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 そのヒダカ老人はベッドに横たわっていた。
 部屋の真ん中にあるベッドで、真っ白いシーツとふかふかの布団にくるまれていた。枕元の机には鮮やかなバラが活けてあった。
(ヒダカさん、ずいぶんとしなびたな、それに小さくなった)
 なんだかおっかなかった杖はベッドに立てかけてあった。その杖も今ではただの細い棒切れのように見えた。
「おぉ、レンジ、久しぶりじゃな」
 ヒダカ老人の声はやっぱり小さくて、弱弱しかった。だが、伸びた眉毛の隙間からのぞく目の鋭さは変わっていなかった。それは全く昔のままだった。ただかつてなかった、優しい雰囲気があった。
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「お久しぶりです。あの、ずいぶん挨拶にも来なくてすみません。あんなにお世話になったのに……」
「いいんだよ。君の弟たちが代わりに来てくれている。それにレイさんもな。それより大きくなったな。勉強の方はどうだね? がんばっているか?」
「はい、来年には大学へ進学できそうです」
「そうか。それにしてもレンジ、なかなか立派になったな」
 ヒダカ老人にそう言われると、なんだか胸の中が熱くなってしまった。
「ありがとうございます」
「まぁそんなに固くならんでも構わんよ。それより今日は大事な話があってな、わしはこの通り、体の無理がきかんものだから、レイさんにお前を呼び出してもらったんだ。まぁ座ってくれ」
 するとレイがイスを運んできてくれた。
 そのイスは、わたしがヒダカ老人の部屋を訪ねたときに座った、あのふかふかの魔法のイスだった。それにしてもこんなに小さかったとは!
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「では、わたしはこれで」
 レイがそう言って部屋を出ようとすると、ヒダカ老人が引きとめた。
「まぁ待ちなさい。この話は君にも聞いてもらいたいんだよ。君もイスを持ってきてかけなさい」
 レイはもう一つのイスを持ってくると、わたしの隣に並べて座った。
 とても静かだった。朝の光は涼しく透明で、部屋の中に静かに積もっていくようだった。机のバラがかすかに香りを放ち、レースのカーテンが柔らかく揺れていた。
「今日はお前に大事なことを教えようと思ってな」
 ヒダカ老人はそういいながら上半身を起こし、ヘッドボードにもたれかかった。
(キン)のことだ。子供たちの涙が金になるそうだな」
 なんてこった……その時わたしはそう思った。
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 わたしは答えられなかった。
 それを話していいものかどうか、その瞬間に判断できなかったのだ。
 たとえヒダカ老人が信用できる人間であってもだ。
 それに子供十字軍、つまり誘拐のこともある。
「隠さんでもいい。レイさんから大体のことは聞いておる」
「ごめんなさい、レンジ君……あたし」
 もちろんレイは悪くない。ヒダカ老人は信用できると彼女が判断したのだ。むしろあれだけ世話になっていたのに、金持ちというだけでヒダカ老人をまるで信用していなかった自分が恥ずかしくなった。
「いや、いいんだよ、レイさん。ヒダカさん、すみません。僕はうたぐり深い人間になっていたみたいです」
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 ヒダカ老人はゆっくりと両手を組み、わたしを見つめて続けた。
「君の気持ちは分かっているつもりだ。まぁ無理もないことだ。だがわしが言いたいのはそんな事じゃない。これから話すことをよく聞いてほしいんじゃよ」
 ヒダカ老人は真剣だった。わたしももちろん真剣に聞いた。
「君たちが貯めた(キン)をなるべく早く売りなさい。猶予はおそらく一週間くらいだろう」
 ヒダカ老人はいきなりそんな事を言った。
「それは……ずいぶん急ですね。それに金はまだ値上がりを続けていますけど」
「あれは、カネの世界というものは、君たちのような子供には分からん世界なんだよ。わたしは長年その世界で大金を稼いできた。だから鼻がきくんだよ。今は確かに相場が上がっているが、それは仕組まれている上がり方なんだ。わたしの読みでは、近いうちに金は大暴落をおこす」
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 そのときわたしが感じたのは、恐怖だったと思う。
 これが大金を持った者だけが感じる恐怖なのだろうか? 宝の山が一瞬にしてゴミの山になる。積み上げてきたものが、一瞬にしてゼロになる。相場の世界、世界中の金持ちたちが値段を決めている世界。わたしについていけるはずがない。
「通常では相場というのは気長に待てば回復してくるものだ。金の相場だって、本来ならばそうだろう。だが今回は違う。昔の仲間に電話をかけて聞いたところでは、どうやら金の流通量そのものが拡大している。今はまだ微々たる伸び方だか、爆発的に増える兆候が見えるという。しかもこの流れは全世界で同時に進行しているらしい」
「世界中で? ってことは、それはつまり……」
「世界中で金の涙を流す子供たちが増えているっていうことですね?」
 わたしに代わってレイが答えた。
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 ヒダカ老人はゆっくりとうなずいた。
「おそらくそうだ。それを見越して、金の相場を吊り上げている連中がいる。にわかに金持ちになった人間たちが、さらに儲けを得ようと金を買い集めるようになり、十分に上がったところで一気に手を引く。それに気づかん連中だけが損を掴まされることになるんだ。相場というのはいつでもこの繰り返しなんだよ。今回もそういう流れになるだろう」
「それが来週にも始まるんですか?」
「わしの読みでは、な」
 わたしの手には汗が浮かんでいた。今すぐにでも質屋に走ってすべてを現金に換えたいところだ。だがヒダカ老人はずいぶんと落ち着いていた。
「わしの言うことを信じるかね?」
「はい、もちろんです」
「では、わたしにすべての(キン)を預けなさい」
 ヒダカ老人は静かにそう言った。
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 ヒダカ老人は信用できる人だ。
 それは分かっているのに、わたしはまたもや迷った。
 ヒダカ老人の言う相場の世界をうまく切り抜けていく自信はない。そんなのは無理だろう。だがすべてを預けていいものだろうか? もし判断が間違っていたら……わたしは自分の素直な気持ちを告白した。
「僕には今、八十人の家族がいます。みんな大事な家族です。あの金はその大事な子供たちが流したものなんです。みんなで築いた財産を僕一人が決めていいのかどうか……僕にはそれがよく分かりません」
「つまりわしを信用できない、というわけだな?」