📖
話は今一度、『ノック』大流行の時代に戻る。
その当時、わたしはとある大病院で、新米の医師として働いていた。
病院には毎日のようにノックの患者が運ばれてきていた。だが患者とはいっても大抵はすでに死んでいた。どの患者も特に苦しんだ様子もなく、まるで眠ったようにコト切れていた。ノックを聞いたと言って入院する者もいたが、病室で何の異常もなく過ごし、やはり一週間でコト切れた。
それはまったく不思議な病気だった。
本当に死神がいるんじゃないかと思うぐらい、あっけなく人が死んでいった。
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『ノック』という病気に対してはまるで打つ手がなかった。
というのも優秀な医師、研究者たちから真っ先に死んでいったからだ。
医師が倒れ、入院患者の全てがノックで死んでしまうと、病院はあっけなく閉鎖されてしまった。つまるところ、病院で治療ができる、というだけで、ノックにかかる資格が十分にあった、というワケだ。
病院は完全にその機能を停止した。病院だけではない、ありとあらゆるシステムが硬直し、あらゆる施設から人が消えていった。
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たぶんわたしたちもそのうちにあのノックを聞くことになるのだろう。
わたしも含め、みんながそう思っていた。
こうして世界中の人間が死に絶えていくのだろう。
誰もがそう思っていた。
その時はまだ『ノック』に罹らない条件が明らかになっていなかったのだ。街からはあっという間に人の姿が消え、街そのものが死に、わたしたちの世界もまたゆっくりと死に向かっていた。
これは時間の問題だな、わたしたちの誰もがそう思っていた。
📖
さてふたたび無職になったわたしはマンションに戻った。
戻ってきたのはわたしだけではなかった。
みんなが、つまりわたしたち家族のみんなが、ぞくぞくとあのマンションに戻ってきた。
ケンちゃんの会社も仕事がなくなってしまったし、コトラのレストランにも客が来なくなった。
ナギサちゃんの漫画は発表されなくなるし、リュウイチの絵本も新作が出せなくなった。
キョウコさんもレイも雇い主がいなくなり、自然と無職になってしまった。
でも、不思議なことに、それで特に困ることもなかった。
📖
わたしたちはかつてのような、何もない暮らしに戻っていった。
みんなが目的を見失ってしまった。
どうしていいのか、何をしていいのか、分からなくなってしまった。
それでも食べることには困らなかった。これは何よりもいいことだった。スーパーにストックされていた食料は膨大な量で、食料の大半は冷凍されており、しかもスーパーの冷凍庫は太陽電池で動いていた。
食材の中にはもちろん冷凍でないものも多かったが、コトラが腐りやすいものから順に料理をしていったから無駄がなかった。
わたしたちは生き残ることに関してはちょっとした達人だった。
📖
そしてわたしとコトラとケンちゃんの三人の間では、あの懐かしいギャンブルが復活した。ブラックジャックにポーカー、セブンブリッジ、なんでもござれである。
来る日も来る日も飽きることなく、われわれはひたすらにギャンブルを楽しんだ。
大人になった今は、ポーカーフェイスにも年季がかかっていた。しかも大人になったわたしたちは、お酒なんかを飲みながら、紙くずとなった本物の札束を積んで、陽気にギャンブルを楽しんでいたのである。
まさに悪い大人の見本!
