長い沈黙が続いた。部屋に引きこもったままのハンナをよそに、ロザリーは僕たちをテーブルへと誘うと、温かいコーヒーと懐かしいビスケットを出してくれた。そして自分も席に着き、話し始める。

「妹のジュリアは……ハンナの母親はね、脳腫瘍っていう脳を侵す難しい病気でこの世を去ったの……」

 ロザリーがカップを両手に包みこむ。手元でコーヒーが湯気を立ち昇らせていたが口をつけることはなかった。僕たちは黙って彼女の話を聞いた。

「腕中、針のあとで紫色に染まっていたわ。苦しくなると、それこそ体中……たくさんのチューブやら、名前もわからないような機械で繋がれてね。一体治療しているのか、苦しめているのか、とにかく見ているこっちが目を背けたくなるような、そんな闘病生活だったわ……」

 記憶が鮮明に蘇るのか、ロザリーは声を震わせていた。

「その頃のロバートは仕事一筋でね。ジュリアの高額な治療費のためにも、とにかく仕事を休むわけにはいかなかったはずよ。ハンナもそこは理解していたけど、日に日に弱っていくジュリアを見るのはやはりつらかったのね……。ロバートは、そんなジュリアから逃げるように仕事に打ち込みすぎたのよ」

 ロザリーはそこで言葉を詰まらせ、ハンナの部屋を見つめた。唇をきつく結び、カップを持つ指にも力が入って何かを必死に堪えている。

「ハンナも……母親と同じ病気なのか?」

 ロザリーは大きく肩でため息をつき、カップを置くと再び話し始めた。

「ある日、あの子が勤めていた校内の階段を降りているとき、激しいめまいに襲われたそうよ……」

 目には涙がたまり、今にもこぼれ落ちそうだ。ハンナに対してなにもしてやれないといった悔しさが滲み出している。

「階段を踏み外して転げ落ちたハンナは、すぐに市内の大きな病院に運ばれたわ。目立った怪我は足の骨折だけだったけれど、落ちたときに頭を打ったおそれがあるということで、頭部の詳しい検査もしたそうよ……」

 その先を言い淀み、声を震わせる彼女の様子から、学のない僕たちでもハンナが母親と同じ病名にたどり着いてしまったのだということがわかった。

「じゃあ、そのときの検査で?」

 ロザリーは涙を拭きながら、何度もうなずいた。

「治療したとしても……治すのは難しいのか?」それまで黙っていたグレッグが口を開いた。

「それは……私にもわからないわ……でも私もハンナもジュリアの闘病中ずっと、本当に苦しそうな彼女を、息を引き取るその瞬間まで見届けたのよ。ジュリアはすごく頑張ったわ! どんな治療にも耐えた、でも…どんどん弱って……薬も効かなくて、それでも……心配かけないように笑ってたわ……」

 涙が溢れ出るのにまかせて顔をくしゃくしゃにする。ロザリーは何度も首を振った。

 彼女は今でも悲しみの渦中にいるのだ。そしておそらくハンナも……。

 ハンナはいつだって自由で伸び伸びとしていた。自分の死期を悟った彼女が、どうしてここへやってきたのか。その経緯が、理屈でなく感じ取れた。

 完全なる勝利とまではいかなくとも、治る見込みのある治療ならば、勇敢な彼女のことだ、間違いなく病気と戦ったに違いない。でもそうしなかった――その事実が、ハンナの母親に対する記憶と、脳腫瘍という病気の深刻さを表しているように思えた。

 病院のベッドでじっと横たわり、日に日に近づく終わりを待つなんてできない――それが、ハンナという女性だろう。僕に絵を教えながら、いつだってハンナは人生哲学を熱心に語ってくれた。そんな彼女をずっと見てきたからわかる。

 そして僕もまた、この胸を締めつける苦痛の塊を絶対に取り除くことができないと思い知るんだ。

 絶対に……。