豁然(かつぜん)となった巨大な半球形のフロア――
 そこで俺達は、〈魔闘士〉ゲアルトと奴が従えるその炎を(まと)う巨獣とを相手取る。

 ゲアルトの発した鋭い呼気に反応するよう、灼熱《しゃくねつ》の獣人が床に両の拳を叩きつけた。
 打ち込まれたそこからは火柱が上がり、それを背景に「グゥオオオオォォッッ」と凄まじい咆哮(ほうこう)(とどろ)かせた。

 その迫力に思わず身を退()いてしまう俺。
 いや、どうかな、ちょっとアレは荷が重いかもしんない。

 炎の橙《だいだい》に照らされたロゼのその顔も強張っていた。
 だが、これが俺の役目――踏ん張りどころなのだ。

 一面が床となったその場で、物理的に暑苦しくてでっかくて毛深いそいつと額を突き合わす。
 こっちも二本足で立ち上がり、両手を掲げ「がおー」と言ってやった。――うん、負けてない。きっと負けてない。威圧感なら伯仲(はくちゅう)してる。

 突如、脇目も振らずにがぶり寄ってきた獅子面。
 そのまま勢い余って押し出される。思わず後ろ足を突っ撥ねた――まさにその瞬間、俺は足払いを掛けられ、投げ飛ばされていたのだから仰天する。
 風景と重力が反転し、背中から叩き落される。
 そのまま奴はマウントポジションのような位置取りでこちらに覆い被さり、上から執拗(しつよう)に拳を落としてきた。

 明らかに獣が行える類の動きじゃなかった。
 呼吸と重心を完全に読んでいた。
 あれは武術の理合いとかそんな感じのものだ。

 炎獣を通り越した向こうに視線を()わせ、黒マントを視界に収める。
 奴は目を閉じ、拳を額に着けて、凄まじいまでに集中していた。
 そう、思念を同調させ、この獣は奴によって操られている。いや、あの男そのものが憑依(ひょうい)しているとも言えた。

 これこそが〈契約〉による使役の本髄(ほんずい)だった。

 そして――
 それこそが俺達の勝機なのだ。

 ドラゴン族の生命力とやらを信じ、俺は相手に全力でしがみ付いた。
 長い鎌首を利用して、その肩口に思い切り()みついてやる。
 くぐもった悲鳴が上がる。
 牙を突き立てたそこは、まるで焼けた石か何かのようだ。
 構わず食い下がり、(もろ)ともに地面を転げ回った。

 何度も殴られ、奴が纏う炎に身を焦がされるが、俺は俺の最大限を示し続ける。

 そして途切れそうになる視界の端で、念じる様に意識を傾けている男の――その背後まで忍び寄ったロゼを見た。
 懐から抜いた白刃を閃かせ、彼女は今まさに仇敵に(おど)り掛かった。

 術者同士による一対一の真剣勝負――
 その前提がフェイク。

 俺に念を送り、集中する必要のない彼女だから行える最大の奇襲。
 それが計画。

 当初にロゼの言っていた「策」とは、差し違える覚悟で奴を亡き者にしようという軽はずみなもの。
 その為の手管(てくだ)すら彼女は確実に持ち得ていなかった。
 懸念は無きにしも(あら)ずだったが、残された時間も無かった俺は、そこに手を加える事でこの一世一代の奇襲戦法を練った。

 刃の先端を一方向に、石畳を蹴ったロゼ。
 体当たりをかますようにその身が(はし)る。

「――っ!?」

 だが恐ろしいのは奴のその反射速度である。
 自らの懐に至ってから気付いたロゼの存在――にも拘わらず、奴はその状態で刃を(かわ)した。
 悲願を果たそうとするロゼの突進の勢いを受け流すように、辛くもその不意討ちから逃れていた。

「どういうつもりだ?! ――小娘!」

 一瞬にして、俺が絡みつく獣人の動きが変わった。
 有利な位置の取り合いなどは失せ、(もつ)れ合う獣同然にこちらの(くび)に牙を立ててきた。

「ゲアルト・ソーンヴァー!! 我が師匠の仇!!」
「……何だと⁉」

 果敢に徹して再び立ち向かうロゼ。
 だが唯一の好機を逃した彼女に勝ち目などなかったのだ。

 短剣を突き出す腕を容易に捕らえられ、その腕を背中側に回され、捻り上げられる。
 肩と肘の関節を極められ、身動きを封じられた。

 甲高い音でロゼの短剣が石床を打つ。
 最初から、あの男に白兵戦で挑んだのが間違いなのか。
 しかし、関節を極められても悲鳴一つとてあげないロゼの必死さだ。

「こいつめ! ライオンだかゴリラだか判別できないクセに! ――離れろおらあ!」

 絶対絶命の状態。
 理由はともかく、勝負の最中に自身の命を狙ったロゼをあの悪党が許す(はず)はない。
 空いた片手でいつ腰の刀剣を引き抜き、彼女の胸に突き刺す事か。
 ――こんな暑苦しいのを相手にしてる暇はないんだ。

