もうすぐ新たな年を迎えようというのに、僕たちは相変わらず雨の冷たいジャングルを徘徊し、穴を掘っては泥水の中で眠れない毎日を過ごしていた。ベトナムへやって来て四ヶ月余り、交戦を経験するたびに死への恐怖は膨れ上がる。

 最近、一部でもっぱら噂されている話がある。後方から復帰したグレッグもしきりに口にしていた。

 ――それがパープルハートだ。

 士気が下がりきった今では、ほとんどの兵士がその言葉を口にした。

 パープルハートとは《名誉負傷章》のことで、戦闘によって負傷した兵士に贈られる勲章だ。肩をやられたグレッグも当然ひとつ獲得した。もう一度負傷すれば二つ目の武勲が貰える。

《名誉負傷章》を二つ獲得した兵士はそのまま後方に送られ、前線での戦闘が免除になる。三つ貰えば、ベトナムでの従軍期間が終わっていなくてもアメリカに即時帰国できる。

 もちろん、戦闘で一度ならず二度も負傷して、なおも生きていられるなんて奇跡としか言いようがない。さらに三度も負傷し、それでも生き延びたのだとしたら、そいつは間違いなく神に選ばれた者だ。しかし、この地獄で必死に生に食いさがる者たちにとっては、これほどの希望はない。

 もちろん敵に遭遇せずにすむこともよくあったが、僕たちは怯え切っていた。数ミリ進むにも脂汗を垂らし、鳥の羽音がすればトリガーにかけた指が反射で動いた。鉄帽から滴る汁は、もはや泥水なのか汗かもわからないままだ。雨が止み樹々の隙間からきれいな星空が覗こうとも、僕たちは掘った穴に身を縮めて震え、揺れる葉の影を惧れた。

 恐怖が疲弊を上回る。朦朧として、ただ死にたくない死にたくないと呪文のようにぶつぶつ唱え続ける奴もいた。

 その頃になると、戦闘中にも関わらず手や足を高く挙げている兵士をたびたび見かけるようになっていた。

 ――つまり、死なない程度の負傷をわざと負い、紫の勲章(パープルハート)を獲得するためだ。

 そんな事情が敵にわかるはずもない。当然、自ら居場所を(さら)す者は的となる。

 希望通り「無事に」負傷できる者もいれば、あっけなく手榴弾で粉々になる奴もいた。それでも手を挙げるやつは減らなかった。

 雨の森林を徘徊しながらグレッグとパープルハートの話をしていると、列の後ろについていたウィズリーが話に入ってきた。

「なぁ? そのパープルハートってのは、どんな傷でも貰えるのかな」

 オクラホマ出身だという彼は、先月第二中隊に配属されてきたばかりの新兵で、故郷に恋人を残してきていた。

「聞いた話では傷の大小は問わないって話だけど、自傷行為はカウントされないぜ?」

 グレッグは冗談めかしたが、ウィズリーはあからさまに落胆する様子を見せた。

「そうかぁ……やっぱりそうだよな……この前の交戦で、倒したベトコンから22口径を奪ったんだよ。これくらいならって思ったんだけどな……」

 ポケットから小銃を取り出すと思い詰めたように見つめ、逆の手で胸元を握りしめる。

「なに情けないこと言ってんだお前。なんなら俺が今すぐそれでおまえの頭を撃ち抜いて、死体袋を故郷に送ってやろうか?」

 ジェフが嘲笑い、横やりを入れる。ウィズリーの鉄帽をライフルで小突くと顔に唾を吐きかけた。

「やめろよ、ジェフ! そんなことしたら軍法会議だぞ」

「ハンッ! こんな情けねぇ奴と同じ隊だなんてな……」

 ジェフはそう吐き捨てると、列の前方へ進んでいった。唾をかけられたウィズリーは顔色ひとつ変えずに手元の22口径を見つめたままだった。

「お前もジェフにやられっぱなしで悔しくないのかよ」

 グレッグの言葉にも、ウィズリーは眉ひとつ動かさなかった。

「ダメだなコリャ……行こうぜベン、こんな奴の側にいたら、俺たちにまで不幸が移っちまうよ」

 正直なところ、僕にはウィズリーの気持ちがわかる。痛みをたった三回我慢するだけで本当にこの地獄から生きて抜け出すことができるなら、きっと僕も大きく心を揺さぶられると思うから……。

 ……でも、本当に怖いやり方だ。