埋もれかけの遺跡を茜色が照らす。

 空気の中に溶け込むその色づいた粒子が、ともすれば鮮やかさの中に心をざわつかせる何かがある。
 この世界の夕日の色合いが独特なのかとも疑うが、前いた世界とまるで変わりがなくも感じられる。

 ならばこの焦慮(しょうりょ)は何なのだろう。

 想定していた結実とはまるで違ったが、ともあれ一件落着という事で俺は草の上に腹這いになってそれを眺めていた。
 隣にはロゼが寄り添っている。

「ふあー、疲れた」

 ほぼ欠伸(あくび)と同時にそんなボヤキを舌に乗せた。
 
「ホント。というかあたし、とんだ空騒ぎにアンタを巻き込んじゃったのね」
「でもさ、笑って締め括れるオチで良かったよ。ティゼットも無事、師匠さんも無事で何より」

 何でも無い風にそう締めくくったが、対するロゼの表情はどこか硬い。

「……ううん、違うわ。こんなんじゃ駄目なの」

 そして、自分自身に向けて(かぶり)を振るうよう装いを取り乱す。

「あたし、なんでこうなんだろう……。不器用で、視野が狭くて、堪え性がなくて、空回ってばかり……そのくせ自尊心だけはあって、ぐるぐると当てもない焦燥(しょうそう)に駆られて……本当に……」

 またその声を涙で(にじ)ませるようにするロゼ。

 何事か声を掛けようとした。
 けれど彼女のその様子が、あの燭台の灯に揺られて夜遅くまで本にかじり付いていた時と重なる。
 あの、どうしようもできない事柄に――その一種の摂理のような烙印(らくいん)に、けれども必死で抗おうとしていたあの夜毎の彼女にだ。
 だから、口を(つぐ)んでしまった。

「今回だって、あたしが一度でも冷静になれば良かった。そうしたら、こんな事にまでならなかった」

 揃えた膝にその頭を乗せ、彼女は沈んだ声でそう続ける。

「自分では一生懸命を演じてるつもり。けど、心のどこかで『こんな頑張っている自分なんだから報われてよ』って思ってる……そんな、浅ましい自分がいるの……。アハハ! 笑っちゃうでしょっ?! 結局、甘えてるのね、あたしって!」

 そう無理な笑みをひけらかし、少女は不意に立ち上がった。

 斜めから差す西日を後背に受け、逆光の中、その表情は見えなくなった。
 けれど左右の腕を両脇に広げたそのシルエットが俺の眼球に焼きついた。


 びっくりした。


 その瞬間、あまりにも簡単に、自分が忘れていた「自分」を思い出した事に。
 あまりに唐突に、どこを探しても見つからなかった記憶が(あふ)れてきた事に。


 佐山(さやま)(ゆう)――
 それがかつて人間として日本で暮らしていた時の俺だった。


 何故、この瞬間になって思い出せたのか。
 何故、この場面で唐突にそんな事を思い出してしまったのか。

 ただそれでもその記憶の波が、映像や音と共に、鮮明に自身の脳髄を駆け巡り、脳漿(のうしょう)を揺らした。
 失くしていた感覚が、一体いつぶりにか、この自意識との定着を果たしたのだ。

 今は遠いその世界での(かつ)てを振り返る。

 あまりに多くを求め過ぎた人生だった。
 その為にあまりに多くを犠牲にしてきた人生だった。

 自分の心の声も聞かず、上塗りとやせ我慢で誤魔化し続けた。
 色んな事を背負い込み過ぎて、結局その重荷に圧し折られた。

 最後の光景はビルの屋上から見上げた夕日色の空。

 向かいのビルのガラスに映ったその人影。
 なんの悩みも恐れもないかのように、今まさに手を広げて落ち行くその人物。
 そして、それを照らすただただ鮮やかなオレンジ。

 今となって知ったのは、人が最後に残されたその(みち)辿(たど)る時、明確な意志や強い思いなどは抱かないという事。
 まるで感覚が麻痺したかのように、どこか夢見心地で、現実感などは欠片も感じさせず、ただその向こうへと意識の先が向かう事。
 そう、この一歩を踏み出せばどうなってしまうのかという――そんな些細な好奇心が足を運んでいく事を唯一と知った。

