×××
「こんなもんかなー」
買い物袋の中身を確認して、明楽はひとりごちた。
今日は真菜から、仕事でミスがあったので帰宅が遅くなると連絡があった。きっと落ち込んでいることだろう。
明楽は帰ってきた彼女を慰めるために、彼女の好きな少々お高いアイスクリームを購入していた。
(先に風呂溜めておいてー、入浴剤はベルガモットのやつ。マッサージ用のボディクリームも出しておかないと。ワインは最近ハマってるオレンジ……)
頭の中で必要なものとやることを思い浮かべる。今日は真菜をべたべたに甘やかしてやらなければならない。
ヒモとは究極のサービス業である、とは誰の言葉だったか。
経済面は全て女頼りだが、家でだらだらして競馬とパチンコだけが楽しみのクズとはわけが違う。あれは人生の脱落者だ。
ヒモは飼い主に尽くす。飼い主の気分が良くなるように振る舞い、必要ならば家のこともやる。
こう言えばまるで夫に尽くす専業主婦のようだが、ヒモは行動を制限されることはない。家の外では自由に振る舞うし、金も好きに使える。結婚のように契約で縛られることもない。
何より違うのは、主導権がヒモの方にあることだ。経済面を全て頼っておきながら、それは男を繋ぎとめる要素にはならない。気に食わなければ別の飼い主を探す。女に甘えて生きられる男は、それが簡単にできる。
必要なのは女をコントロールする技術だ。
これを多数相手に詐欺紛いの行為も含めて行えるのがホストであり、そこまでいくと管理も大変で仕事の域になる。
それなりにイイ線いくとは思うが、面倒も苦労もごめんである。大金が稼ぎたいわけではない。適当な相手に寄生しているくらいが気楽でちょうど良い。少なくとも、明楽はそう考えていた。
安っぽい男のプライドさえ捨ててしまえば、生きることなど容易い。
「……ん?」
夜道を照らす外灯の下に、黒い服を着た女がいた。女はフードを被っており、顔が見えない。それでも女だとわかったのは、ミニスカートとニーハイ、フードから垂れる長い黒髪のせいだった。
明楽は眉を顰めた。どう見ても服装が地雷系。加えて嫌な空気がある。
多数の女と関係を持つ明楽にとって、危機察知能力もまた必要な技術だった。
あの女は、やばい。
なるべく刺激しないように、自然にその場を離れようとする。
「アキラさぁん」
水あめのような声が、明楽の足を地面に貼りつけた。
特定されている。逃げられない。
明楽に近寄った彼女は、ゆっくりとフードを取った。
「あたしのことわかりますぅ?」
「あー……ごめん、記憶にないな。会ったことある?」
関係を持った女の顔は覚えている。しかし彼女の顔は本当に記憶になかった。
「会ったことはないですよぉ。でもぉ、あたしはあなたのことよく知ってますぅ。おねぇちゃんがよく自慢してたからぁ」
おねえちゃん。ということは、彼女は誰かの妹なのか。
真菜には妹はいない。過去の女たちの、誰か。
「おねぇちゃん、アキラさんに捨てられてからぁ、おかしくなっちゃってぇ」
「……それは誤解じゃない? 俺は誰かを捨てたことなんてないよ。過去の彼女とは皆円満に別れてる」
「そうやってぇ、おねぇちゃんが自分から身を引くように仕向けただけでしょぉ? ずるいオトコ~」
にぃ、と吊り上がった唇に寒気を覚えた。手元を確認するが、ナイフを隠し持っている様子はない。突然刺されることはなさそうだが、油断はできない。
「それで? 君は誰の妹で、俺にどうしてほしいの」
「死んでほしいですぅ」
「……直球だな」
思わず一歩引く。やはり殺しに来たのだろうか。姉の名前も聞き出せていない、情報が少なすぎる。
平静を装いつつも、明楽のこめかみに冷や汗が伝った。
「でもぉ、あなたごときのせいでぇ、あたしのすんばらしい人生を棒に振るのはむかつくのでぇ」
「理性的で助かるよ」
「あなたを呪いますぅ」
「……はぁ?」
先ほどまでの緊張感も忘れて、明楽は口を開けた。
「あたしぃ、魔女なんですぅ」
「……へぇ……」
「黒魔術が使えるのでぇ。あなたがぁ、今後一生おねぇちゃんの視界に入ることがないようにぃ、呪いをかけますぅ」
なんだ、電波か。
明楽は安堵した。ストーカー化するタイプの電波は実害があるが、呪いだのなんだのトんでいるタイプは適当にあしらっておけば大丈夫だ。せいぜい何かしらの不幸が明楽の身に起こった時、自分が呪ったせいだとほくそ笑むくらいだろう。
呪いの効果がいつまでも望めなければ強硬手段に出る可能性はあるが、今はひとまず切り抜けられそうだ。
