしてもここで自死なんだな。もっと神殿とかでやると思ってたけど」
「私もびっくりしました」

私は彼から割れた盃に視線を戻した。どうしよう、このままでは生きたまま殺されるのかな。しかし、液体の大半はすでに畳と衣装に染み込んでしまった。絞れば多少はあるかもしれないが、何年前の衣装か分からないものに一度染み込んだものを口にするのは気が引けた。それでも背に腹は代えられないかと仕方なく盃の一番大きな欠片に着物を絞っていると、君のラムネのびいとろみたいに澄んだ声が鼓膜を揺らした。

「最期になんか言っておきたいことはないの?」
「えっ……」
「ほらここにいるのは俺だけだし、吐き出したいことあればここで言っちゃえば?後悔したまま逝くのは嫌だろ」

そう言われると何か遺言を残すのも悪くない。手を止めてうーんと唸ってみるが、特に考えは思いつかなかった。それも自分が空っぽだからだろうか、何も考えずに何も疑わずに生きてきたからこんなにも死に対して思うものがないのかもしれない。
困ってしまって眉を顰めて彼の顔を見ると、一つ案が思い浮かんだ。私はゆるりと口角を上げた。

「では、名前を呼んでください」

君は驚いた顔をしていた。私が言った言葉の意味が分からないようで鸚鵡のように同じ言葉をなぞる。
そんなに難しいことだろうか。彼がいつもやってる『どらま』とやらに比べた簡単だと思うのだが。私はもう一度ゆっくりと区切りながら言う。

「私の名前を、呼んでください」
「……それでいいのか」
「はい」
「……無欲なやつめ」

呆れただろうか、死に際でもこんなことしか願えない少女だと。でも、私だって最期くらい名前を呼ばれてみたかったのだ。世の親が子供に贈る一番最初の贈り物を、私だって受け取ってみたかったのだ。君は私に名前を付けた割に自ら進んでそれを口にしようとはしない。一度くらい呼んでくれてもいいのにと毎回少し落ち込んでいたのは墓場まで持っていこう。
彼と視線が絡まる。ソースの匂いに混ざって、五月の新緑のような匂いがした。君が私の頬を指でなぞっていたのだ。窓から君が手を伸ばして私に触れたのは、それが初めてだった。

「ボタン」

名前を呼んだ瞬間に震えた瞳。その瞬間君がふっと表情を崩した。私はそれに違和感を覚えた。出会った時の笑顔はもっと口角が上がっていて、上がった口角は毎回同じ角度で揃っていて、完璧すぎるほどに完璧であった。今の君の笑い方は不器用で、口角は上がりきることなく照れを隠すためにはにかまれている。涼しげな目じりは何故か悲しみを滲ませていた。

「……どうした?」
「へ……」

彼は首を傾げながら親指で頬骨の辺りを擦ってくる。私は君がふざけているのかと思ってその手を静止させようとしたが、どうやら冗談ではないらしい。悲しげだった目じりは、まるで痛々しくて見ていられないとばかりに歪んだ。
私はそっと彼の右手に自分の手を重ねる。そこには雨漏りのように透明な雫が零れ続けていた。

「なん……っで」

反射的にごしごしと涙を拭った。おかしいな、なんで泣いてるんだろう。特に悲しいとも苦しいとも感じていないのに。平気だと笑う顔とは不釣り合いなくらいに涙は止まることを知らなかった。彼は右手は添えたまま、茫然と目の前を見つめていた。見苦しい姿を見せてしまって申し訳ない。
しかし、「失礼しました」という言葉の代わりに口から零れたのは自分でも全く想像できないものだった。

「なんで私には当たり前がないのかなぁ」

呟いた自分も、呟かれた君も、動揺したように肩を震わす。体をじんわりと侵食するのは冷たい感情だった。駄目だと理性がブレーキを掛けようとする。これはもう小さい頃に殺したものだろう、神に捧げる少女の覚悟を持ったときにもう二度と思い出さないように何度もナイフで刺して殺した感情だろう。

「駄目……」

ぎゅっと閉じた目に力を籠める。鼻を啜って頭を振りながら、必死に元の自分に戻ろうとした。今の私は少しおかしくなっている。早く何でもないですって笑わなきゃ。荒くなる息を止めて表情筋に力を入れると、意志とは反対に口はへの字に曲がっていく。

「言って」

優しい声だった。あたたかくて、ずっと聞いていたいくらい柔らかくて優しい声だった。ゆっくり固く閉じていた目を開くとぼやける世界で、声の主が蕩けそうなくらい優しい表情をしていた。私は人間の、こんな顔を見たことはない。
私の心の声はなんだ。
私が言いたかったことはなんだ。
私の体の奥でずっと燻っていた感情はなんだ。
空っぽなはずの君が私の固まっていたものをいとも簡単に解して、解放する。
鳥籠の鍵を探してあげるのではなく、籠ごと溶かしてくれる。
私はその感覚が不思議で堪らなかった。

「本当だったら、普通の親に育てられて、普通に小学校行って、普通に友達ができて、普通に誰かを好きになって、普通の17歳の誕生日を迎えてるはずだったんです。大切な人に囲まれて、『おめでとう』『生まれてきてくれてありがとう』って祝ってもらって、『こちらこそ生んでくれてありがとう』って笑顔で返したかったんです」

ぽつりぽつりとそれこそあばら屋の雨漏りのように、私は気づけば言葉を君にぶつけていた。
卑しい少女の、くだらない幼少期の話、彼にとっては時間の無駄だろう。
しかし私の考えを否定するように彼は黙って聞いていた。相槌もなければ、何かいうこともないけれど、君が聞いてくれていることがうれしかった。

「私の親は私を育てきれずに、物心つく前に私を神社の前に捨てました。その年の夏は本当に暑くて、神社の隣で育てているスイカが全滅してしまうほどだったみたいです。少しでも発見が遅れていたら死んでいただろうと、だから私たちに感謝しなさいと、毎年おめでとうの代わりに言われてきました」

私の誕生日はおめでたい日ではなく、呪いの始まりだった。

「私はそれから誕生日の日は決まって死にたくなりました」

睫毛を伏せた後、笑いが込み上げてきた。自分自身と親に対しての嘲笑だった。

「この神社に私を捨てるなんてそんなの一択じゃないですか、要らないから捨てよう。でもどうせなら神に捧げる子にして、村の安泰の糧になればいいかって魂胆が丸見えじゃないですか、自分の親ながら笑ってしまいますよね。私は物と同じなんですよ、要らなければ捨てる。物は感情を持たないから誰かの為になるなら喜んで寄贈する」

あまりに滑稽な親子だ。神社に捨てた母親も、捨て子という運命を受け入れて自分を殺してまで『神に捧げる少女』を振舞ってきた娘も。

「もし、私が捨てられたのが神社じゃなければ私は死んでいました」

目の前の俳優は何とも言えない顔をしていた。きっと「それは災難だったね」と微笑みながら慰めることもできたし、「どうせ死ぬんだからぐちぐち考えるな」と冷たい表情で切り捨てることも、この場において役者である彼にしてみれば容易いものだっただろう。
しかし、君は何も言わなかった。
予想以上に話に聞き入っているらしい、表情管理を忘れたようにただ私の口から紡がれる言葉を静かに待っていた。

「でも、もし私が捨てられたのがここでなければ。……私は17年間も生きることに苦しまなかった。苦しみを知る前に死ぬことができた」

そうか、私はずっと苦しかったのか。
固まっていた心の欠片がほぐれていく。とっくに忘れてしまったと思っていた感情は、見て見ぬふりをしていただけでずっと心では渦巻いていたようだ。
でも、と心の中で理性が首を振る。
それに気づいたから何だというのだ、気づいたところで痛む心は数時間後にはもうこの世にないのに。
私は諦めのついた顔で微笑んだ。

「けれど、今日まで生きてしまったから。生きたいと思ってしまったから。今日くらいは自分一人の為に生きるのではなく、この村の私以外の幸せと安泰のために死ぬべきだと思いました」

刹那、右頬に痛みが走る。苦痛に顔を顰める私は彼に厳しい視線を送る。

「何するんですか、痛いですよ」

傷つけた本人からの謝罪はない。代わりに聞こえてきたのは、低く掠れた声だった。

「……死ぬべきって何だよ」

俯いていた顔が持ち上げられた。いつも落ち着いている瞳は暗く、怒りを宿している。再び君は私の知らない顔をした。この男が放つ圧に私はただただ圧倒されて、驚いて目を点にするしかできない。

「じゃあお前、村人全員から生きろって言われたら生きるのか?その後に手のひら返しで全員から死ねって言われたらハイハイ分かりましたって簡単に死ねるのか?」
「それは、」
「お前の死生観よく分かんねぇよ。コロコロコロコロ他人の意見で生きることに苦しんで、死ぬことに苦しんで。それで自分の生きる意味見失うとか馬鹿みたい」
「私は、ただ全うに生を終わらせたかっただけで」

嘘だ、私には見失うほどの自分すらもない。考えることに疲れてしまった私はどうすることもできないまま、朦朧とした視線を向ける。

「綺麗に生きること、それは立派だと思う」

君は言葉を区切る。意志の強い瞳は揺れることなく、私のハリボテの心を食い殺そうとした。その想いの強さは育ちすぎた理性の芽をいとも簡単に間引きする。

「でも綺麗に生きることが正しいとは限んないだろ。綺麗な花を咲かせるためにわざわざお前が死んでその土の肥料になる必要あるか?いずれまた肥料が足りなくなったらボタンみたいに殺される少女が出るかもしれないんだぞ」

私は口を噤む。言い返す言葉が見当たらなかった。私がここで逃げなかったところで死後、また同じように何代も犠牲になっていく少女たちがいる。何も行動を起こさないまま運命を受け入れる私はそんな未来を見殺しにしようとしている。しかし私一人の力でこの儀式が簡単になくなるほど、世間は甘くない。
冷たい声はお囃子の騒がしさの比にならないほど静かだ。しかし、それ以上に澄んでいて、騒がしい音にかき消されることなく生ぬるい夏の夜から頭一つ飛びぬけるように浮いていた。言葉一つ一つがまるで私の脳に直接語りかけるように注がれる。

「世界は結局その繰り返しだ。誰かが骨となって灰となって肥料になるから美しい花が咲く。花は犠牲の連鎖も知らずに綺麗に咲き続けるんだ。おいしいところだけ吸い取って、からからになるまで幸せを奪って。表面上の美しさを切り取ればそれはそれは見事なものかもしれない、でも搾取される側は悔しいだろ、腹立たしいだろ、やりきれないだろ」

言った自分が一番苦しそうな顔をしないでほしい。しかし私には小さな彼が助けを求めているように見えた。きっと君も幼いころから周りの大人に振り回されて虚仮にされてきたのだろう。でなければ、そんな言葉も、そんな表情も、齢20近い青年からは出てくるはずがないのだ。
暫くの静寂の後、喉を震わせたのは私だった。

「透くん、わたし……わたしはっ……」

口が麻痺してまごつく。心臓の鼓動が早まり、頸動脈から脈打つ振動が伝わる。早まる臓器のある場所に手を添えると衣装を揉みしだいた。感情に鈍くなっていたはずの君には苦しい、腹立たしい、やりきれないという感情があるらしい。それじゃあ私の心で燻るこの感情は一体なんという名前なんだろう。
言葉にすれば何かわかるだろうか。

「最期くらい、誰かに生きてほしいって願われたい」

震える声が君に届く声量をもっていたのかは分からない。けれど、不思議とどんなに小さな声でも君が私の願いを聞き逃すことはない自信があった。

「我儘かもしれないけれど、もう一つお願いしてもいい?」
「そのつもりでここに来た」

にやりと表情を変えた透くんには恐らく私が次何を言うかなんてお見通しなのだろう。なら初めから遺言を唆すようなことをしなければよかったのに。私にはまだ君が今何を考えているのか分からない。もしかしたら一か八かだったのかもしれない、君には私は生きても死んでもどちらでもよかったのかもしれない。
本当の相島透を知れば世間は言うだろう、なんて薄情な男なんだと。
けれど、世界でたった一人私が生を選ぶことに賭けてくれたのは紛れもないこの男だった。
私は頬に伸ばされていた手を両手で包む。興奮からか私の手は熱く、白くて綺麗な手はその熱でじんわりとあたためられていった。合図もないのにどちらがともなく力が込められた掌は、私が言葉を発する前に外に引かれる。

「私をここから連れ出して!」

体勢の崩れた私を広い肩が受け止める。見上げると、淡い月の逆光を受けながら君が表情を崩していた。いつものような不愛想な顔かと構えていたのでつい驚いてしまう。しかし、嫋やかなそれは貼り付けのものではないようだ。

「おいで、ボタン」

あまりの美しさに一瞬目が眩んだがたまにはこんな君も悪くない。
知りたかった感情の名前はきっとこれから先、君が教えてくれるだろう。

「行くぞ」
「はい!」

よろめきながら慣れない山道を進む。靴なんかはなくて裸足のままなので、足の裏に石が刺さって血が流れた。着飾るもの全てが邪魔で歩いていく中で、装飾品は捨てていく。気づけば下着とその上に着ていた薄い衣一枚になっていた。成人男性の進むスピードは予想以上に速い。手を繋がれていてもまるで犬の散歩だった。勿論引きずられているのは私だ。

「透くん少し早いです」
「仕方ない、我慢しろ」
「あのそうじゃなくて、」

上手く回らない舌をどうにか動かす。飲んだのは一口だけにしろ、毒は毒のようだ。神経が徐々に蝕まれていく感覚がする。右手の痛覚はとっくにない。足が重くて、回転数が君と合わなかった。言いにくいがこれは仕方がない。できるだけ申し訳なさそうに告げる。

「毒を摂取したせいで体がうまく動かないんですけど」

えへへと誤魔化すと、君は血相を変えて踵を返した。

「馬鹿か、そういうことは早く言え」

いや何度も言おうとしたんですけど、という言葉の前に私の前で跪かれる広い背中。別におぶらなくても、歩くスピードを緩めるだけでよかったのに。しかし、私は言った手前断ることができず、素直に身を委ねることにした。君は私を気遣ってなるべく揺らさないように歩いた。でも私の手を引いて歩くより幾分早い。
私は彼の顔が正面を向いていることを確認して、顔を歪ませた。滲む脂汗を拭う。
正直腹の中にある爆弾を舐めていた。毒もそうだが、500グラム近い鉄の塊は想像以上に体に負担を掛ける。幸い内臓が傷つかないような特殊な加工をしているみたいだが、それでも走ることは想定していないため鈍痛が走る。
ただ小屋を出ただけでは起動しない時限爆弾にそっと手を当てた。
私に残された時間はあと72時間だ。時限爆弾は三日間は作動しないことになっている。神主はなんで72時間なんて中途半端な猶予を与えたのだろう。どうせ殺すならひと思いに殺してしまったほうがいいのに。閉じ込めておけばいいのに。
三日は全力で捜索するという宣戦布告なのだろうか、三日あれば確実に私を捕らえて贄にできる自信があるのだろうか。
ならばこちらも対抗するしかない。
あちらが三日で私を殺そうとするなら、私は三日で幸せを見つけてやる。
暫く山を彷徨っていると、洞穴のような薄暗い場所を見つけた。彼と私の意見は一致してここなら安全だと穴の突き当りまで進むと、ようやく体を下ろしてもらえた。

