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「あ、あの突然すいません……」
 わたしは完璧に緊張していた。クラスにも女の子はいたけれど、こんなに綺麗な子を見たのは初めてだったのだ。
 彼女はその綺麗な瞳で、わたしをじっと見つめていた。見つめられたわたしは真っ赤になっていたと思う。
「ぼ、僕は、レ、レンジ……」
 なんだかわたしの自己紹介はいつもこんな感じになってしまうが仕方ない。
 と、彼女の背後に男の子が隠れているのに気がついた。男の子は彼女のスカートをしっかり握り締め、ちょっとだけ顔を出してわたしを見つめていた。たぶん五歳か六歳。ほっぺたのあたりが少し腫れていた。
 その姿を見てわたしはここに来た目的を思い出した。
 緊張なんてしている場合じゃなかった。
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「僕はあなたたちを助けに来たんです。この子の涙が(キン)になる、そうでしょう? 君のお父さんはそれを取るために、この子をぶっている。僕は、僕たちはそういうことを知ってるんです。それで君たちを助けに来たんです」
 男の子はわたしが話しだすと、またお姉ちゃんの陰に隠れてしまった。
「とにかく信じて欲しい。僕と仲間が君たちの事を守ってあげる。ちゃんと守ってあげる。だから、僕と一緒に来ないか? 来てくれないか?」
 少女はまだ何もしゃべってくれなかった。だが迷っているのはよく分かった。
 今! 今こそ頑張らなければならない!
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 わたしは必死に言葉をつなぐ。
「君が迷うのもわかる。君たちにとってはたった一人の父親だからね。でもこのままじゃ君たちはその父親に不幸にされてしまう。僕の仲間にもそういう奴がたくさんいるんだ。だから僕は君たちを救いたいんだ。ねぇ、返事を聞かせてくれないか?」
 すると少女はエプロンのポケットに手を入れた。そして紙と鉛筆を取り出した。そこにさらさらっと何かを書きつけ、わたしに渡した。そこには綺麗な字でこう書いてあった。
『わたしはしゃべれません。あなたの話は嬉しいけれど、どうすることもできないのです』
 なにがわたしを駆り立てたのだろう?
 やり場のない怒り?
 救われない悲しみ?
 たぶん血がつながっているという理由だけで、親を選ぶ少女の態度が許せなかったのだ。
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 わたしはその場でメモをビリビリに破り捨てた。
 少女はハッとした表情で、それから怯えたようにわたしを見つめた。
「しゃべれないのは関係ない。どうすることもできないなんてのも嘘だ。君は今ここで決断をするべきだ。暴力をふるう父親に怯えてずっと暮らすのか、子供ばかりだけど、ちゃんとした家族の中で暮らすのかを。君自身と、君の弟のために、どちらが正しい道なのかを。これが最初で最後のチャンスなんだよ。時間がないんだ」
 少女は背後に隠れていた弟を見た。弟は姉の顔をジッと見上げていた。
 少女は弟の髪をなで、腫れている頬に触れた。
「僕たちは君と君の弟を全力で守る。約束する。だから僕と一緒に来てくれ!」
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 少女はわたしをじっと見ている。わたしが信用できるのか見ている。
 だからわたしは彼女をまっすぐに見つめ返した。
 部屋の中は薄暗く、ほとんど物がなかった。あるのは机代わりのダンボール箱と、部屋の隅にたたまれた布団くらいだった。そのがらんとした空間の中で、少女はわたしの決意をはかるようにジッとわたしを見つめていた。
 そしてコクンとうなずいた。
「よかった!」
 わたしが手を伸ばすと、彼女は細い指先でわたしの手をとった。
「荷物はなにもいらない。君たちの父親が帰ってくる前にここを出よう」
 わたしは男の子を抱き上げた。ずっとコトラの面倒を見てきたし、マンションに来た大勢の子供たちの面倒を見てきた。子供の扱いはプロだ。たぶんそれが男の子を安心させたのだろう。すぐにわたしの首に手を回し、首もとに顔をうずめてきた。
「もう大丈夫だよ。急ごう! ぼくたちの家へ」
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 こうしてアパートを後にした。
 階段を急いで下りて、空き地のヒカルと合流する。そしてヒカルの案内で、暗い路地裏ばかりを歩いて、マンションへと走った。
 十階建てのボロボロのマンションは、彼女には少し不気味に見えたかもしれない。
 しかしこのマンションこそ、わたしたちみんなの我が家であり砦だった。
「ここが僕たちの家だよ。今は僕たち子供しか住んでいないんだ」
 彼女はますます不安そうな様子でマンションを見上げていた。
 まぁ無理もないだろう。かなり年季が入っていたし。
 そして玄関ではケンちゃんとコトラが待っていた。
「おかえり! レンジ」とケンちゃん。
「ようこそ、僕たちの家へ」とコトラ。
「ただいま、みんな!」
 こうして初めての誘拐は大成功に終わったのだった。