「それは怖いな。誰だかわからないけど、二度と君のお姉さんと関わらないように気をつけるよ」
「気をつけてもらわなくて結構ですぅ。絶対にできないのでぇ」
「そうだったな。じゃ、俺はこれで」
片手を上げて、明楽は足早にその場を去った。早くしないとアイスクリームが溶けてしまう。
黒い女は、その後ろ姿が見えなくなるまで、じぃっと見つめ続けていた。
帰宅すると、明楽はアイスクリームを冷凍庫に放り込んで、バスタブに湯を溜めるため水道の蛇口を捻る。
それからソファに腰掛け、スマホの連絡先を確認する。
「んー……やっぱ誰だかわからん」
別れた女の連絡先は消していない。心当たりがないか一応確認してみたが、あの黒い女が誰の妹なのかはわからなかった。
スマホを放り投げて、ソファに転がる。
明楽はヒモではあるが、それなりに相手のことは大切にしている。言うことを聞かせたいだけならDVでもした方がよっぽど効率がいい。
共に過ごすなら、お互いに好意があった方が心地が良い。恐怖で縛るより、進んでしてもらった方が罪悪感も後腐れもない。
だから誰かを酷く扱ったり、こっぴどくフられたり、大きなトラブルに発展したことはなかった。
あんな風に恨まれることなど。
覚えのない悪意に体が重くなる。心なしか、ソファにどんどん体が沈んでいくようだった。
「……ん、んん!?」
いや、気のせいではない。
明らかな体の違和感に明楽は身を起こそうとしたが、既に体は半分以上ソファに埋まっており、抜け出すことができなかった。
「なんだこれ!? どうなってんだ!?」
じたばたと悪あがきをするが、ソファはどんどん明楽の体を呑み込んでいく。
――あなたを呪いますぅ。
「まさか……!」
呪いなんて、そんなこと、あるはずが。
完全に視界が暗くなる前に明楽が気にかけたのは、捻ったままの水道の蛇口だった。
全てが暗闇に包まれた後。
明楽の体は、どこかに放り出された。
光が差して、風が肌を撫でる。目を開けると、空が見えた。自分が地面に寝転がっていることに気づいて、明楽は身を起こした。
体に異変がないことを確認すると、立ち上がって周囲を見渡す。
そこは何もない、だだっぴろい草原だった。
呆然として、明楽は呟いた。
「どーこだここ……」
「こんなもんかなー」
買い物袋の中身を確認して、明楽はひとりごちた。
今日は真菜から、仕事でミスがあったので帰宅が遅くなると連絡があった。きっと落ち込んでいることだろう。
明楽は帰ってきた彼女を慰めるために、彼女の好きな少々お高いアイスクリームを購入していた。
(先に風呂溜めておいてー、入浴剤はベルガモットのやつ。マッサージ用のボディクリームも出しておかないと。ワインは最近ハマってるオレンジ……)
頭の中で必要なものとやることを思い浮かべる。今日は真菜をべたべたに甘やかしてやらなければならない。
ヒモとは究極のサービス業である、とは誰の言葉だったか。
経済面は全て女頼りだが、家でだらだらして競馬とパチンコだけが楽しみのクズとはわけが違う。あれは人生の脱落者だ。
ヒモは飼い主に尽くす。飼い主の気分が良くなるように振る舞い、必要ならば家のこともやる。
こう言えばまるで夫に尽くす専業主婦のようだが、ヒモは行動を制限されることはない。家の外では自由に振る舞うし、金も好きに使える。結婚のように契約で縛られることもない。
何より違うのは、主導権がヒモの方にあることだ。経済面を全て頼っておきながら、それは男を繋ぎとめる要素にはならない。気に食わなければ別の飼い主を探す。女に甘えて生きられる男は、それが簡単にできる。
必要なのは女をコントロールする技術だ。
これを多数相手に詐欺紛いの行為も含めて行えるのがホストであり、そこまでいくと管理も大変で仕事の域になる。
それなりにイイ線いくとは思うが、面倒も苦労もごめんである。大金が稼ぎたいわけではない。適当な相手に寄生しているくらいが気楽でちょうど良い。少なくとも、明楽はそう考えていた。
安っぽい男のプライドさえ捨ててしまえば、生きることなど容易い。
「……ん?」
夜道を照らす外灯の下に、黒い服を着た女がいた。女はフードを被っており、顔が見えない。それでも女だとわかったのは、ミニスカートとニーハイ、フードから垂れる長い黒髪のせいだった。
明楽は眉を顰めた。どう見ても服装が地雷系。加えて嫌な空気がある。
多数の女と関係を持つ明楽にとって、危機察知能力もまた必要な技術だった。
あの女は、やばい。