「どうしたその傷」

開口一番に君はそう言った。人差し指が指すのは私の頬だった。私は小首を傾げながら右頬に触れると、指先に血が付着した。きっと逃げる際、枝か何かが引っ掻いたのだろう。

「大丈夫ですよ、このくらいの傷。それより透くんの方は大丈夫なんですか」
「ああ、結構やばいな。明日のスケジュールも二十二時まで埋まってたのに。マネージャーに申し訳ないな。ボタンもちょっと……と言わず結構責任取ってほしいくらいだ」

微塵も気を遣わずに言ってのける君。普通そういうのって大丈夫だよっていうところじゃないのか。しかし、お互い疲れてしまって何も言う気になれない。石壁に持たれかかると、疲れがどっと押し寄せてきた。よく見れば頬だけじゃなくて、腕も足も全身傷だらけだった。着物も所々破けてしまっている。

「捨て犬みたいだな」

全身を気にする私に君はぼそりと呟いた。私は素早い動きで君と距離を取ると、服の襟に鼻を押し付ける。

「えっ……そんなに臭いますか私」
「そうじゃなくて」

何か言おうとした口が突然動きを辞める。面倒だったのか、その後は言及することなく黙ってこちらに来た。獣臭がするわけではなさそうだ。
私はきゅーんと鳴き真似をするわけもなく、そのまま丸くなって寝た。君は寝れないのか、私の隣で小さくなった入り口を見つめた。その瞳は僅かに見える町を捉えていた。君も色々考えることがあるだろう。大体どうするのだ、こんな少女を誘拐して。仕事に大なり小なり支障をきたすんじゃないか。それでも君の澄んだ瞳は憂いを帯びることなく遠くを見つめるものだから、私も難しいことを考えるのはもう辞めようと思った。
触れた肌は驚くほどに温かい。敷布団も毛布も何もなかった。寝苦しい夜に欠かせない扇風機もここにはない。それでも空気は小屋にいたときの何倍も美味しい。
微睡み意識を手放す瞬間、何かが私の頬に触れた。かさぶたになった傷を撫でるその手は優しかった。
「透」

誰かが俺の名前を呼んでいる。視界は膜が張られたようにぼやけてよく見えない。俺は目を凝らしながら耳を澄ませた。

「私はね、透のことが世界で一番大切なのよ」

陶器のようになめらかで毛穴一つない白い肌
透けてしまいそうなほど透き通った瞳
形のよい鼻、薄い桃色の唇
目の前の女は呟きながら俺の顔をまるで骨董品に触れるように撫でまわす。思わずぞわっと鳥肌が立って一歩後ずさった。目の前の表情筋が一瞬引きつったあと、俺の手首を握る。骨が軋むほど強く。

「死んでもいいくらいに大切なの」

女は赤い唇を舐めて湿らす。糸を引く口には歯紅がついていた。艶めかしい手つきで俺の首を撫でると、頸動脈に触れた。女と視線が絡み合う、その目は一度獲物を決めたときの蛇のように獰猛で、俺は逸らしたくても逸らせなかった。

「私は透を裏切らないわ、だから透も私のことを裏切らないって約束してくれる?」

感情のない声だった。
今、この瞬間にこの女を殺せればとれだけ幸せだろうか。
幼い自分はこうやって殺されていったのに、何故この女は今ものうのうと生きているのだろう。
それでも心のどこかでは憎み切れなかった。
人の心はパンみたいなものだ。目に見えなくとも黴が生えればそれは瞬く間に端から端まで侵食される。
健全だった俺の心はこの女の毒牙にかかって壊れてしまった。
許してはいけないと思っても結局は許してしまう。許した瞬間に自我は一つ消えてゆき、黴は広がっていく。彼女がいなければ俺は大人になれなかった、俳優として今人生を歩めていなかった。俯瞰的に見れば俺の人生において彼女は必要不可欠だったのだと思ってしまう。
チャップリンはこう言う、「人生は近くから見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」と。
そうだ、この人は悪くない。人生を瞰視できない自分自身が悪いのだ
俺はゆっくりと瞬きをした。目の前が急に鮮明になって、ぼやけていた女の顔が浮かび上がる。見慣れた顔だと思ったら、そりゃそうか。
そこにいたのは紛れもない俺の母親だった。

「透、欲張っちゃ駄目よ。もし欲張って今まで積み上げたものが全部なくなったら、お母さん透と一緒に死ぬからね」

首筋に長い爪が食い込む。痛いけれど、涙は出なかった。喉が引きつって息も上手くできない。過呼吸になる俺の眼差しと彼女の視線はもう交わらない。母親は傷をつけるどころか肉まで削いで、俺に一生消えない傷跡を付けた。たらたらと流れ続ける血を拭った。人差し指から薬指まで朱に染まったのを見て俺は口角を上げる。
母さんが好きなのは俺ではないことはもう分かっていた。この女は『私の息子であり、大人気俳優の相島透』に愛を注いでいるのだ。
俺はもう相島透ではない、これから一生をかけて『俳優の相島透』として生きよう。
笑えるだろう、でも俺は道化師を演じるよ。
殺された幼い自分が唯一遺して逝ったのは「愛されたい」という欲望だけだったから。
血しぶきの飛んだ手を取ると、汚れた皮膚を舐めとる。
目を閉じると瞼の裏には自分の後ろ姿があった。まるでそれは陽炎のように揺らめいて、やがて輪郭が曖昧になって二つに分裂する。俺の中に新しい「僕」が生まれた。「僕」は唇についた血液を舌に絡ませると満足そうな笑みを浮かべた。

「僕は、母さんだけを信じるよ」





「透くんさぁ、何を思ってこの演技してるの」

大事な役だった。初めて主演の座を頂いた映画の一番大事な場面だった。
よくある余命ものの恋愛映画で、予算が沢山あるわけではない。それでも主演ということに母親は喜んでいた。
カットが掛かった時に監督が俺に向かってこう言った。貧乏ゆすり、吸殻の数、俺の演技に不満があることは明らかだ。おかしいな、いつも通りできたはずなのに。
青白い顔がむくりと手元で起き上がる。主人公が好きな女の子が死んでしまうシーンだったので、腕の中で横たわっていた女優の顔はいつもと違い儚げだ。彼女は撮影が止まったことで困ったような顔をしている。

「すみません。以後は悲しい、苦しい、を伝えられるように表情管理も気を付けます」

申し訳なさを前面に出し、もう一度華奢な少女の肩を抱くと監督は鼻で嗤う。燻るものはあったが、俺はぐっと堪えていつもの穏やかな笑みを浮かべた。
大丈夫だ、いつも通り母さんが教えてくれたテンプレートをそのままなぞればいい。俺は再び当たり障りのないことを答えると、監督は何故か顔を顰める。

「まるでロボットみたいな回答だな。もっと、こう、君の想いはないの?」
「想い……?」

俺が言ったことは間違いなのだろうか。いや、そんなはずはない。母さんが間違えたことを俺に教えるなんてことはない。取り合えずこれ以上歪が生まれぬように、人懐っこくこてんと首を傾げておく。腕に熱を感じて視線を下に向けると、女優が量産的な顔を赤く染めていたのできっと大丈夫だろう。
しかし、俺の考えを否定するように監督は舌打ちをして頭を抱えた。

「透くんは、好きな人が目の前で亡くなったらどうする」
「本当に息をしていないか確認します」
「それで?」
「……葬儀場に連絡する?」

俺が答えた途端監督だけでなく周りのアシスタントの人全員が腫物を見る目で俺を見つめた。その視線全部が俺を脱獄犯のように照らす。俺が世界から否定された瞬間だった。そんな中、俺は一人この状況を理解できずにいた。人が死んで他に何をするんだ、花でも添えるのか、抱きしめるのか。そんなことしたって死んだらもうおしまいじゃないか、死んだ人間は生き返らない、願っても叶わないことにどうやって足掻くって言うんだ。

「これは医者でもないし、俳優でもない、相島透だったらどうするって聞いてるんだ」
「はい」
「それを説明した上でもう一度聞くよ、もし好きな人が死んだらどうする」

俺には恋焦がれる気持ちも、分からない。模範解答を見つけようと頭の中から必死に言葉を探すが、今の俺が何かを言ってもそれは蛇足にしかならない気がした。俺は芸能界に入ってから初めて素直な気持ちを伝える。

「分かりません」

頭を振り俯く俺の前を何かが横切った。床が大半を占める視界の端では監督が絶対零度の瞳でため息を吐いている。他のスタッフが立ち去ろうとする彼の腕を掴んだ、マネージャーでもある母さんは俺の頬を思い切り叩いた後監督の前で土下座をする。嗚呼、俺ついにやらかしてしまったのか。頭が真っ白で他には思い浮かばなかった。涙も出ないし、悔しさもない。どうしようと考えを巡らせるが、こんな事態想定していなかったので母さんから対処法も聞いていないし、この場における最適解が分からない。分からないから俺以外がこの状況はまずいと必死に今自分ができる最善の行動をとる中、俺は一人硬直していた。
引き留めるスタッフを振り切り、号泣しながら頭を地面に擦り付ける母さんにすら脇目も振らずに監督はドアノブに手を掛ける。
早くこんな夜過ぎてしまえばいいと思った。
それが俺の中の何かが完全に崩壊した瞬間だった。
繋ぎとめていた蜘蛛の糸がぷつんと無常に切れる音がした。
それでも過ぎてほしいと願ったところで時計の針は勝手に加速しない。俺が居たたまれなさに拳を握りしめたところで、この後に起こる最悪の事態を想像したって、夜は簡単には明けない。
明けてほしいと願う夜はいつだって明けずに、俺を覆い隠すのだ。
最後に監督が手を振った。俺はその仕草がギロチンの歯を落とす合図だと思って目を逸らすことはできずに、ただ現実とは思えないまま見つめていた。

「透くん。そんな人間、どこにも必要とされないよ」
「っは……」

目覚めは最悪だった、いや最悪なんて生ぬるいものではない。俺は唐突な嘔気に耐えられなくなって森の中に逃げる。隣に少女がいないことが分かると、我慢の限界だった胃が痙攣して胃酸が逆流してくる。口の中に苦いものが広がった。何度も何度もえずいてとうとう食道が口から飛び出そうになったときに、疲れ果てて横向きに倒れた。
乱れた呼吸を整えながら、目を瞑る。あれは夢だ、母親がこんな辺境にいるはずない。しかし、心拍数は落ち着くどころか、鼓動を早める。俺は珍しく混乱していた、こんな情けない姿君に見られなくてよかった。

「そういえば、ボタンは……」

静寂に包まれる朝の森では寝息も筒抜けだった。洞窟に戻ると規則正しい呼吸音と、寝返りをするのが聞えてきてほっと胸を撫でおろす。気持ちよさそうな寝顔を覗き込み、あがった心拍数を落ち着かせようと深呼吸をした。
丁度その時、彼女の薄い瞼がぴくぴくと痙攣して、躊躇うようにゆっくりと開かれた。

「はよ」

ボタンは眠たそうに目を擦ると、挨拶をした俺の顔をまじまじと見てくる。まだ胃液がついているのかもしれない、一応顔はちゃんと洗ったはずなのに。俺が慌てて口元を拭うと、微睡んでいた彼女の瞳にようやく生気が宿った。驚いたように上体を起こすと、そのまま背骨を仰け反らせて後ろに下がる。目を瞬かせる彼女の不審な動きに俺は自然と目を半眼にして様子を伺った。

「お、おはようございます」
「何、その反応」
「……寝起きで何故そんなに美しい顔をしてるんですか?流石に私も人間を辞めたくなるんですけれど」
「新手の嫌味か」

拭った袖は汚れていないので本当にただそれだけの理由で驚いているらしい。彼女が俺の顔に興味がないことは最初から分かっている。今まで出会ってきた女性は大抵顔ばかりじろじろと見て、大して話も聞かずににこにこ相槌を打っているような奴ばかりだったが君は違った。俺のパーツじゃなくて目を、声じゃなくて話を聞いてくれる。もしかしてそういう趣味か女色なのかと疑ってるが敢えて聞くことはない。そこまで首を突っ込んで知りたいとは思ってないからだ。
夜のうちに雨が降ったのか、洞窟の入り口は濃霧が白く立ちこめている。健気に咲く朝顔の葉では朝露が滑っていた。
土臭い雨上がりの香りが好きだ。
そして隣には自分を性的な目で見てくることのない女。
こんなにも心地の良い朝を迎えたのはいつぶりだろう。

「ため口辞めたの?」
「ため……?」
「砕けた話し方、辞めたの」
「あ、いや、あれは……」

昨日必死になるあまり、丁寧な言葉を忘れた君はもうそこにはいなかった。本心を晒しだすようになったとは言え、理性をまだ砕ききってはいない。依然丁寧な言葉遣いは使い続けるようで、俺は歯痒い表情を向けた。

「まぁいいや」

今はまだいい、いつかそれすらも取っ払って楽になれたらよかった。自分に丁寧な言葉を使ってほしいわけじゃなくて、君が楽に話せればそれでいいのだ。まだ敬語のほうが楽なら無理に砕けずとも敬語を使ってほしい。

「今日何したいの、ボタンは」

話題を変える俺にほっとしたような顔をする。これでも心配していたので少し傷ついた。顔に出ることは無くとも、俺だって色々考えることはあるのだ。感情が薄くなったとしても、濡れた捨て犬を見捨てられぬように多少の情は湧く。君はその枠に当てはまっている。
目の前の少女は考えを巡らせるように斜め右を見つめた後、唇を結んだまま何が言い出そうとする。躊躇うくらいならいっそ言ってから後悔すればいいのに。しかし君の考えはそうではないらしい。熟考に熟考を重ねた彼女の決断は口を開くことだった。

「……祭りに行きたいです」
「は?」

せっかくあそこから逃げてきたのに、もう一度飛び込むなんて阿呆なのか。
喉を通り過ぎて上咽頭までのぼって出掛かった言葉を飲み下す。
でもこれは言ってしまっても良かったかもしれない。なんて無茶な願いを託してくるのだろう。
俺の顔が歪むのを確認しても尚、意志の強い瞳は揺れることなく真っ直ぐと俺を射抜く。