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だがそんな日々が続くわけはない。
ノックの流行が収まり、危険が去っていくにつれ、女房連中の機嫌は日に日に悪くなっていった。
「ちょっとケンちゃんのところに会合にいってくるよ」
ある日の晩のこと。わたしはレイにそう言って会合に出かけようとした。
が、わたしたちの部屋にはいつものように子供連れのキョウコさんと、同じく子供連れのナギサちゃんがきていた。
その三人の視線が冷たくわたしに突き刺さった。
「会合? トランプのことでしょ?」
レイの顔は笑っていたが、頬のあたりが怒りのせいかピクピク震えていた。
📖
「レンジ、あんたいつまでそんなことやってんのよ?」とはキョウコさん。
「そうですよ」とナギサちゃんまでそんな態度だ。
「なにか……まずい?」まずいんだろうな、とは思ったが一応聞いてみた。
「あなたお医者さんなのよ、そろそろ自分の病院をたてたほうがいいんじゃない?」
レイはそう言った。
「病院? 建てるの? どこに」
「ここによ。街の人だって困ってるのよ、風邪ひいたりとか。知らないの?」
とレイ。かなり怖い表情だ。ちょっとまずい雲ゆきだ。
「そうだったの? 患者さんがいるの?」
「いますよ、子供たちだっていっぱいいるんです。病院が絶対必要です」とはナギサちゃん。
「レンジ、あんたからケンに言っといて。すぐに病院建てるって。あいつもあんたと遊んでばっかりで、何にもしないんだから」
とキョウコさん。言葉にトゲがいっぱい詰まっている。
「コトラにも言ってください! なにか手伝うように」
ナギサちゃんの声も冷たい。
そしてレイは、分かったわよね? と視線で圧力をかけてくる。
📖
ムムム。ここは大人しく言うことを聞いたほうがよさそうだ。
「はい……わかりました」
わたしはもちろん逆らわなかった。
女性の命令には昔から従順なのだ!
📖
そしてもちろん、彼女たちはいつだって正しい!
わたしはレイの助言に従って、マンションの一階に自分の病院を作ることにした。
ケンちゃんは久しぶりの仕事に、はりきって立派な診察室を作ってくれた。
診察室の隣にはコトラの食堂もできあがった。マンションの受付の壁には、リュウイチが巨大な絵を描いてくれた。
働くことは本当に久しぶりで、しかもとても気分がよかった。今度はお金を稼ぐためではない。ただただ自分の能力を生かすために、そして何より家族のため、街の人たちのために働きだしたのだ。
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そうしてみると、とても充実した日をおくれるようになった。
たぶんレイたちはこのことを伝えたかったのだと思う。
そう、いつだって女性の意見は正しいものなのだ。
そしてわたしたちの周りから、街はゆっくり再生していった。
かつてわたしたちが暮らしていた世界を再現するように、ゆっくりと着実に、再生を始めたのだ。
話は今一度、『ノック』大流行の時代に戻る。
その当時、わたしはとある大病院で、新米の医師として働いていた。
病院には毎日のようにノックの患者が運ばれてきていた。だが患者とはいっても大抵はすでに死んでいた。どの患者も特に苦しんだ様子もなく、まるで眠ったようにコト切れていた。ノックを聞いたと言って入院する者もいたが、病室で何の異常もなく過ごし、やはり一週間でコト切れた。
それはまったく不思議な病気だった。
本当に死神がいるんじゃないかと思うぐらい、あっけなく人が死んでいった。
📖
『ノック』という病気に対してはまるで打つ手がなかった。
というのも優秀な医師、研究者たちから真っ先に死んでいったからだ。
医師が倒れ、入院患者の全てがノックで死んでしまうと、病院はあっけなく閉鎖されてしまった。つまるところ、病院で治療ができる、というだけで、ノックにかかる資格が十分にあった、というワケだ。
病院は完全にその機能を停止した。病院だけではない、ありとあらゆるシステムが硬直し、あらゆる施設から人が消えていった。
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たぶんわたしたちもそのうちにあのノックを聞くことになるのだろう。
わたしも含め、みんながそう思っていた。
こうして世界中の人間が死に絶えていくのだろう。
誰もがそう思っていた。
その時はまだ『ノック』に罹らない条件が明らかになっていなかったのだ。街からはあっという間に人の姿が消え、街そのものが死に、わたしたちの世界もまたゆっくりと死に向かっていた。
これは時間の問題だな、わたしたちの誰もがそう思っていた。
📖
さてふたたび無職になったわたしはマンションに戻った。
戻ってきたのはわたしだけではなかった。
みんなが、つまりわたしたち家族のみんなが、ぞくぞくとあのマンションに戻ってきた。
ケンちゃんの会社も仕事がなくなってしまったし、コトラのレストランにも客が来なくなった。
ナギサちゃんの漫画は発表されなくなるし、リュウイチの絵本も新作が出せなくなった。
キョウコさんもレイも雇い主がいなくなり、自然と無職になってしまった。
でも、不思議なことに、それで特に困ることもなかった。
📖
わたしたちはかつてのような、何もない暮らしに戻っていった。
みんなが目的を見失ってしまった。
どうしていいのか、何をしていいのか、分からなくなってしまった。
それでも食べることには困らなかった。これは何よりもいいことだった。スーパーにストックされていた食料は膨大な量で、食料の大半は冷凍されており、しかもスーパーの冷凍庫は太陽電池で動いていた。
食材の中にはもちろん冷凍でないものも多かったが、コトラが腐りやすいものから順に料理をしていったから無駄がなかった。
わたしたちは生き残ることに関してはちょっとした達人だった。
📖
そしてわたしとコトラとケンちゃんの三人の間では、あの懐かしいギャンブルが復活した。ブラックジャックにポーカー、セブンブリッジ、なんでもござれである。
来る日も来る日も飽きることなく、われわれはひたすらにギャンブルを楽しんだ。
大人になった今は、ポーカーフェイスにも年季がかかっていた。しかも大人になったわたしたちは、お酒なんかを飲みながら、紙くずとなった本物の札束を積んで、陽気にギャンブルを楽しんでいたのである。
まさに悪い大人の見本!
