言葉が詰まった。
 佐伯から視線を外した視線を、とりあえずまっすぐ前に向ける。

 ふう、と音を立てないように息を吐いて、勇気をもらうように手に持つ小説に軽く力を込める。
 あの日家に帰ってからずっと考えていた。俺の、間違いない本音。


「佐伯は、別にいいと俺は思うけどな」
「んー、なにが?」
「空気が読めなくても」


 河川敷に俺の声が響いて、佐伯が息を呑んだのがわかった。
 視線は対岸の緑から離していないから、彼女が俺の言葉を受けてどんな表情をしているのかは分からない。

 一瞬の沈黙。
 それを破るように、言葉を続けていく。


「たしかに空気が読めない佐伯の言葉にムカついたことは俺にもあったし。逆鱗に触れられたくないのとか、みんな当たり前だと思う。だけど」


 だけれど俺は、それを含めても彼女の天真爛漫さが、かっこいいと感じた。

 空気を読む、イコール、和を乱さないということ。
 でも、和を乱さない日常ほどつまらないものはない。

 俺は空気をバリバリに乱されて最悪でしかなかったけれど、その先にちょっとだけ特別な日常があった。

 空気が読めないのは悪いことじゃない。
 そんなふうに言い切る勇気はないし、その言葉はきっと本音ではないだろう。
 察することだって、人間関係の中ではきっと必要なことだ。


「だとしても、そんな空気が読めない行動で思いがけない世界が見えることだってある」


 だってそうだろう。
 佐伯がクラスの人気者なのは、そんな彼女をクラスメイトたちはみんな受け入れて、塗り替えていった日常を好きだと感じているひとばかりだから。

 佐伯は佐伯のままでいい、なんてことが言いたいわけじゃない。
 それでも……俺は、空気が読めないことをそんなに気にしなくてもいいと思う。

 それが、ちょっと捻くれた俺の意見。

 ところどころ端折りながら佐伯に伝えきった。
 ふう、と息をつくと、俺の心臓は興奮状態に陥っているようでバクバクと鳴っていた。

 自分がなにを話したのかはほとんど覚えていないけれど、試合で勝利したような高揚が心地いい。
 言うつもりのなかったことまで言ってしまった気がする。


「……悠くん、すごく喋るじゃん」
「まあ、たまには」


 笑いがかすかに混ざっている声は、どこか震えている。
 ちらりと横目で佐伯のほうを確認すると、てのひらで目元を拭っているのが見えた。
 頬を流れた水滴のことは、なにも言わないでいるのがきっと正解だ。
 視線を逸らして目を閉じる。

 蝉の大合唱も、暖かい風が揺らした葉っぱの擦れる音も、なんだか今だけはやさしく感じた。