「自分の発言が愚かなのは承知の上で頼んでいます。ですが一度でいいから行ってみたかったんです。ずっと遠くから眺めるだけだったので」

ボタンが零すその一言は俺に二の句を継がせない最適解だった。そんなこと言われてしまえば、駄目だとは言えないだろう。やりたいことをやるために、生きることを決めたのだから。
俺は少女の願いを叶えてあげたいと思った。
ヒーローとは言わずとも救世主になりたい。
二十四の男にしては子供じみた願いだろうか。
でも彼女の背景を知ってしまえばその幸せを願わずにはいられなかった。
貼り付けの笑みではなく心から笑う君を見てみたい。
こんな欲を七つも年下の娘に抱くなんて気色悪いだろう。
それこそ俺を取り巻く人や応援してくれる人がその事実を知れば興醒めしてもう二度と陽の目を浴びれないかもしれない。
何も持ち合わせてない少女に自分が何故振り回されるのか自分でも分からなかった。
しかしただの庇護欲ではないことは確かだった。
その感情に名前をつけてしまうのは勿体ないと思った。汚い自分の中で唯一誰かの幸せを願える綺麗な部分を全部理解してしまうのは嫌だし、そんなに軽々しく名がつくものでないと悟っている。
だから大切に取っておくのだ。気づかないように、あまり見つめすぎないように。

「分かった。ただ俺は準備があるからまた18時、ここに集合しよう」

躊躇うことなく承諾する俺に頼んできた本人は酷く驚いていた。そうやって隠そうとしているが内心喜んでいるのはばればれだった。口角が何かを堪えるようにぴくぴくと震えているのを俺は見逃さない。

「準備って?」
「仕事とか色々」

これは嘘だった。今更マネージャーに何か言ったところで見逃してくれるはずもなく、連行されてしまう。ここで下手な手を取ると君の人生にまで影響が及ぶだろう。
俺は別の用事で君と離れる必要があった。
祭りと言えば「アレ」だろう。
俺は君に背を向けると、街の端に見つけたトンネルを目指した。あそこからだったらもしかしたら隣町まで繰り出せるかもしれない。
足元は山間部ということもあり不安定だったが、俺の足取りは不思議と軽かった。
誰かの為、という思いが俺を少しずつ変えていっている。
足元ばかりだった視界が真っすぐとトンネルの先を見据える。それから意味もなく空を見上げた。
雨上がりの空に似合わない明るい惑星は惜しみなく世界に光を降り注ぐ。俺はその光の雫を余すことなくぜんぶ飲み干したいと思った。
約束の時間になっても相島透は戻ってこなかった。私はつい地面の土をいじいじしながら時間を潰す。君の方から時間を指定しておいてもう六時の鐘が鳴ってから一時間を過ぎている。流石に遅すぎるので、私の心では不安と怒りが葛藤していた。

「変なことに巻き込まれてないといいんですけど……。それ以外の理由で遅刻したなら要相談案件ですよ」

ふと顔を上げると、向かい側の山にはもう明かりが灯っていた。いつもの色と違う提灯を透かしたその色は、まるで山全部が燃え盛っているように赤一色に染まっている。少し手前の時計台の長針はゆっくりと時を進めていた。暮相の空には一番星が滲んでいて、薄い衣を透かしたような雲は段々と藍色の空に溶けていく。蝉の音に被せるように微かに笛と和太鼓の音が鳴っているのが分かった。嗚呼、今年もこの時期が来たんだ。17年間代り映えのしなかった風景から一転、今の私はどこまでも行ける自由の身であることが未だに信じられなかった。鳥籠からしか見てこなかった世界はこんなにも広かったんだ。今まで網膜に映っていた狭い世界はどこまでも広がっていた。空も海も山も人もそれこそ星のような大きさで、どこまでもどこまでも果てしない世界として繋がっていた。私は幻想的な風景に怒りも忘れて心を奪われていると、鼻腔に鈴蘭の淡い香りが充満した。

「遅くなった、すまない」

少し掠れた声の持ち主は振り返らずとも分かった。土のついた手を軽くはたくと、私はほっと肩に入れていた力を抜いた。そのままゆっくりと振り返る。さぁこれだけ遅刻したのだ。何という言い訳が出てくるのか見ものだ。

「心配するので約束は守ってくださいね……ってどうしたんですか?その浴衣」
「浴衣だけじゃない、簪もある」
「そうじゃなくて……なんで、」

言及するつもりだったのに、聞く前に驚かされてしまった。君の片手には高そうな生地があった。麻製の通気性のよさそうな布には一面、朝顔の花が咲いている。反対の手にはピンクゴールドを基調としたシンプルな簪も持ち合わせていた。アクセントとして硝子でできた朝顔が添えられていて、言葉にするのも躊躇われるほど美しい。
私が目の前の光景に言葉を失っていると、君は想像と違うリアクションに若干困り眉で頬を掻きながら釈明する。

「いつも眺めてた景色にいた同世代の子はこんな格好じゃなかった?俺の価値観がおじさんだったらすまん」

私がどうしてこんなにも驚いているのか、君の見当外れな推測に思わず頬が緩む。まさか君が遅れてきた理由は私の浴衣を探すためだったのか。小さな町に浴衣をレンタルできる場所なんてそうそうない。きっと隣町まで出たに違いない、一体どれだけの体力と労力を要したのだろう。君の顔面はまるで証拠だというように白いマスクが大半を覆っていた。下瞼ぎりぎりまで持ち上げられたそれは君の煌びやかなオーラを幾分か和らげる。
百歩譲って自分に利益のある人や、有名女優のためとかならまだ分からなくもない。こんな存在するだけで邪魔なちんちくりんのために身を削るなんて君は馬鹿だ。
私は複雑な顔で君を見上げるしかなかった。君は私の表情に一瞬傷ついたような顔をしてみせる。

「そんな顔しないでください。これでも喜んでいます」

私は微笑みをたたえながら、首を横に振ってみせる。
遅刻されたのにこんなの、許すしかできないだろう。私は君の左手に手を重ねて自分の髪に添える。一つに結われていた頭に朝顔の花が三輪咲いた。君は驚いたように瞳孔を大きくして、それから緩やかに目を細めた。俳優の相島透のときには見ることのできなかった新しい仕草に、私はときめきよりも興味深いなと思ってしまう。こんな顔今まで見たこともないし、心理学の本にも書いていなかった。一体これはどういう感情なんだろう。私がじっと彼の瞳の奥を覗こうと奮闘していると、不意に簪に触れた指先が耳たぶをなぞる。冷え性の手が触れた皮膚が不思議とどんどん熱を帯びていく。

「からかうのは辞めてください」

本当は嬉しくて可愛らしくお礼を言ってみてもいいなと思ったが、今更態度を変えてすり寄るのは何だか違う気がしてつい素っ気なくしてしまう。私が眉間に皺を寄せながら訴えかけると、君ははっと我に返ったような表情をしてそのまま高速で手を引っ込めた。挙動不審な動きに私の皺はどんどん深くなっていく。君はもう落ち着きを取り戻した顔で、右手に抱えていた浴衣と帯を押し付けてきた。よく見れば浴衣だけではなく、白く通気性のいいワンピースもあった。私は所々破けた自分の服に目をやる。普段使い用にと考えてくれたのだろう。

「着てみて。サイズが合ってたらそのまま出発しよう」
「はい」

私は半ば強制的に持たされたそれを抱えると、森の深くまで歩いていく。しかし、変な感じだ。表情と言い、耳に触れる手つきと言い、調子が狂う。一体君は何を考えているのだろう。

「私ってこんなに心読むの下手だったっけ」

数日客を取らないだけで、読心術というのはこんなにも鈍るものなのか。それとも、君の表情には私がまだ出会ったことのない感情が込められているのか。私はどうしたものかと唸りながら、誰の目の届かないところまで歩いていくのだった。





ずっと神社にいたはずなのに、踏み入れた瞬間異世界のように感じてしまうのはどうしてだろう。規則正しく並べられた石畳は綺麗に清掃されていて、暗がりに赤く怪しい光が映えていた。賑やかな祭囃子と、子供のはしゃぐ声が絶えず聞こえて気分を高揚させる。
遠くから見ていた世界が現実となった興奮から紅潮していく頬に手を当てた。君にばれないうちに熱を冷まさなきゃ、またからかわれると思った。
すれ違う人は誰もが幸せそうだった。恋人同士が多いような気がする。そんな空間に君みたいな美形と、ガリガリちんちくりんの私が並んで歩いている姿を想像して思わず背中が粟立つ。不釣り合いすぎて恐ろしいくらいだ。あと、浴衣の件の衝撃で薄れていたがちゃっかり君も甚平を身にまとっていた。ちなみに色はお揃いとかでもなんでもなく、白に多彩な色の花々の柄が描かれている私に対して、落ち着いた紺色は派手さはないが統一感があった。
私は何だか落ち着かずちらちらと定期的に隣の男に視線を送ってしまう。どうして彼が私と一緒にいてくれているのか未だに分からない。私は何も考えずに歩いている男と少し距離を取った。

「なんで離れる」

ですよねと思った。私は言い訳をごにょごにょと重ねる。

「いやぁ、透くんの顔が主な原因と言いますか。視線がこう一点集中するといたたまれないと言いますか……あの、怪訝そうな顔辞めてもらっていいですか?」
「怒っていない、ただ理解できないだけだ。ボタンが言っていることは俺の顔のせいでお前が肩身の狭い思いをしている、だから距離を取りたい。そういうことか?」
「そうです!!日本語お上手ですねー」
「じゃあ離れる必要ないな。距離を詰めろ、そう離れられると通行人の邪魔になる」

正論だった。そう言いくるめられてしまえば言い返す言葉が見つからない。

「……はい」

私は肩を落としてなるべく気配を消した。彼に熱い視線を送る女性たちに、誤解なんだと観念した顔をすることと、どうか刺されませんようにと祈ることしかできなかった。私が顔を上げると、君の身長が思ったよりも高いことに気づいた。180は優に超えていそうだ。浴衣の袖を引っ張って、気づいてもらおうとする。見下ろしてきた君に私はじとっと睨みをきかせた。君は面倒くさそうにため息を吐くだけでまた視線を前に戻す。諦めろということだった。
それから目に入る屋台全てを見て回った。金魚すくい、鮫釣り、りんご飴、綿菓子。君は自由奔放に神社を駆け回る私に嫌がることなく着いてきてくれた。彼氏でもないのにどれも文句の一つも言わず付き合ってくれる男、そうそういないだろう。ちらちらと隣の男に視線を送ってくる女性に「お目が高い。優良物件ですよー」なんて紹介してやりたかったが、君の立場的に辞めておいた。

「透くん、あれ射的ですよね!」

射的の文字を見つけて興奮が一段階ギアを上げる。屋台の食べ物も、出店でしか出会えないイベントも、全部楽しみにしていたが、私の一番の目的はこれだった。射的、銃を使って景品を落とす単純な遊びである。しかし、小屋の中では中々見ることのないメカニックなものは私の好奇心を擽る。レバーを引いた後に小気味いい音を鳴らすのも、微かに火薬の煙がたつのも格好いいとずっと思っていた。私が先ほどとは打って変わった光を含んだ瞳で上目遣いをすると、君は表情を変えずに尋ねてくる。

「やりたいのか?」
「はい!やってるところを見たいです」

君の体が拍子抜けしたかのように傾く。何か変なことを言っただろうか、不思議に思う私に彼は呆れたようにマスク越しの表情筋を脱力させる。

「お前がやりたいんじゃないのかよ」
「透くんが銃を構えた姿が様になるかなと思いまして」
「何、ボタンも俺のファンなの?」

目をぱちくりさせながら聞いてくる彼に私は全力でかぶりを振る。ファンだなんて断じてなかった。

「そんな滅相もない!きっと私みたいな人間が捧げられたから、神様は恩恵としてこのような美しい顔を造形されたのだと思うと少し感動したまでです」
「なんかリアクションしずらいな」
「喜んでくださいよ!その顔で生れ落ちることができて嬉しくないんですか?」

そう口にしておきながら、私は勿体ないと思っていた。小さい頃から業界で働いてきたなら、あの初期透の爽やかな水あめみたいに甘い微笑みに懐柔されてきた人間が数多いるのだろう。しかし、そうやって生きてきたからこそ実際君の心の壁は陰で分厚くなって自分の声すら届かなくなってしまった。周りにいた誰一人として、君の笑顔が完璧すぎて静かに崩壊していったことに気づけなかったのだ。
だから私は君の顔は蛇足とさえ思っている。中身のない、屑な人間なんてこの世にごまんといるだろう。それなのにどうして君が選ばれてしまったのだろう。君がどうしようもない人間だったらきっと何も考えなかった。けれど、君は清らかで泥臭い人間だった。思っていた以上に不器用で、思っていた以上に鈍感で、思っていた以上に生きるのが下手な人間だった。
仮に君の顔が興梠だったとしたら、ファンとやらは離れていくんだろう。
でも私はきっと君の顔が興梠だったとしても離れず、いつもと同じように話せる自信がある。それは君の肌に張り付いたパーツとバランスではなく、生き方を尊敬しているからだった。

「いいことばかりじゃないよ、逆に面倒ごとに巻き込まれることが多い。あと偏見に悩まされる」
「……それはそうですよね。失礼しました」

君が真剣に言うので、私も申し訳なさから声量が小さくなる。

「まぁでもボタンみたいな奴には関係ないけどな」
「褒めてるんでしょうかそれ」
「んー、どうだろうね」

訂正しよう、顔だけではなく発言の数々も蛇足であった。つまり私が王道ではなく、B専(とくしゅせいへき)だと言いたいのだろうか。折角好感度が上がりかけていたのに、上げて落とされた気分になる。私が拗ねているのを他所に、彼は財布から小銭を出していた。

「おっちゃん、二発頼むよ」

射的屋のおっちゃんはだるそうに顔を上げながら二百円を受け取る。割といかついヤクザ顔のおっちゃんは彼と目があった瞬間、その顔に似合わない蕩けた表情で恍惚の息を漏らした。

「……あれ、どっかで見たことのある顔だな。なんかモデルとかやってたりするのか?」

おっちゃんの冗談めいた何気ない一言に心臓が飛び跳ねる。
どきりとしてつい彼の方を向こうとしたが、それは彼の左手によって阻止される。私の頭部は片手一つでがっちりと固定されて微動だにできなかった。君の態度を見る限りここでの正解は何も反応しないことらしい。首筋に冷や汗を流す私に対し、君の態度は涼しいものだった。

「勘違いじゃない?俺は隣町の大学に通ってるただの大学生だよ」
「まぁそりゃそうか、有名人様がこんな街にくるはずないもんな。あいよ、的に当てたらその景品が貰えるからな」

おっちゃんは笑ってスルーしてくれた。私の拍動は徐々に落ち着きを取り戻す。それにしてもマスクをしても尚オーラが消せないのか、最早行き過ぎた美形は恐ろしいものだと他人事としてしか捉えられない世界線だった。
墨色蒼然となった世界に、ぽつりと君の横顔だけが浮き出て見える。作画が違う挿絵のようだと思った。蜃気楼が見えなくなったと言っても、夏盛りの夜さりは蒸し暑い。しかし額から一筋流れる雫もまた様になるので、私は何も言えず黙ってその横顔を観察する。

