大学生になると実家を出て、ひとりでアパートに住み始めた。親の干渉も姉の小言もなくなり、明楽の振る舞いにはますます拍車がかかった。
社会人となった彼女は明楽に貢いでくれたので、明楽はアルバイトの必要がなかった。生活費は親からの仕送りがある。
授業のレポートは同じ学科の女子に頼めばやってくれたし、必要最低限の出席日数さえ確保していれば、卒業は難しくなかった。
問題は就職だ。大学を卒業すれば、嫌でも就活にぶち当たる。
人から誘われた楽しそうな仕事を除いて、ろくにアルバイトすらしてこなかった明楽は、働く気が全くなかった。
一応エントリーシートを書いてみたり、面接の対策などをしてみたものの、自分が毎日決まった時間に起きて、満員電車に揺られながら出社し、嫌な人間と顔を合わせながら楽しくもない業務をして、という想像が全くできなかった。
自由気ままに楽して生きたかった。けれど仕送りは、卒業すればなくなってしまう。
「うあ~」
現在の恋人である真菜のマンションで、明楽は対策本を放り投げながら情けない声を上げて転がった。それを見てくすくすと笑みを零しながら、真菜が手料理を持ってくる。
「就活大変?」
「大変。もーぜんっぜん決まんないし」
「お疲れさま。これ食べて元気出して」
何時間も煮込んでほろほろになった牛肉が入ったビーフシチュー。
真菜はホワイトな大企業に勤めている社会人で、比較的時間に余裕がある。料理は真菜の趣味でもあった。
シチューを口に運んで、明楽はとろけたように相好を崩した。
「美味しい! やっぱ真菜の手料理は最高だよ。もー真菜の料理がないと生きらんない」
「大げさだよ」
「大げさじゃないって。はー、就職したら、真菜とこうやってご飯食べることもなくなっちゃうのか」
「食べに来てくれないの?」
「だって、新社会人ってめちゃくちゃ忙しいじゃん。何時に帰ってこれるかもわかんないし、少なくとも今みたいには会えなくなるでしょ。寂しいな」
しゅん、と犬の耳が垂れたような顔をしてみせる。もちろんわかってやっている。
「でも、せっかく真菜がこうやって応援してくれてるんだし、頑張んないとな! いつもありがと」
無邪気に笑って見せると、真菜も照れたように微笑んだ。
食事が終わると、明楽が食器を洗う。作ってもらっているからと、洗い物は明楽が自発的にやっている。
シンクの前に立っている明楽の腰を、後ろから真菜が抱き締めた。
「どしたの?」
「んー……こうやって、洗い物してる背中を見るのも、減っちゃうのかなって」
「そうかもね。溜めといてくれたら、やるけど」
「そんなに長いこと放っておかないよ」
冗談を笑い飛ばして、真菜がぎゅっと抱きつく力を強めた。
「私、明楽とはずっとこうやって一緒にご飯食べたいな」
「俺も。できることなら、真菜とずーっと一緒にいたいけど」
手を拭いて、明楽は真菜と向き合うと、肩口に顔を埋めた。
「俺も大人にならないとね。真菜に甘えてばっかいらんないよ」
「……甘えてくれるのは、別にいいんだけど」
「なら、今甘えてもいい?」
「……バカ」
キスをねだる仕草をして、答えた真菜が唇を重ねる。
こうなれば後はお決まりのコース。
体に溺れるのは男だけじゃない。むしろ女の方が多い。
男はつっこめれば誰が相手でもある程度快楽は得られるし、いい女を抱きたければ金を払えばそれで済む。
けれど女は、相手の技量が低ければ不満を抱え続けるしかない。大半の女は妊娠や病気を警戒して、不特定多数との行為を好まない。
つまり、パートナーとセックスの相性がいい、というのは極めて貴重で重要なことなのである。
そうなると、手放すのが惜しくなる。例え他に多少の難があっても。
だから明楽は、セックスには絶対に手を抜かない。特に相手が自分を世話してくれる対象である時は。
「……もう行っちゃうの?」
朝早くに支度をして家を出ようとした明楽に、シャツを羽織っただけの真菜が玄関まで見送りに来た。
「今日面接なんだ。早めに行かないと」
「そっか……頑張ってね」
「頑張れるように、応援してくれる?」
手を広げた明楽に、真菜が抱きついてキスを贈る。
「次はいつ会える?」
「あー……暫く就活詰まってて、来週かも」
「そっか……」
しゅんとした真菜が何かを言いたそうにしているが、聞き出そうとはせずに明楽は背を向けた。
