僕はひとり、ハンナが待つはずの公園へと車を走らせる。ふたつの空席が心許ない。雨は上がり、雫が残り香のように朝の光に小さく煌めいていた。

 しばらく前に、僕とグレッグは小さな物置を湖のほとりに作った。大きなイーゼルや画材道具をいっぱいに詰め込んだ黒いカバンをいつも担いでいたハンナのためだ。

 彼女が好んで使うテンペラ画の技法には、どうやら複雑な手順があるようで、石膏塗りしたキャンバスを湖まで担いで来たときにはおそれいったよ。
 物置を見た時のハンナの喜んだ顔は今でも脳裏に焼き付いている。
 最近ではすっかり身軽になって、帰りの車中でもリラックスしてよく居眠りをした。

 公園へ着くと、やはり昨日降った雨の雫が太陽の光を受け、生い茂る木の葉や草の上でキラキラと輝いていた。散らばる水滴が僕の体を濡らす。

 茂みをかきわけて湖へとたどり着く。一面に広がる自然の光と影、そして揺らめきが、そこでいつものようにキャンバスに向かい腰を下ろすハンナの姿をも取り込んでいる。

 その静かで幻想的な光景は、この場所そのものが彼女の聖地であるかのようで、僕は思わず息を呑んだ。

 邪魔をしないように静かに近づくと、そっと声をかける。

「ハンナ?」

 呼び声なんてまるで届かないのか、彼女は景色とキャンバスを交互に見比べながら顔料を合わせ、湖の青色を作っているところだった。

「ハンナ、ちょっといいかな?」
「シッ! ベン、わかってるわ。でも今大事なところだから少し待っててくれる?」

 背中越しにハンナが返す。下書きとなるスケッチならともかく、色を塗り始めているときの彼女はとても無口で、普段とは別人のように集中していた。

 それから数時間、ハンナの作業を終わるのを待った。振り返らない彼女の後ろ姿を眺めているのは、なんというか気楽で、時間が経過していくのもまったく苦にならなかった。

「お待たせ! ごめんなさいね」

 いつもの笑顔で振り返ると、ハンナは不思議そうにした。グレッグの姿がないのにようやく気づいたからだ。

「あら、今日はあなた一人なの? 彼がお休みなんて、珍しいこともあるものね」
 道具を片づけていくハンナを手伝いながら僕は答える。

「休みじゃないよ。あいつは今、工場で作業車のメンテナンスをしてる」
「それってもっと珍しいわね! 少なくとも、あなたたちと知り合って初めての出来事よ!」

 無邪気に笑うハンナの横顔をチラチラ見ながら、僕はいつ話を切り出そうかともたついていた。腕にスケッチブックを抱えたままで……。

「あら? もしかしてスケッチのチェックをしてほしいのね! いいわ、見せてみて」

 僕の様子に目ざとく気づいたハンナは、スケッチブックを取り上げると食い入るように見始めた。

 彼女がページをめくるたびに、少しずつその白い肌が薄いピンクに染まっていくように僕には思えた。

「ベン? これは……」

 馬面の親友がどん引きしつつも太鼓判を押した〝ハンナブック〟だ。

 全ページにハンナが描かれた僕のスケッチ――恥ずかしそうに苦笑いするハンナに、僕は勇気を出して口を開いた。

「ハンナ。退屈だった僕の毎日に君は絵の描き方を教えてくれた」

 彼女は再び視線を落とすと、さっきよりも丁寧に一枚一枚を見つめていく。

「気がつけば僕は退屈なんて言葉を忘れてしまうくらいに、絵を描くことに夢中になっていたんだ」

 時折ハンナの指先が、スケッチの一部をなぞった。傍らでつぶやく僕の言葉にもしっかり耳を傾けている。

 僕は高揚する。

 ハンナがとうとうスケッチブックの最後のページにたどり着いた。つまり、そこには僕の会心の出来がある。この湖よりも素晴らしい君の笑顔が――。

 木炭で描かれた自分の横顔を、愛しそうに撫でながら彼女はついに僕を見た。
 
 その瞳がうれしそうに染まっているのを見て、僕は背中を押された気分になる。同時に、脳裏にグレッグの顔も浮かんだ。

「でもね、絵を描いているときも、なにをしているときも、決まって僕は君のことばかり考えてしまうんだ」

 足元に湖があれば、転がり落ちそうなほどぐらついた勢いでそう言った。ハンナの表情が一瞬固まったように見えた。
 でももう止まらない。だけど、次に僕が放った言葉で、彼女の真意が見えたような気がした。最悪だ。

「僕は君に夢中なんだ! だから、僕は君と次のステージに進みたいって思ってる!」

 彼女の表情は、なにかを恐れていた。

「先生と生徒の関係じゃなく、恋人同士として……」

 言ってしまった……。