「ボタンはどれが欲しいの?」

突然私に話が振られた。押さえつけられていた手がようやく離れ、君を見上げると片手に(ピストル)を持ったまま袖を捲る色男がいた。ああこういうのを見たことがある。毎年祭りの際一度は見る光景と近似していた。大体恋人同士が射的をしたとき男が「何がほしい?」と甘い声で聞くと、女は決まって一番大きな景品を指さすのだ。彼氏側は奮闘するものの、中央にある大きなぬいぐるみが倒されることはなく、おっちゃんにまんまと搾取される。そういう意味ではこのおっちゃんもある意味策士だ。毎年、大きな景品を狙う恋人たちからたんまり儲けているのだろう。

「あれがいいです!!」

私が指さしたものは全く可愛げのない白いつつみだった。風で飛んで行ってしまいそうなほど儚い和紙に包まれたそれは、墨汁の「花火」の文字が滲んでいた。
君は鳩が豆鉄砲を食ってもそんな顔しないだろうという具合で私をまじまじと見てくる。

「あれって……花火?いいの、熊のデカいぬいぐるみとかあるけど。女子ってそういう方が好きじゃないの?」
「花火一回してみたかったんですよ。いつも打ち上げられるものを遠くからしか見てこなかったので」
「ふぅん、まぁへましないように努力する」

君は変に意気込むこともなく手にある鉄の塊を構えた。照準(エイム)を合わせるために片目を閉じる彼は顔のほとんどのパーツが見えなくなってしまっているというのに、やけにキラキラしている。私は困ったように笑う、もうこの姿だけで結末が大体分かってしまうじゃないか。
「へましないように努力する」
一見気障な台詞に聞こえるが、期待を裏切ることができないのが相島透の恐ろしいとこだった。
パンっと躊躇いもなく小気味いい音が弾ける。
軽い音を立てて、純白の包みは地面に落ちた。

「やっぱり」
「おいおい、前世はカウボーイか何かか?!まぁ当たったものは当たったからな、おめでとうさん」

カウボーイと揶揄された青年は的に当てたというのに喜びを見せない。そんな姿に店主は若干引きながら、景品を押し付ける。私の方を振り向いた君は完全にスナイパーの目をしていた。役者スイッチというものは変なところで入るらしい。おっちゃんの言葉に引っ張られてか、心なしか彼の背景に荒野とサラブレッドが見えたような気がした。

「どうするあと一発あるけど」

彼にとって大切なのは手に入れた景品より、弾を打ち切ることらしい。表情は変わっていないのに予想以上に楽しんでいるちぐはぐ具合に耐えられなかった。真っすぐなその姿が子供っぽくみえて私は失笑してしまう。

「一発で当てろなんて言ってませんよ、私」
「じゃあボタンがやればいい。ほら構えて、そうレバーに手を掛けて。まだ引くんじゃねぇぞ。ボタンが銃を持ってるってだけでひやひやするのに暴発されたら困るからな」

流石に信用されてなさすぎではないか。彼は私を台の前に立たせると自分は後ろに回って、覆いかぶさるような形になる。銃に二人の手が添えられた。君の薄い胸板が肩に密着して、知りたいとも思っていない心拍数が伝わってくる。私は皺ばむ顔を斜め上の彫刻品から逸らしながら呟く。

「ひぃ……息が首に当たります。気持ち悪い」
「気持ち悪いって言ったか今?」
「い、言ってません……それよりこれを押せばいいんですか」

狙いを定めたつもりだったが、気を散らす要因が多すぎて正直言うと身が入ってなかったこともある。
私が何気なく指を引こうとしたその先には、いかつい眼光を光らせたスキンヘッドがあった。

「下手くそか!」

危うくおっちゃんの脳天をぶち抜きかけた私に拳骨が落とされた。君はもう半分呆れたような表情をしている。私は状況に理解が追い付かず呆けた顔をしていたが、有り得ない状況にじわじわと笑いが込み上げてきた。当の本人が笑いを堪えているというのに、隣の男は本気で心配したような顔で私の顔を覗いてくる。

「いくらコントロールが下手だとして、どうして銃口がそっち向くんだよ。殺意高すぎだろ」
「……すみません……ぶっ」

突っ込みがあまりに的確過ぎて、我慢が出来なかった。耐えきれず吹き出してしまう。自分でも意味がわからない状況だと思う。だって普通、隣にいる人の顔が良すぎるあまり理性を飛ばして危うく人を殺しそうになることあるか。あって堪るか。でも実際起こりかけたのだ、これこそ本当の美の暴力だろう。君は子供が初めて包丁を使う時の保護者の目をしている。それが余計に面白かった。笑いが一向に収まることのない私は「ごめん」と言っておきながら、腹を抱えて崩れ落ちる。

「おいおい、しっかりしろ。どうしたんだよ本当に。気が狂ったのか?」

咳き込む私に、背中がぽんぽんと一定のリズムで叩かれる。
幸せとはこういうもののことを指すのだろうか。
気兼ねなく神社を歩いて、嫌な顔せずに隣を歩いてくれる人がいて、しょうもないことで笑って。
その全てが当たり前だと笑える人が羨ましい。
息も絶え絶えになりながら、それでも笑うことを辞めれない。くだらないことで涙が出るほど笑らう経験なんて、したことがなかった。顔が熱くて胸が苦しいほどにいっぱいだった。
あぁ。

「死にたくないなぁ……」

腹に手を当てながら今度は地獄耳の君に聞こえない声量で呟く。火薬は幸せによって中和されることなく腹に留まり続けている。素直に幸せに身を委ねられれば良かったのに。心が満たされる度に脳裏を掠めるのは、数を減らしていく時限爆弾の秒数だった。
死ぬ前に幸せを見つけてやろうと飛び出したのに、いざ幸せを知れば知るほど知りたくなかったと後悔に襲われる。
馬鹿みたいな話だ。掴んだ幸せを離したくないと思ってしまう。失いたくないと思う思い出が増えてしまう。
『私は失うことが怖いと感じるほどの地位も思い出も積み重ねてきたこともないので』
君に告げた言葉が嘘に塗り替わっていく。幸せと反比例するように別の感情が湧き出る。
頭を振って、笑う膝に力を込めて、立ち上がった。もう一度銃を手に取ると今度はきちんと狙いを定める。狙いは特に考えもせずに選んだ一番大きな熊のぬいぐるみだった。彼がつむじの上で頷くのが分かって、私も真っすぐ前だけを見る。
レバーに掛けた人差し指を思い切り曲げようとした。
その時だった。

「あっ!」

周りの人が避けるほどの声量の持ち主は、何故か私たちを指さす。指の持ち主は全く顔も知らない若い女だった。規則正しく刻まれていた拍動が無くなって私は思わず君の方を見る。白い肌には一筋の汗が流れていた。おっちゃんに声を掛けられたときとは比にならない焦りが浮かぶ彼に、私の指先は一瞬で氷河と化す。

「アレ、神に捧げる少女じゃない?」
「えっ、脱走したって言ってた?」
「気持ち悪い、何でこんなところにいるの」
「てか隣にいる人誰?なんか横顔イケメンじゃない?」
「ほんとだ!!しかもちょっと相島透に似てるー!」
「え、そういえば相島透って今行方不明で活動休止してるんじゃないの?」
「まさか、この女と駆け落ちするために?!はぁ、普通にありえない。冷めるわ」

観衆の声は黄色いものから漆黒へ鮮やかにグラデーションする。たった一人の何気ない言葉がその場にいる大勢の目に悪意の種を宿した。
その結果、瞬きする間に数えきれないほどの矛先が私たちの方を向いていた。
君の腰がくるりと人通りの少ないへ翻る。銃に添えられていた手は私の指先へスライドして掴んだ後、鉄の塊を手放した。君は私を連れて逃げるつもりだと瞬時に判断する。
駄目だ、私は足手まといだ。直感が叫んだ。
私は傾く体にブレーキを掛ける。軽い体ではあるが、踏ん張ればそれなりの抵抗はできる。振り返る君は今にも噛みついてきそうな顔をしていた。

「行くぞ、ボタ」
「透くん、私」
「いいから!!」

そんな喋り方すれば喉が千切れてしまうだろう。宝石にまた一つ傷がついた。私のせいだった。君の声に衝撃を受けてささやかな抵抗は失敗に終わった。透くんは私の手を強引に引くと、人の波を潜り抜ける。彼のボロボロのスニーカーが悲鳴をあげて今にも壊れそうだった。気を抜けば躓いてしまうこの状況で、それでも私が走れているのは自分がどんな酷い言葉に晒されようが迷わずに進む背中が目の前にあったからだ。
嗤う人、物を投げつけてくる人、写真を撮る人。
頬がぶたれたように熱くて繋がれてない方の手で拭うと、豚汁のニンジンが肌に張り付いていた。私は人の目が怖くて、足元だけを見て走る。しかし、皮膚がうっ血して白くなるくらい強い力を込められた腕が視界の端でちらつくと涙が込み上げてきた。君の額からはマスクが剥がれ優美な顔が露わになる。そうなれば流石に周りの人は私の手を引く男が相島透だと確信して、更に騒めきは大きくなる。
あぁ、私なんてことをしてしまったんだ。私の我が儘で透くんを危険な目に合わせて傷つけて、挙句の果てに苦手な群衆の盾なってもらって。やっぱり私は疫病神なのかもしれない、周りにいるだけで誰かの迷惑で誰かの不幸で。傷つけてはいけない人を、傷つけてしまう。
縺れる足を踏ん張って人込みを抜けると、彼だって土地勘がないのに私の姿を誰にも見られないように庇いながら人通りの少ない道を選別してくれた。後はもうひたすら走った。息が苦しくて段々何も考えられなくなってくる、視界に映る石壁と彼岸花がものすごいスピードで後ろへ流れていった。前を向くと肩で息をする透くんがいる。
ごめんなさい、と心の中で呟く。
彼の姿を目にするだけで申し訳なくて、私はそっと目を逸らす。夜風に潤んだ瞳を晒して、早く乾いてくれと願った。
苦しいけれど庇われた私はまだましだった。君が引いてくれる力のお陰で体は勝手に前に進む。君より楽に逃げている自分が情けなかった。
もう神社の提灯の明かりも点になった頃、彼はようやく右手を脱力させた。

「はぁ……っ、はっ」

嗚咽と同時にどさっと重たいものが落ちた音が聞える。驚いて地面の方を見ると、四つん這いになりながら必死に呼吸をしている透くんがいた。

「透くん?!」

背中をさすると、彼は咳き込みながら私の手に自分の手を当てて「やめろ」と静止させる。人に揉まれたせいで、煙草と甘ったるい香水の匂いとアルコールの匂いが纏わりついた。酸素が足りなくて思い切り深呼吸すると、その匂いまで吸い込んでしまって私までむせてしまう。
苦し気に喘ぐ透くんは、涙でぐちゃぐちゃの私の肩を押し出した。

「……逃げろよ、早く」
「何言ってるんですか?!こんな状態の透くんを置いていける訳ないじゃないですか」
「馬鹿だな、ボタンが先に行かなかったら俺がこんな無茶した意味ないだろう。別に死ぬわけじゃないし、後で追いかけるから大丈夫」
「そうやって虚勢張って、倒れているところを無理やり誰かに問いただされたりしたら……」
「黙って早く行け!」
「私は!!」

こんな大声出してもし誰かが来てしまったら元も子もない。彼の努力の水の泡になってしまう。
それでも私は声を荒げる選択をした。
そうしなきゃ、本当の彼には届かないと思ったからだ。彼は私の言葉を本気に捉えていない、掛ける言葉全てを上辺だけのものだと勘違いしている。その背景は、きっと幼いころからお世辞や胡麻をする言葉ばかり掛けられてきて、いつしか本当に心配する言葉が届かなくなってしまったのだろう。
当たり前だ、そんな経験して一体誰が周りの大人を信用したいと思えるのだろう。
彼の周りにはいつも人がいたかもしれないけれど、透くんはずっと孤独と戦ってきた。
極限まで整えられた体裁は自身ですら自分を見失ってしまうほど分厚く、それに加えて騙された周囲の人々も本当の君を知ろうとしなかった。
誰も頼れない、誰も信じられない世界で、たった一人で生きてきた。
だったら今夜、私が貴方の世界で二人目の人間になることを誓おう。
震える喉で息を思い切り吸い込む。普段使わない筋が伸びて、今にも破裂しそうな肺と肋骨が軋む。
私は彼の頬を両手で包み込むと、そのまま引き寄せて額を密着させる。
鼓膜が破れそうなほどの声量で放つ言葉が、虚ろな目をした彼にどうか届きますようにと祈った。

「私は、貴方が苦しむのが一番怖いんです」

酸欠で視界の所々が欠ける。腹筋に力を入れなければ、意識が飛んでしまいそうだった。そんな穴だらけの私の目にも鮮明に映ったのは、彼の揺れる睫毛だった。
大胆なことを言い放っておいて自分が一番驚いていた。気づかないうちに君は静かに私の世界の真ん中にいた。
変な男だと思うだけだったのに、今私はどうしてこんなにも傷つけたくないと願ってしまうのだろう。
どうしてあんなに願い続けていた自由を捨ててまで、君を見捨てたくないと思うのだろう。
答えは一つだ。自分よりも幸せになってほしいと思える人ができたからだ。
君だ。
誰よりも傷ついてほしくなくて、誰よりも背負うものを軽くしてあげたくて、誰よりもこの先に待ち受ける未来が輝くものであってほしい、そんな人。私の頭の中では変な男からこんなにも長い名前に書き換えられていた。
君は与えたものの見返りなんて要らなかった、自分がどれだけ苦しくても幸せを願える人だった。空っぽならそんなことできない、自分のことを蔑む君は俳優という地位も名誉もお金も全部捨ててまで私をここまで連れてきてくれた。
それが例え自分のためであったとしても、事実には変わりない。
そして私はそれが君が失くしていたものの一つだと思った。
人はそれを漢字一文字で表したがる。
ただ敢えて口にする気にはなれない。君が自覚した瞬間、私の願いは破綻するからだ。
私たちにそんな感情、芽生えてはならなかった。

「決めました。私、神社に戻ります」

精一杯の笑顔を浮かべた。もう心は決まっている。私はその場で立ち上がると、千切れた右足のスニーカーの紐をきつく縛る。今ならまだ間に合うだろう。
依然、地べたで脱力したままの君は何か言いかけた言葉を飲み下して、乾いた笑い声をあげる。

「は?何言って、」
「ちゃんと皆に頭下げてごめんなさいってして、白い浴衣に着替えて、腹切ってきますね!せっかく髪飾りも浴衣も全部可愛くしてもらったのに残念です」
「おい、」
「最後に楽しい時間を過ごせて私は幸せでした。人らしい時間は少ししかなかったですけど、悔いのない17年でしたね!何より透くんに出会えましたし!私、実は最初怖かったんですよ、突然貴方が障子を開けたから」
「ふざけたこと言ってんじゃねぇよ、目ぇ覚ませ」
「ふざけてなんか、ないですよ」

