今日みたいに蒸し暑い一九六三年のある日に、君はこのミズーリ州の名前も忘れ去られるほどなにもない退屈な田舎町へとやって来た。その頃のアメリカはベトナムの反戦運動が活発で、ラジオから流れるニュースといえばそんな話ばかり。

 アメリカ中が関心を持っていたそんな騒ぎの中でも、この町の人たちは別世界の話のように聞き流しているだけ。

 僕を含めてね……。

 当時の僕は目に映るすべてが退屈で仕方なかった。この町で暮らす自分にもこの町で暮らす人たちにも、そもそもこの旧態依然な町自体にうんざりしていた。

 そんな僕が決まって現実から逃げ出す場所といえばこの湖のある公園。
 湖のほとりにある木陰に寝そべって、優雅な蝉の鳴き声を聞く。

「ベン! いるか? ベン!」

 茂みの中からガサガサとグレッグが顔を出す。

「おい! 起きろベン!」

 グレッグが僕の麦わら帽子を取り上げて、頬をペチペチとたたく。
 日差し避けを奪われた僕は眩しさに目を細めて身を起こした。

「なんだよ、グレッグ。まだ昼前だ! こんな時間から飲みに行くつもりか」

 幼なじみの彼とはいつも一緒につるむ仲で、ほとんど兄弟みたいに育った。仕事が終わると隣町のバーへ繰り出すのが日課だ。

 バーの名前は、〝ドランクモア!(もっと酔え)

 いかにも田舎町らしい背伸びした名前のバーだろ? ビールと女の子目当てのピューマ連中が集まる狩場のような店だ。

 グレッグは呆れ顔で、麦わら帽子を僕に放り投げた。

「こんな時間からお前と酒を飲んで、一体俺になんの得があるんだよ。親父さんがお前を探してたぜ」

 僕は再び麦わら帽子で顔を覆うと、その場に寝転がった。

「もうトウモロコシ畑はうんざりだよ。父さんに言っといてくれないか。ポップコーン作りはもう飽き飽きだって」

 グレッグは隣に腰を降ろし、煙草に火をつけると皮肉たっぷりに目を細めた。

「また始まったよ。ベンジャミン博士の人生哲学講座が……」

 僕の麦わら帽子をまたもや掠め取ると、自分の頭に乗せる。

「『我々は虫カゴに捕らえられた虫で、退屈にただ死を待つだけの定め』だったか? じゃあ博士、教えてくれよ。俺たちは一体どうすりゃその虫カゴから出られるんだ?」

「グレッグ、考えてもみろよ。僕たち先祖代々ずっとこの土地でトウモロコシ畑をいじってるんだぜ? なんで不満ひとつなく、ただのうのうと生きていられるのか、僕はそれが不思議でならないよ」

「最近暑い日が続いてるからな。お前の頭の中にあるわずかに残った脳みそも干からびたんだろうよ」

 グレッグは、口に挟んだ煙草を器用に揺らして、相変わらずの呆れ笑いだ。いつだって話半分。こうやって僕を茶化すのが、グレッグのやり方だ。

「話にならないな。こんななにもない退屈な田舎町で平気で生きていけるお前に、この高貴で崇高な僕の悩みなんて理解できるわけがないのさ」

「おいおい。退屈でなにもないだって? 目の前を見ろよ! 湖がある。それにタイガー・スタジアムも真っ青な広さのトウモロコシ畑に金物屋だってあるぞ。バーベキューするために必要なものはすべて揃ってるじゃないか!」

 大まじめなのか? それともふざけてるのか? とにかく僕はグレッグのこんなところも大好きだった。

「なにか新しいことをしたいんだよ……こんな田舎町から抜け出して……たとえばNY辺りで一生の仕事を見つけたいんだ!」

 目を輝かせて体を起こす僕を、グレッグは腹を抱えて大笑いだ。

「NYでトウモロコシを育てるのは無理があるだろ!」

 僕はグレッグの口許から煙草を掠め取ると、一気に煙を肺に吸い込み、縮んだ吸い殻を口の端で弄びながら寝転がる。

「一度トウモロコシから卒業しろよ。これだから保守的な田舎町は嫌なんだよ」

「そんなこと言ったって俺たちにできることといえば、トラクターを走らせることに酒を飲むことに女を口説くことぐらいじゃないか」

 そうさ、僕たちにはなんの取り柄もあてもない。だからこそ、目の前に敷かれた人生のレールが終着駅まではっきり見渡せている気がして情けないんだ。

「じゃあさ、こういうのはどうだ」

 不貞腐れる僕に向かってグレッグが両腕を開き、演説を始めた。

「隣町に行ってわた飴を売るんだ! 本場NYの味とかって触れ込みをしてひとつ1ドルで売るんだよ!」

 僕は思わず吹き出す。突拍子もない話だ。

「わた飴が1ドルだって? そんなもの一体誰が買うんだよ?」

「そこだよ! そこ! わた飴が1ドルなんてまずあり得ないだろ? だから本場NYの味って触れ込むんだよ! 俺たちみたいな田舎者がひとつ1ドルもするようなわた飴見たら、そうかそれが本物の味かと信じて思わず買っちまうのさ!」