「それじゃ、また」
「ま、待って!」
真菜が明楽のスーツの裾を掴む。
「ん?」
不安そうな顔をした真菜に、柔らかく微笑む。
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ドアを閉めて、息を吐く。仕込みは上々。
本当はこんな早朝から出なければならない面接はない。明日から就活が忙しいというのも嘘だ。やるにはやるが、そこまで詰まってはいない。
これはひどく単純な予行練習なのだ。
(俺が就職したら、思うように俺と会えないぞ、と)
真菜の稼ぎは知っている。大企業に就職して、実家も太い。
けれど真菜の好みは、ぐずぐずなダメ男ではない。頑張り屋さんだけど要領が悪くてうまくいかない、くらいが好きなのだ。自分が手を貸してやらないと、と思わせる弱さ。
だから明楽は真菜の前では料理をしない。本当はかなりできる。けれど真菜の家に入り浸っている明楽は、料理以外の家事をほぼこなしている。
ここで料理まで明楽がやってしまうと、真菜が明楽にしてやる楽しみを奪ってしまう。金を出すだけではない、自分が直接世話をしてやる楽しみ。
手料理を振る舞うことに幸せを感じる女は多い。だからそういう相手には、わざと料理ができないふりをしてみせる。
あなたが世話をしてくれなければ死んでしまう生き物ですよ、と甘えて見せるのだ。
そして一週間。明楽は真菜からの連絡をほとんどスルーして、時間が経ってから「寂しい」「会いたい」などの言葉を含めて短く返した。
たかが一週間。けれど、真菜にはきちんと効果があった。
やつれた様子で姿を見せた明楽に、真菜は心配そうに眉を下げて抱きついた。
腹を鳴らした明楽は、ろくに食事をとっていなかったという。実際には前日に食事を抜いたくらいだが。
真菜の手料理を食べながら、途中で一度だけ涙を零した明楽を見て。
真菜が「就活なんて、もうやめちゃいなよ」と言い出すのに時間はかからなかった。
涙を武器にできるのは女だけではない。特に男は簡単には泣かないものだ、という思い込みがある。ここぞで使えばかなり効く。
こうして明楽は、ヒモとしての人生を歩み始めたのである。
社会人となった彼女は明楽に貢いでくれたので、明楽はアルバイトの必要がなかった。生活費は親からの仕送りがある。
授業のレポートは同じ学科の女子に頼めばやってくれたし、必要最低限の出席日数さえ確保していれば、卒業は難しくなかった。
問題は就職だ。大学を卒業すれば、嫌でも就活にぶち当たる。
人から誘われた楽しそうな仕事を除いて、ろくにアルバイトすらしてこなかった明楽は、働く気が全くなかった。
一応エントリーシートを書いてみたり、面接の対策などをしてみたものの、自分が毎日決まった時間に起きて、満員電車に揺られながら出社し、嫌な人間と顔を合わせながら楽しくもない業務をして、という想像が全くできなかった。
自由気ままに楽して生きたかった。けれど仕送りは、卒業すればなくなってしまう。
「うあ~」
現在の恋人である真菜のマンションで、明楽は対策本を放り投げながら情けない声を上げて転がった。それを見てくすくすと笑みを零しながら、真菜が手料理を持ってくる。
「就活大変?」
「大変。もーぜんっぜん決まんないし」
「お疲れさま。これ食べて元気出して」
何時間も煮込んでほろほろになった牛肉が入ったビーフシチュー。
真菜はホワイトな大企業に勤めている社会人で、比較的時間に余裕がある。料理は真菜の趣味でもあった。
シチューを口に運んで、明楽はとろけたように相好を崩した。
「美味しい! やっぱ真菜の手料理は最高だよ。もー真菜の料理がないと生きらんない」
「大げさだよ」
「大げさじゃないって。はー、就職したら、真菜とこうやってご飯食べることもなくなっちゃうのか」
「食べに来てくれないの?」
「だって、新社会人ってめちゃくちゃ忙しいじゃん。何時に帰ってこれるかもわかんないし、少なくとも今みたいには会えなくなるでしょ。寂しいな」
しゅん、と犬の耳が垂れたような顔をしてみせる。もちろんわかってやっている。
「でも、せっかく真菜がこうやって応援してくれてるんだし、頑張んないとな! いつもありがと」
無邪気に笑って見せると、真菜も照れたように微笑んだ。