指先が小刻みに空気を揺らす。それを抑え込もうと震えている右手で震えている左手を包み込んだ。
私は平気なことを伝えるために笑った。
笑ったはずなのに、口が金縛りにあったように動かなかった。鉛の口角はどんどん下に下がっていって、目から零れ落ちる雫が宝石のように光を孕んで零れた。

「だって、私がいる限り貴方は苦しいですよ」

私が言い放ったとき、見開かれた濁りのない瞳に暗い色が滲んだ。

「歩いているだけで誰かに後ろ指さされて、まともに顔をあげて歩けなくて、皆が私の犠牲を心待ちにしてる。そんな人間と生きていくなんてきっと辛いことだらけです」

普通だったら貴方のような人が豚汁を投げつけられるようなことも、汚い言葉をぶつけられながら逃げることもないのだ。全て、私のせいである。私と関わると碌なことがない、そんなの自分が一番よくわかっていた。

「君は私と出会って、何か一つでもよかったと言えることがありましたか……?」

私は君と出会えてよかったと思えることが沢山ある。けれど、君はどうだろうか。答えは分かり切ったことだった。
私が泣きながらでそれでも笑ったのは、私以上に苦悶の表情を浮かべている人が目と鼻の先にいたからだ。
なんだ、そんな顔できるんだ。よかった、また一つ君が感情を思い出せたことが嬉しい。
でも、そんな顔させたくて私は言った訳ではない。ただ諦めてほしくて、私のことを見捨ててほしかっただけなのだ。
それなのになんで私以上に君が苦しそうな顔をしているのだろう。

「お前は、それでいいのかよ」

掠れた声が余計に私の息を浅くさせる。私の手首を掴もうとした綺麗な手が伸ばされて、私は瞬時に引っ込める。しかし逃がさないとばかりに中指を掴んだ彼は、繋がれた指一本に五本分の力を込める。しかしその力は成人男性の握力とは思えないほど弱弱しかった。強弱を繰り返しながらそれでも離されることのない掌はどちらがともなく震えていた。

「なぁ、生きたくて生きたくて堪らなかったんじゃなかったのかよ。祭り以外にもしたいこと沢山あるんだろ?そんなに簡単に諦められるほどお前の願いは軽いものだったのか……?」

顔があげられない。きっと今顔を合わせればその切実な瞳に全て言いくるめられる。絆されて、生きたいと思ってしまう。許されないことを君だけが許してくれるから、私はそれに甘えてしまう。
頑なに否定せず、俯き続ける私にため息が降り注ぐ。額に焼かれた鉄のような熱がじわっと広がって思わず瞬きを繰り返した。手を伸ばせば簡単に触れられる距離にいる相島透は、目を瞑って私の額に自分のそれを押し付けている。

「村の誰がなんと言おうと、お前はお前の為に生きればいいし、死ねばいい。ただお前に生きてほしいと願っているのは世界でたった一人じゃないことを知ってくれ」

君の言葉は私に対して向けたものであり、自分自身に確認するために呟いたものだった。それは君にとって決して軽い言葉ではないというのは出会って四日の私にも分かる。これほどまでに痛切に言葉を紡げる人が存在するなんて、私は知らなかった。

「……それは同情ですか」
「いいや違う、ただの祈りだ」

そのまま私の体は広い肩にすっぽりと覆われ、ぎゅっと抱き寄せられた。不安や迷いがるつぼのようにどろどろに溶かされて、代わりに君の言う祈りとやらが心に侵入してきた。それは瞬く間に全身に広がって、私の強がる心を解こうとしてくる。
変態だと思った。
芋虫が蛹になってどろどろにされて蝶として体を変えるように、今まさに私は蝶になろうとしていた。
蝶になって、羽を伸ばしたら君と何処までも飛んでいけるだろうか。
誰の手の届かないところまで遠く、高く、昇っていけるだろうか。

「お嬢様……?!」

突然のことに夢見心地だった意識は現実に引き戻される。間違いない、私を探し求める声だった。恐る恐る顔を上げると、汗だくの白い浴衣を着た女が直立したまま信じられないという目で私をじっと睨んでいた。
私が息を吸うのと同時に、彼女の口が開いた。

「巫女さん……っ」
「神主様がお怒りですよ。直ちに戻りましょう、お嬢様」

ずかずかと近づいてきた巫女と目が合う。その瞬間、左頬に火花が散った。何が起こったのか状況が分からず何度も瞬きをしていると今度は髪の毛を思い切り引っ張られる。痛いと叫びたかった、しかし声は出なかった。やはり彼女の顔を見たら私に反抗する資格はないと思った。

「貴方がいなければ、我が神社の損失は計り知れないんですよ。村の住民みんながお嬢様がいなくなったことに対して怒りをぶつけている。その相手は誰だと思いますか?10年前貴方の命をお救いになった神主様なのですよ?」

分かっている。

「恩を仇で返すなんて本当に信じられません」

分かっているよ。

「貴方が17年間生かされた意味を理解してください」

分かっているって。
それでも、生きたいと思ってしまった私は欠損品なのか。
小屋にいるときに同じことを考えたことがある。私の答えは今日で決まった。
ぬるい夜風が肌に張り付く。祭囃子の音も、人々の賑わう声も、耳を澄まさなければ聞こえない。袖に隠してある線香花火の袋と、穴の開いたポイをきゅっと握りしめると、段々と賑やかなあの音が蘇る。
直後、破裂音が鳴り響いた。
祭囃子はもう聞こえない。まとめた髪が濡れて毛先から何かが滴り落ちる。
鉄の匂いが鼻腔を充満させたとき、私は上を向くことができなかった。

「うるさい」

掠れ声の彼が蹲る巫女に向けた言葉はたった四文字だった。巫女は何か言い返そうとしたが、自分の鼻から赤い液体が垂れていることに気づくと声にならない悲鳴をあげる。
私にも生ぬるいものが指先に触れた。生ぬるいといっても夏の空気の生ぬるさではない、もっと人の体温に近いそんな感じだった。丁度花火が打ち上げられる時刻になったらしい。私は暗がりの手元が花火によって明るくなったときに初めてその正体が血液だと知った。
殴って血だらけの手が、私の手に絡みつく。
不快だったけれど不思議と離したくはなかった。
その瞬間、一際大きな花火が打ち上げられた。私は思わず顔をあげると、散っていく風物詩を背景に透くんがいた。
逆光で表情がよく見えない。私が目を細めたとき、細身のシルエットの肩があがった。
一緒に過ごした時間は短いけれどこの仕草の意味を私は知っている。
きっと君は今、笑っているんだろう。

「生きることに意味を見出そうとすることがあったとしても、生かされることに意味を見つける必要なんてねぇよ。人の一生は非売品なんだから、他人が横柄に値踏みできるものじゃないだろ」

息の切れた声で必死に言葉を紡ぐ君。
私は不安定な足元からよそ見して君だけを見つめた。視界を埋め尽くすのは君だけだった。
観察なんてしなくても込められた想いは全部分かる。花火が弾けた光で照らされた一瞬の君を、私は瞬き一つでシャッターを切る。
私の出会った冷酷で感情のない君は、いつの間にか溶けていなくなっていた。感情を殺された青年にはちゃんと心があった。
ちゃんと、そこに、弱弱しいが、確かに。

「世間の目がとか、周りの人が、とかもうどうでもいいんだ。何を言われたっていい、この先進む未来が明けない夜でも、止まない雨でも、藻掻いても浮上できない海の底でも、真っ暗で先の見えない道のりでも一緒にいれば何か一つは変われるって俺は確信している」

花火が遠ざかっていく。私の瞳にはもう、彼岸花も落ちた空き缶も剝がれかけた蛻の殻も何も映らない。

「俺の手を取って一緒に逃げよう、ボタン」

今はただ、貴方が。
私を信じてくれる、君が。
網膜に染みついて、幾ら目を擦っても消えることがない透くんが。
私のちっぽけな世界の真ん中で笑っている。
微かに「待って」という声と、足首を掴む強い力が足元から私を引き留める。
声のする方へ視線を向けると、鼻から血を垂れ流しながらも死んでも離さないとばかりの気迫が私の心を現実に染めようとした。

「許さないから」

紅色の袴が恨めしそうに縋りつく。彼女はきっと私を逃したら神主にこっぴどく叱られるのだろう。
神主は私を取り逃がしたことで村の人たちから罵詈雑言を浴びせられて肩身の狭い思いをするかもしれない。
私がされたような仕打ちを、代わりに育ててくれた巫女が身代わりとなって苦しむのかもしれない。
新しい少女が『神に捧げる少女』となって17年後殺されるのかもしれない。

「はい」

それでも私は笑った。今まで彼女に17年間見せてきた貼り付けの笑みではなく、心からの笑顔で。それは皮肉でも何でもない、解放からの綻びだった。

「許さないでください。気が済むまで、私のことを一生憎み続けてください」

許しなんていらなかった。誰かから許されようと恨まれようと、その感情はどれも私を止めることはできなかったのだ。だとするならばそれはきっと私にとって必要のないものなのだろう。
ただ、彼だけは必要だった。
誰かの言葉より、感情より、私の世界に彼がいることが大切だった。
彼だけは手放したくなかった。
そう思えたことが、生きてきて一番幸せだと感じた。

「育ててくれて、偽りでも大切にしてくれてありがとうございました。……けれど、誰かの言いなりで、自我を殺していた私は今日でおしまいです。誰が何と言おうと、私は神に捧げる少女じゃない」

肩をすくめると私は紫色になった足首に絡みついた手を解く。もう、その華奢な手には力が込められていなかった。諦めたような虚ろな目玉二つが私を見上げる。私は頷くと、背後でずっと見守ってくれていた大切な人の手をとった。

「私はボタンです」





そこからの記憶はあまりなかった。石垣から生えてきた雑草の生い茂る細い道を抜けて、雨蛙の声が微かに聞こえるあぜ道を走って、人気のない丘を登って、たどり着いた先は寂れた公園だった。公園というのは透くんが教えてくれた。小説で何度も出てきた「公園」を目の当たりにして私は柄にもなく高揚した。もう何十年も使われていないのかカラフルであっただろう塗装は全て赤茶色の錆で染められている。切れた息がお互いに穏やかになったのは30分経ってからだった。透くんが目を閉じていると、体温の低そうな雰囲気も相まって死んでいるんじゃないかと錯覚してしまう。だから繋がれた掌はそのまま力を込めて、二人で仰向けで寝転がった。そうすれば目を瞑っていても、蝉の音がうるさくても、とくとくと指先で脈が打つから生きていると分かる。素早い拍動は酸素を取り込む度に緩やかに数を減らしていく。私は安心感で意識を手放してしまいそうだった。芝生の青臭い香りと、満点の星空、隣には顔のいい男。求婚に励む蝉がいなければ完璧だったななんて考えながら、全身に回ったアドレナリンが落ち着くのを待つ。
暫く経って彼が起き上がったので私も立ち上がると、公園とは神社とは全然違う雰囲気の場所だと初めて気づいた。鉄でできたよく分からないものが沢山あったので「これはなに?」と透くんに聞いたら「滑り台」とだけ返ってきた。

「すべりだいってあの滑り台ですか?!私初めて見ました!こんな形なんですね」
「滑り台でそんなオーバーリアクションする奴、いるかよ」
「はい!素晴らしい形状ですね。下にいくほど放物線は緩やかになっていて子供が遊んでも怪我がなさそうです。一度滑ってもいいでしょうか」

私が早口でまくしたてると君は耐えきれないとばかりに真一文字で結んでいた口角をぐにゃりと緩ませた。声を上げて笑う彼に私は驚いて、軽く君の頬を叩いてしまう。

「大丈夫ですか、透くん。壊れてしまいましたか?」
「いや、ボタンの反応が五歳児そのまますぎて……ちょっと……ふっ」

もう君は堪えようとはしなかった。笑いすぎてもう喘いでいるではないか、私は不服を申し立てるように頬を膨らませる。

「透くんにも五歳児時代があるのですから、そんなに笑わないでくださいよ!私だけって訳じゃないでしょう?誰でも最初はおんなじ反応だと思いますよ?!」
「そうだよな……っぶっ、やめろその大真面目な顔」

やめろと言われればやりたくなるのが人間の性だ。私は見せつけるように先ほどより大きく頬を膨らませる。私は君のように特別顔が整っているわけではないからそれはそれは形容し難いほど酷い顔だったのだと思う。君は大袈裟に膝から崩れ落ちて「もうやめてくれ」と呻いている。馬鹿みたいなやり取りだが、それが胸が詰まるほど幸せだと言ったら笑われるだろうか。まぁ伝える気はないが。

「それと、」

笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭った君が付け足す。

「俺、滑り台滑ったことないよ」

私が彼の瞳を覗き込む。ひんやりした革細工のようなこげ茶色のそれは私のそれをじっと見つめたあと、ゆるりと逸らしてしまった。脱力させていた腕が唐突に私の手首を引く。転ばないように淡い懐中電灯の光一つを頼りに鉄の柵にたどり着くとゆっくりと腰掛けた。
この空気で呑気に滑り台に走っていくのは間違いなのは流石の私にも分かる。衝動をぐっと堪えて、一旦話を聞こうと横顔を盗み見る。君は懐かし気に公園を見回してから、また滑り台に視線を戻した。

「俺は小学生の頃からこの業界で働かせてもらってるからさ、まともに遊べなかったんだ。近所の公園に寄ろうとしても周りの大人とか母さんが『もし怪我でもして顔に傷がついたらどうするの?』とか『誰かを一度でも突き飛ばしたりしたら君の芸能人生は終わるよ』とか言うんだよ。だから公園で無邪気に何の気兼ねもなく遊んでふざけて笑っている同級生が羨ましかった」

無条件に私は小さい子は当たり前のように公園で遊ぶものだと思っていた。私の読んできた本に出てくる公園とはそういう場所だったからだ。友達と遊ぶための集合場所、親と喧嘩して行きつく場所、自分が親となったときに今度は懐かしさに胸をいっぱいにしながら自分の子と遊ぶ場所。それが公園というものだと思っていた。
それに条件何て必要なくて、誰でもいつでも行くことのできる場所。それが公園というものだと思っていた。
けれど、君にはその権利がなかったらしい。
誰からも許されずに、周りの期待や重圧を背負わされ、娯楽なんかなくても、無理やり口角を上げてきたというのか。ちらりと横目で表情を確認しようとするが、私は驚愕してしまう。
てっきり辛そうな顔をしていると勘違いしていたが、君の表情は想像とはかけ離れていた。
何故か君は穏やかな顔のまま、ただ淡々と言葉を零す。

