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 さて、わたしたちの運命を大きく変える……という話はまぁ後で。
 今は『ナギサ』が現れた当時の話をもう少し続けよう。
 彼女はコトラにうながされるまま、わたしの隣に腰掛けた。
 その日、面会に来ていたのはいつものようにコトラとケンちゃんの二人。
 ちなみにケンちゃんはネクタイなしだがスーツ姿。
 コトラはいつものようにエプロン姿だ。
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「それで、ヒダカ老人のことを本に書きたいって?」
 わたしがそう問いかけると彼女はコクンとうなずいた。
 ちょっと緊張しているようだった。ギュっとカバンの紐を握りしめている。
 面会室とはいえ、犯罪者を目の前にしているのだ。まぁ仕方ないだろう。
「えっ! 本を書いているんですか?」
 だがそんな彼女の緊張はお構いなしにコトラが早速質問した。体を前に乗り出し、ふっくらした頬を両手で支え、キラキラした目で彼女を見つめている。
「すごいなぁ、ねぇ、それはどんな本なんですか?」
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「本というか、わたし漫画家なんです。少女漫画です。そのデビューしたばかりでまだ売れてないんですけど」
 少女漫画家か。そういう人には初めて会った。
 この歳でプロというのはなにか迫力がある。見た目は本当に普通の女の子だったけど。
「え! ボク、漫画大好きです! それで年はおいくつなんですか?」
 とまたもやコトラ。もうイスの下で両足を嬉しそうに振っている。
「えと、十九歳です」
「ボクより年上ですね。そうかぁ。そんな気がしてたんです」
 コトラは嬉しそうだった。すっかり二人の世界に突入している。それを邪魔する理由もなかったので、わたしはケンちゃんと二人でしばらく眺めていた。
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「それで、好きな食べ物は何ですか?」
「好きな、食べ物ですか?」
「ええ。ボクはコックなんです!」
 コトラはちょっとカッコつけて、親指で自分を指さした。
「コックさんですか……はぁ。えっと、エビフライ、かな?」
「エビフライ! ボクの得意料理です。ねぇ、面会が終わったらボクの店に食べにきてください。もちろんお金は取りませんから。ね、食べにきてくださいよ」
「え、ええ」
「ほんとに? ほんとにほんと?」
「ええ、うかがいます」
「やった!」コトラは思わずガッツポーズで立ち上がった。
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 このわけの分からない展開とテンションに、わたしもケンちゃんも呆然とコトラを眺めるばかり。とうのナギサもすでに置いていかれていた。
「悪いけど、ボク、先に行って下ごしらえしてくる!」
 コトラはそう言って立ち上がり、店の名前も言わずに出ていこうとする。
「おい、コトラ! ちょっと待てって」ケンちゃんもあわてて立ち上がるが、
「兄ちゃんたち、あとはヨロシク!」
 そう言い残してコトラはすでに走り去っていた。
「なんなんだ、あいつ? オレ、ちょっとコトラの様子見てくるぜ。また来週な」
 ケンちゃんもそういってジャケットを掴んで出て行ってしまう。
「いや、ケンちゃん、ちょっと待ってよ。この子に店を案内しないと……」
 と言いかけたものの、ケンちゃんもすでに走り去っていた。
「いつもあんな感じなんですか?」
「まぁ、あんな感じだね」
 わたしとナギサは二人並んでケンちゃんの背中を見送ることになった。
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 さて、わたしとナギサは向かい合って座りなおした。
「本を書きたいんだって? どんな本なの?」
「本って漫画ですけど……」
「僕も漫画は大好きだよ。でも僕たち家族のことなんか漫画になるの?」
 何気なく言ったのだが、それが彼女のテンションにスイッチをつけたらしい。
 彼女はガタッと立ち上がり、右手のコブシを握りしめた。
「わたしはとても感動したんです! あんなにいっぱいの子供たちが、手に手に花を持って、寂しそうな老人の死を悲しんでいたんです。わたしから見れば、あれは奇跡そのものだったんです! それをぜひ漫画にしたいんです!」
 ナギサはずいぶんと熱っぽくそう語った。赤いふちのメガネの奥にのぞく瞳は、それこそ少女漫画の主人公のようにキラキラと輝いていた。
「あの駄目でしょうか? もちろん漫画が売れたら、きちんと収入をお分けします」
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 わたしはしばらく考えた。
 もちろん収入のことは別に気にならなかった。
 マンションの子供たちも漫画は大好きだ。
 自分の事が書かれたらきっと喜ぶだろう。
 つまり断る理由はないということだ。
「きみがそうしたいなら、僕はかまわないよ」
「よかった!」
 ナギサは机の上のこぶしをぎゅっと握り締めた。さらに涙までポロポロと流し始めてしまった。そんなに喜ぶことなんだろうか? それとも感動屋さんなのかな?
 わたしは差し出すハンカチもないので、彼女が落ち着くのを黙って待った。
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「あの、ごめんなさい、急に泣いちゃって」
「いや、かまわないよ」
「あの、なにかリクエストとかはありますか? こういうことは書いて欲しくないとか、書いて欲しいとか、そういうこと」
 そういわれるといろいろと書いて欲しいことがあった。
 子供を捨てるな、とか、子供をいじめるな、とかそういうことだ。
 しかしわたしは何も言わなかった。ナギサという少女を信じる気になっていたからだと思う。
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「君の感じたままに描けばいいと思うよ。つまり注文はなにもないってことだね」
「それはわたしを信用してくれるってこと、ですか?」
「そういうこと。ただね、これまでいろいろな事があったから、話すには結構時間がかかると思うんだよね」
「あ、それは大丈夫です。あたし、今週で連載が終わったところなんです。打ち切りなんですけどね……」
「厳しい世界なんだね」
「ええ。絵柄はいいって言われるんですけど、ストーリーが弱いって、編集の人にはよくそういわれます。それでお願いついでにもう一つあるんですけど」
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 彼女は勢い込んでそう言ったものの、すぐに口をつぐんでしまった。
「なにかな? 話してみてよ」
「あの……すごく、ずうずうしいとは思うんですけど、あのマンションに住ませて欲しいんです。みんなにも色々話を聞きたいし、みんなの近くで暮らすことで、雰囲気がよく分かると思うんです。だめでしょうか?」
 なんだ、そんなことか。なら考えるまでもない。
「もちろんかまわないよ。子供たちも漫画が大好きだからね。漫画家の人が来たって知ったら大喜びすると思うよ」
「ありがとうございます! 実はキョウコさんという人に聞いたら、あなたが承知してくれたら構わないって言ってくれたんです」
「そういうことなら改めて。あなたを歓迎します。ようこそ子供十字軍へ」
 わたしがにっこり笑うと、彼女はいたずらっぽく十字のポーズをビシッと決めてにっこり笑った。
「なんだ、すでに家族になってたんじゃないか」
 こうしてナギサは正式にわたしたちの家族となったのである。