良く晴れた五月の青空の下を、ロザリーの家に向かって車を走らせる。状況を知ったグレッグが、黙って僕を運転席から降ろしてハンドルを握った。

 助手席の窓から見えるいつもの景色が、まるで違って映る。紙袋いっぱいに詰められたライ麦パンを抱えながら、僕はいつまでもこの見慣れない景色を眺めていたかった。

「大丈夫か? ベン……」
「ああ、相手はベトナムだろ? アメリカにしてみれば、原始人に毛の生えたような奴らさ。それよりも今はハンナだよ! 彼女、今日は部屋から出てきてくれるかな?」

 気丈に振る舞っても、その言葉とは裏腹に空気が重くのしかかる。なんとかそれを払拭しようとする僕の気持ちを察して、グレッグも話題を切り替えた。

「そりゃ、出てくるだろ? この町で一、二を争う色男が迎えに行くんだからさ」

 だけど今は何を話しても心は虚しかった。

 ロザリーの家に到着して車を降りる。路肩には、細いタイヤの(わだち)が残っていた。一目見て、それがコールドマンのものだとわかる。

 グレッグはその真新しい轍跡を一瞥すると、ドアをノックした。もし父親の説得が上手くいったなら、家の中にはロザリーがひとりでいるか、もしくは誰もいないかだ。

「いらっしゃい、二人とも。ハンナなら、さっきようやく部屋から出てきたところよ。さあ入って」

 扉を開けたのはロザリーだった。ほっとした顔つきで僕たちを迎え入れる。

「あの頃と同じね……今もあなたたちを見ると、私はとても安心するのよ。最悪の状況を、いとも簡単にひっくり返してくれそうな気がして……」

 時折キィと鳴る床を進みながら、僕たちは黙って聞いた。

「たとえあなたたちの起こす風が、蝶の羽ばたきほどに小さな風だったとしても、その風はやがて嵐になって私の元へ戻ってくるはずだわ」

 ロザリーがなにを言いたいのか、なにを期待しているのかはわからなかった。だけど彼女はきっと特別なことは望んではいない。いつも通りの僕たちでいいんだって、そう言ってくれている気がした。

 居間に入るやいなや、ハンナが警戒心を剥き出しにしてこちらを睨みつけた。

「や、やあハンナ。久しぶり、いや、昨日少し顔を合わせたね」

 冷静に考えてみれば、ハンナに振られたあの日から、こうしてきちんと顔を向き合わせるのは約二ヶ月半ぶりになる。たかだか一度断られたくらいで彼女の本心さえ見抜けず、食らいつきもせずに、勝手に絶望して逃げ出した僕に呆れているだろうか。それとも怒っているだろうか。

「なんだ! ベンとグレッグじゃない? 性懲りもなく、またパパが説得に来たのかと思ったわ!」

 ハンナは表情を緩ませソファーから立ち上がった。屈託のない笑顔に思わず見とれる。

「昨日はごめんなさいね。あなたたちには恥ずかしいところを見られてしまったわ」

 ハンナは部屋の中を忙しく動き回り、落ち着きがない。

「ねえ、ハンナ……」

 話を切り出そうとすると、彼女はそれを遮って次々と喋り出した。

「今日は一体どうしたの? 仕事は落ち着いたの?」と。

「私のパパって、私そっくりな嫌味な話し方だったでしょ? そうだ、青色の絵の具を使い切ってしまったんだけど、この辺りで買えるお店ってないかしら?」
 (せき)を切ったようにまくし立てる。出会ったあの頃と同じだ。

「全部聞いたよ、ハンナ。ロザリーが昨日、話してくれたよ」

 僕がそう言うと、彼女は話すのを止めて、ソファに腰掛けた。

「……おばさんったら、本当にお喋りなんだから」

「さあ、あなたたちもほら、座って座って」
 キッチンから飲み物とお菓子を持ったロザリーが現れると、ハンナは膨れっ面で彼女を睨んだ。そんな様子をみながらグレッグが言った。

「俺たちはロザリーから君の話が聞けて良かったと思ってるぜ? だって俺たち、友達だろ? ハンナ、君の力になりたいんだよ。もちろん、君の病気を治すことは俺たちにはできないけど、友達としてできることならあるだろ」

 ハンナはなにか考え込んで口を開かなかった。次第にグレッグも言葉を詰まらす。

「クリスティーナの世界……」
 つぶやく僕にハンナが微かに反応した。
「君は、旅行のつもりでこの町を訪れたんじゃなくて、大好きだった母親が暮らしたこの場所を、終焉の地に選ぶためにやって来たんだろ?」

「なぜそう思うの? クリスティーナの世界って?」

 ハンナの目に光が宿る。身を乗り出し、僕を試すように問い掛けた。声にも、明るさが含まれている。僕たちの知るいつもの意地悪げなハンナだ……。

「以前話してくれたろ、クリスティーナの生き方に感銘を受けたって。その話を思い出したのさ。クリスティーナが君なら、視線の先にある家は、きっとこの町なんじゃないかと思ってね」

 これは何かの面接か? 僕の答えを聞くと、彼女はうれしそうに言った。

「素晴らしいわ、ベン! 良く覚えていてくれたわね。完璧とは言えないけど、納得のいく解答だわ」

 ハンナが舌を出して笑うと、とたんにその場の空気が和んだ。皆がつられて笑う。

「ねえ、ベン。久しぶりに皆で湖に行かない?」

 ハンナは笑顔を鎮めると、そっと目を閉じた。心の中で湖の景色を思い浮かべているのがわかる。

「もちろんだ! ライ麦パンとジャムもたんまりあるぜ! 後はロジーの店でビールを買いこめば準備万端だ!」

 グレッグがうれしそうに紙袋を振る。たしかに今日は酒を飲みたい気分だ。

「エイムスさんもどうだい?」

 ハンナが大喜びでロザリーに駆け寄る。「そうよ! 一緒に行きましょう!」

 ロザリーは、微笑みで溢れた顔をさらに綻ばせながらいった。

「そうね、私も歳をとってもう随分とあそこへは行っていないから、若いあなたたちに連れていってもらうのも悪くないわね」

 彼女の知る昔の景色と、今訪れる湖の景色は、その目にどのくらい違って映るだろうか。

「パサパサのライ麦パンにピッタリの飲み物をポットに詰めてくるわね!」

 ロザリーが支度をするのを待ち、僕たちはまっすぐ湖の公園を目指した。