「始めは、目に映るものの中からなにかひとつを取り出してスケッチするといいわ! たとえば、葉っぱや花、そうね、果物やティーカップ、自分の手なんかでも良いのよ!」

 二か月も経つ頃には、僕のスケッチブックはすっかり真っ黒になっていた。しばらくのうちは、ハンナは踏み込んだ方法をあまり語らず、まずは自由にやらせて、僕が悩むに任せている部分もあった。でもその日のハンナは少し様子が違った。

「その物の向こうにあるものを意識するの。それではじめてこの物がそこに存在するようになる。それが、物でも、人でも――」

 そう話しながら左手を空にかざし、右手で線をたどって実際に描いてみせる。するすると置かれた一筋の髪の毛のような線は、あっというまに束になり、見事な手を浮かび上がらせていく。

「大切なのは影の付け方よ、ここをサボればリアリティは出ない。乱暴に言ってしまえば、どんなに下手くそな絵でも、しっかりと影をつければ本物のように見えるのよ」

 その日、ハンナにいわれるがままに、生まれて初めて真剣にやった僕の画家の真似事は一枚の葉っぱだった。それは、そのとき足元に落ちていたただの葉っぱで、しかも所々欠けていたり破れていたりする枯れかけのもの――普通なら気にも留めずに踏みつけるだけの葉クズだ。

 本当にこんなものを? 内心そう思ったが、ハンナがいうには、すぐ近くにあるもので、目に留まったもの――それこそが画家のファーストスケッチに相応しいと目を細めるものだから。

 目を凝らしながら、一葉を描き写す。手にずっと持っているとボロボロと崩れてきそうな気がして、平たい小さな石の上にそっと寝かせ、その前に座り込んだ。丁寧に線を写し取り、そして最後に影をつけた。

 色濃い影をどんどん足していく。鉛筆が細かく動くのに合わせて、ハンナの眼差しがどんどん前のめりになって僕のスケッチに注がれていくのを強く感じた。

 学校の先生につきっきりで見張られているような、そんなわずかばかりの緊張と、それを上回る嬉しさが潤滑油となって、僕の手は滑らかに動き続けた。それは感じたことのない気持ちよさだった。

「ベン……あなた……」

 ハンナの声に感嘆がありありと浮かび上がっていた。先生を喜ばせることができた喜びで、僕にもちょっとは才能があるんじゃないかと己惚れてしまうほど悪くない出来だった。

「本当にこれまで絵の経験をしてこなかったの!? 率直に言って学生のコンテストで入賞できそうなほどの腕前よ!」
「君の教え方が上手だからだよ」

 照れる僕を、ハンナはしきりに「いいえ!」と否定した。

「……でも、この葉っぱには足らないものがまだひとつだけあるわ。それはなにかわかるかしら?」
「足りないもの?」

 彼女に言われて、スケッチと葉っぱを見比べる。だけど、それは雑誌の付録についている間違い探しみたいで、見比べれば見比べるほど違いなんてわからなかった。悩む僕の隣で、ハンナは柔らかい空気を携えて待っていた。

「その葉っぱをお日様の光に透かしてみて」

 優しく促されるに従って空に掲げてみると、葉っぱの中に無数に枝分かれした線が浮かび上がった。

「葉脈よ。それを付け加えると、あなたの絵はさらに良くなるの。太陽のレントゲンのおかげね」

 ハンナはすべてわかっているといったように、僕の手からスケッチブックを受け取って線を足していった。手慣れた速さで鼻歌でも口ずさむようにやすやすと、太陽光に浮かび上がった線を映しとっていく。

 ほんの少し手を加えただけで、僕の葉っぱは本当にそこに落ちているように見えた。風が吹けば、浮かび上がり、蝶に化け、翅を羽ばたかせて今にも飛び立ちそう、そんな感じにも――。