食事が終わると、明楽が食器を洗う。作ってもらっているからと、洗い物は明楽が自発的にやっている。
シンクの前に立っている明楽の腰を、後ろから真菜が抱き締めた。
「どしたの?」
「んー……こうやって、洗い物してる背中を見るのも、減っちゃうのかなって」
「そうかもね。溜めといてくれたら、やるけど」
「そんなに長いこと放っておかないよ」
冗談を笑い飛ばして、真菜がぎゅっと抱きつく力を強めた。
「私、明楽とはずっとこうやって一緒にご飯食べたいな」
「俺も。できることなら、真菜とずーっと一緒にいたいけど」
手を拭いて、明楽は真菜と向き合うと、肩口に顔を埋めた。
「俺も大人にならないとね。真菜に甘えてばっかいらんないよ」
「……甘えてくれるのは、別にいいんだけど」
「なら、今甘えてもいい?」
「……バカ」
キスをねだる仕草をして、答えた真菜が唇を重ねる。
こうなれば後はお決まりのコース。
体に溺れるのは男だけじゃない。むしろ女の方が多い。
男はつっこめれば誰が相手でもある程度快楽は得られるし、いい女を抱きたければ金を払えばそれで済む。
けれど女は、相手の技量が低ければ不満を抱え続けるしかない。大半の女は妊娠や病気を警戒して、不特定多数との行為を好まない。
つまり、パートナーとセックスの相性がいい、というのは極めて貴重で重要なことなのである。
そうなると、手放すのが惜しくなる。例え他に多少の難があっても。
だから明楽は、セックスには絶対に手を抜かない。特に相手が自分を世話してくれる対象である時は。
「……もう行っちゃうの?」
朝早くに支度をして家を出ようとした明楽に、シャツを羽織っただけの真菜が玄関まで見送りに来た。
「今日面接なんだ。早めに行かないと」
「そっか……頑張ってね」
「頑張れるように、応援してくれる?」
手を広げた明楽に、真菜が抱きついてキスを贈る。
「次はいつ会える?」
「あー……暫く就活詰まってて、来週かも」
「そっか……」
しゅんとした真菜が何かを言いたそうにしているが、聞き出そうとはせずに明楽は背を向けた。
「それじゃ、また」
「ま、待って!」
真菜が明楽のスーツの裾を掴む。
「ん?」
不安そうな顔をした真菜に、柔らかく微笑む。
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ドアを閉めて、息を吐く。仕込みは上々。
本当はこんな早朝から出なければならない面接はない。明日から就活が忙しいというのも嘘だ。やるにはやるが、そこまで詰まってはいない。
これはひどく単純な予行練習なのだ。
(俺が就職したら、思うように俺と会えないぞ、と)
真菜の稼ぎは知っている。大企業に就職して、実家も太い。
けれど真菜の好みは、ぐずぐずなダメ男ではない。頑張り屋さんだけど要領が悪くてうまくいかない、くらいが好きなのだ。自分が手を貸してやらないと、と思わせる弱さ。
だから明楽は真菜の前では料理をしない。本当はかなりできる。けれど真菜の家に入り浸っている明楽は、料理以外の家事をほぼこなしている。
ここで料理まで明楽がやってしまうと、真菜が明楽にしてやる楽しみを奪ってしまう。金を出すだけではない、自分が直接世話をしてやる楽しみ。
手料理を振る舞うことに幸せを感じる女は多い。だからそういう相手には、わざと料理ができないふりをしてみせる。
あなたが世話をしてくれなければ死んでしまう生き物ですよ、と甘えて見せるのだ。
そして一週間。明楽は真菜からの連絡をほとんどスルーして、時間が経ってから「寂しい」「会いたい」などの言葉を含めて短く返した。
たかが一週間。けれど、真菜にはきちんと効果があった。
やつれた様子で姿を見せた明楽に、真菜は心配そうに眉を下げて抱きついた。
腹を鳴らした明楽は、ろくに食事をとっていなかったという。実際には前日に食事を抜いたくらいだが。
真菜の手料理を食べながら、途中で一度だけ涙を零した明楽を見て。
真菜が「就活なんて、もうやめちゃいなよ」と言い出すのに時間はかからなかった。
涙を武器にできるのは女だけではない。特に男は簡単には泣かないものだ、という思い込みがある。ここぞで使えばかなり効く。
こうして明楽は、ヒモとしての人生を歩み始めたのである。