 グレッグの自虐的なジョークに、僕も大笑いで乗っかる。

「面白いな、ソレ! ドランクモアの隣に店を構えよう! 店の名前はそうだな、〝ポイズンド(毒入り)〟とかでさ!」

「ワハハ! いいなソレ! 軍関係の人間が見たらベトナム戦争に使えると踏んで大量に売れるかもしれないな⁉ そしたら俺たち億万長者だぜ!」

 仕事をさぼり、ビールもなしで朝っぱらからこんな話で盛り上がれるなんて、本当にここは平和で安穏と過ぎ去る、退屈に事欠かない町だ。

「さあ、そろそろ戻ろうぜ? でなけりゃまたお前の親父さんにトラクターで追いかけ回されちまうよ」

 与太話の終わりはいつもこんな一言で一気に現実へと引き戻される。あんなものではねられたら大惨事だ。

 公園を出てトラックに乗り込む。グレッグはなぜか町外れにある農園の方角へは向かわず、町の中心へ通じる道へハンドルを切った。

「グレッグ、遠回りじゃないのか?」
「今日は暑くなりそうだからな、素面で仕事なんてできないだろ」

 この町の通りは、目を瞑っていても運転できそうなほど、危険とは縁遠い。特にまだ昼前のこんな時間では、ほとんどの住民が揃って早朝から畑に出かけ勤勉に働いている。道はガラガラで、たまにカラスがゴミ箱を漁っているくらいしか動きがない。

 ラジオからはサミー・デイヴィスJr.の歌う〝オール・ザ・ウェイ〟が流れていた。グレッグが片手でハンドルにリズムを刻む。開け放った窓から腕を伸ばすと行き過ぎる風をぶんとクラッシュし、シンバルを切る真似をした。

「音楽がある。トラックがある。そしてなんといっても酒を売る店がある!
 俺らが生きていくために必要なモノはなんでも揃う、なにひとつ不自由のない良い町だ!」

 得意げにリカーショップの前にトラックを停め、満面の笑みで突き出されるグレッグの拳に、僕は呆れながらも応えた。

 この店で僕たちが買う物なんて決まったものばかり。

 ――アルコールにアルコールにアルコールに、うんと冷えたアルコールだ。

「父さんに見つからないようにしろよ」

 ケースごと買いこんだビール瓶の山を荷台に積み込みながら僕が言うと、グレッグは、「まかせろ!」と早速一本目のビールの栓を開け放っていた。

 ご機嫌なグレッグと農園へ向かう途中、珍しい光景が目に飛び込んだ。
 トランクを開け放ち、車の屋根にまで荷物が盛られた一台のチェッカー・キャブが民家の前に停められていたんだ。

「なあ、グレッグ。あのタクシーの停まってる家ってエイムスさんの家じゃなかったか?」

 僕の指差す先を確認すると、グレッグは懐かしそうにうなずいた。

「ああ! ロザリーか? ロザリー・エイムス! そういえば彼女には子供の頃よくお菓子を貰ったっけな⁉」

 ロザリーも古くからこの田舎町に暮らす一人。彼女の両親はずいぶん昔に病気で他界し、今では彼女ひとりであの家に住んでいる。
 たしか妹がいたって話を父さんから聞いたことがあるけど、結婚してこの町を出ていったらしい。僕に言わせれば、ロザリーの妹は成功者だ。

 そんなことを考えていると、グレッグが言った。

「ひょっとして、妹の出戻りなんじゃないのか?」

 グレッグがそう言ったとき、タクシーの後部座席から運転手の手を借りて杖をついた女性が降りてきた。ブラウンの落ち着いた髪色に色白で華奢な体つき、遠くから見る限り、年齢は……そう、二十代後半か三十代前半だ。ロザリーの妹にしては歳が離れすぎている。

 ロザリーは、父さんと歳が近いって聞いたことがあったから、そうだとすれば彼女の年齢は六十代のはず。車から降りて来た女性は明らかに僕たちよりも少しだけ年上に見える程度だった。