「いい? ベン、どんなものにも特徴ってものがあるのよ。その特徴をつかむことによって、さらにリアリティを持たせることができるの」

「特徴? 精密に描き写すだけじゃ駄目なのか?」
「とても良い質問だわ! ベンジャミン君」

 ハンナがそう教師の口調で冗談めかすと、自分でも可笑しかったのか軽く吹き出した。そんな彼女に僕も調子を合わせる。

「なんだよ、先生? もったいぶってないで教えてくれよ」
「細部を細かく描くのは良いけど、対象がもっと大きくなると大変よね? たとえばこの目に映る風景全体を描くとしたら?」

 ハンナの視線を追って辺りを見渡す。《《絵》》としてどう線を描くかイメージしてみようとするけど、考えれば考えるほどその先の見えない作業にうんざりとした。

「それに、ただあるがままに写し出すだけなら、写真に収めればおしまいでしょ? 絵を描くっていうのは、同じ被写体を画家の個性でどう表現するかなのよ。鏡に映しだす作業じゃないわ」

 ハンナは時々、こうやってつかみどころのないことを口走る。それでも僕は必死に彼女の真意を理解しようと努力していた。

「特徴っていうのは、目で見てそれだとわかるものよ。そうね、あなたとグレッグは同じ人間で同じ男性でしょ? 目も鼻も口も耳も、その数はまったく同じ……じゃあ、あなたとグレッグを見分けるものって、一体なにかしら?」

 子供にクイズを出して答えを待つ親のように、ハンナは僕にデッサンのイロハを教えてくれた。
 二冊目のスケッチブックには主に人物画を描いた。モデルはもちろんハンナだ。――と、言いたいところだけど、モデルになってほしいなんて照れ臭くてとても言えず、仕方なくグレッグばかりを描いていた。

 アホ面のグレッグにマヌケな寝顔のグレッグ。馬鹿丸出しのグレッグに、不細工なグレッグ。被写体が悪いせいなのか、人物画を描き始めた途端、イマイチ納得のいく絵が描けなくなっていた。

「なあ、ベン。お前、俺のことが好きなのか嫌いなのか、一体どっちなんだ?」
 グレッグが、渋い顔で覗き込む。

「どれ? 見せてみて!」

 湖に向かっていたハンナが自分の筆を置くと、グレッグはスケッチブックを彼女に渡して言った。

「被写体が悪いから仕方ないなんてぬかすんだぜ? この絵からは俺への熱い憎悪を感じるよ……」

 言われたい放題で面白くないけどなにも言い返せない。彼の言っていることは大体合っている。

「ほら、ベン。特徴よ! 彼の特徴をつかみながら描くのよ」

 毎日飽きるほど見ている親友の特徴……。スケッチブックをハンナに返されて、自分の描いたグレッグと、毎日うんざりな実物のグレッグを見比べる。

 どこをどうつかめっていうんだ……? こんなにこいつの顔を見つめたことなんてない。思い悩んでいるとグレッグがウインクを飛ばしてきた。あまりの気色悪さに思わず吹き出してしまう。

 本当にグレッグは悪ふざけの天才だ……。

「もっと俺のことを注意深く見てくれよ! さあ! 恥ずかしがらずに!」

 ピンナップガールのようなポーズをとりながら悪い冗談をいうグレッグに、ハンナが声を立てて笑い始める。僕の手は止まったままだ。

「そうね……顔の輪郭は面長で、切れ長の目の間は距離があるように見えるわね。スラリと伸びたタイトな鼻に、笑うと歯茎まで見えそうな大きな口。そして日焼けの残る褐色の肌……まるで馬のような顔ね」

 馬顔……。ズケズケと分析する彼女に言葉を失う。そんな僕たちの様子に、彼女はいかにも不思議そうに「どうしたの?」と訊ねる。やっぱり苦笑いしかできない。

「いや、なんでもないよ」

 馬顔のグレッグに、馬顔の馬。グレッグ顔の馬に、グレッグ顔のグレッグ。ハンナのアドバイスという名の暴言に、さすがのグレッグも顔を引きつらせていた。僕は笑いを堪えながら半信半疑でスケッチに向き直る。でも、そのアドバイスのおかげで、紙上の《《顔つき》》はかなりリアリティのあるものになっていった。

 つまり、これが特徴ってやつだったんだ。グレッグは随分と根に持っていたけれどね。