「くっそおおぉぉ――!!」

 例外、だ。

 俺達の勝算は、この世界で唯一俺達だけが例外であるというその事実。
 魔物や精霊と人間が共生するこの世界、しかしそれらは〈ジェノスの契約〉による対価の為のもの。

 だが俺は違う。
 俺はロゼの魂なんか欲しくない。
 欲しいものがあるとすれば、それは研ぎ澄ますように日々を重ねているあの子の心の平穏。

 だから、俺は諦めたくない。
 諦める訳にはいかない。

 ふと背中に風圧のようなものを感じた。
 目に見えない〝力場〟が、俺の背中を力強く叩いた。
 その瞬間、身体が勢いよく浮かび上がる。
 知らず背面の翼を羽搏(はばた)かせ、俺は獅子面を抱えたまま宙に浮かび上がっていた。
 そのままグンと急上昇し、天井部分に腕の中の相手を叩きつける。
 轟音と震動を(ひるがえ)し、床へとまっしぐら。
 ロゼを捕らえるその悪党の鼻先に撹拌(かくはん)した二度目の轟音と震動で降り立った。

手前(テメェ)、この野郎! ロゼを放せ悪党!」

 後方の天井からは時間差で炎獣が降ってきた。
 その様に、奴は驚愕に眼を見開く。

「人語を介するのか……? ただの竜族ではなく、まさか古竜種……!?」
「うるさい! どうでもいいからロゼを放せったらこのバカ! もう空だって飛べたんだから、火だって吹けるぞ! ――こんちくしょうめ!」

 今度こそ全身全霊を以て脅しかけた。

 数秒、俺と奴は近い距離での(にら)み合いを演じた。

 ――と、こちらの呼吸を外すような絶妙さで歴戦のこの男はロゼの身を突き放す。
 こちらが息を呑んだ次の瞬間にはもう奴は両手で剣を引き抜いて飛び退()き、二刀を構えていた。
 そして俺の後ろであの獅子面が炎を吐いて起き上がってきた。

 ともかくロゼを自身の胸の内に(かくま)う。
 いざとなったら、塔の内壁をブチ破ってでも飛んで逃げてやる。

 しかし、そこで妙な事が起こった。

 対峙する当の相手が攻撃を仕掛けてこないのだ。
 奴は今、ひどく険しいような眼つきだが、何か違和感を拭えずにいるような表情でもあった。

「どうやら、何かの誤解があるようだな」
「…………え?」

 想定外のそのセリフに、俺は思わず間の抜けた声を返してしまう。

「おい娘、貴様、俺を師の仇と呼んだか?」

 (おもむろ)に二刀を鞘に収めた奴が、ロゼに視線を向けて問うた。

「――(とぼ)けないでっ! お前が殺したんでしょ?! あたし達の師匠を!!」
「レオノーラが……あの女が死んだというのか」
「そうよ!」
「死んだという確証は? 死体を見たでも言うのか」
「そ……それは……」

 平坦で瞭然とした声に詰められ、ロゼの方が言葉を(いっ)する。

「死体を見た訳ではないのだな。では何故、死んだなどという話に至った」
「それは……師匠がお前の元へ、お姉ちゃんを取り戻しに向かったからよ!」

 ロゼは声の限り、そしてその胸中を言葉に乗せるように語り出した。

「出立の際、師匠は言ってたわ……『自分が戻れなければ、もうあの男に殺されているだろう』って……。そして、何週間も経った! お姉ちゃんをあたし達から無理矢理に奪って、その上お前は師匠にまで手を掛けた。――ゲアルト・ソーンヴァー!! お前は非道で冷酷で残忍な人殺しよ! 過去に師匠とどんな因縁があったか知らない……でも、お前は師匠の全てを奪うつもりだったんだわ!」

 その時、それまで神妙にロゼの話を聞いていた奴が、盛大に気の抜けるような溜息を洩らした。

「概ね、理解ができた。……おい娘、お前のポンコツお師匠さまはな、おそらく今もピンピンしておるぞ」
「…………へ?」

 今度はロゼがそう間の抜けた声を返す。

 一体、どういうこっちゃい?