「名前あった……俺の名前……」
「――え?」
「ユウ」
「ユウ……? それが、アンタの名前?」

 ぎこちないように、こちらを覗き込む少女。
 斜めに差していた西日はさらに傾き落ち、今は彼女の足元を照らしている。
 俺はただ、それにゆっくりと頷く。

「ふーん、ユウか。いい響きね」

 そう言って微笑んでくれた顔。
 あの遠い世界での、掛け替えのない誰かの微笑みと少し重なる気がした。――俺が裏切ってしまったその人との。

 この少女は、惑い、挫折しながらも、懸命に生きて答えを出そうとしている。

 そして俺はそれをやり遂げられなかった人間だ。
 結局は足掻き続ける事に疲れて、全てを無かった事にしようとした卑怯者だ。
 逃げたくないと泣きじゃくりながら、どこかで逃げてもいい口実が目の前に落ちてくるのを待ち望んでいた甘ったれだ。

 そんな俺がどこのどんな神様の、どういう料簡(りょうけん)でこんな所に居るのやら。

 けれども――

 どうか、気まぐれで頭のオカシイそんな神様。
 願わくばもう一度だけ歩き始める事をお許し下さい。
 こんな姿でも、自身を取り戻せる事を見ていて下さい。
 自分が描き出したその理想に、負けないでいられる自分になれる――そのチャンスをどうかお与えください。

 「自分」の為じゃなく、この子を傍で支えていたいのです。

 居るかも分からない、そして誰かも分からない相手に向かって俺はそう心の中で呟いた。
 傍目からすれば、頭がオカシイのは俺の方だったかもしれない。

 けれど、どうしてももう一度、この俺自身に――この俺の〝生〟に意味を見出したいんだ。

 何よりも、俺はロゼが決してポンコツなんかじゃ無いのを知っている。

 少なくとも実力か――あるいはその素養に埋められない程の差分があるならば、弟子のどちらかを預けて競い合うなんて勝負は成り立たない筈だ。
 その点に()いて、あのレオノーラもゲアルトも意に介してない素振りだった。

 つまり、彼女がそこまでの劣等感に苦しめられる(いわ)れなんてないって事。

 だが、今ここでそれを口にしただけでは、この少女はきっと納得はしない。
 ――それが否応も無くわかってしまう自分なのだ。

 だから言葉ではなく、俺自身によって証明しなきゃいけないんだろう。
 それにどれ程の意味があるのか――しかしまあ、その〈ジェノスの契約〉とやらで、だ。

「ロゼ、ありがとう――」
「え……なんでアンタがお礼を言うの?」

 目を丸くする彼女に俺は答えようとして、けれどもそれを止めた。
 今はまだ、きっと言うべき時じゃないんだろう。

 その質問に答える代わりとでも言う風に、変な鳴き声みたいな大欠伸(おおあくび)がでた。

 陽が落ちた途端にこれだよ。
 やーっぱ、変温動物って不便なんだなあ。

 その余りの間抜けな声にロゼが今度こそ失笑して声を立てる。
 それは彼女にお似合いの(ほが)らかさで満ちていた。
 こういう顔をもっとさせてあげたくなるような、そんな笑顔だった。

 
 朽ちかけた遺跡の地下出口から、未だ酔いが醒め切らないレオノーラがティゼットに肩を貸されながらようやくの事で這い出てきた。
 その後ろからゲアルトも嘆息紛れに続いてくる。


 さてと、とりあえず暖かい寝床に一刻でも早く潜り込みたい所存。
 帰るとするかな。――今の俺の居るべき場所に。

 
 ここが黄泉(よみ)の国だとして、俺は臨んでそこで飯を食おう。
 自分の居るべき場所――傍らに寄り添うべき相手、それを選べる今のこの状況に、ただ感謝を込めて。




〈〈第一話 「ある日の森の中」 おわり〉〉