新年を迎えて一ヶ月も過ぎた寒い日に、僕とグレッグは工場でトラクターの整備をしていた。ラジオから流れてくるニュースといえば、相変わらずベトナム反戦運動のデモ隊と警官隊との衝突のニュースばかり。

 少し前に流行ったエルヴィス・プレスリーの『グッド・ラック・チャーム』が流れ始めると、トラクターの駆動部に油を注していたグレッグがおもむろに口を開いた。

「よお? 俺はさ、ハンナがこの町に来てくれて、本当に良かったと思うんだよ」

 普段とは打って変わり、妙にしんみりとする。「どうしたんだ? 急に……」
 作業車を挟んで座り込み、ぼそぼそと変なテンションで会話する。

「彼女が来る前のお前は、本当に毎日退屈そうで、いつ『志願兵になる!』なんて言い出すかと俺はハラハラしてたからよ」

 照れ隠しなのか、グレッグは歯を見せてぎこちなく笑ったが、きっと本当に僕のことを心配してくれていたんだろう。ハンナが来てからの僕は、いつの間にか退屈なんて言葉を忘れていたし、スケッチにだって夢中になれた。

「だからさ、もうそろそろお前たちが次のステージに進んでくれると、俺としては安心なんだけどな」

 兄貴面で話すグレッグの言葉を聞きながら、進展しない関係に彼以上に焦りを感じている自分がいた。最近じゃハンナと交わす言葉はどれも絵に関することばかり。これじゃあ本当に、ただの生徒と先生の関係だ。

「でも、彼女ってどこかつかみどころがないんだよな」僕はうなだれる。
「おい! しっかりしろよベン! 酒場のハイエナと呼ばれたお前らしくないぜ? それに一体なんのためにハンナから絵を習ってんだ?」

 そんな不名誉な通り名で呼ばれたことなんて一度もないけど、グレッグの後半の言葉に僕は食いついた。
「絵を習ってるのが、なにかチャンスをつかめるのか?」
「ハンナの人物画をお前が描くんだよ! 生徒の成長ほど、先生としてうれしいことはないって彼女も言ってたろ?」

 それは僕だって、考えなかったわけじゃない。でも人物画なんて渡されても、喜んでくれるどころか迷惑なんじゃないだろうかと、そんな考えにいつも支配されていた。

「ハンナ……モデルになってくれると思うか?」

 弱気な声で俯くと、グレッグは腹を抱えた。

「なに言ってんだ? 見なくても描けるほど、いつもハンナのこと見つめてるじゃないか! それにこういうのって、実際よりも美化して描いた方が女は喜ぶと思うぜ?」

 人を変質者のように嘲り笑うグレッグに少しムッとしながらも、目を閉じれば浮かんでくる彼女の表情に想いを馳せてみる。横顔、少し俯いた顔、意地悪に目を細める顔……。――たしかにわざわざモデルをお願いしなくても、描けそうな自信が少しだけ湧いてきた。

 僕は、毎晩眠る前にハンナを描き始めた。髪は深いブラウンの落ち着いた色合いで、色白のか細い首を覆い隠すほどの長さ。知的さを感じさせる高く細い鼻に、それを中和させるようなそばかすがとても可愛らしい。

 切れ長な君の目が、一見君を見る者を構えさせるけど、高く上がった眉と、薄い唇、頬紅を塗ったように簡単に紅く染まる頬が、見た目とは違う柔らかな本当の君を教えてくれる。

 退屈だった僕の日常に突然現れた君が与えてくれたスケッチブックが真っ黒になるほど、僕は今夢中になって君から教わった絵を描いている。名前も知らない葉っぱに、目に留まった花、見慣れたトウモロコシ畑や、親友のグレッグ。

 ずっと変わらずに日常の中にあったものを、あらためてひとつひとつスケッチブックに納めていく作業は、僕にいろいろな驚きと発見をもたらしてくれた。そうしていつも一日の終わりには君のことを考えている。退屈って言葉が乳歯のように抜け落ちて、君に生え変わったみたいな気分さ。

 思い起こしきれないほどにたくさんの君の笑顔を掌上のスケッチブックに落とし込んでいく、そんな毎日になっていた。

 とにかく僕は、気がつけば、それほどまでに君に夢中だったんだ。