📖
だがそんな日々が続くわけはない。
ノックの流行が収まり、危険が去っていくにつれ、女房連中の機嫌は日に日に悪くなっていった。
「ちょっとケンちゃんのところに会合にいってくるよ」
ある日の晩のこと。わたしはレイにそう言って会合に出かけようとした。
が、わたしたちの部屋にはいつものように子供連れのキョウコさんと、同じく子供連れのナギサちゃんがきていた。
その三人の視線が冷たくわたしに突き刺さった。
「会合? トランプのことでしょ?」
レイの顔は笑っていたが、頬のあたりが怒りのせいかピクピク震えていた。
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「レンジ、あんたいつまでそんなことやってんのよ?」とはキョウコさん。
「そうですよ」とナギサちゃんまでそんな態度だ。
「なにか……まずい?」まずいんだろうな、とは思ったが一応聞いてみた。
「あなたお医者さんなのよ、そろそろ自分の病院をたてたほうがいいんじゃない?」
レイはそう言った。
「病院? 建てるの? どこに」
「ここによ。街の人だって困ってるのよ、風邪ひいたりとか。知らないの?」
とレイ。かなり怖い表情だ。ちょっとまずい雲ゆきだ。
「そうだったの? 患者さんがいるの?」
「いますよ、子供たちだっていっぱいいるんです。病院が絶対必要です」とはナギサちゃん。
「レンジ、あんたからケンに言っといて。すぐに病院建てるって。あいつもあんたと遊んでばっかりで、何にもしないんだから」
とキョウコさん。言葉にトゲがいっぱい詰まっている。
「コトラにも言ってください! なにか手伝うように」
ナギサちゃんの声も冷たい。
そしてレイは、分かったわよね? と視線で圧力をかけてくる。
📖
ムムム。ここは大人しく言うことを聞いたほうがよさそうだ。
「はい……わかりました」
わたしはもちろん逆らわなかった。
女性の命令には昔から従順なのだ!
📖
そしてもちろん、彼女たちはいつだって正しい!
わたしはレイの助言に従って、マンションの一階に自分の病院を作ることにした。
ケンちゃんは久しぶりの仕事に、はりきって立派な診察室を作ってくれた。
診察室の隣にはコトラの食堂もできあがった。マンションの受付の壁には、リュウイチが巨大な絵を描いてくれた。
働くことは本当に久しぶりで、しかもとても気分がよかった。今度はお金を稼ぐためではない。ただただ自分の能力を生かすために、そして何より家族のため、街の人たちのために働きだしたのだ。
📖
そうしてみると、とても充実した日をおくれるようになった。
たぶんレイたちはこのことを伝えたかったのだと思う。
そう、いつだって女性の意見は正しいものなのだ。
そしてわたしたちの周りから、街はゆっくり再生していった。
かつてわたしたちが暮らしていた世界を再現するように、ゆっくりと着実に、再生を始めたのだ。