「でも、ボタンはそれも知らないんだよな」

私はその言葉に何も言い返せなかった。憐れまれて悲しい気持ちよりも、君には関係ない話だよねと守られた事実が寂しかった。確かに私は世間知らずの少女だ。彼より社会経験もなければ、人に揉まれて苦しんだ経験もない。
それでも、君より私の方が苦しい人生だったとは思わなかった。
私は私なりに、貴方は貴方なりに必死に生きてきたことを短い期間で伝えてきたはずなのに、どうしてこう私ばかり君に守られてしまうのだろう。
自分では気づけない痛みを私は貴方に気づいてほしかった。大丈夫って言葉じゃなくて『痛いよ』って言葉が私はほしい。

「知ってるからこと、しんどいこともあると思います。私はまだ知らないだけ良かったのかもしれません」

微笑みながら言う私に君は顔を歪ませた。何か言おうと深く吸われた君の息は、困り眉に変わって言葉にはならなかった。
今日だけで新しい君を沢山見ることができた。私はその百面相が面白くてつい失笑してしまう。

「ふふ、透くんが変な顔してるの初めて見ました。少し可愛い……」
「なっ、あ」

怪訝そうな顔でこちらから一歩引いた君は、諦めたように頭をぐしゃぐしゃと揉みしだいた。

「この状況でなんでそんなに綺麗な言葉を言えるんだよ、ボタンは」
「透くんが頑張っているからです」

私が迷いもなく言いきると、君は目に塵が入ったのか何度も瞬きを繰り返した。驚いて私が君の瞼に触れると、君の手が私の手を掴む。君はばつが悪そうに手を繋いだままそっぽを向いた。『目に塵が入ったなら早く水で流した方が……』と言っても聞く耳を持たずに、反抗するように握る力を強める。流石男性なので力は強い、それでも私が振りほどけば簡単に離れてしまうほどの臆病な力の込め方だった。怪我したときくらい素直に言うことを聞けばいいのに。
私はため息を吐くと諦めて大きな背に自分の体重を委ねて座る。

「知っていますか、世の中って一生懸命生きている人ほど損をするんですよ」

これは世間知らずの私が学んだ唯一のことだった。英語も読めなければ、簡単な計算しかできない。やることのない日々を小屋の中で過ごしていれば人の表情と言動に機微になるのは難しいことではなかった。外界からの情報は本でしか知らない私にとって情報とは人そのものだった。神捧げる少女として曲がりにも様々な人間と対話をしてきたつもりだ。
一生懸命な人間は決まって澄んだ目に傷が沢山ついていた。何処か世界に対して諦めがあって、常に何かに怯え疲弊していた。
金に、酒に、薬に、中毒になり溺れた人間は無駄な自信に満ちて、傷一つない瞳をぎらつかせていた。
美しいのがどちらかなんて、誰が見ても分かるだろう。それでも美しさと幸せは違うということは幼いなりに理解していた。

「怠けていても、結局は誰かがやってくれる。それを待ちながら生きるのが一番楽で効率的です。そしてそういう人たちは決まって、努力している人たちに言います。『努力は意味ない』と」

私も最初、心理学を極めようとしたとき巫女に止められたことがある。ポーカーで行き詰ったとき、心理学の本が欲しいとお願いをしたら鼻で嗤われて軽くあしらわれたことがある。
きっとすぐ死ぬ身で勉強なんて無駄な行為だと思ったのだろう。
ただ受動的に流れるままに生きていればきっと私の人生は楽なものだった。着替えも食事も手伝ってくれる人がいる、何不自由ない暮らしをして静かに17の夏に神に捧げられる名目で散っていた。
しかし、私は僅かでもいいからこの世界に爪痕を残したかった。
私にとって爪痕を残す方法は一つしかなかった、それが努力し続けることだった。
私のもとを訪れた金持ちのボンボンにも散々なことを言われた。
「ポーカーを頑張ったところで何か意味があるの?ただ食って寝るだけでアンタには生きる価値があるんだからそれでいいじゃん。わざわざ何かする必要ないよね」
それでも私は読みすぎて角の欠けた心理学の本を手放すことなはなかった。効率的に生きることこそ、生きる価値がないように思えたからだ。
私の考えが間違っているのかと疑う時もあった。
でも、君の存在が私は間違っていなかったと証明してくれた。

「君は諦めずに、今あるものも手放さずに、実直に生きている。透くんの生き方は泥臭いけれど綺麗です。私が出会ってきた誰よりも、綺麗です。それを頑張っていると言わずに何と言うんですか」

君の凄いところは欲張りなところだった。手の届かないかもしれない目標に向かって飛ぶとき、背負うものは軽い方がいい。それでも君は沢山の人の想いや応援を全て背負って挑んでいた。それがどれだけ茨の道か、私には分からない。それでも君が俳優の話をするときに時々息が詰まるような表情をしているのを知っている。
背骨越しに君の浅い息遣いが聞えた。どうしよう、なんて声を掛けよう。感情を露わにしない彼の心が揺れている、その事実に動揺してしまって更に焦りが募る。でも、君が今一番必要な言葉を贈ってあげたかった。自分があの時、否定されたときに、欲しかった言葉を言ってあげられたら少しは救えるだろうか。
繋がれた弱弱しい手を振りほどく。君は拒否されたことが恥ずかしかったのか、さっと引っ込めようとするが私は逃さない。ぎりぎりで掴んだ手をもう離れないように強く、強く握りしめた。

「透くん、辛いときは辛いって言っていいんですよ」

当たり前を許されていない私たちだからこそ、二人のときにその当たり前を求めてしまうのだろう。君はその言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように目から涙を流す。私がそっとその肩を引き寄せると、いつもの透くんでは想像できないほど苦しそうな声で泣いた。

「俺、きょう、だめかも」
「だめでもいいですよ」
「ん……」
「どれだけ情けなくても、駄目駄目でも、私は貴方が泣き止むまでずっと傍にいます。離れないと約束します」

膝で震える手を必死に抑えようとしている君が愛おしくて、思わず繋がれていない反対の手にも自分の手を重ねた。
その姿はつい一時間前に牙を剝いていた強気の態度の青年とはあまりにもかけ離れている。しかし、それで幻滅するようなことは断じてない。
私も弱いところがあって、君にも弱いところがある。
それでいいじゃないか。私たちは弱いけれど、受け止められないほど脆くはないのだから。

「手、冷たいですよ。夏なのに」

指先から伝わるひんやりとした感覚に驚いた。まるで血が通ってないかのような温度だった。

「うるさい」
「大丈夫です。冷たいなら温めればいいだけなので」

優しく握りこむと君は繋がれた二つを自分の頬に寄せた。涙が二人の手の僅かな隙間に入り込む。しゃっくりの合間の小さな声は、声変わりの終わった青年が少年に戻ったように上ずっていた。

「……ありがとう」

小さな感謝の言葉は私の鼓膜を揺らした後、真っ暗な空に吸い込まれていった。
小高い山にひっそりと佇む古びた公園は、この町で一番空に近い場所だった。
その日、宇宙に一番近いのは間違いなく私たちだった。
私は多分、君が宇宙に行くと言うなら宇宙まで行こうと思う。貴方は私にたくさんの新しいものを教えてくれる。私はその全部を目に、皮膚に、脳に、焼き付けてぜんぶ覚えておきたい。
泥のように眠った私が次目を開けると星影が東の空にあった。まずい、流石に寝すぎた。丸一日を睡眠で潰してしまった後悔で寝起きから気分が落ち込む。ふと隣を見ると、私より先に起きていた君が小箱と燭台を持っていた。私が寝ている間に街を探索したのか横には水と食料も置いてあった。申し訳ないと思いながらも、喉の渇きに耐えかねて水を一口頂戴する。君は特に何も咎めず、むしろおにぎりも差し出してきた。至れり尽くせりすぎてちょっと怖い。おにぎりを口に含むと、塩気の奥にほんのり甘みがあって噛めば噛むほど鮭の旨味が口いっぱいに広がる。あまりの美味しさに感動していると、おにぎりの包装を片付けようとする君の手元で小箱が軽い音を鳴らす。箱の側面は材質が違うようで、私は巫女が夜になると灯してくれた燐寸を思い出した。

「燐寸ですか?」
「本当はチャッカマンとかあったら良かったんだけどな、売り切れだったから仕方なくマッチを買った」
「何に使うんですか?」

ちゃっかまんが何かは分からなかったけどそれは後回しだ。燐寸は明かりを灯すのに使うのだろうか、でもここ二日夜は明かりなしで生活してきたし今更という感じではある。君は何やらやりたいことがあるようで、私を立たせると付いてきてと一言。またあの洞窟に帰るのかと思ったら少し違った。君は分かれ道でもう歩きなれた右の道へ進もうとする私の腕を掴んで暗い岐路を選ぶ。私は訳の分からないまま取り合えず付いていくと、唐突に蛍光色の光がゆらゆらと目の前を過ぎ去る。

「ひえぇ」

間抜けな声を出して腰を抜かす私に君は怪訝そうな視線を送る。

「ただの蛍だろ」
「妖怪ですか?私そういう類は初めてで……」

心臓の鼓動が煩い。都会に住んでいれば妖怪は普通に出くわすものなんだな、田舎の小さな馬房のような家に住んでいて一度も出会ったことのない謎の飛行物体に私は柄にもなく怯え散らかしている。反射的に目を瞑ってその場で蹲ると、近くの地面が軽く振動した。成人男性に似合わない小さなジャンプだった。

「おっ、意外と熱くないんだな」
「ななな何する気ですか」
「何って折角なら見せてやろうと思って。初めてなんだろ、その反応」
「い、いいですいいです。遠慮させていただきます!」

未知の生物は誰だって怖い、特に光るというなら。声にならない悲鳴をあげながら情けない格好で後ずさりする私に、にやりと含みのある笑みを浮かべた彼は迫ってくる。こんな状況でも無駄に顔がいいので、さながら浪漫小説のワンシーンのようだ。絵になっていて腹が立つ。
ついに距離が三十センチほどになって堪忍した私が両手をあげる。君は両手の間に蠢いていたそれを解き放つ。
星が舞い降りてきたようだった。
不思議と先ほどの恐怖心は薄れて私は、憑りつかれたようにたった一つの光に見入ってしまう。
祭りの提灯とも町の灯りとも違う、誰かを呼ぶような切実で儚い光はゆったりと舞いながら空へと昇って行った。

「ほら、何も怖くない」
「襲われませんか」
「うん」
「……本当ですか?」

私が訝しむ気持ちと冗談を半分ずつ滲ませながら問うと、君は耐えきれなかったように吹き出した。私はこの反応を知っている、私があまりにも世間知らずの田舎者すぎて呆れているのだ。不満だけれども、そういう顔をするということはまるで水の中を揺蕩うように空を泳ぐこの光は無害ということを暗示している。私はほっと胸を撫でおろして、それでも許していないことを伝えるためにじとっと睨んでおく。

「今、馬鹿にしましたね。田舎者だって」

君は視線を逸らした後「いや真の田舎者の方が蛍を知っているというか。別に馬鹿にしてるわけではなくて……」と何やらごにょごにょと言い訳を羅列するが何一つ私の心を動かす言葉はなかった。最終的には彼が折れて謝ってきたのでひとまずは許すとしよう。

「さ、こんなところで腰抜かしてる場合じゃないよ。蛍がいるってことは目的地はもうすぐだから」
「誰のせいで腰を抜かしたと……」
「誰のお陰で食料を調達できたと?」

確かにそれはそうだ、私は言い返したい気持ちをぐっと堪えてまた歩き始める。蛍というのは一匹だけではなかった、奥に進む度に一匹また一匹とその光は増え続け開けた場所に出た時には数百匹いや少なく見積もっても千はいる。若緑の光は所狭しと重なり合い、ぶつかり合い、光ったり、消えたり、昇ったり、止まったりを繰り返しながら浮遊する。幻想的な空間だった。あまりに浮世離れした世界に私は言葉を失う。ふと見た隣の君の指先に留まった蛍が、薄い皮膚を透かしている。赤く染まった皮膚は心なしか心臓の鼓動に合わせて震えているように見えて、思わぬところでこの世のものとは思えない男の生を感じた。

「綺麗ですね」
「ご機嫌は治りましたか、お嬢様」

伺うように、それでいて普通なら茶目っ気を含みながら言うところを不愛想に言うのが君らしい。

「うん」

珍しく私が素直に認めると、君は一瞬ひるんだように眉をあげた。私は表情を崩す。

「上機嫌だよ、連れてきてくれてありがとう」
「……」

興奮のあまりつい砕けた言い方になってしまった。黙りこける君に首を傾げながら暗闇の先へと進む。そこには大きな岩と静かに流れる浅い川があった。滑らないように慎重に歩くと小石が沢山敷き詰められた比較的平坦な場所で立ち止まる。君はその場でしゃがむとポケットにしまっていた蝋と燐寸を取り出した。ちちっという音と共に火が生まれるのは毎回慣れることなく魔法みたいだと思ってしまう。ぽっと闇に蛍とはまた違う光が灯った。風で揺れる火がようやく安定すると、端正な顔はこちらに向けられた。

「さて問題です、俺たちは今から何をするでしょうか」
「火遊びは辞めてくださいね。昔、神社に来た子供がふざけて神木に火をつけたことで大変な目に遭ってましたので」
「……大変な目とは」
「それ聞きます?」
「いや、いい。それに火遊びはしない」

彼は何を想像したのか身震いをして全力で否定をする。実際、祟られることはなかったにしろ守銭奴な神主から相当な額を請求されたに違いない。私は質問に答えようと再び思考を凝らすが、火遊び以外に思い浮かぶものはなかった。
私が首を振ると、彼は蝋燭の出てきた反対側のポケットからこよりを二本取り出した。私は目を細めながらそれをじっと観察する。どこかで見たような。

「あっ、線香花火ですか」
「正解。祭りで手に入れたやつ、急いでやる必要もないけれど、なるべく思い出が鮮明なうちにやった方がいいかなと思った」

そう言うと君は私に密着してこよりを一本渡してくる。私は顔を顰めて彼を避けた。彼がどうしてと聞いてくるので私は少し恥じらいながら答える。

「湯浴み、してないです」
「ゆあみ……?あぁ、風呂のこと」

こくこくと頷き自分の服の匂いを嗅ぐ。血だらけの着物は流石に着続けられなくて、君がくれたワンピースを着ているが一夜着ただけでも汗はちゃんと染みている。真夏ということもあり蒸れるものは蒸れるので予想通りきつくはないけれど、生乾きの手拭いのような嫌な匂いがして拳三つ分また離れる。彼はくだらないとばかりに鼻で笑った。

「そんなの俺も同じだろ。それにくっついていないと、隙間から風が漏れて炎が消える。嫌かもしれないけど大人しく肩を寄せておけ」
「うう……」

隙間風で今にも消えそうな蝋燭の灯を見せられてしまえば距離を詰める他なかった。私は仕方なく肩を青年の腕に預ける。ばれないように君の匂いも嗅いでみたが、生ぬるい真夏なのが嘘のように春の花畑の匂いがした。ほのかに柑橘の匂いもするので香水なのかもしれない。しかし、俳優とは体臭にまで完璧を求められるのか。何だか知れば知るほど生きづらそうな世界だなと感じる。何気ないことで改めて当たり前に隣にいる場違いすぎる顔面の持ち主は、茶の間では知らない人もいないくらい有名な人間なんだよなと思い出させられた。
これは乙女としてのプライドが傷つく。口を尖らしながら見上げるとへそを曲げた私を気にすることなく、色のない方の先端を炙るんだと教えてくれた。