「なあ、ベン! あれってひょっとしてロザリーの娘か? てっきり彼女は永遠のヴァージンだとばかり思ってたのに!」

 ゲスなことを口走るグレッグを横目に、僕は答えた。

「いや、父さんの話じゃ彼女は未婚のはずだ。あの女性が一体何者なのかはわからないけど、ロザリーの娘じゃないのは確かだよ」

 グレッグは、あまり気にも留めない様子だ。

「彼女、杖をついてたみたいだけど足でも悪いのかな?」

「さあ? ひょっとしたら若作りしてるだけで、やっぱりロザリーの妹なのかもな? だとしても、彼女なら俺はアリだよ」

 笑えないジョークに僕は煙草に火をつけて吸い込むと、首を振りながら煙を吐き出した。

 そのままエイムス宅を通り過ぎる。畑に着くと、すでにトラクターに乗った父さんが、母さんと農薬の散布を始めていた。

 この町全体のトウモロコシ畑は果てしなく続くほどに広大だけど、うちの農家が所有しているのはそのうちの一〇〇〇エーカーほどだ。残りは他の農家が各々農作物を作っている。

 作付けが遅れれば当然収穫も遅れる。夏期の乾燥はトウモロコシが実をつける大切な時期には致命的で、作付けタイミングをなんらかの事情で逃した農家は大豆に切り替えることもある。
 霜や雹などの影響も受けるから計画通りにはいかない。だいたいは一面のトウモロコシだけれど、それでも区画によっては一部大豆だったり、休ませていることもある。

 五〇年ほど遡ると、うちの管理下の畑は、四〇〇〇エーカーにも届く広さだったらしい。そんな大海原みたいな広さのトウモロコシ畑を、若き日の父さんたちだけで汗水垂らして耕していた。
 それが今や全盛期の四分の一にまでなってしまったのには理由がある。つまり跡継ぎ問題だ。

 父さんの兄弟は、父さんを含めて全部で四人。そのうちの一人は女で、結婚してさっさとこの町を出ていった成功者。
 残りの三人はこの町に留まり結婚し、家業を引き継ぎ手分けして畑を守ってきた。

 しかし問題が生じた。不幸なことに、二人の叔父には子供ができなかった。まあ僕が思うに、農薬が原因だ。

 当時、四〇〇〇エーカーもの農薬散布に人力の限界があることは間違いない。近隣の農家で話し合って民間のパイロットを雇い、セスナから農薬を空中散布していた時期があったらしい。

 アワノメイガの駆除には功を奏したけれど、飛散した農薬は、同時に町の人間の生殖機能にも影響を及ぼした。

 ――特に父さんの兄弟にだけ……。

 原因がなんだったにせよ、歳をとっても子供を授からなかった叔父さんたちは早々に見切りをつけると農家を引退し、土地をそっくりそのまま子宝に恵まれた他の農家に譲り渡した。それなりの譲渡金があったんだろう。今や気楽な悠々自適生活で、ほとんど町にいない。

 コウノドリの運び間違えか、運の悪いことに父さんの前に放り出された僕は、後継者として過度な期待を一身に受けながらも、こうして毎日だらけきって、漫然と時間を食いつぶすというわけだ。

 そんな親不孝な息子を見兼ねた父さんが、それならせめて仲の良い友人と一緒なら、少しは真面目に仕事を熟すんじゃないかと考え、わが家の従業員第一号になったのがグレッグだった。

「ベン!! グレッグ!!」

 日も高くなりかけてからようやく畑にやって来た僕たちを見つけると、父さんがものすごい剣幕でこちらへ向かって来る。

「ほら……やっぱり怒ってるよ、お前の親父さん……いっつもそうだ。いっつもお前の説教のついでに、なぜか俺までどやされるんだよ……」

 不満そうにグレッグがぶつくさ言った。

「しょうがないだろ? 僕たちは一心同体で兄弟みたいなものなんだから。兄貴が怒られるときは、弟も一緒だって相場は決まってるんだ」

 僕たちをロックオンした父さんから逃げる術はまったくない。グレッグが上目に僕を睨みつける。父さんのお説教は三〇分ほど続いた。

 強烈な日差しの下だ。
 しおらしい態度で微動だにせず聞き流すなんてもってのほか、立っているだけで体中にまとわりつく熱気と流れる汗が、単調な父さんのお説教を何時間にも感じさせる。

 隣のグレッグがフラフラと身体を揺らし始めた。この素晴らしすぎる炎天下に帽子を被り損ねている。鉄のフライパンで(あぶ)ったポップコーンのように白目を剥いてうな垂れていた。

 彼はもう限界だ。

「父さん! ごめんなさい! この忙しい時期にサボったりして……明日からは真面目にやるよ! それにそろそろ作業に取りかからないと今月中に農薬の散布も終わらなくなっちゃうよ」

