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 さて夜の街に歩き出したわたしたちではあったが、じつはアテがあった。
 といっても祖父母のような血のつながった人間ではない。わたしは実の祖父母というものにあったことがない。母はいつも一人だったし、アパートには誰も訪ねてくる人もいなかった。
 もっとも大家のおばさんだけはちょくちょくやってきた。これがなんとも恐ろしい女の人で、いつも先がハート型になった布団たたきを持ち歩いていた。
 実際ぶたれたことはなかったが、なにか理由があればきっとすぐに叩いたことだと思う。そういう雰囲気をいつもかもし出していた。いつも母にがみがみと怒っては、首を伸ばして部屋の中を覗き込み、わたしたちの姿を見つけると露骨に顔をしかめていた。
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 ちなみに現在、この学校にも『マダム・リンコ』という怖ろしい女性がいる。
 教師というよりしつけ係のようなものなのだが、彼女もまた子供たちを恐ろしい目つきで睨みつけるくせがある。
 その恐ろしいことは生徒の間でも有名で、泣き出してしまう子供もいるくらいだ。
 彼女に睨まれるとわたしでも足が震えだすほどなのだ。
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 さて、話を戻そう。わたしのアテの話だ。
 わたしには一人だけ心当たりがあった。
 彼は街でも有名な浮浪少年で名を『ケン』と言った。歳は正確なところは分からなかったが、だいたいわたしと同じくらいの年齢だった(後で分かるのだが、実際は一つ年上だった)。ちなみにこの当時はケンのような浮浪少年も珍しかった。まだ義務教育というものが存在し、学校がちゃんと機能していた時代だった。
 大人たちは彼に対して冷ややかだったが、わたしたち子供にとってケンはヒーローだった。ケンは誰にも頼らず、学校にも行かず、自分ひとりの力でたくましく、どこまでも自由に生きていた。
 幸運なことにわたしはそのケンと面識があった。
 彼なら何とかしてくれるに違いない! 助けになってくれるに違いない!
 わたしはそう思い込んでいた。
 やがてそれが自分の勘違いだと知ることになるのだが……
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 ケン……彼はわたしにとって本当に特別な人間だ。
 今、わたしやコトラがこうして生きているのもケンがいてくれたからである。
 わたしは今もケンに頭が上がらない。
 どれだけ感謝しても足りることはないだろう。
 ケンはわたしたち兄弟にとって父であり母であり師匠だった。
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 とにかくわたしは弟をおぶって夜の街へと歩き出し、とぼとぼと歩き続けた。
 ケンが住んでいたのは近くのゴーストマンションだった。あまりに老朽化がすすんだのに取り壊すこともできなくなった無人のマンションである。当時はこういう建物が増えつつあった時代だった。そしてこういうところには浮浪者や危険な若者たちが住んでいた。
 たどり着いたマンションは、明かりもなく暗闇の中に黒々とそびえていた。わたしは決意のこぶしを固め、深呼吸を一つして、一歩を踏み出した。
「おいおい、ここはてめぇみてぇな綺麗なガキの来るとこじゃねぇぜ」
 いきなり暗がりから声が聞こえてきた。それからぬっと大きな人影が現れた。金色の髪の毛とトゲトゲのいっぱいついた洋服。手にはギラリとナイフまで光っていた!
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「僕はケンに会いにきたんだ!」
 凛とした声でわたしはそう言った。と、カッコよくいきたいところだが、嘘はいけない。わたしの足はわなわなと震えていた。そして声はもっと震えていた。自分が何をしゃべったのかもよく分からなかった。
「ぼ、ぼ、僕、け、け、けん、けん!」
「おめぇはケンじゃねぇだろ? あ? あぁ、ケンの友達か。あのボウズなら304号室にいるぜ」
「あ、あ、あい、ありが、とー、ましたっ!」
 わたしはすっかりびびって、いつ背後からブスリと刺されるんじゃないかと何度も振り返りながら階段を上っていった。電気が切れており、暗い階段だった。とても不気味だった。こういうところに一人で暮らしているケンはすごいと思った。
 304号室の前に着くと、わたしは念のためもう一度だけ振り返り、男がついてこないのを確認してからドアをノックした。
「はーい!」
 ドアの向こうでケンの声がして、すぐに扉が開いた。
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 ここでもう少しケンのことを説明しておこう。
 ケンはぼうぼうの髪をしていた。たぶん生まれてから髪を切ったことがなかったのだと思う。一つに束ねた髪は腰まで伸びていた。それからダブダブのジーンズ、これは大人用だったと思うのだが、適当な長さで切ってあった。そしてシャツも大人用のものだった。これも袖のところを適当に切ってあった。
 ただ服装よりもどうしても書いておかなければならないことがある。ケンは五歳か六歳くらいにしてすでに大人だった。その目はジッと落ち着いていて、どこか思慮深い感じだった。薄汚れていても、綺麗な顔をわざと汚しているように見えた。はっきり言えばもの凄く背の低い大人のようだった。
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 だがとにもかくにもやっとケンに会えた。
 わたしはようやく安堵のため息を漏らした。
「やぁケン、久しぶりだね」
 なんとか笑顔を浮かべて、ちょっと右手を上げて挨拶する。
 しかしケンはこう答えた。
「おまえ、誰だっけ?」
 わたしはあまりのショックにそのまま倒れそうになってしまった。
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 こういう展開はまったく予想していなかった。
 最初の一歩目からつまずくとは思ってもみなかった。
 このままでは初日から弟と一緒に野宿することになる。しかも外は雪。まだお腹は減ってないけど、そのうち空くだろうし、そうなったら死んでしまうかもしれない。
 さて、どうしよう? とにかくケンに思い出してもらわないと困る!
「ぼ、僕は、レ、レンジ……」
 ケンはあごに手を当ててジッとわたしを見ていた。
 それから背中の弟の顔を見て、わたしのカートを見た。
「レンジ……? おぉ、電子レンジを持ってきてくれたんだな!」 
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 わたしのカートには電子レンジが紐でぐるぐる巻きにされていた。なにか話が食い違っているような気がしたが、とにかく思い出すきっかけになってくれればいい。わたしにとってはそれが重要だった。
「あ、ああ、コレあげるよ」
「ホントにいいのか? いやぁ助かるよ。これがあればあったかい飯がくえる」
 わたしは電子レンジの紐をほどいて、ケンに渡した。ケンは本当に嬉しそうだった。そして早速使ってみようというのか、それを持って部屋に戻ろうとした。
 わたしの目の前で運命の扉が閉まろうとしていた。
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 もう格好をつけてる場合ではなかった!
 わたしはガッと扉をつかんだ。
「ケン、助けてくれ!」
 ほとんど叫ぶようにそう言った。
「ん? ああいいよ、入んな」
 ケンは理由も聞かずに即答した。
 本当に優しいやつだ。
 そしてその日からケンは無条件にわたしと弟を助けてくれるようになるのである。
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 いい人間というものは存在する。
 これを忘れてはならない。
 そして自分がそういう人間になれるよう努力することを忘れてはならない。
 親切は人を救うのだ。わたしはケンの親切に命を救われた。