「持ち手は端っこな」
「そんなの言われなくても分かりますよ……」
「いいや、箱入り娘はいつ何をしでかすか分からないからな」
「透くんは過保護な保護者ですか?」
「引火したら困るのは誰だと思ってる?」

それは私と透くんですが……。言いくるめられたのが悔しくてぶすくれた顔のまま揺れる炎に視線を戻す。隣の手の動きに合わせて私も和紙の先端を燃え盛るものに近づけた。

「「せーのっ」」

同時に白い紙を炎の中に入れる。焦げる匂いと共にぱちぱちと軽い音が鳴り始めた。周りには沢山の光が飛び交う。仄暗い世界の中で君の横顔が淡く照らしだされる。最初のような完璧スマイルよりも、今みたいにほんのり汗ばんだ頬を緩ませているくらいがいいのにと常々思う。しかし需要と供給という言葉があるように、彼は需要があるから王子様の仮面を外せない。世間と私の美意識はかけ離れているようだ。そしてこの場合私が悪食となる。

「阿保な顔してぼうっとしてると見逃すよ」

ハッとして手元を見ると火花が散り始めていた。蛍のお尻よりも鮮やかな色が小さな打ち上げ花火のように花開いては落ちていく。火花があまりにも美しく儚くて思わず反対の手で零れ落ちた光を掴もうとしたら、君に止められた。火傷したら危ないかららしい。私は大人しく二つの光を見つめる。比べると君の花の方が大きく咲いていて羨ましかった。

「知ってるか、線香花火は人の一生を表すんだ」

突然、独り言のような声量で語り出す君。私は虫の声と火花の音にかき消されてしまわないように耳を澄ます。

「蕾は人生のスタートライン、牡丹はよく人生の分岐点と言われるやつだ。迷いながらも間違えながらも自分の道を探して進んでいく、松葉は山場を乗り越えた人生の最盛期、そして散り菊は静かに散りゆく最期」
「牡丹って私と同じですね」

散りゆく花を見ながら私は顔を綻ばせた。今は丁度牡丹くらいだろう。ボタンと牡丹、偶然だとしても親近感が湧いてしまう。
遠くを見つめた。反対側の山にあるはずの小さな襤褸小屋を思い浮かべながら呟く。

「私の人生も今きっと牡丹です。迷いながら間違えながら自分の道を探しています。一番苦しくて、一番鮮やかな時間を過ごしています」

君の言葉では人生の最盛期は松葉らしいが、私にとってはそうではないと思う。苦しいのも迷いも全部含めた今が生きてきた中で最も眩しかった。これ以上の幸せをうまく想像できない私にとって、人生の盛りはこの瞬間なのだ。
ボタンの由来は、ただの釦だ。君の袖で取れかかっていた金ボタンから名前をつけられた。
それでも、

「私はボタンという名を冠することができて幸せです」

私は喜色満面に溢れた。意味が違ったとしても同じ響きなのは嬉しい。喜ぶことができるのは、名前があるからだった。

「透くん、私に名前をくれてありがとうございます」

目の前の二つの目が見開かれる。数秒の間、全ての表情が固まったそれは緩やかに赤く染まっていった。口元がむず痒そうに動いている。そんな反応をされるとは思わず、私の方も照れてしまった。頬を掻きながら視線を君から花火へと外す。

「へへ、改めて言うと照れ臭いですね」
「俺の方こそありがとう」
「えっ……」

唐突な感謝の言葉に動揺する。油の切れたロボットみたいな動きで首を傾げた。

「私、何かしましたっけ」
「……自覚無いのかよ」
「はい、透くんに感謝することは沢山あっても感謝されることはないような」
「勿体ない。折角有名俳優に感謝されたなら、弱みを握ったことに喜べばいいのに」

私は言葉通り阿呆のように口を大きく開けて君の言葉を理解しようとした。あのことかと思い当たることが一つあった。先日の公園での出来事か。しかしあんなこと弱みという弱みでもないだろう、あれをカウントするのであったら私はもう何度君の前で襤褸を出しているのやら。
それに弱みを握ったことを喜ぶってどうして喜ぶのだろう。別に感謝されるようなことをしていたとしてもそれは君の弱みになるのか。それを世間は弱みとして利用するのか。理解する努力は一応してみたが、どう考えたって君の言葉を消化できない。

「自分が有名俳優だという自覚はあるんですね」
「そこじゃねえよ。ただ俺の情けない姿を散々見てきたお前が今業界にこの情報を売ったら俺の今まで築き上げてきたキャラは崩れる。お前は特ダネを提供した人間として報酬がもらえるだろう」
「いやいや、関係ないですよ」

今度は彼がきょとんとする番だった。私は最早笑ってしまう。何を言っているのかと思えば、予想を超えるしょうもないことだった。

「だって私の目の前にいるのは俳優の相島透じゃなくて、ただのぶっきらぼうで愛想の欠片もない、けれど誰よりも真っすぐな、面倒くさくて人間味のある相島透ですもの」

君と出会った頃を思い起こした。あれほど精巧に表情筋を操れる者はきっと世界でも片手に収まるほどしかいないだろう。綻びを見つけるまでは、よもや完璧御仁の正体がこんな人間だと思いもしなかった。

「私は今、一般人の相島透の情けない姿も珍しく感謝する姿も知っていますが、俳優の相島透さんの情けない姿は一度も見ていません。少なくとも取材のときの君はきらきらと輝いていて王子様を演じきっているように見受けられました」

しかしそれはあくまでも君が努力して作り上げた分厚く巧緻を極めた仮面であって、本来の君ではない。
話によると人は弱みを握るとその襤褸を広め、他者を落とし自らの地位を上げるらしい。
でもそんな汚い人間も知っているだろう、どれだけ自分の地位をあげたところで人は完璧にはなれない。完璧を追い求めようと藻掻くことはできても、その頂にたどり着くことは誰一人として叶わないのだ。
結局自分も同じような運命を辿るのであれば、私は君の強いところも脆いところも大切にしまっておきたい。

「人なら一つや二つ、弱みがあって当たり前です。弱みがあるから、支え合えるんです、愛おしいんです」

何より君の地位を落とそうだなんて思えなかった。こんな不器用な生き方で、息継ぎもままならないまま必死に藻掻いている人をどうしたら見捨てることができるというのか。全く想像力が豊かにもほどがあるだろう。
君は俳優の仮面を取り外した自分のことを世に広めればいいと私に言っている。
けれど私にとって、俳優の相島透とここにいる相島透は別人だった。同じ人物として扱うには、あまりにも惜しい。前髪越しに君の瞳を盗み見る。下睫毛が戸惑いを体現するように震える。一挙手一投足なんて言葉では足りない。寝ぐせではねたままの髪先が風に揺れるのも、次々と変わっていく口角も、綺麗だなと思った。
私にとって俳優の相島透と相島透は同じ人物ではないからマスメディアに情報を流すことはない、もしかしたらそれは建前なのかもしれない。
胸に手を添えた。心臓が歪な音を立てながら鼓動を刻む。
私はこんなにも綺麗な君を、世間に知られたくない。
液晶越しで、彼の顔だけしか興味ない人が、君のぜんぶを理解しないでほしい。
私だけでいい。君の醜い姿も、弱い姿も、本当は誰よりもあたたかい姿も、私だけが分かっていればそれでいいのに。
目と鼻の先にある端正な顔とは釣り合わない、醜い欲望が自分の中で沸々と湧き上がるのが確かに感じ取れる。
口に出したいけれど、口にしてしまえば最後、私たちの関係は破綻するだろう。
だから、誤魔化すように笑った。冗談めいた声で、嘘を吐いた。

「ね、だから私は俳優の相島透さんについて知ってる情報はほとんどないんですよ。売る情報がないので私は貧乏人のまま相島透の隣にいます。残念、報酬ってどのくらい貰えたんでしょうねぇ。家何件くらい建てれますか?」

目の前の菊が散ってしまった。最後に一つ、弾けたあと、火の玉はぽとりと足元に零れる。
見つめるものがなくなって視線を横に向けると、君も私を見つめていた。その瞳は珍獣でも見つけたような驚きに満ちている。先ほどの感謝はどうした、そんな目を向けないでほしい。

「私、何か変なこと言いましたかね?」
「……いや、何と言うか」

言葉の続きはくぐもった声で聴きとれない。何よりこの沈黙が気まずかった。臭いことを言ったなと思ったら笑い飛ばすなり、感動したなら目尻を濡らすなりしてほしい。何でもいいから表情変化(リアクション)が欲しい。それだと言うのに、君は驚いた顔をしてから顔を逸らして無言を貫く。こちらとしても次に何と言えばいいのか、判断がつかなかった。聞こえないくらいに小さくため息をついて仕方なく空を見上げた。小さい頃から変わらない、田舎の空。夜の光たちの中で、ひと際大きく存在感を放つあれが月なのだと幼い頃湯浴み場に行くときに教えてもらった。日によっては奇妙な形をしていたり、妙に楕円がかってたりするが、今日は欠けることなく真っ白な光を最大限に注いでいる。
ふふと笑って、空を指さす。ほんの冗談のつもりだった。

「今日の月は綺麗ですね」

びくっと肩を震わせる透くんとようやく視線が交わる。君は先ほどと変わらず、私をこの世のものかと疑う目で見つめてくる。

「お前、意味分かって言ってるの?」
「さぁ、何のことでしょう。まあ、夏目漱石の本なんて数冊しか読んだことはありませんけどね」
「あんまり冗談言ってると本気にするぞ」

突然、澄んだ瞳に獣が宿る。今度は私が驚く番だった。そんな顔できるんだ、果たしてこれは『俳優相島透』なのか『相島透』なのか。見極めようとするが、彼は考える暇すら与えてはくれない。じりじりと距離を詰める綺麗な顔に耐えきれなくなって、掌を支えに背中を仰け反る。全身で警報が鳴っていた、これは危ない。私は引きつりそうな顔に辛うじて、へらりと笑いを張り付けた。

「本気って、貴方が本気を出したらひとたまりもないでしょう」
「嗚呼、本気は本気だ」
「……透くんもどうせ私と同じ箱入り息子ですからね、大したことはできないでしょう。それに大人気俳優様となれば引く手数多でしょうからこんな3日も湯浴みをしていない女、」

何かが唇に触れた。否、その何かとはもう分かり切っていた。だって、瞬きする前にいた君が目の前から消え、代わりに柔らかそうな黒い髪が私の視界を覆ったからだ。頭上から花束みたいな甘い香りが降り注ぎ、長い睫毛は伏せられたまま頬を掠める。たった一瞬、触れたものは名残惜しそうに離れる。近すぎて合わなかったピントがようやく合った。ほんのり朱に染まった耳たぶと、気まずそうに逸らされた視線が明らかにいつもとは違う雰囲気を醸し出す。

「何、してるんですか」
「それ聞きます?」

私が言った言葉が特大ブーメランとしてそっくりそのまま返ってくる。言い返そうとしても、今の私にはただ瞬きをして状況を飲み込もうとすることしかできない。今何が起こった、分かっても解らなかった。頭の中では5w1hが渦巻く。
いつ、どこでは今、ここで。ここまではいいだろう。
では、誰が何をどうした。
相島透が、唇を、寄せてきた。
いやいやいやいや何で?どうしてそうなる。思わずセルフ突っ込みが炸裂する。
上がった息を落ち着かせようと、深呼吸をしてみる。その度に君を纏う花の匂いがもれなく肺を満たして落ち着こうにも落ち着けやしない。もしかしてと思い、両手を顔に添えると私も笑えないくらい顔が熱かった。
君は口を尖らせながら、目線は地面に向けたまま喋る。

「だから言っただろ、本気にするぞって。今更後悔したって遅いからな」
「……はしてません」
「は?」
「後悔はしてません、でも怒ってはいます」

睨め付ける私は本気で心配をしていた。暗がりで遠くまでは見えないけれど、取り合えず人気はなさそうだ。それにしてもこんな大胆な行動をされると困るのは君なのだ。

「君は人気俳優なんでしょう、自覚があるなら行動にも気を配ってくださいよ。そんなことをして誰かに見つかれば」
「俳優の俺と今の俺は別だって言ったやつは何処の誰だよ」
「んぐっ、それとこれとは違います!」

嗚呼、取り返しのつかないことをしてるなぁ。馬鹿な若者だ、本当に。冷静になりきれない心よりも、今は一周回って状況を他人事として捉えている頭を使うことにする。
私は両手で顔を覆いながら、演者のようにわざとらしく噓泣きをした。

「それに私の初接吻を……簡単に奪って……。貴方にとってはもう何十人目かもしれませんが、私にとっては初めてなのですよ!風の噂で初キスはレモンの味と聞きましたが、それを味わう余裕もなく終わってしまいました」
「味わうって、お前なぁ」
「ちなみに噂は本当なのかだけ教えてください」
「……普通に歯磨き粉の味だった」
「引っ掛かりましたね、透くん私以外の女とキスしたことあるんですねぇ」
「なっ……面倒くさいな、お前」
「ふふ、突然された仕返しです。これくらいしないと気が済みません」

よかった、普通に会話できている。先ほどの甘い空気は一連の流れで消え去って私は胸のつかえがとれた。肩の力を抜くと、小さくなった蝋燭の火に息を吹きかけて消す。

「さぁ、行きましょう。もう夜も遅いので明日のために寝床を探さなければ」

立ち上がって、きょろきょろと辺りを見回す。まるで先ほどの出来事はなかったように。夢だったのかと錯覚させるほど、自然に。
なるべく普通を装わなければならない。私は君の口から発せられる言葉を恐れた。
しかし、ここで素直に動かないのがこの男なのだ。その場を離れようとする私の裾が何かに引っかかる。足元を見ると、血の巡りのよい手が私を引き留めていた。

「なぁ」

君の声が硬い。嫌な予感がする。それでも私は平然を装い「何ですか?」と面倒くさそうなトーンで尋ねた。
どこまでも甘かった空気、私は次に告げられる言葉を悟っていた。それを拒むように冷たくあしらう。ほとんど答えのようなものだった。
俯いていた頭が持ち上げられ、表情が露わになる。
相島透は苦しそうに、でもそれを誤魔化すように笑った。