なるべく刺激しないように、自然にその場を離れようとする。
「アキラさぁん」
水あめのような声が、明楽の足を地面に貼りつけた。
特定されている。逃げられない。
明楽に近寄った彼女は、ゆっくりとフードを取った。
「あたしのことわかりますぅ?」
「あー……ごめん、記憶にないな。会ったことある?」
関係を持った女の顔は覚えている。しかし彼女の顔は本当に記憶になかった。
「会ったことはないですよぉ。でもぉ、あたしはあなたのことよく知ってますぅ。おねぇちゃんがよく自慢してたからぁ」
おねえちゃん。ということは、彼女は誰かの妹なのか。
真菜には妹はいない。過去の女たちの、誰か。
「おねぇちゃん、アキラさんに捨てられてからぁ、おかしくなっちゃってぇ」
「……それは誤解じゃない? 俺は誰かを捨てたことなんてないよ。過去の彼女とは皆円満に別れてる」
「そうやってぇ、おねぇちゃんが自分から身を引くように仕向けただけでしょぉ? ずるいオトコ~」
にぃ、と吊り上がった唇に寒気を覚えた。手元を確認するが、ナイフを隠し持っている様子はない。突然刺されることはなさそうだが、油断はできない。
「それで? 君は誰の妹で、俺にどうしてほしいの」
「死んでほしいですぅ」
「……直球だな」
思わず一歩引く。やはり殺しに来たのだろうか。姉の名前も聞き出せていない、情報が少なすぎる。
平静を装いつつも、明楽のこめかみに冷や汗が伝った。
「でもぉ、あなたごときのせいでぇ、あたしのすんばらしい人生を棒に振るのはむかつくのでぇ」
「理性的で助かるよ」
「あなたを呪いますぅ」
「……はぁ?」
先ほどまでの緊張感も忘れて、明楽は口を開けた。
「あたしぃ、魔女なんですぅ」
「……へぇ……」
「黒魔術が使えるのでぇ。あなたがぁ、今後一生おねぇちゃんの視界に入ることがないようにぃ、呪いをかけますぅ」
なんだ、電波か。
明楽は安堵した。ストーカー化するタイプの電波は実害があるが、呪いだのなんだのトんでいるタイプは適当にあしらっておけば大丈夫だ。せいぜい何かしらの不幸が明楽の身に起こった時、自分が呪ったせいだとほくそ笑むくらいだろう。
呪いの効果がいつまでも望めなければ強硬手段に出る可能性はあるが、今はひとまず切り抜けられそうだ。
「それは怖いな。誰だかわからないけど、二度と君のお姉さんと関わらないように気をつけるよ」
「気をつけてもらわなくて結構ですぅ。絶対にできないのでぇ」
「そうだったな。じゃ、俺はこれで」
片手を上げて、明楽は足早にその場を去った。早くしないとアイスクリームが溶けてしまう。
黒い女は、その後ろ姿が見えなくなるまで、じぃっと見つめ続けていた。
帰宅すると、明楽はアイスクリームを冷凍庫に放り込んで、バスタブに湯を溜めるため水道の蛇口を捻る。
それからソファに腰掛け、スマホの連絡先を確認する。
「んー……やっぱ誰だかわからん」
別れた女の連絡先は消していない。心当たりがないか一応確認してみたが、あの黒い女が誰の妹なのかはわからなかった。
スマホを放り投げて、ソファに転がる。
明楽はヒモではあるが、それなりに相手のことは大切にしている。言うことを聞かせたいだけならDVでもした方がよっぽど効率がいい。
共に過ごすなら、お互いに好意があった方が心地が良い。恐怖で縛るより、進んでしてもらった方が罪悪感も後腐れもない。
だから誰かを酷く扱ったり、こっぴどくフられたり、大きなトラブルに発展したことはなかった。
あんな風に恨まれることなど。
覚えのない悪意に体が重くなる。心なしか、ソファにどんどん体が沈んでいくようだった。
「……ん、んん!?」
いや、気のせいではない。
明らかな体の違和感に明楽は身を起こそうとしたが、既に体は半分以上ソファに埋まっており、抜け出すことができなかった。
「なんだこれ!? どうなってんだ!?」
じたばたと悪あがきをするが、ソファはどんどん明楽の体を呑み込んでいく。
――あなたを呪いますぅ。
「まさか……!」
呪いなんて、そんなこと、あるはずが。
完全に視界が暗くなる前に明楽が気にかけたのは、捻ったままの水道の蛇口だった。
全てが暗闇に包まれた後。
明楽の体は、どこかに放り出された。
光が差して、風が肌を撫でる。目を開けると、空が見えた。自分が地面に寝転がっていることに気づいて、明楽は身を起こした。
体に異変がないことを確認すると、立ち上がって周囲を見渡す。
そこは何もない、だだっぴろい草原だった。
呆然として、明楽は呟いた。
「どーこだここ……」