 反省した態度に父さんも納得したのか、それとも(ゆだ)っているグレッグを不憫に思ったのか、「もういい。とにかく、お前たちは東側のブロックから散布を開始してくれ」と言ってその場を後にした。

「おい! グレッグ! グレッグ!? しっかりしろ!!」

 グレッグの頬を打つ。父さんは作業に戻る途中で振り返り、こちらに向かって叫んだ。

「グレッグ! 帽子を忘れるな!」

 どうやら後者だったようだ。

 荷台に積んであったビールをグレッグに渡すと、彼はそれを一気に飲み干した。

「ぷぁッ!? あぁ! ……。脳みそがポップコーンになるところだったぜ!」

 目を充血させて叫ぶ彼が面白くて、僕はお腹を抱えた。

「笑いごとじゃないぜ? ベン! それにな! 兄弟だっていうなら絶対俺が兄貴で、お前が出来の悪い弟だろ!?」

 盛大なげっぷをしながら必死に怒鳴りつけるグレッグに、僕はさらに可笑しくなる。

「明日からは、お前にも見つからないような場所でサボるよ」

 そういって僕がトラックに乗り込むと、「そんな場所がこの町にあるもんか!」とグレッグも助手席に続いた。

 こんな間抜けなやり取りが、その日一日の思い出になるような毎日の連続だ。

 すっかりと日も落ちトウモロコシ畑が闇に染まる頃、僕たちはようやく作業を終えて帰路につく。

 いつもなら、真っ先にグレッグがドランクモアへと誘うのだけど、リカーショップで買い込んだビールを作業中にほとんど飲み干してしまった彼には、そんな欲望も湧き上がってこないのか、幸せそうに助手席で眠っていた。

 自宅につくと、門前で待っていた母さんがトラックへと駆け寄ってくる。グレッグの体を揺らすが起きそうにない。土嚢のような沈み具合だ。

「おかえり、ベン! グレッグ、今日も一緒に食べていくだろう?」

 助手席を覗き込み、車内に散らかる空き瓶に気づくと、母さんは呆れ果てた。

「ちょっと!? あんたたち、これは……」
「今日は暑かったからね、父さんには黙っておいてよ」
「それはいいけど……この子、大丈夫かい?」

 母さんが、グレッグの頬を軽くたたく。

「さすがにこの調子じゃ、起こすのは無理そうだ。こいつを家まで送ってくるよ」

 残念そうに手を挙げて引き返す母さんを横目に、僕はふたたびエンジンをかけた。

 グレッグの家まで車を走らせる。こいつがほとんどビールを平らげてしまったせいで、僕の身体は干物みたいにカラカラだ。

 まったく! なにが僕が出来の悪い弟で自分が兄貴だって?

 間抜けに歯を見せて幸せそうに眠りやがって。その口にサングラスでも突っ込んでやりたい。レイ・チャールズの歌い方にそっくりな眠り方なんて、聞いたことがない。車に揺られて左肩が落ちるところまで、瓜二つだ。

 道すがら、どれだけ僕が悪態をついても、グレッグは変わらず寝息を立てていた。彼を担いで何とかトラックから下ろし、家まで送り届けると車をUターンさせて来た道を戻る。

 ふと、昼間見かけたタクシーの事を思い出した僕は、少し遠回りしてエイムスさんの家の前を通ってみようと思った。

 ロザリーのことが心配だったわけじゃないし、杖の女性に会えるとも思わなかったけれど、この町にやって来る外の人間なんてあまりに珍しかったから、なんとなく確認のつもりで車を向かわせた。

 暗がりの中を走り抜けていくと、ロザリーの家の明かりが見えてくる。

 こじんまりとしているけど手入れの行き届いた温かみのあるきれいな屋敷だ。
 横目に通り過ぎようとすると、明かりに照らされて庭のベンチに二人の人影があるのが見えた。

 ひとりはロザリー・エイムスだろう。だとすると、もうひとりは昼間タクシーから降りてきた杖をついた女性?

 その姿をこの目で捕らえようと、庭先のベンチに視線を集中させたその瞬間、僕の身体はドンっと跳ね上がり、坂から突き落とされるような勢いでハンドルに頭をぶつけた。

 耳障りな摩擦音がギリリリと響き、そのまま座席から振り払われて、フロントガラスに顔を張り付ける。

 気づくと、真っ白な厚い煙が車を覆って視界を完全に塞いでいた。

 あんなにもきれいに広がっていた星空は一転、突然の激しい雨にトラックの天井が打ちつけられる。

 どこかで誰かの叫び声が聞こえた。

「車が消火栓にぶつかったぞ! 水を止めろ!!」

 ――やってしまった。

 お見事に。車はパーだし、僕は町の有名人だ。