「お前は、俺のことが嫌いか?」

怯えたような聞き方だった。緊張で気づかなかったが地面を思い切り掴んでいたらしい。爪の間に小石や泥が詰まって痛みを伴う。ふっと指先まで入った力が一瞬にして抜ける。「好きだ」とは言われなかったことに安堵する私はきっと悪い女だ。
接吻をされておいて、その行為をないものとされたら誰でも傷つくだろう。でも私は甘えるつもりでいた、無いものとしても君は優しいから許してくれるかと思った。
相島透は優しい男だが、弱みを売るのは許せても、接吻を忘れられるのは許せないらしい。
こういうところが、ずるくて少し憎い。
私は諦めて引き上げていた表情筋を脱力させた。瞼すら重くて瞳は閉じたまま、彼の表情は見えない状態で呟く。
夏の虫の声でかき消されてしまえばいい、こんな願い。
蝉にも脳はあるが、惜しくも空気を読むという行為はできないらしい。深く息を吸い、口を開いた瞬間、虫の大合唱が煩い夜にひと時の静寂が訪れた。

「もし私が死んだら」
「何故死ぬことになる、俺の質問にこた」
「私のことは忘れてください」

それが私なりの答えだった。私が絞り出すことのできる唯一の言葉だった。
人間いつ死ぬか分からない。死ぬことになってても今こうして生きているように、当たり前に生きる明日がないことも時にはある。腹にある爆弾に触れようとした手の神経が伝達不能になったように力なく地面に落ちる。君はまだ知らない、私の中で渦巻くこの爆弾の存在を。
そんな君に向けた私の告白だった。
君の苦しみに触れて、あたたかさに触れて、殺していた欲望がただ君の幸せだけを願って、願って、願い続けた私なりのラブレターだった。
君と手を繋ぎ同じ歩幅で同じ方向を向いて歩む未来ではなく、君が走り出せるようにそっと背を押すだけの存在になることを選んだ。
私が明日死ぬとしたら、君の人生から私を消してほしかった。
私のことは忘れて、また元の光へ続く道に、成功に繋がるレールの上を歩いて欲しい。
きっと私が存在する人生は茨の道だ。
ただの茨の道なら君の元の人生とそう変わらない。しかし、こちらにはたどり着く先に光がある確証はない。むしろ傷ついて立ち上がれないほどの深く病んだところで、明るい未来があったら奇跡だろう。現実は甘くも簡単でもない、真っ暗な世界が広がっているかもれない、茨の道は一生続いて目的地にたどり着くことすらできないかもしれない。
祭りの日に言った言葉が全てだった。
「私がいる限り貴方は苦しいですよ」、何度言ったところで君はそれを否定して苦しい選択でも一緒に歩もうとしてくれる。
だから君を突き放しきれない。
嫌いだと言ってしまえば簡単なのに、我が儘な小娘はそれが怖い。
相島透の存在はもう既に少女の世界の真ん中にあるからだ。
全くどうしてくれるのだ。どうしてたった数日の間に私の心に潜り込んで、私の叫びを開放してしまったのだ。
私はもう透くんのことが。

「それは……」

君の何か言いかけた口が真一門に結ばれる。私の目はこれ以上何も語れることはないと物語っていた。
私はふわりと触れれば消えてしまう、そんな曖昧な笑みを浮かべた。

「私のことは透くんの夢の中に出てきたことにでもしておいてください」
「……善処するよ」

善処という言葉に容易く折れることはないという気概を感じる。今はその言葉の意味を理解できなくてもいい、いずれ嫌というほど理解する君を想像すると少し気の毒に思える。私は反射的に先ほどは触れることのできなかった自分の腹を撫でた。子宮の代わりに埋め込まれたそれは触れる度に腹膜を刺激し意識が飛びそうなほどの激痛が襲う。唇が嚙み切れて血の味が口に広がる。爆弾がもうすぐ雄叫びを上げる。それに怯えながら生きるのは少々疲れた。全部忘れてしまいたいと思うが、私にはまだやることがあるので簡単に死ねない。
君は私の手を取り、腰を持ち上げた。私も釣られて立ち上がると蝋燭はそのままに私たちは森の奥へと入っていく。
月明かりに照らされた横顔は複雑な顔をしていた。

「また明日しましょう、花火」

つい約束を取り付けてしまう。君は私の言葉に頭二つ分高い位置から見下ろすだけだった。
こんな日々が続けばいいのに。
花火の炎が瞬きの間に幾つ散ったのか、それを忘れて喉までせり上がった言葉は声にはならなかった。声にしようとしても魚の小骨のようにつっかえて、君の耳に届くことはない。
牡丹は永遠には続かない。炎が変わらず燃え続けることはない。
再び始まった蝉の声は水の膜が張っているように遠く、四本の足が砂利をかき分けて芝を踏む音だけが聞える。
私は細く息を吐き、繋がれていない方の細い手首を取る。告白を拒んでおいて、自分から接触するのは我が儘の他ない。しかし、透くんは優しいから自ら振りほどくことはなかった。
曖昧な関係は面倒だ。白黒はっきりつけばいいと思う。君もそれは同じだろう、だからあんなことを聞いてきた。
でも、この感情を言語化する術を私は知らない。
言語化できたとしても、その言葉はきっと君に伝えるべきではない。
故に霧のような返答しかできないのだ。
実態があるようで掴もうとすればするほど分からなくなる、そんな関係から逃れることはできないのだ。
雨風が急に来てもしのげそうな木陰を見つけると、私は堪らずその場に横たわった。考えすぎたのだろうか、どっと疲れが押し寄せてきてもう重力には抗えなさそうだ。
横向きになって低くなった視界では君の顔は見えず、少し泥で汚れたズボンの裾だけが見えた。あちらはすぐには横にならず、座り込んだだけらしい。
会話もなく、聞こえるのは騒がしい蝉と僅かな鈴虫の声だけ。瞼を閉じて、脳を休ませることに集中しよう。
そう思っていたはずなのに、無意識のうちに私は君の名前を呼んでいた。

「……ねぇ、透くん」
「ん、なんだ」
「私は貴方に相応しい人間でも、貴方が触れたいと思えるような人間でもないですよ」

何故だか、目尻から涙が一筋零れた。いけない、いけない。これは子供のようではないか。駄目だとわかっているのに、面倒な女だと自覚しているのに、肋骨のもっと奥が痛くて、溢れた感情を抑えることはできなかった。全身の体液全部に「すきだ」という気持ちが溶け混んで細胞に浸み込んでいく。目を逸らし続けていた三文字はもう飽和状態だった。これは目を逸らすどころではない、逸らそうとしても網膜を支配しているのだ。逸らしようがないではないか。差し伸べられた手のひらに、控えめに頬を摺り寄せる。少し冷たい指先が心地よかった。

「いいよそれでも」

硝子の破片みたいに透き通った声が降り注ぐ。とめどなく流れる涙を隠すように小さく蹲る私、君はくくっと喉を鳴らすと頭をそっと撫でる。滑稽だと思ったか、幼子のように我が儘を言って泣きじゃくる私を。
しかし実際私という人間は、素直になれないし、言いたいこともろくに言えないし、突き放しておいて自らは手放したくないと思ってしまう貪欲な人間だ。
自分自身でも至極面倒な女だと思う。
自分の気持ちにはもう気づいていた。君のことを見る目が変な人から頼れる人、そして一緒にいると心が安らぐ人へと変化していることも解っていた。
でもこれ以上近づけば、私はきっと死にきれない。恋をすれば、腹の爆弾が止まるなんて奇跡は起こらない。私がもうすぐ死ぬことはこの世に生を受けた瞬間から決まっている。
君は今日、私に接吻をした。
でもそれ以上は何も手を出さなかった。
きっとあの表情に込められた思いを察したのだろう。不本意で拒んでいると知っているから、「好きだ」とも「付き合おう」とも言わずただ黙って頭を撫でる。

「……ごめんね」

優しさが、痛い。
真にあたたかい人間は時々凶器となる。見返りを求めない愛が、与えられる人間の心の弱いところに沁みて、罪悪感を駆り立てる。君が綺麗な人間であると分かれば分かるほど、自分の汚さが嫌というほど分からされる。
からからに乾いた喉でようやく絞り出せたのはたった四文字だった。
力を入れていた手を解いて仰向けになった。滲む視界を占める君の顔は逆光でよく見えない。

「謝る言葉はいいから、どうかそのままの君でいて。俺はそれだけで満足だ」

青年の小さな声に、私は再び目元を腕で覆う。今夜は私が弱さを曝け出す番だった。仕方がないと割り切った途端、赤子のように涙が止まらなかった。それこそ最初は声を抑えていたが、次第に君ならいいかという思いが強くなっていって最終的には小さい子みたいに声を上げる。月が西に傾きはじめた頃、私は泣き疲れて意識を手放した。
君は私の寝息が聞こえるまで、撫でる手を辞めはしなかった。
その日は雨がしとしとと降る朝だった。瞼を開けると目と鼻の先には今にも消えてしまいそうな儚さを持つ青年がいた。いつの間にか二人とも寝てしまっていたのか。自分の体を触ってみるが、本当に何もされていないようだった。その事実を知ってまた胸が勝手に痛んだ。

「おはようございます」

声を掛けても穏やかな寝息が途切れることはない。きめの細かい肌は触れることも憚られるほどに綺麗で、寝息で揺れる睫毛の一本一本を観察しても飽きないくらい美しい。それはきっと人知を超えた「美しさ」なのだと思った。私は彼を応援する人々の気持ちがようやく理解出来た。子猫とか、赤ちゃんとかと同じなのだ。目の前に差し出されたら可愛いと感嘆の息を漏らし、そっと壊れないように触れて思わず目を細めてしまうのと同じように、彼を見た人々は彼を構成するパーツ全てが信じられないというようにただひたすら瞬きを繰り返して、愛さざるにはいられないのだ。

「……憎いくらいに、本当に綺麗な人」

ただ「美しい」という言葉では言い表しては失礼なほどに相島透は特別だった。例えるなら朝一番の一本の光が透明なガラスにゆっくりゆっくり注ぎ込まれるような、光でいっぱいになったガラスの器で湧き出た天然水を掬う瞬間を切り取ったような、そんな存在だ。

「怖い……」

そして同時にこれ以上近づけば、消えてしまいそうなほど淡くもあった。
私は淡いとか儚いという言葉が好きだ。窓辺に降り注ぐ雪の結晶、水に滲む水彩の青、一晩で散ってしまう花の甘い香り、夏の蛍の光、どれも消えてしまいそうだからこそ名残惜しくて、手に入ったところですぐに消えてしまいそうで愛おしい。しかし、好きだからこそそういうものを直視できない自分もいる。
いつかは消えてしまうから、私はいつまで経っても何も掴めないのか。
大事にしたいものこそ、臆病になって最後には何も残らない。
これは自分だけの弱さなのか、人が皆持つ弱さなのか、分からない。分からないから、逃げたい。
目の前の陶器肌をそっとなぞろうとして、突然君が身をよじった。それが手の気配を察してなのか、単にこの蒸し暑さへの不快感からかは分からないが私はそれ以降君に触れようとはしなかった。
むくりと起き上がり、昨日花火をした川辺まで行って顔を洗う。澄んだ水で夜中に滲んだ脂が幾らかましになったような気がした。河畔をそのまま真っすぐ進むと、煙草の吸殻とひびの入ったボールペンが落ちていた。私は煤に塗れたそれを拾うと、腐りかけの看板に張り付けられていた「熊出没注意」のチラシを無理やり剥がす。背の高い野草に隠れるように座ると、不安定な太ももの上で文字を綴る。
文字を一つ書く度に指が震えて、涙が止まらなかった。書いた文字が滲まないように何度も目を擦るが、涙腺から溢れ出す雨が止むことはなかった。嗚呼、昨夜散々泣いたはずなのにまだこんなにも流せる水分が残っているのか。段々と心の中に掛かっていた不透明な霧が文字に起こす度にはっきりと輪郭をもった。
私は書き終えた手紙を二つ折りにして呆然としたまま目の前の川の流れを見つめる。
朝日を含んだ水は蓄えきれなかった光を零しながら、流れていく。流れる先は曇り空で、下流は光が届かず薄暗い。今私の目の前の光景がどれだけ綺麗でも、流れれば流れるほど零れていく光に私は絶望した。何故だかは自分でもすぐには分からなかった。けれど、流れなければ、そのまま留まっていればその水はいつまでも太陽の下で光を目いっぱい浴びることができたのに、流れるから失う。失った先に光があるのかは誰も分からない。それは抗えない現実と少し似ているような気がした。

「ただいま戻りました」
「お帰り、ボタン。どこに行ってたんだ?」

裏山に戻ると、体を横にしながら目を開けている君がいた。私は目を擦りながらぎこちなく笑う。

「花粉症かもしれなくて、目がかゆい」
「この時期に?」
「はい、この時期に」

春の花粉にしては遅いし、秋の花粉にしては早すぎる時期に君は訝しみながらじっと私の目を見つめてくる。流石仮にでも俳優、深い瞳は簡単には逸らせそうになくて首筋に一筋冷たいものが流れた。それでも尚、口を割らない私に彼は二の句が継げない様子だった。

「嘘へったくそだな」
「すみません……」

肩をすぼませて身を縮こませる私に、彼は呆れた表情は見せるものの何も言わずに立ち上がって川のある方向へ歩き始めた。驚いて思わずズボンの裾を掴むと、もういつもの涼し気な顔に戻っていた彼の口が不満げに歪んだ。

「何か他に隠し事でもあるのか」
「いや……何も言及しないのですか?」
「……どうせ聞いたところで事実が返ってくるとは思ってないからな」
「ぐぬ、それは」

君は言葉を詰まらせる私を「そうだろう?」と言わんばかりの表情で見下ろすと、とっととその場を離れていく。私は姿が見えなくなっても彼の行った方向を見つめ続けていた。
ぼうっとただひたすら目の前を見ていると、突然その方向から声がした。

「おーい」

物静かな彼が珍しく声を張り上げているので私も反射的に返答する。

「何でしょうー?」
「俺はこのまま朝ご飯を調達するけど、ボタンはどうする。ついてくるかー」

私は少し迷ったあと、君はここにいないのについ首を振って答える。

「いえ、ここで留守番しています。まだ体が起ききってないので少し体操をします」
「……そうか」

暫くの沈黙のあと、明らかに落ち込んだ声が聞えてきた。誘えば私は当たり前のようについてくるだろうと思っていたのだろう。しかしボタンにもやらなければいけないことがあった。
芝生を踏みしめる音が段々と遠ざかっていく。私は空を見上げると、風の吹く方向を確認した。幸い雲一つない空には穏やかな夏風が吹いている。私は服の内側から朝書いた手紙を取り出すと、傍にあった木に解けないようしっかりと括りつける。

「頼んだよ」

樹皮をそっと撫でると、まだ君が寄りかかっていたぬくもりが僅かに残っていた。しかし、ごつごつとしたそれに頬を寄せても何も言葉は返ってこないし、繋がれることのない手は手持無沙汰というようにだらりと脱力する。
名残惜しいなんて思ってはいけないのに、私はずっとこのままでいいのにと思ってしまう。
その日、私は彼の傍を離れることにした。
もう君には死ぬまで会わないだろう。