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 この頃はわたしたちにとっては波風のない幸せな時期だった。
 しかし時代の風は容赦なくわたしたちをつかまえる。変革という名のうねりは、わたしたちのような弱いものから順番に襲いかかってくるのだ。 
 これも形を変えた自然淘汰というやつかも知れない。しかも今度のふるいの目は粗かった。気を抜けば即死になりかねなかった。
 人間社会にとっての局地的災害と言えば、これはもちろん不況である。
 不景気。つまり猛烈な貧乏が襲ってくるということである。
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 さてここは教師らしく史実を紐解いてみよう。
 西暦2032年、その大不況は株の大暴落から始まった。いつの時代もスタートはコレだ。わたしたちは株なんて一つも持っていないのに容赦なく巻き込まれる。
 そして物価の値上がりが始まった。それまで弁当は五百円出せば買えたのに、値段は二倍三倍に跳ね上がり、半年あまりで十倍に跳ね上がった。もちろんこの時点でわたしたちは食糧難におちいった。だがそれもまだ序の口。すぐに店が潰れはじめて、物を買おうにも物がない状態になってしまった。
 わたしたちは堅実に暮らしていたのに、とんだとばっちりだった。
 マンションには得体の知れない人達が続々と流れ込んできた。建設途中の家はそのまま放り出され、解体中の家は危険な状態で放り出された。店のシャッターはしまり、開いている店も棚はほとんど空っぽだった。
 街からは人が消え、道路には車が走らなくなり、かわりに野良犬と化した元ペットの犬たちが、あばら骨を浮かせて街をとぼとぼと歩くようになった。
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 それはなんとも寂しい光景だった。
 街が死んでしまった、そんな気がした。
「海のある町に行こう」
 そんなある日、ケンちゃんはそう言った。
「う み ? うぅみっ!」
 ツバサ改めコトラはこの頃には少しだけしゃべれるようになっていた。まだよたついてはいたが二本の足で立つこともできた。おしめもとれたし、離乳食も卒業した。それでもまだ大して違いはない。やっぱりまだまだムニャムニャのままだった。
「だって海に行けば魚がいるだろ?」
 ケンちゃんはそういった。
「そうか、海ならタダだもんね」
 正直、魚料理は苦手だったが、何も食べられないよりははるかにいい。それにしてもケンちゃんはなんて頼もしいんだろう、とわたしは改めて感心した。
「そうと決まれば荷造りだ」
 わたしたちは徹夜で荷造りをした。コトラはたどたどしく手伝う様子をみせながらも見事に足を引っ張った。だがわたしたちは決して怒らなかった。わたしたちは善意というものを素直に受け取る心を持っていた。
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 そして旅立ちの日が訪れた。
 やがて到着する街で予想だにしない出会いが待っているとは、このときのわたしには知る由もなかった。
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 そうそう前のところで書き忘れたことがある。
 これも大事なことの一つ。
「ペットを捨てるな! 虐待するな!」
 彼らは主人を盲目的に信じている。それを裏切るようなまねをしてはいけない。そしていつでも思い出してほしい。彼らはどんなにつらくとも口をきけないのだ。だから彼らの心を、彼らになったつもりで考えてやってほしい。
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 さて、わたしたちは港町というものを目指して旅立った。あてはなかったが東に向かって歩いていけばそのうち海に出るだろう、計画はそういうものだった。
 まぁはずれではなかったが、わたしたちは一週間あまりも旅を続けることになった。
 楽な旅ではなかったと思うが、じつはあまりよく覚えていない。ただただ線路のそばの道を海が見えるまでひたすら歩き続けた。
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 街に着いたときにはへとへとだった。そこは以前いた街とは違い、都会だった。ガラス張りのビルが高さを競うように建ち、道路はアスファルトで舗装されていた。街中はレンガの敷石があって、いたるところにおかしな彫刻があった。無駄こそが贅沢、そんな感じの気取った街だった。
「ここはなんていうところ?」
「さぁな、まだ分からない。だけど、とにかく海だけはある!」
 そう、わたしたちの前には確かに海があった。だがそれはぐるりとコンクリートの岸壁に囲まれ、海面は波一つ立たない穏やかさだった。最悪だったのは、その岸壁にぐるりと釣り人がいたことだった。みんな竿を伸ばしているが、魚がかかっている様子はまるでなかった。みんながっかりした様子で、バケツの中はどれも空っぽだった。
「釣った魚はタダ」
 考えることはみんな一緒なのだった。
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 それはともかく、まずは寝るところを確保する必要があった。
 これはすぐに見つかった。こういう街にもゴーストマンションがあった。わたしたちはその一室を見つけると、家財道具を広げ、あっというまに引越しを完了した。
「ここも危なそうだね」
 わたしは正直な感想を言った。ケンは重々しくうなずいた。
「まったくだ。でも人がコレだけいるって事はまだ食べ物があるってことだよ」
 なるほど。ケンは全くたくましい。それに頭がいい。自慢にはならないが、当時のわたしは全く子供で、コトラと変わらないムニャムニャだった。
「でも、これからはお前にも働いてもらわなくちゃならない」
 それはわたしに新たな目標と目的を与えてくれた。わたしはいつまでもムニャムニャのままではいけないと、この時はっきりそれを意識した。
「できることは何だってやるよ。いやできないことだってやる!」
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 翌朝早く、ケンは一人で家を出て行った。わたしはしばらくしてからコトラを連れて近所を歩いた。こんな大きな街は初めてだった。きれいな店がたくさんあったが、どれもシャッターがしまっていた。開いてる店もあったが、やはり棚は空っぽだった。この街もやっぱり死にかけているようだった。
 そして夜になってケンがようやく帰ってきた。
「仕事を見つけてきた。お前は明日から屋敷の掃除をやるんだ」
 ケンはぐったりとした様子でそう告げた。だいぶ歩いてきたに違いない。それにしてもたった一日で仕事を見つけてくるとは本当にすごいことだった。そしてわたしはそれがどんな仕事であれ、引き受ける覚悟ができていた。
「オレは夜に同じ屋敷の調理場の手伝いをする。働くところは一緒。二人で一人分の小遣いだけど、これなら交代でコトラの面倒もみられる」
「ありがとうケンちゃん!」
 ケンはまた少し顔を赤くした。いつまでたっても慣れないらしい。
「明日案内するよ、今日はもう寝よう。明日は早いんだ」
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 運命の出会いは翌日に迫っていた。

~ 進化論と旅立ち 終わり ~